たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

キドニーパイ『紳士協定』(2)

英国のレストランで米国と違ったのは必ず何よりも最初に「何かアレルギーは?」と聞かれることだ。まあ、後で揉めるより合理的だし、そういうルールなのだろうが、アレルギー持ちが増えて(可視化されて)大変な時代である。食べ物を出す、って命にかかわる仕事なんだよな、と改めて。

東京に住む家族には小学生が2人いるのだが、保護者の間で「うちの子はアレルギーも好き嫌いもなくなんでも食べる」と言うことさえはばかられる空気なんだそうだ...(怖くて深掘りしなかったが、マウンティング?つらい思いをしている人もいるのに配慮がない?とか思われるということ?)

キャビアは昨晩の食卓で見たものと同じだが、それ以外はずいぶん異なった料理が並んでいる。ニンニクの酢漬け、辛そうな干し肉、鶏肉のくるみソースがけなどがある。都甲公使が早口のロシア語でフロアマネージャーに何か言っている。フロアマネージャーは首を横に振っている。「せっかく君たちが来たから、グルジアのおいしいワインを御馳走しようと思ったのだが、政府の反アルコール・キャンペーンの関係で、午後3時まではアルコール類はいっさい出せないというんだ。少しチップをはずむから何とかならないかと言ったのだけどダメだった」と都甲公使が言った。

都甲公使が、「メインディッシュはタバカでいいか」と尋ねた。
”タバカ”の意味がわからないので、私たちはきょとんとしていた。
二等書記官が、「グルジア料理の焼き鳥だ。半羽ぶんの鶏肉に重い鉄の蓋を載せて焼く。昨日も言ったとおり、ソ連では鶏肉は最高級肉だ」と言った。私たちは、「是非、食べてみたい」と答えた。
20分くらい待って、お好み焼きのような見た目の焼き物がでてきた。相当大きな重石を置いて焼いたのだろう、鶏肉が平たく伸びていて、ほどよく焦げ目が付いている。酢にニンニクが入ったソースがついてきた。これをかけると、味が一層引き立つという。
絶品だった。
パンは、ハチャプリという名のチーズをたっぷり載せて焼いたピザのようなものだった。これも抜群においしい。
都甲公使が、「このレストランはスターリンが愛用していた」と言った。
そういえば、スターリンはグルジア人だったことを思い出した。

「空港の免税店で、キャビアを5~6個、買って行け。ロンドンの大使と研修指導官にお土産として届けるのだ」
「お土産ですか」
「そうだ。赴任のあいさつには、必ず気の利いたお土産をもっていくことが外務省の不文律になっている。キャビアなら、大使をはじめみんなから喜ばれる。それから、ロンドンに着いたらサンキュー・カードを買って、都甲公使と小町参事官に送っておくように」

「ステーキ・アンド・キドニー・パイ」を食べに行かないかという。初めて聞く食べ物の名前だ。
「なんだ、それは」
「パイの中に腎臓を煮込んだシチューとステーキが入っている。ちょっと癖があるけれど、イギリスでしか食えない名物料理だ。この辺は高級レストラン街なので、おいしいステーキ・アンド・キドニー・パイを出す店があるはずだ」
「是非、連れて行ってくれ」

まず、ラウンジに案内された。そこで食前酒を勧められた。武藤君がドライシェリーを注文したので、私もそれにならった。食前酒を飲みながらメニューを注文する。運ばれてきたシェリーはスペイン産で香りがいい。
イギリスのレストランでは、前菜もしくはスープ、その後がメインで肉か魚か鳥、そして最後にデザートの3コースが標準だという。ただし、日本のフレンチ・レストランと比較すると量が驚くほど多いそうだ。

ウエイターに「イギリスらしいスターター(前菜)は何か」と尋ねた。
「エッグ・マヨネーズかシュリンプ・カクテルです」と言う。
武藤君がシュリンプ・カクテルをとったので、私はエッグ・マヨネーズにした。メインは武藤君が勧めるステーキ・アンド・キドニー・パイにした。
飲み物については、武藤君が「イギリス人はレストランでは気取ってワインをとるけれども、ビールの方があうと思う。イギリスのエールをとるといい」と言ったので、その勧めに従った。
注文を終えるとテーブルに案内された。しばらくして、大きなグラスに褐色のビールが運ばれてきた。泡はあまりたっていない。それに生ぬるい。
「このビール、やけに生ぬるいじゃないか」と私が言うと、武藤君が「イギリスのエールは冷やさないんだ。コーラやジュースも冷やさないのが普通だ。慣れると冷やさない方がおいしく感じるようになる」と答えた。「そんなものか」と思いつつビールに口をつけてみた。苦い。それに独特の香りがある。日本で飲むビールとは別の飲み物だ。
「苦いなあ」
「そうだろう。英語ではこのビールをビター(苦い)ともいう。ラガーというと日本で飲むのと同じようなビールが出てくる。ラガーは冷えている」

ウエイターが前菜をもってきた。武藤君のシュリンプ・カクテルはガラスの器に入っていて、刻んだレタスの上にゆでた芝エビが山ほどのせられている。それにサウザンドアイランド・ドレッシングがかけられている。おいしそうだ。
エッグ・マヨネーズは固ゆでのゆで卵を2つ、半分に切って、そこに山ほどのマヨネーズがかけられている。
(中略)
「これがイギリスだ。イギリスの基準では、エッグ・マヨネーズは立派な料理だ」
食べてみたが、確かに味はいい。マヨネーズも日本製よりもずっとまろやかだ。武藤君が、「シュリンプ・カクテルも少し食べてみないか」と言って、分けてくれた。私も武藤君にエッグ・マヨネーズを半分渡した。シュリンプ・カクテルも、エビのこりこりした食感がなかなかいい。ドレッシングもおいしい。単純だが、この2つの前菜はおいしい。苦いビールともよくあう。
「結構おいしいな」と私が言った。
「そうだろう。メニューを間違えなければ、イギリス料理だっておいしいんだ」
しばらくして、ウエイターが皿の上に銀色の蓋がついた料理を運んできた。蓋をとると大きなパイが現れた。別途、ゆでたジャガイモと人参のつけあわせも持ってきた。パイは焦げ茶色に焼けていておいしそうだ。
パイの真ん中にナイフを入れた。その途端に奇妙な臭いがする。昔、駅の公衆便所でツンと鼻をついたアンモニアの臭いだ。
「武藤、変な臭いがしないか」
「別に。ステーキ・アンド・キドニー・パイの臭いはこんなもんだよ」
「この臭いは何だ。駅の公衆便所みたいな臭いじゃないか」
「キドニーは牛の腎臓だ。腎臓で小便をつくるから、当然、アンモニア臭くなる」
「日本のモツの煮込みにも腎臓が少し入っていることがあるが、こんな小便のような臭いはしない」
「それはキドニーをよく洗っているからだ。それじゃ風味が落ちる。食べてごらん。おいしいよ」
パイの中から、ステーキのかけらとキドニーが出てきた。グレイビーソース仕立てだ。ステーキの部分を食べてみた。確かに味はいいが、臭いがたまらない。
キドニーをナイフで半分に切って口に入れてみた。固いレバーのような食感で、苦みがある。加えて強烈なアンモニアの臭いがする。それに、噛んでいても繊維のようなものが引っかかる。血管をとていないのだ。吐き出そうかと思ったが、顰蹙を買いそうなので、ビールで飲み込んだ。
「これはだめだ。僕は野菜とイモだけを食べる」と私は小声でつぶやいた。
武藤君はおいしそうにキドニーを食べている。懐かしいイギリスの味ということだ。
「武藤、これは化け物料理だ。もう少しまともなイギリス料理はないのか」
「口に合わないか。残念だなあ。あとイギリスらしい食べ物というとフィッシュ・アンド・チップスだな」
「話には聞いたことがあるが、まだ食べたことはない。アジフライのようなものか」
「ちょっと違うな。鱈に衣をつけて動物油で揚げた天ぷらと考えた方がいい。それにフライドポテトをつけあわせて、三角錐の形にした新聞紙に入れて、塩とモルトビネガーをたっぷり振って食べる」
「おいしいのか」
「好みによる。僕はおいしいと思う。ただし、鱈には小骨がついたままだ。鱗が残っているときもある」
「気持ちが悪いじゃないか。カラッと揚がっているのか」
「いや、油が新聞紙に染みてベタベタしている。それでも慣れるとおいしい」
(中略)
ウエイターがデザートを聞きに来た。武藤君は、ライスプディングをとるという。
「ライスプディングって何だ。日本のカスタードプリンみたいな感じか」
「カスタードプリンは、イギリスではエッグ・カスタードと言う。ライスプディングはご飯を牛乳と砂糖で煮たデザートだ」
「甘いおかゆのような感じか」
「そう言ってもいい。最後にジャムをかける」
「気持ちが悪いな」
「日本人には敬遠されているけれど、イギリス人が大好きなデザートだよ。佐藤は何を食べたい?」
「僕は、甘い物は大好きだ。ただし、そのライスプディングとかいう気持ち悪いものは断る」
「わかった」
そう言って武藤君はウエイターと少し話をしていた。「カステラのようなケーキにカスタードをかえkたデザートはどうだ。これもイギリスの典型的なデザートだ」と武藤君が尋ねるので、私は「それにしてくれ」と答えた。
10分くらい経って、ライスプディングとケーキが運ばれてきた。ライスプディングは、かゆというよりも「牛乳茶漬け」にジャムを乗せたような感じだ。武藤君が「少し食べてみないか」と言うので試してみたが、「甘いご飯の牛乳、ジャムかけ」にはどうしても抵抗がある。
これに対して、温かいケーキにカスタードクリームがたっぷりかかった私のデザートはとてもおいしい。
「いいチョイスをしてくれてありがとう。とてもおいしい」
「イギリス人はメインよりもデザートに情熱をかけるくらいだ。イギリス料理をとるときは、前菜はパスしてもデザートはとった方がいい」
「わかった。そうする」
飲み物は2人ともミルクティーをとった。紅茶も実においしい。

佐藤優著『紳士協定―私のイギリス物語―』より