たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

地元のボンと行くロンドン日帰り飯『紳士協定』(4)

1980年代のロンドン日帰り旅行記、食べ物のチョイスがたのしすぎる。私が初めてキムチというものを口にしたのも1980年代半ばだったなー。場所は軽井沢。東京で韓国焼肉に出会うのはさらに10年後。

動物園に2時間くらいいて、昼食はソーホーの中華街でとる。そして、午後はトッテナム・コート・ロードの大型書店フォイルズに行く。夕食はハンバーガーかフィッシュ・アンド・チップスで済ませる日程をたてた。

「鰻は貪欲で何でも食べるんだよ。海に牛の頭を入れるんだ。そうすると鰻が獰猛に噛みついてくるんだ。すごい。とにかく、すごい。ほんものの鰻だよ」
「土産に買って帰るか」
「やめよう。ママが気絶する」
「グレン、鰻を食べてみるか」
「………」
「中華レストランでも日本レストランでも、メニューに鰻があると思う」
「蛇料理もあるの」
「蛇はない。日本レストランだったら鰻はある。鰻の腹を割いて、開いて、ソースを塗って焼く。なかなかおいしいよ」
「ううん、やめておく。鰻は見るだけでいい。学校の美術の時間に鰻の絵を描くことにする。ミスター・サトウ、鰻を見せてくれてどうもありがとう」
お腹が空いた。私はグレンを誘って、近くの中華レストランに入った。私は青島ビール、グレンはファンタ・オレンジを頼んだ。
「何を食べる?」
「ミスター・サトウの勧めるものなら何でもいい。ただし、鰻は嫌だよ」
(中略)
私は春巻きと青椒牛肉絲を注文し、「メインは、僕は叉焼の入ったスープヌードルにする。グレンはスープヌードル、フライドヌードル、フライドライスのどれにする?」と尋ねた。
「僕もスープヌードルにする」
グレンは、春巻きを「パンケーキのようだ」と言って喜んで食べた。青椒牛肉絲は、筍が苦手なようで、肉とピーマンだけを選んで食べていた。そして叉焼麺がでてきたところで、食欲をまったく失ってしまったようだ。
「この真っ赤な色の肉は何? 血じゃないの」
「赤い色の調味料を塗ってるんだ。血じゃないよ。蜂蜜が入っているから、少し甘いと思うよ」  グレンはこわごわと口をつけたが、すぐに皿に叉焼を置いた。
「ミスター・サトウ、僕はこの肉を残す」
「構わないよ。嫌いな物を無理して食べることはない」
ロンドンの中華街の麺は細く、腰が強い。しかもかんすいを大量に使っているせいか、日本の中華麺よりも黄色く、縮れている。味はなかなかいい。が、グレンはフォークで中華麺をまるめ、口に入れ、2、3口噛んでから吐き出した。
「ミスター・サトウ、変な臭いがする。それに、ゴムみたいな感じだ」
そう言われれば、確かに輪ゴムを切って伸ばしたような麺だ。
「無理して食べることはないよ。後でハンバーガーでも食べに行こう」と私は言った。
中華レストランを出ると「残してしまってごめんなさい」とグレンは私に謝った。
「食べ物は文化だからね。口に合わない物があるのは、当然だよ」
(中略)
「まず、口に合わないのが、ライスプディングだ」
「何で?」
「日本人はショートグレイン(粒の短い)の米を主食として食べている。この米を牛乳で煮て、ジャムをつけてデザートとして食べる習慣がないので、ライスプディングが食後に出てくるとぞっとする」
「ママは、ライスプディングは作らないから心配ない」
「次に嫌いなのは、焼きグレープフルーツだ」
グレープフルーツを2つに切って、切り口に砂糖を振り、オーブンで焼く。焼いた蜜柑を想像するとよい。グレープフルーツが高熱でぶよぶよになる。
(中略)
「同僚の外交官とロンドンでステーキ・アンド・キドニー・パイを食べたけれど、キドニーからアンモニアの臭いがして気持ち悪かった」
「僕はキドニーはおいしいと思うけど」
「慣れの問題だと思うよ。日本にもキドニーと小腸を煮込んだ料理がある。庶民料理だけど、とてもおいしい」
中華レストランを出てから私が「食べ足りないだろう。ウィンピー(ハンバーガー・ショップ)に行こうか」と言うと、グレンは「夜まで我慢する。それより早く『耳無し芳一』の英語版を買いたいんだ」と答えた。

まだ見たい本がたくさんあるが、グレンが退屈そうにしているので、『カール・バルト、神学的遺産』だけを買って、店を後にした。
「ミスター・サトウ、お腹が空いた」とグレンが言った。 
確かに、中華レストランでグレンは、春巻き以外はほとんど何も食べなかった。
「どうする。少し早く、夕食にしようか」
「いや、夕食はきちんと食べたい。いまはハンバーガーかチップス(フライドポテト)を食べればいい」
「わかった。夕飯は何を食べる? どこか普通のレストランに入って、ステーキかピザでも食べようか」
「いや、それじゃつまらない。日本レストランに行きたい」
(中略)
「とにかく何か食べよう」と言って、私はグレンを連れ、小さなハンバーガー屋に入った。
セルフサービスのファーストフードでも、イギリスではかなり待たされる。もっともハンバーガーも作り置きではなく、客の注文を受けてから鉄板の上で焼き始める。10分くらい待たされて、チーズバーガーが2つできあがった。
(中略)
「おいしそうだ。グレン、温かいうちに食べな」と言って、私はチーズバーガーを勧めた。
グレンは、ゆっくりチーズバーガーを食べている。私はカウンターに行って、エスプレッソコーヒーをいれてもらった。席に戻りコーヒーを飲みながら、フォイルズで買った『カール・バルト、神学的遺産』に目を通した。そして、第二部の「『不可能の可能性』としての神学(Theology as an Impossible Possibility)」の箇所にさしかかっていた。
(中略)
グレンは私の話を聞いた後、しばらく黙って考え事をしているようだった。その後、残っていたチーズバーガーを食べ終え、ドクターペッパーを飲みほした。

「ミスター・サトウ、日本料理を食べて、学校に行ってみんなに自慢したいんだ」
「鰻や生の魚を食べた話をしても自慢にはならず、みんなに『変なものを食べた』とからかわれるだけだぞ。日本料理にこだわらず、おいしくて、それから学校で自慢できるものを食べよう。グレンは食べ物では何が好きだ」
「バーベキューだよ」とグレンは間髪を 容れずに答えた。
「それじゃ、コリアンバーベキュー(韓国焼き肉)にしようか」と私が言った。
「コリアンバーベキュー? はじめて聞いた。おいしいの」
「おいしいよ。僕は大学生時代に韓国に何回か行ったことがある。肉をたれに漬け込んで焼くんだ。日本でも韓国焼き肉はとても人気がある。僕もよく行った」
「おいしそうだ」
「おいしいよ。試してみるか」
「是非、行きたい」
「だけど、まだレストランに行くには早い。さっきレーニンやゲバラのTシャツを売っていたコレッツという本屋に寄ってみようか。ロシア語の本があるようなので、見てみたいんだ」

「アリラン」はオックスフォード通りのすぐそばにあった。
店員は韓国人で、インテリアも韓国風だ。日本人のお客が多いのか、メニューは英語と韓国語と日本語で書かれていた。
「グレンは辛い食べ物は嫌いか」
「どれくらい辛いの」
「チリソースをかなり使った感じだ」
「食べたことはないけれど、試してみたい」
「キムチは中国キャベツのピクルスだけれども、唐辛子をたくさん使っている。もし辛かったら残してもいいし、水で洗って唐辛子を落として食べてもいい」
「いや、出てきたままで試してみたいんだ」
私はウエイターに「キムチとナムル、海苔、ユッケをもってきて。その後、プルコギ(焼き肉)を2人前」と頼んだ。
キムチとナムルと海苔はすぐに出てきた。
「この真っ黒い紙みたいなのは、どうやって食べるの」とグレンが尋ねた。
「これは海草からできている。日本人や韓国人は海草をよく食べる。海苔には油が塗られ、塩味がついているので、そのまま食べればいい」
私はそう言って、海苔を口に入れた。グレンも恐る恐る海苔を口に入れ、
「塩味がする。クリスプスみたいな感じだ」と言った。
「日本には、海苔をフレーバーにしたクリスプスもあるよ」と私が言うと、グレンは」きっとおいしいと思う。いつか日本に行って試したい」と答えた。
「さっきミスター・サトウが言った、辛いピクルスはこれなの」と言って、グレンはナムルのワラビを指した。
「違うよ、それは辛くない。塩味がついているけれど、ほのかな甘さがある。食べてごらん」
グレンはステンレスの箸でワラビをはさもうとするが、うまくいかない。私はウエイターにフォークとナイフをもってきてくれと頼んだ。グレンは「今日はチョップスティックス(箸)を使うのは諦める。この次までにきちんと練習して、チョップスティックスで食べることができるようにする」と悔しそうに言った。
グレンは店員がもってきたフォークでワラビを刺して、「茶色いけれど何からできているの」と尋ねた。
「なんだと思う?」
「大きな虫かなんか?」
「虫じゃないよ。これは山菜だ。イギリス人は食べないけれど、東洋人は好んで食べる」
グレンは恐る恐るワラビを口にした。
「これが野菜なの。肉のような味がする」
「確かに歯ごたえは肉に近いかもしれないな」
「この赤いピクルスが辛いの」
「そうだよ。ちょっと洗って食べた方がいいかもしれない」
私はウエイターに「スープ皿に水を入れてもってきて」と頼んだ。ウエイターはすぐに皿をもってきた。ステンレスの箸でキムチをつまみ、皿の水につけて唐辛子を落としてから、グレンの皿の上に置いた。
グレンはキムチを食べ、「確かにそんなに辛くないね。ホットケチャップの方がずっと辛い」と言った。

「ミスター・サトウ、イギリス人はフランス人やドイツ人と比べて、辛い食べ物が好きだと思うよ。フレンチマスタードよりもイングリッシュマスタードの方がずっと辛い。インド・レストランやインド料理のテイクアウェイがあちこちにある」
「でもストッケンチャーチにはないだろう」
(中略)
そんな話をしているうちに店員がプルコギをもってきた。テーブルの上のカセットコンロにプルコギ用の鍋を置く。そこに肉と野菜を並べ、コンロに火をつけた。
「ミスター・サトウ、肉だけでなくキャベツ、人参、玉ねぎを入れるんだね」
「そうだよ。そうすることで、肉の味がよくなる」
私はステンレスの箸で肉をつまんで、グレンの小皿に入れた。
「バーベキューというけれど、むしろスープにつかっている感じだ」とグレンは言って、肉をフォークに刺して口に入れた。
「おいしい。少し甘いんだね」
グレンはプルコギを気に入ったようだ。昼の中華料理は口に合わなかったようなので、私は安心した。
(中略)
ウエイターがやってきて、「もうよろしいですか」と言った。私は「いいよ」と言って、プルコギの鍋とコンロをさげてもらった。デザートはグレンと相談して、チョコレートがかかったアイスクリームをとった。

「紅茶にしますか。それともインスタントでよければコーヒーもあります」
「紅茶にしてください。グレンも紅茶でいいかい」
「ノーサンキュー。僕は冷蔵庫のドクターペッパーを飲む」と答えた。
(中略)
「最初、僕は鰻を食べようと思ったのだけれど、鰻はすごく恐い目をしているんだ。だから食べるのはやめた。その代わり、コリアンバーベキューを食べたんだ。口から火が出るほど辛い中国キャベツのピクルスがあるんだ」といった調子で、今日の出来事を両親に報告している。ファーラー夫妻は、あいづちを打ちながらグレンの話を聞いている。
グレンの報告は15分くらいで終わった。
ファーラー夫人が「今日の出来事はグレンの記憶に一生残ると思います。どうもありがとうございます。明日は11時頃にブランチ(朝食兼昼食)を用意します。それでいいですか」
「もちろんです」
「私がヨークシャープディングを焼きます」
「楽しみです」と私は答えた。

佐藤優著『紳士協定―私のイギリス物語―』より