たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

少年が奢ってくれたフィッシュ・アンド・チップス『紳士協定』(3)

イギリスのパブは確かにどこも素敵なサードプレイスだった。何より人との出会いがある。
中学生のころ、全学に配布される月報だか季報だかに「新任教師の挨拶」のコーナーがあったのだが、担任の数学教師がハネムーンのことを書いていた。「ロンドンのパブは雰囲気がよい。○○○(忘れたが店名)で飲んだビールはおいしかった」。もちろん、ビールもロンドンも想像もつかない13歳だったわけだが、妙に記憶に残っている。ハネムーン(また!)のフィリピンで出会った女性のことを書いている教師もいたな。結局、「挨拶」として突飛だったやつを覚えているということか。

駅から外に出るとサンドウィッチ屋が目に入った。お腹が空いてきた。ローストビーフ・サンドとツナ・アンド・キューカンバー・サンドを頼んで缶コーラを買った。それらを持ってグリーン・パークの中に入っていった。芝生のきれいな公園だ。日本の海岸にあるようなビーチチェアがたくさん並んでいる。そのうちの1つに座って、空を見ながらサンドウィッチを食べた。

「ミスター・サトウ、サラダは嫌いではありませんか」
「好きです」
「よかった。ホームステイのお客さんを迎える初日はいつもサラダにしているのです」と奥さんは言って、私を食堂に案内した。

実を言うと、野菜はあまり好きではない。サラダもシーザーサラダ以外は、マヨネーズかサウザンドアイランド・ドレッシングをたっぷりかけて、その勢いで食べる。しかし、そんなことを言ったら、ホームステイの初日から「変な人」と思われてしまう。それに「マヨネーズかサウザンドアイランド・ドレッシングをたっぷりかけて、その勢いで食べる」を英語でうまく表現することができない。それだから、「好きです」と答えたのだった。
奥さんは、キッチンに行ってサラダの準備を始めた。
(中略)
奥さんがサラダボウルとゆでたジャガイモを持ってやってきた。レタス、キュウリ、トマト、ブロッコリーのサラダに、ゆで卵、ハム、ローストチキンが載っている。
「パンが食べたかったら、遠慮なく言ってくださいね」と奥さんが言った。
「いや必要ありません」と私が答えると、グレンが「僕はトーストが欲しい」と言った。奥さんが「グレン、自分で焼いてきなさい」と言うと、グレンは私に振り向いて、「焼いてこようか」と聞いてきた。私は「それじゃ頼む」と答えた。
(中略)
「ヨークシャープディングはお好きですか」と奥さんが尋ねた。
聞いたことがない。武藤君が、イギリスでは日本のプリンのことは、エッグ・カスタードと言うと教えてくれた。あのライスプディングのような恐ろしい食べ物のことなのだろうか。
「それはお菓子ですか」 
「お菓子として食べることもあるけれど、ローストビーフと一緒に食べることが多いです。私は母から、ヨークシャープディングの焼き方を教わりました」
「是非、食べてみたいです」
「それじゃ、ミスター・サトウがいるうちにローストビーフとヨークシャープディングを必ず作ります」
それから、お互いに家族のことを話した。奥さんが、「スウィート(デザート)はスポンジケーキにカスタードクリームをかけた、簡単なものです。コーヒーにしますか、紅茶にしますか」と尋ねるので、「紅茶にしてください」と答えた。
(中略)
ケーキも紅茶もとてもおいしい。

お互いに自己紹介をした後、「ビールを飲みませんか」と勧められたので、「よろこんでいただきます」と答えた。ファーラーさんは台所から瓶ビールを2本もってきて、グラスに注いでくれた。生ぬるいビターだ。メイフェアーのイギリス料理レストランで武藤君とこのビールを既に試していたので、驚かなかった。
「実はビールキットを買って、いま生ビールを造っているんです。あと2〜3週間でできると思います」
「ビールキットですか」と私が尋ねた。
「ビールを造るセットだよ。これでお父さんは毎年、何回かビールを造るんだ」とグレンが答えた。
(中略)
物置を開けると、白色の合成樹脂でできたポリタンクがある。そこに茶色い液体が入っている。
「よく耳を澄ましてみてください。音がするでしょう」

ポリタンクの方に耳を傾けると、確かにゴボッ、ゴボッという小さな音がする。
「発酵しているんです。あと2週間もすれば飲めるようになります。それから1週間くらいで飲みきってしまわなくてはならないけれど、毎日、少しずつ味が変わります。これが楽しいんですよ」とファーラーさんは言った。

ミスター・サトウがお腹を空かせていると思って、クリスプスとコーラを持ってきた」
イギリス英語では、ポテトチップスのことをクリスプスと言う。
「ありがとう」と言って、私はグレンからコーラの缶とクリスプスの袋をもらった。
「バーベキュー味なんだ。僕はいちばんこれが好きだ」
(中略)
私は、グレンからもらったクリスプスの袋を開けた。バーベキューソースの薫りが鼻をつんと突く。グレンが尋ねた。
「日本にもクリスプスはあるの」
「あるよ。ポテトチップスと呼んでいる」
「英語でチップスというと、揚げたジャガイモのことを指すよ。アメリカ英語ではフレンチフライというんだって」

ファーラー家の夕食は、だいたい午後6時半からだ。鶏肉や七面鳥の肉、それから白身の魚、ソーセージなどが主なおかずで、グレンは「うちのママは料理が下手だ」と言うが、なかなか上手だ。冷凍食品はまったく使わない。牛肉は、休みの日にローストビーフかバーベキューで出る。ただし、パンはほとんど食べない。ジャガイモを茹でたり、揚げたりして食べる。ジャガイモに無塩バターをのせて、それに少し塩と胡椒 を加えて食べるのがとてもおいしい。EJEFで食事の話をすると、「佐藤は当たりだな。僕のとこは毎日、ローストチキンだ」とか、「レトルト食品ばかり食べている」と他の研修生たちから 羨ましがられた。
キングズアームホテルの1階はパブになっている。ストッケンチャーチでいちばん人気があるパブだ。ファーラー夫妻は週に2回くらい、夕食後、夫婦でパブに行って、午後11時くらいに帰ってくる。
ある日、グレンが、帰宅する私を待ちかまえてこう言った。
「ミスター・サトウ、今日は夕食を少な目に食べよう。食後にいいところに案内してあげる」
「わかった。どこに連れて行ってくれるの」
「あとで教えてあげる。ただ、ダッドとママには、言わない約束だよ」
「わかった」
その日の夕食は、ローストチキンとサラダだった。私はチキンとサラダだけを食べ、ジャガイモには手をつけなかった。ファーラー夫妻がパブに出かけてから15分くらい経って、グレンが「ミスター・サトウ、出発だ」と言った。ジェシーが後をついてくる。
(中略)
グレンは私を、ホテルの2軒隣にある小さな店に案内した。看板には『フィッシュ・アンド・チップス』と書いてある。
「ミスター・サトウは、ソルト・アンド・ビネガーのクリスプスが好きだと言っていただろう。ここのフィッシュ・アンド・チップスに酢をたっぷりかけて食べるとおいしい。ミスター・サトウに食べさせようと思って小遣いを 貯めていたんだ」
その話を聞いて、私は胸が熱くなってきた。武藤君が想像した通り、グレンには飼い犬のジェシー以外、友だちがいない。グレンは、私を友だちとして遇しているのだ。
「グレン、ありがとう。それじゃ、遠慮なく御馳走になる」
「いいよ。フィッシュ・アンド・チップスでいいかい」
「うん。グレイは何を食べるのかい」
「僕はフィッシュはあまり好きじゃない。だから、ソーセージ・アンド・チップスを頼むことにする」
グレンが注文をすると、白衣を着た太った店主が、鱈とソーセージにそれぞれ衣をつけて、油の鍋の中に入れた。それを取りだしてから、今度は太く切ったジャガイモを油の鍋に入れた。ジャガイモの水分が、油の中でパンと音をたててはねた。
注文の品が出来上がるまで、5分くらい待たされた。
店主は薄灰色の紙を数枚取って丸め、円錐を2つつくった。そこにまず揚げたジャガイモを均等に入れ、そのうちの1つに鱈の揚げ物、もう1つにソーセージの揚げ物を置いた。そして、大量のモルトビネガーをかけ、その上に豪快に塩を振った。
飲み物は、私がコーラ、グレンはドクターペッパーにした。
「ミスター・サトウ、とても熱いから気をつけなよ」とグレンが言った。
魚を食べてみた。武藤君の言っていた通り、骨抜きがまったくされていない。鱗も少し残っている。乱暴なつくりだがおいしい。揚げたジャガイモも、酢と塩が何とも形容しがたい味を出している。小中学生時代に食べた、大宮の氷川神社の縁日に出ていたお好み焼きや焼きそばのような、妖しいおいしさがフィッシュ・アンド・チップスにはある。とはいえ、魚にもジャガイモにも、油が相当しみている。3分の2くらい食べたところで、私はお腹が一杯になってきた。
「ミスター・サトウ、食べきれない部分と骨はジェシーにあげればいい」とグレンが言った。
「そうするか」と言って、私は紙製の円錐を開いて、その上に残った魚とチップスを置いた。するとジェシーが、尻尾を思いきり振りながら全部片づけた。
「グレン、今日、僕に奢るために何日分の小遣いを使ったの」
「一週間分だよ」
「それは済まない。今度、僕がお返しする。どこか行きたいところはある? それか、欲しい物はないの」
「欲しい物はペットだ。チンチラを飼いたい」

佐藤優著『紳士協定―私のイギリス物語―』より