たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

作りたくなる小説『薄闇シルエット』

むくむく創作意欲が湧いてくる小説だった。ありあわせで作る料理、手芸、思いのままに描いたり切ったり貼ったり...。早速日系スーパーで日本メーカーのウィンナを買ってきた(なぜ)。

誰かが使うあてもないものを作りまくる手芸は、縫い物はセックスのメタファー説(出したり入れたり)を聞いて以来、勝手にフラストレーションを読み取ってしまう。

メモを見たら、前回角田氏の本を読んだのはもう16年も前で驚く(『対岸の彼女』)。
ダッチロールしまくっているツイッターを最近久しぶりに眺めていたら、ある作家さんのツイートに「アンリミに入ったら読みます!」とリプライしてる人がいて、他人ごとながらイラっとした。
「図書館で借ります!」「古書店にあったら書います!」と比べたら、作家に対価が入るだけマシだが、正規価格の価値はありませんよ、って威張ってどうするのか。ほんと、借りてもアンリミでもいいけど、何も言わなきゃいいのに。

アンリミがなければこの本には出会えなかった、ということが言いたかったのである。

最後にハナが百均で大して欲しくもないマグカップを思うところあってレジに持って行ったら店員が出てこず、絶対手に入れてやると意地になる場面がある。
私はそういう状況では「神様がやめろと言っておられるわ」と諦めるほう。昨日もスタバに寄ろうとしたところ、狭い入口から車が出てきていて、ここですれ違って入っていくのは面倒くさい、寄るなということだ、と自分に言い聞かせ、あっさり素通りした。

私が家を出るまでの18年間続いた、生クリームと苺のケーキ。
私の母は手作り狂だった。それは半ば宗教めいていた。手作り狂ならぬ手作り教の教祖のようだった。
(中略)
父と私と妹の誕生日には、いつも母の手作りケーキが登場する。それは決まって生クリームとイチゴのケーキだった。
ケーキ職人が作ったケーキをケーキ屋で食べたときの衝撃は未だに覚えている。私は高校1年生で、クラスメイトのさっちんに連れられて繁華街へいき、話題のケーキ屋に赴いたのだった。フレーズショートという名の一切れは、母のケーキととてもよく似ていたが、一口食べて私は度肝を抜かれた。比べものにならないほどおいしかったのだ。そのおいしさに、私は泣きすらした。さっちんは驚いて、ケーキを食べさせてもらえないような家庭に私が育ったのだと思ったらしく、慰めの言葉をかけてくれた。私は泣きながらべつのケーキを注文した。ザッハトルテ。和栗のモンブラン。オレンジのシブースト。シブーストっていったいなんだ? なんだかわからなかったがおいしかった。とまらなかった。会計のとき、お金が足りなくなってさっちんに300円借りなければならなかった。
(中略)
その後もさっちんはケーキ屋に連れていってくれ、ときどきは奢ってくれた。
誕生日に母が焼くケーキは、決してまずかったわけではない。どちらかといえばおいしい部類だった。けれどそれはあくまで素人の作るおいしいケーキでしかなかった。ケーキ職人のケーキを味わったとで、母の手作りケーキはいかにも貧乏くさく、あか抜けず、古典的でマンネリ化していた。
けれど母は、自分が作るケーキが誕生日を迎えた人を幸福にすると信じて疑わず、せっせと作る。母をかなしませないために私はそれを食べた。食べたのだが、たとえば私の成績が落ちたり小遣い前借りが続いたりした折に、手作り教の教祖にふさわしい威厳と傲慢さでもって、「今度の誕生日にケーキは作ってあげませんからね」と母が宣言するとき、鼻白むようなあわれむような、苛つくような侮辱したいような、荒々しい気分になったものだった。つまんねえ女。思春期の私は心のなかで毒づいた。自分のケーキがいかほどのものだと思っていやがんだ。世界には、いや世界にまで出向かなくとも、大通りの古びたケーキ屋ですら、あんたが100年かかっても作れないおいしいケーキがわんさとあるのにさ。500円かそこらでそれは手に入るのにさ。
母は未だに自分の作るケーキが、私と妹と父の大好物だと信じている。実家に帰ると母は誕生日でもないのにケーキを焼く。

冷蔵庫のなかの残りものを掻き集め、和風パスタとサラダの昼食を作る。私が食事の支度をしているあいだ、タケダくんは洗濯をしてくれた。鍋のなかでぐるぐるまわる麺から顔を上げ、ベランダに目をやる。
(中略)
茹ですぎたパスタをあわてて笊にあけ、茸と鶏挽き肉を炒めていたフライパンに移す。冷凍しておいたパンをトースターに入れタイマーをまわす。
「なんか目がひよひよする。ああ、37年も無縁だったのになあ」
タケダくんはコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注いでいる。
私たちは向き合って食事をする。

私は立ち上がり、冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。手みやげに持ってきたデメルのケーキだ。お皿はどれを使えばいい? とキッチンから訊くと、皿なんか出さなくていい、と答えが返ってきた。
(中略)
ケーキの箱を散らかったテーブルにのせ、チョコレートケーキを手づかみで食べる。モモコが膝によじのぼってきて私の食べているケーキに手を伸ばす。

台所にいき、冷蔵庫をのぞく。ウィンナと茸があったので、それらを刻む。暗い台所でガスに火をつけ、フライパンにバターを落とす。バターはすぐに崩れてフライパンの表面を流れる。
「決定事項を先延ばしにしてるだけなんじゃないの? 何かを決めるのがこわいだけなんじゃないの?」
背後から声が聞こえる。おまえに言われたくねーよ。心のなかでつぶやいて、フライパンにウィンナを放りこんだ。「そうかもしれない」なんだかどうでもよくなって、私はそんなことをつぶやいた。ウィンナに焦げ目がつき、茸を投入する。ばちばちと強い音がし、私はフライパンを揺する。しんなりしてくる茸が輪郭をゆがめ、目のなかに水滴があふれていることに気がついた。
(中略)
涙がおさまるのを待っていたせいで、ウィンナと茸のバター炒めはところどころ焦げた。ソファテーブルに運んでぬるいビールとともに食べた。タケダくんも無言で食べた。焦げている上、塩を入れ忘れていた。味のしない炒め物を、私たちは無言で食べ続けた。
「少し考えるよ」
皿が空になってから私は言った。

鮪のカルパッチョ、夏野菜のピクルス、温泉卵のせアスパラガスが、テーブルに並ぶ。
(中略)
ナエはぼんやりした声で言って、卵の黄身にまみれたアスパラガスを口に入れ、
「それで、チサトさんの不倫はどうなの」
思い出したように訊いた。
(中略)
アルバイトの女の子がパスタを運んできて私たちの真ん中に置く。おとり分けいたしましょうか、と笑顔で訊く。へっ、何してくれるんですか? とナエは声を裏返して訊き返す。シェアなさるんですよね、おとり分けいたしましょうか? 女の子は穏やかな笑みのままくりかえす。
「あっ、分けてくれるってことですね、お、お願いします」
ナエはへどもどして答えている。女の子はテーブルのわきに立って、そら豆とベーコンのクリームパスタを2つの皿に取り分ける。ナエはフォークを握りしめたまま、女の子の横顔を凝視していた。その顔は絵本に没頭する娘のモモコとそっくりだった。
「シェアだって。シェアだってよ」
女の子がいなくなると、私にぐっと顔を近づけナエはささやくように言った。
ワインを2人で1本空け、デザートまでしっかり食べて、店を出たのは11時近くだった。
(中略)
「だってさあ、誕生日のごはんだって、うちファミレスだもん。ときどき気張ってレッドロブスター。シェアなさるんですよね、なんて言われたことないよ、何ごとかと思っちゃったよ」
(中略)
カラムーチョだの冬季限定焼きチョコだの、スーパードライだのダイエットコークだの。そんなそれぞれが、明日もいっしょにいる生活の証だったみたいに今は思える。

「これ、弁当作ってきた。弁当といっても握り飯だけなんだけど。よかったら食べて」
照れくさそうに言いながら、笹尾さんはレモン色の布地を解いた。いつか見たハンカチだ。アルミホイルでひとつずつていねいにつつんだおにぎりが、数えてみたら12個もあった。
「すごい、こんなに作るのたいへんだったでしょう」思わず言うと、
「しっ」笹尾さんは人差し指を口にあて、「あんまり大きな声を出すと鳥がこないから。中身はね、鮭と梅とおかかと明太子と、ごはんですよ!とふじっ子と炒り卵があるからね。でも目印がついてないから、ちょっとおみくじみたいなとこあるけど」ひそひそ声でつぶやく。
野鳥図鑑はとりあえずわきに起き、おにぎりをひとつとってアルミホイルをむいた。海苔のついたまんまるいおにぎりだった。かぶりつくと、塩加減がちょうどいい。中身は甘辛く味つけされた炒り卵だった。炒り卵のおにぎりなんてはじめて食べた。
(中略)
ベンチから転がり落ちたアルミホイルを手に取り、彼は手元を見ずにおにぎりを食べはじめる。双眼鏡を外してちらりと確認すると、笹尾さんのおにぎりはおかかだった。
笹尾さんはそれきりしゃべらなくなり、おにぎりを静かに咀嚼しながら目の前に広がる森を見ていた。双眼鏡を膝に置き、私もおにぎりの続きを食べはじめる。2個目は梅だった。ぼってりと大きな梅は、甘くなくておいしかった。息をひそめるようにしておにぎりを飲みこみ、あちこちからこだまする鳥の声に耳を傾けていると、笹尾さんの言う「木や草になった感じ」というのがわかるような気がした。
(中略)
よく切れるナイフで腹をかっさばく映像に思わず目を閉じ顔を背けるように、私はあわてて笹尾さんからおにぎりへと視線を移し、手近にあったひとつのアルミホイルをちぎらんばかりにむき、かぶりついた。中身は明太子だった。

宅配ピザの残骸を片づけもせず、チサトは台所からワインのボトルを手に戻ってくる。
「これ、すんげーいいワインなの。なんかのときに、と思ってとっといたけど、なんかのときがないから飲んじゃおう」

「お菓子かなんか食べる?」
「違う、もっと湿っぽいものが食べたい」
「湿っぽいって......、なんか作る? ここんちはなんにもないんだっけ」
「ううん、はっきり言えば麺類が食べたい」
「なーんだ、最初からそう言えばいいじゃん。でももう10時過ぎてるからさ、駅前の立ち蕎麦いく?」
「深夜1時までやってるラーメン屋があるんだよな」
「ラーメン食べたかったのか。でもピザのあとにラーメン? ちょっと脂肪過多じゃないの」
「あー、ラーメンっつったらもうどうしてもラーメンじゃなきゃやってらんなくなった。脂肪過多だってなんだっていいよ、ねえ、いこう」
「そうだねえ、小腹が空いたといえば空いたしね」
私はゆるゆると立ち上がり、財布を手にする。
「ねえ、このワイン持ってって、ラーメン屋のおにいちゃんに開けてもらおうよ」
(中略)
11時近いというのにラーメン屋はそこそこ混んでいた。隅のテーブル席に案内された私たちは、ビールと餃子と、たまごラーメンを頼んだ。店には音楽がかかっておらず、カウンターで背恰好の似た男たちが無言でラーメンを食べている。結局飲んじゃうし食べちゃう、と笑いながらビールジョッキに口をつけるチサトに、私は話の続きをねだった。
(中略)
餃子が運ばれてくる。小皿に醤油と酢とラー油をかわりばんこにつぐ。
(中略)
湯気を上げるラーメンが運ばれてくる。耳にピアスを開けた店員が去るまで、私たちはそれぞれの丼を見下ろして黙っていた。彼を見送ってから、スープを飲み麺をすすった。11時近くに食べるにはこってりした味だったが、しかし食べはじめるとやめられなくなり、勢いよく箸を動かした。
(中略)
「まったくあんたの言うとおりだわ。しかしラーメンうまいね」
と言った。
おなかがいっぱいになると帰るのがとたんに面倒になり、チサトの家に泊まらせてもらうことにした。

「きんちゃん、栗ちゃん、おやつ食べない? ここくる途中、アルプス寄ってケーキ買ってきたんだ」
「わっ、ほんとですか? わざわざ成城いったんですか?」きんちゃんが顔をほころばせ、「じゃ私、お茶いれますねえ」栗ちゃんはそそくさとレジの内側にまわり、奥の台所へ消えた。

私たちの真ん中には湯気を上げる鍋がある。笊に盛られた葱や椎茸を私は黙って鍋に入れた。
(中略)
どことなく芝居がかったふうに苦労話を展開するチサトの小鉢に、鴨のつくねと鶏肉、椎茸と白菜を入れてやる。目の前に置かれた鍋に目もくれず、チサトはしゃべり続ける。私は自分の小鉢にもよそい、相づちを打ちながら食べた。店は薄暗く、座席ごとに細かく仕切られて、ほとんど個室になっている。
「ワイン飲もっかな」チサトの話が一段落したところで私はワインリストを広げた。フランス語がずらりと並んでいる。「最初白にする? この、いちばん安いのでいいよね」読むのを早々とあきらめて、従業員を呼ぶちいさなボタンを押した。
「いちばん安いワインなんか飲みたくない」チサトは言って私からメニュウをひったくった。眉間にしわを寄せてメニュウを見、やってきた従業員に、ずいぶん長い名前のワインを注文している。従業員が去ると、また湯気のあいだからこちらにぬっと顔を突き出して、「ねえ、私たちもう37歳になったのにどうしていつまでも安いワインなんか飲んでなきゃならないの?」と言う。真顔で。
(中略)
それから思い出したように取り小鉢に入ったつくねやら白菜やらを黙々と食べた。ワインが運ばれてくる。チサトは慣れたふうにテイスティングをし、従業員はグラスに金色がかった白ワインを注ぐ。
(中略)
私は自分の前に置かれた小鉢に目を落とす。縁から、変色した水菜やほうれん草がはみだしている。チサトはワインを飲み、旅の豆腐や野菜をさらに鍋に加えていく。店員を呼び、鴨肉を追加している。

気がつくと私の皿にだけ、6本ほど串がたまっていた。中身が何か確認もせず私は片っ端から食べていく。空になったビールのおかわりを、タケダくんが追加してくれる。
(中略)
私は差し出された串にかぶりついた。中身は帆立のベーコン巻きだった。カウンターの内側で、従業員が大正海老に薄い衣をつけているのを私はじっと見る。
(中略)
黄金色に揚がった大正海老が目の前に置かれ、私は顔を上げる。
「これで私はコースを打ち止めにしてください」
カウンターの内側にいる従業員に言った。
「おれは食います」
タケダくんが隣でつぶやいた。
(中略)
「飲みもの、なんにする? 焼酎? 日本酒?」タケダくんはメニュウに目を落としたまま訊く。
「じゃあ、八海山」皿に残した海老の尻尾を見つめて私は答えた。

食堂にいくと、テーブルの上には空いた皿が並んでいた。おやつのスイートポテトを食べて、みんなとうに帰っていたのだった。

いちばん上の段に、ケーキの材料がきれいに整頓されてしまってあった。生クリーム、苺、無塩バターに牛乳。母はケーキをいったいいつ作るつもりだったのか。

夕食は結局、マサキさんが作ってくれた。特製ちゃんこ鍋だそうである。味噌味で、キャベツもニラももやしも大根も、鶏肉も鱈も、たまごの入った巾着の油揚げも入った、なんだかめちゃくちゃな鍋だった。マサキさんは膝に座らせたダイキに一口食べさせて、飲みこんだのを見届けて自分が食べる。モモコは汁やごはんつぶをこぼしながらもひとりで食べることができる。
(中略)
マサキさんは自分まで泣きそうな声で言って、箸に挟んだ大根に息を吹きかけ、ダイキの口元に運ぶ。マサキさんのグラスにビールをつぎ足して、私は部屋のなかを見まわした。
(中略)
味噌味の特製ちゃんこは男の人の味がした。女が作るのではない、ざっくりした勢いのある味だ。味噌汁の汁を飲みながら、さっき抱いた錯覚をさらに押し広げる。

ナエの言うごちそうとは、鍋だった。買ってきた材料を見てみると、ウィンナだのいわしのつみれだの、牛肉だのほうれん草だの、マサキさん作の鍋よりさらにめちゃくちゃである。
「どんな鍋なの」台所で準備をはじめるナエに訊くと、
「30品目鍋」と胸をはって答えた。
「ひょっとして、あんたたちって鍋ばっかり食べてんの?」苺を洗いながら私は呆れて訊いた。
「べつに、鍋ばっかじゃないよ。マサキくんは鍋しか作れないけどね。っていうかおねえちゃん、邪魔。そんなのあとでやればいいじゃん」
(中略)
どこかにレシピがあると思ったのだが、料理本の並んだ棚にも、レシピののった新聞の切れ端が整理されている引き出しにも、ケーキの作り方を書いたものは見あたらなかった。仕方なく、見よう見まねで材料を混ぜ合わせていく。小麦粉に溶かしバター、砂糖に牛乳にベーキングパウダー。全部目分量だ。生地がゆるければ小麦粉を足していき、嘗めてみて味が薄ければ砂糖を足す。横目でちらりとナエを見ると、真剣な顔つきで鶏のつくねを練っている。
ナエが土鍋を火にかけたところで、ケーキ生地をオーブンに入れた。何分焼くのかすらもわからない。グラタンは20分で焼き上がる。おんなじようなものだろうと、20分タイマーをセットした。
「ごはんですよう!」
(中略)
ガスコンロにかけた土鍋の蓋をナエが開ける。柱のように湯気が上がる。マサキさんが作ったちゃんこ鍋より、もっとおどろおどろしいような鍋で、私も父も絶句する。ほとんど真っ黒なつゆに、ウィンナも大根もほうれん草も揚げボールも牡蠣も冷凍餃子もくたくたになって煮えている。まずそう、を通り越して禍々しい感じすらする。しかしマサキさんもモモコもこの奇天烈な料理には慣れているらしく、「いただきまーす」と声を合わせて身を乗り出している。父と私は、彼らを横目で見ながらビールをすすった。
「ほらおとうさん、しっかり食べてよ。喪主するんだから。倒れられたら困るんだから」
ナエは威勢よく言い、父の小鉢につみれやウィンナをよそう。しぶしぶ父は箸をつけ、「ママの常夜鍋、おいしかったなあ」
ぽつりと言う。
「豚肉と水菜だけのね。けど私は断然水炊きのほうが好きだった。終わったあとにお餅入れたよね」思わず私も言った。
「この季節だったら牡蠣の土手鍋」
「赤いお味噌のね。みぞれ鍋もおいしかったよね。大根おろしがひんやりしてて」
「この子たちがくるようになってからは、団子鍋が多かったけどな」
「海老団子とかイカ団子のね、色がきれいだったよね」
「大人にはちょっと物足りないんだが」
「モモちゃん覚えてる? まんまるのお団子がいっぱい入ったお鍋」
(中略)
「いやあ、餃子って鍋に合うんだなあ!」
わざとらしいほどの大声で父が言い、茶色く染まった餃子を一口で食べ、おたまで鍋をさらい出す。「30品目なんて、これ1品で1日の栄養がとれるんじゃないの、頭いいよなあ、ナエちゃんはさあ」
「ほんとほんと、私も今度まねしてみるよ、揚げボールも何げに合うし。豆苗をどっさり入れるのがミソなんだよね」
「スペアリブとか入れても合うんですよ、あとキムチも」
「へえキムチ、キムチなんかはおかあさん使えなかったよね」
(中略)
やがて私たちはなぐさめる言葉も思いつかなくなり、黙々と30品目鍋を食べた。マサキさんに同情してしまうくらい、おいしいとは言いがたい鍋だった。しょっぱいし、こくがない。やたら喉が渇いて、私たち3人はうつむきながら空いたグラスにビールを注ぎあい、懸命に鍋を食べた。
いつまでも終わらないナエとモモコとダイキの鳴き声の合間に、ケーキの匂いが漂ってきた。しょっぱい鍋を食べている最中に、それはあまりにも不釣り合いに甘く、箸を動かす速度が遅くなる。ちーん、とオーブンが間抜けな音をたて、私は逃げるように台所に向かう。まったく膨らんでいないスポンジを型から取り出し、冷蔵庫で冷やしておいたホイップクリームを塗りたくる。どんなに重ね塗りしても、それはケーキというよりつぶれたどら焼きみたいである。それでもめげず、苺を飾り、ホイップクリームをさらにデコレーションし、両手にそれを持ってにこやかに食堂にいった。
「ほらほら、モモちゃん泣かないの。ケーキが焼きあがったよう」
テーブルの隅にどら焼き崩れのケーキを置くと、泣いていたナエはちらりと一瞥をくれ、ようやく泣きやんだ。
「やーだー、何これー、なんだか貧乏くさーい」
頰に涙の筋をつけ、ナエは生意気なことを言う。モモコとダイキも、喉をひくつかせながらも隅に置いたケーキをちらちらと見ている。
「見てくれなんかどうでもいいの。問題は味なの。お鍋食べ終えた人から切り分けてあげるから、言ってよね」
「じゃ、私食べる。ちょうだい」
ナエはなんだか威張りくさって言い、私は慎重にひとりぶんのケーキを切り、皿に盛ってナエに差し出した。フォークをつきたてるナエを、テーブルについた全員が見ている。

「あー、おなかすいた。昨日の鍋の残りにお餅でも入れる?」
ナエは立ち上がり、部屋を出ていく。

私はメニュウを開き、隅から隅までひととおり眺め、
「レバー、カシラ、シロ、ハツ、砂肝、あと冷やしトマト、もろきゅう。あ、やっぱ梅きゅう」
注文すべきものを確認するように読み上げた。ムラノくんが片手をあげて店員を呼び、やってきた若いおにいさんに、品名を再度読み上げる。塩でね、とつけたすと、おにいさんは「よろこんでいっ」と威勢良く叫んだ。
(中略)
おまたせいたしましたあっ。腹から絞り出すような声で言いながら、店員が料理をテーブルに並べていく。梅きゅうにトマトに、大皿にのった焼き鳥。ビールの追加をすると、「よろこんでいっ」とまた店員は腹から怒鳴った。七味を手に取り焼き鳥にかけると、思いのほか大量の七味が出、焼き鳥の幾本かが赤く染まった。
「うわー、何やってんの」
「ごめんごめん、これ、私食べるから」私はあわてて七味まみれのカシラを口に入れた。タケダくんの結婚について、何を感じたらいいのかわからないように、大量の七味がかかった焼き鳥の味も、なんだかよくわからなかった。
(中略)
一気に言ってハツを食べ砂肝を食べ、ビールを半分ほど一気飲みした。

白い明かりがこうこうとついたサンクスで、明日のパンとジュースを買う。しばらく迷って、缶ビールをひとつ買いものかごに入れた。

雑誌の印象とその姿があまりにもかけ離れているので、ちらりと道子を見ると、道子はテーブルに置いたティーポットから、私のカップに紅茶をそそぎ入れた。琥珀色の液体から果物の甘い匂いが立ち上る。

痩せこけた陣内さんときちんと化粧をしたチサトが、リボンのついたナイフを握り、デコレーションのあまりない、すっきりしたウェディングケーキに刃先をあてる。拍手が起こる。このケーキは、切り分けてデザートとしてみなさんにお配りしますと、司会者が言う。

チサトは真顔で言って、食べかけのケーキを片手で持ったまま、片手をコップにのばす。
「うへえ、このお茶、黴くさーい」
お茶を飲んだチサトはそう言って笑った。
「香港経由のお茶はこういうにおいになんの。高級茶なんだから」
私が笑わずに言うと、
「そっか、香港か」
チサトは神妙な顔でうなずき、お茶をすすった。

フォークにスパゲティを絡めながらキリエは切れ目なくしゃべる。

「デザート、なんにしようか」千絵子がメニュウをテーブルに広げ、
「チョコのムース。うーん、クレームブリュレもいいね」香苗が言い、「グラッパでもう1回乾杯しようか」私は言い、
「じゃ、お店の人呼んできますね」道子が個室のドアを開けた。

その日の夕食は、昨年に引き続きナエの鍋料理だった。やけに黒みを帯びたつゆ、正体不明の具、見かけは昨年とまったく同じだったが、ナエ曰く、「海のものは海のもの、陸のものは陸のものと、所属べつにしたほうが、味が混じり合わなくておいしい」らしく、具は「海のもの」で統一されていた。すなわち、鱈、いわしつみれ、たこ、海老、すり身団子が、野菜とともに浮かんでいる。おそるおそる食べてみると、しょっぱいが、昨年よりは引き締まった味がした。

「今日、ハナちゃん夕飯食べてってよね。おれ、特製カレー作ったから」と得意げに陣内さんが言う。
「特製も何もないんだよ、市販のルーで作るカレーなんだから」
(中略)
チサトは和室と台所を行き来して、こたつにビールとグラスを並べ、らっきょうやお新香ののった小皿を並べ、スナック菓子を皿に空けてそれも並べ、「えーと、あとは何がいるかな」と突っ立ったままつぶやいている。
「いいから座りなよ、ビール飲もうよ」
「じゃあジンちゃん、カレーはとりあえず置いといて乾杯しよう」チサトが言うと、エプロン姿の陣内さんがひょこひょことあらわれ、私たちはビールをたがいにつぎ合い、グラスをこたつテーブルの中央でかちんと合わせた。あけましておめでとう、と3人で言い合った。
「おれの特製は、まずね、にんにくと生姜をじっくり炒めるわけ。それから玉葱ね。これは1時間は炒めなきゃだめなの。それからベーコンを刻んだのを入れる。あとはトマトの水煮缶も入れるしカカオパウダーも入れてひたすら煮込む」
陣内さんはこたつに入っていきなりカレー解説をはじめる。
「でもさ、結局最後にふつうのカレールーを入れるんだよ。この人の作れる料理、カレーしかないんだけど、にんにく炒めるとかトマト入れるとか、べつにおれの特製って言うほどのことじゃないと思わない? ふつうにみんなやってることだよねえ? カカオパウダーってのはなんかの漫画の受け売りでしょ? 男ってすぐそういうことすると思わない?」
チサトがスナック菓子をつまんで言う。
「なんだよ、チーコ、はじめて食べたとき、おいしいおいしいって、こんなにおいしいカレー食べたことないって泣いたじゃないの」
「泣いてないよ、泣くわけないじゃん。それにああいうのってなんていうか、礼儀っていうか、わかるでしょ。つきあいはじめのころだもん」
「それでもね、ハナちゃん、おれのカレーはこの人のより断然おいしいの。チーコのカレー、食べたことある? あんなもんじゃないのよ、コクが」

角田光代著『薄闇シルエット』