「アメリカでおいしいのは、なんといってもローストビーフ」だそうだが、私の住む街でそこまで美味しいのに出会ったことはないなぁ...。その手の業態のお店もどうしてもステーキ、ハンバーガーになってしまう。ニューヨークを中心とした東海岸のダイナーのほうが本場かも。
アズマカブキがパリで公演したときも、十人以上の方々をおまねきした。
その時は朝から買出しに出かけ、大きな鯛を買ってきて天火でやけどをしながら塩やきにしたり、お酢のものやおヒタシなども作って、わりあいご馳走をととのえたつもりだった。ところが、みなさんがほんとうに食べたかったのはお茶づけだったらしい。
さてお茶といわれて、とっておきのお茶(これはパリでは売っていないから、日本から送ってもらっていた)のカンをあけたら、なんと一つまみぐらいしか残っていない。
おそらくアズマカブキの方々も、紅茶茶づけというのは、後にも先にも、わが家においてはじめて召上ったことだろうとおもう。
ありあわせのソーメン(といっても日本のではなく、イタリアでスープに使うヴェルミセル)を作ることにきめたものの、夢声氏と対談をはじめてしまったので、作って下さったのは、じつは夢声夫人だった。
「あなたのアパートでたべたソーメンはおいしかったですな」
(中略)
深尾須磨子さんがいらして下さったときも、珍しいグジョン(セーヌ河でとれる小さい川魚)があったので、から揚げにした。から揚げでも、油気の多い小魚だから、粉をまぶして揚げるのがほんとうだったのだろう。
ところが、私が水を切ってそのまま揚げたから、身が油にとけこんでしまって、骨ばかりのから揚げになってしまった。
「こんなになっちゃったんです」
と、ベソをかきながら、紙の上にいやに小さくからからに揚がった骨と頭みたいなものを盛って出したら、先生はおいしいおいしいと全部たべて下さったので、感激してしまった。
ときどき遊びにいったが、夕食どきはかならずカンづめをあけてあたため、買ってきた味つけもできているコンビネーションサラダの箱をあけてたべさせた。
あんまり味気ないので、ある夜、
「私がお料理していい?」
ときいたら、ぜひぜひ、というのでスパゲティをゆで、ミートソースを作り、サラダも新鮮な野菜を買ってきて作ったら、大げさな彼女は、まさに天にもとび上らんばかりに感激してくれた。
それ以来、彼女の家へゆけば、居間をとおりぬけて台所へ直行し、勝手に好きな料理を作り、二人で、時には二、三人の友人もまじえて食事をするようになった。
(中略)
ある夜、私は指をケガしていた。すると彼女が料理をすると言いだしたのである。
「おいしいものを作って上げる、ハンバーガーよ、ちょっとそこらにあるのとは違うわよ、弊店は炭焼きでございます」
と自慢して台所へ入っていった。ちょっと気になったので台所をのぞくと、火をつけた電気オブンの鍋の上になまのハンバーグステーキをのせて、パッパッと小さい瓶に入ったなにやらマカフシギな黒い粉をふりかけている。
「それなに?」
ときいたら、
「これチャコール・パウダー(炭の粉)よ、これをかけて焼くと、炭で焼いたようにできるのよ」
と得意になって答えたものである。おそれ入って言葉もなかった。
アメリカでおいしいのは、なんといってもローストビーフで、焼きたての、そと側はこげて中は桃色にやけた温かい切り身に、温かいグレーヴィー(肉汁)をかけ、ホースラディッシュという西洋わさびをそえて食べる味は、ちょっとアメリカ離れしている。
ボストンでたべた、こまかくきざんだ蛤と玉ねぎを、牛乳と煮汁でのばしたクラムチャウダーも、なかなかおいしかったが、それよりもフィラデルフィア近郊の海辺でたべたソフト・クラム・シェルの味は忘れられない。これはいままでに見たことのない貝で、カキと蛤のあいの子のような貝だった。あらい金網の中に、ゆで上ったこの貝が、殻つきのまま山とつまれてテーブルに出される。手もとにはスープ皿に煮汁の入ったのと、別皿にバタをとかして塩味をきかせた熱いバタソースがおかれ、貝をとり出してフォークで身をはがし、煮汁でゆすいで砂をとり、バタソースをつけて食べる。
やわらかくて熱い磯の香りも消えぬ貝の身とバタソースは、じつに渾然として舌をすべり、のどを通り、山もりもなんのその、一息でたべ終ってしまう。
あんなおいしい貝は生れてから一度もたべたことたない。それに、この貝にはなかなか出会わなかった。ニューヨークの魚料理店ではたった一軒、このソフト・クラム・シェルをたべさせる店があったが、それもないときが多かった。
石井好子著『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』より