たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

美味しそうなものが出てこない『アメリカの素顔』

ちらほら原文を確かめたいところがあるが、この30年以上前の名著には電子版がない。だが民族や日本に関する記述を見てもわかるとおり、読みつぐには内容が古すぎるので図書館で調べるほどの熱意はない。

ありふれたじゃがいもを取りあげてみよう。今日万人の口に合うものと当然のように思っているが、18世紀にさかのぼると、ヨーロッパの農民にとって、じゃがいもは動物のえさであった。彼らは、飢餓に直面しても、人間の食用に変えようとはしなかった。もともと新世界から輸入された外国産ということで、ヨーロッパ人にとっては「不浄な」ものに見え、多分南アメリカインディアンになら合うだろうが、ヨーロッパの農夫には合わないときめていた。日本人も、韓国人も人参を馬の食べ物と見なしていたし、フランス人が蛙の足を食するようになったのは、蛙を食べないアングロアメリカ人が、お世辞のつもりで、「蛙」というあだなで呼ぶようになってからのことである。
食用に適さないものの間の区別は、国内と国外、「我々」と「彼ら」の間で感じる相違に類似していることが多い。他の国民の食の好みについて、「野蛮である」とか「不自然である」と感じがちである。たとえば、ごく最近まで、日本人が刺身を食べるのを、アメリカ人は恐怖をもって見ていた。そして、それはアメリカ文化が、日本文化より優れているサインとしてみなされていた。アメリカにおける寿司の流行はこの常識をくつがえしはしたが、基本的な論理は変化していない。生の魚は依然として「異質」の食べ物として見られ、その異質性ゆえに引きつけられる。なぜかというと、日本人のビジネスにおける成功が世界の賞賛と羨望をかったからである。

ローマの諷刺作家ペトロニウスの『サティリコン』の中で描かれている晩餐に出された料理のリストを考えてみよう。もと奴れいの成上り者トリマルチオニスが客にもてなすコースの中に、生きたツグミを入れた豚肉、ソーセージをつめた豚、黄身を塗りつけたフィグペカー鳥の囲りにおかれた焼き卵がある。いずれも表面上みえるもの(豚肉や卵)とその下に隠れているもの(ツグミ、ソーセージ、フィグペカー)が違う。また、本当の香りを濃いソースに隠し、もとの形がわからないよう細かく切ったりして、何の料理かすぐわからないようにするのに喜びを見い出した。料理の本の父と称されるシェフ・アピシアスは、匂いのするパイのレシピを作ったのだが、それは細かく切ったアンチョビをこしょう、ルウ、油、生卵、くらげと混ぜ合せ、「食べているものの中に何が入っているのか誰もわからないだろう」と悦に入っていたという。
そういうレシピは衰退期のローマ帝国の退廃的趣味であり、世界観でもあった。ジョン・ホプキンス大学の教授ローウェル・エドマンドは、ローマ人は「外見と中味は違うもの」と信じていたと説明している。物ごとは決して見かけ通りではなく、本質はその誤解を生む殻の中に隠れているというわけである。ローマ人は何ものかを理解するために、それを切断し、はがしていって、隠れているものを見ようとした。エドマンドによれば、ローマ人の宗教が「内臓を調べることが頭から離れなかった」のはこういう理由からきているという。僧侶は、臓器一つひとつの色や形を熱心に調べ、動物の深部に、外に現れた出来事の出がかりを求めた。だから豚の中にソーセージを見つける楽しみは、ローマ人の料理の哲学とでもいうべきものである。
(中略)
エドマンド教授は、ローマのアピシアスのレシピとコネティカット州ウェストポートに住むブルック・スウェンソン夫人(地方の新聞にズッキーニのレシピが掲載された)が83年に出したズッキーニづくしの晩さんを比べている。その食事の原料は、そこに出席した誰ひとりとして推てることができなかった。この比較には意味がある。アメリカ人は伝統的に表面にあらわれたものを真実であると常識的に信じている。われわれにとって、物ごとは現れているままのものである。それが何ものか知りたかったら、それを見る。
(中略)
われわれの伝統的食事は、外見の率直さの信念をよく反映したものである。感謝祭用のテーブルが七面鳥の形をしているだけでなく、食堂中に七面鳥の絵をかけ、何を食べているか思い知らせるという寸法である。もちろん、アメリカの昔からのおいしいステーキディナーは、牛そのものに似ているわけではない。しかし、ソースをかけないで食べると、牛肉を食べていることがはっきりわかる。ビーフ産業は、プレーンでまがいものでない食品に対するアメリカの伝統的好みを、ビーフを通して売りものにしようとしてきた。「リアルフッドフォーリアルピープル」(本物指向の人々のための純正食物)運動は、かっこいいジェームス・ガーナーが、キーシュパイのような卵と小麦粉のまぜ合わせでなく、本物のビーフを料理し、食べている姿を見せ、キーシュなんかを食べるのは、本当のアメリカ人じゃないよ、と巧みに説明する。
いろいろ材料をよせ集め、手を加えて変化させ、ソースをたっぷりかけた料理は、文化的退廃のサインとしばしばとられる。あるいは少なくともいきいきした社会のものではない。異国の食べ物を口にする楽しさもしかりである。日の出の勢いのローマでは、料理法のプレーンさを誇ったのに、下り坂のローマは工夫をこらした料理やばらの花を食用にするのを好んだ。記号論者はどうしても比較してみたくなる。

では、アメリカの朝食・昼食・夕食という普段の食事について、記号論者はどういう意味を見い出しているのだろうか。
まず、典型的な3種類の朝食を考えてみよう。第1の型はベーコンと卵、トースト、ハッシュブラウン、オートミール、コーヒーという献立である。そして家族全員——お父さんとお母さんと子どもたちが食卓についている。第2の型の朝食は、仕事に行く支度をした女性が、子どもの食べたシリアルの食器を洗いながら、カーネーション社のインスタント朝食を大急ぎで飲みこむ。第3の型は、若い男女がともにスーツに身を包み、マクドナルドでエッグマフィンの朝食をとっているものである。
(中略)
私も思い出すが、父は朝一番に起き、コーヒー1杯飲み、車で仕事に出かける。そして会社の近くのカフェテリアで何か口にしたものだった。そのあと母が起き、朝食の準備をして食べ、私にホットチョコレートとトーストを作ってくれた。そして母は仕事に出かけ、私は学校へ出かけ、父とも母とも夕食時まで会わないのふつうだった。
(中略)
朝食の準備の時間が極端に少なくなり、働く母親はカーネーション・インスタントのような簡易食品へと走り、朝食の準備は粉をミルクの入ったグラスに入れて混ぜるだけで済むようになった。第2の朝食は、仕事に出かける前に液体の食事を飲んでいる母親を示している。子どもたちも同じ朝食を取ったことだろう。もし母親が少し気にする人だったら、近代技術のお蔭で、冷凍のワッフルにインスタント玉子料理、電子レンジであたためたソーセージなど一瞬のうちに伝統的な朝食を並べることもできる。

ケロッグ社のジャストライトは正に「ジャストライト(目的にかなう)」ものである。ジャストライトは、ロールした大麦、小麦のフレーク、アーモンド片とフルーツのかけらを混ぜ合わせて甘くしたものである。
(中略)
次に、いつもこうであったわけではなく、19世紀後半まで、アメリカの母親は朝早くレンジに火をつけ、オートミールやコーンミールがゆを調理した。そこに’、ケロッグ社が最初の即席の冷たいシリアルであるコーンフレークを作り出した。

ジャック・ソロモン著、武内道子訳『アメリカの素顔』より