たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ロックダウン中のロンドン食探訪『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』

「主人公」が仏教用語だ、という記述に一瞬興奮したのだが、ちょっと検索してみたところ、言い切ることはできなさそう。まあ、何も考えずに使っていた言葉なので、「主役」とは違う含蓄に気づけたのは面白かった。

この本、装丁がいまいちすぎないか。電書でなかったら絶対手に取らなかったと思う。

長い散歩をするのが好き、新鮮な野菜と果物が好きだけど、分厚くて脂たっぷりのベーコンも好き。優しすぎることは短所(と友達は言う)。どんなときでもちょっとしたことで贅沢な雰囲気を作るのが長所。パブでも最初の1杯は泡。

2020年はイースターとユダヤ教の祝日「パスオーバー」(過ぎ越しの祭り)が重なっていて、イスラエル人のシェアメイトはユダヤ人の伝統的なパンを作りたかった。彼女はスーパーを何軒まわっても結局酵母が手に入らなかったと激烈に怒っていた。

この中でパン作りはある意味で癒しのオアシスだった。生地をこねると落ち着く。パソコンの画面から離れて目を休められる。シンプルなパンは基本的な食料で、美味しいパンは子供時代の幸せ、家族の温かさを思い出す。パンを食べるとホッとする。

パン騒ぎは必ずしも健全というわけではない。現代生活の目まぐるしい速度に慣れた私たちは、何かをして忙しくしていたかった。パンだけじゃない、パズル作ったぞー、家ですごい運動したぞー、とみんながSNSで自慢をしていた。

イーサンは学歴という意味ではとても洗練された人だけど、彼の「舌」は驚くほど洗練を欠いていた。食べ物の美味しい、不味いがあまりわかってないみたい。「夕飯は食べた?」と聞くと、10回に6回、彼は「フィッシュ・ケーキ」と答える。どんな食べ物かよくわからないけど、泳いでいる魚とは縁遠い冷凍食品みたい。加えて、彼の一番好きなお店はイギリス全国のチェーン店「ピザ・エクスプレス」とイタリア料理のチェーン店「カルッチオズ」。

もちろんイギリスを代表する、サンドイッチとサラダのチェーン店「プレタマンジェ」もあった。

でも、イギリスのチェーン店をなめてはいけない。ロンドンにはすごく高級なものもあるし、庶民的なものもあるが、どちらも味がしっかりしている。外食が馬鹿高いロンドンでは、チェーン店で手頃な値段でそこそこ美味しい食事がとれるのはありがたい。海外から友達が来ると、ロンドンで愛されてるインド料理屋さんのチェーン店「ディシューム」に連れて行く。

イギリス人は予見可能なものが好き。近所のパブ。裏切らないチェーン店。いつものcrisps(ポテトチップス)。どんな辛いことがあっても、世の中がどれだけ暗くてもいつものものは安心感を与えてくれる。

ロンドングルメ珍道中の最初の訪問地は、デュークスホテルのバーだった。ジェームズ・ボンド・シリーズの原作者イアン・フレミングに愛された伝統的なバー。上品な木材パネルと飾り建てられた額に入った貴族たちの絵が壁に掛けられた、古き良き英国の雰囲気が漂っているこのバーで飲むのはもちろんマルティーニだ。バーテンダーたちは白いジャケットを着てワゴンでお酒をテーブルの前に運び、お客さんの前でマルティーニを作る。

マルティーニの作り方も芸術のようだ。バーテンダーは大きめのキンキンに冷やしているマルティーニグラスにベルモットを入れ、液体がグラスをしっかりコーティングするようにグラスをまわしてベルモットを床に流す。次は冷凍庫でしっかり冷やされたジンをグラスに入れ、レモンの皮をちょっと上に飾る。1杯のデュークス・マルティーニには普段のカクテルの5倍のアルコールが入っている。

家のすぐ近くに自由市場資本主義の素晴らしい事例がある。それはブリックレーンにある2つのベーグル屋さん。(中略)
彼女たちは挨拶もせず笑顔も見せず注文を受けて手早くベーグルを白い紙の袋に入れ、ぐるぐる巻いてお客さんに渡す。注文を早く決めない素人客は殺人光線のような視線でにらまれる。ある日眠れなくて朝5時にベーグルを買いに行ったら、お客さんは1人もいなくて、珍しくベーグルおばさまに優しくされた。

ビスケットというのは英国文化と切り離せない存在だ。女王は朝イチの紅茶と一緒にビスケットを召し上がるらしい。ビスケットは庶民からお金持ちまであらゆるアフタヌーンティーで出る。最初の南極冒険者たちが世界の果てまで持っていったビスケットは入札で1000ポンド以上で売られた。市場浸透度はなんと99パーセントといわれている。世の中が癒されるものを求めていたロックダウンの間にビスケット消費が急激に増えた。

今回食べたのは甘いビスケットのみ。「ティータイム」が習慣化された18世紀まで、甘いビスケットは一般的に食べられていなかった。甘いビスケットはいろんな種類があるけどベースは基本一緒。小麦粉、バターと砂糖の組み合わせで紅茶によく合う。大事なのは食感。本当のビスケットは歯応えがあってサクサクしている。

イギリスでいうクッキーは、柔らかくてもちっとしているアメリカ風の焼き菓子のこと。ロンドンで一番有名なクッキー屋さんは世界中に展開しているチェーン店「ベンズ・クッキーズ」(2021年の時点で日本にも数店舗ある)。そこで買える熱々焼きたてのチョコチップ、オートミール、ピーナツバターなどのクッキーは1人でなかなか食べきれないほど大きい(中略)。クッキーを半分に割ると、生地が気持ちよくゆっくり分裂して、中のチョコがじゅわーっと溶け出る。

ローラという女性の友達に今ビスケットを研究していると話したら、彼女がわざわざ寄り道をして、M&S(一番poshではないが、上のほうのスーパー)に連れていってくれた。並んでいた数多くのビスケットから、彼女はチョコでコーティングされた丸いビスケットを選んだ。「これだ! これはなかなかな味よ」

微妙にふわふわさに欠けた丸いスポンジケーキの上にちょっとしたオレンジ味のジャムとチョコレートを載せたビスケットだかケーキだか、というのがジャファケーキ。

ビスケットの本当の意味を求めて、ロンドンのビスケット専門店、「ビスケティアーズ」という「三銃士」(マスケティアーズ)と「ビスケット」を語呂合わせした名前のお店に足を運んだ。白黒のペン画のような可愛い外観は、ノッティングヒルの洒落たカフェや洋服屋さんにぴったり合っていて、まるで人形の家のようだった。ここならビスケットの真髄がわかるだろう。ビスケットのバチカン。
なのに、お店に入って、がっかりした。並んでいたのはアイシング(中略)したいろんなデザインのビスケットばっかり。花の形のビスケット、ハートの形、風船、羊、文字、バースデーケーキ......。アイシングの下にあるビスケットは数種類しかなくて、バニラかチョコがほとんどだった。要するに飾るためのビスケット。お土産としてはいいけど、味は物足りない。
せっかくノッティングヒルまで来たのでお茶とビスケットぐらい頂こうと思った。でも、硬いアイシングが載ったビスケットはあまり食欲を刺激しなかった。もっと面白いのはないのか、注文を悩んでいたとき、レジの隣に、赤いジャムがサンドされて真ん中のハートの形の窓からジャムが顔を出しているビスケットが気になった。シンプルだったけど、きっとこのお店が使うジャムはうまいだろう。
「これ、美味しいですか?」と店員のお姉さんに聞いた。
「それは、いわゆるジャミードジャーですね」と彼女は一般的名称を使って答えた。「個人的にはすごく好きです。美味しいですよ」
スーパーで手に入るジャミードジャーは8個1ポンド以下。ビスケティアーズで買ったのはその3倍もした。
テラスの席でどこぞのお城で育った高級紅茶と世界一高級であろうジャミードジャーを食べて反省した。ジャムはたしかに美味しくて、ビスケットは甘すぎなくてバターの量が絶妙だった。サクサクしていたけど、砕けやすくなかった。
(中略)
会社は、社員を交流させるために、社内のラウンジ・スペースにいろんなおやつを用意してくれていた。うちの社長は健康志向が強くて、ラウンジやキッチンに置いていた「おやつ」はチョコレートとかポテトチップスじゃなくて豆チップスとかプロテインバーだった。

「外でお茶飲みたい」
寒い冬の夜に、タバコをスパスパ吸う彼と、2人でお店の外のベンチに座って紅茶を飲んだ。
「日本人も『チャイ』好きでしょ?」と彼は自分の狂信的なお茶愛を許してもらいたそうに、言葉を投げかけてきた。

鈴木綾著『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』より