「おいしいの」と聞きまくるグレンを見ていると、"Is it spicy?"(上げ口調でなく下げ口調)という姪の口癖がかぶる。
「グレン、お腹が空いたんじゃないか。何か食べに行こう」と私が尋ねた。
「うん。実はミスター・サトウと夕ごはんをたくさん食べようと思ったから、昼食を抜いてきた。だからお腹がとても空いているんだ」
「わかった。何を食べよう?」
「どういう選択肢があるの」
「パブはやめよう。そうすると魚料理、インド料理か中華料理になる」
「魚料理専門のレストランがあるの」
「2軒ある。牡蠣やサーモンステーキがおいしいよ」
「牡蠣は苦いから嫌いだ。サーモンステーキならバーベキューで食べたことがある。インド料理は辛いの」
「ここのインド・レストランはかなり辛い。ただし、子供用に辛さを抑えてくれと頼めばそうしてくれると思う」
「ミスター・サトウ、僕は子供じゃない。どのレストランに行っても、大人と同じ物を食べている」とグレンは不満を言った。
「悪かった。僕はグレンのことを子供と思っていない。僕と対等の大人と思っているよ。それじゃ、インド・レストランに行こうか」
「ちょっと待って。中華レストランはおいしいの」
「グレンの口にあうかどうかよくわからないけれど、僕はとてもおいしいと思う。前にグレンとロンドンで食べた中華料理とはだいぶ違う。こちらの中華料理は北京料理だ」
「北京料理? ロンドンの中華街で食べた料理とどう違うの」とグレンは尋ねた。
「ロンドンで食べたのは中国の南の方、香港の料理だ。ベーコンズフィールドの中華レストランでは北京料理を出す。北の方の料理だから、小麦粉を使ったダンプリン(餃子、ワンタン)やパンケーキ(春巻き)がおいしい」
「中国のダンプリンの話は訊いたことがある。おいしいの」
「おいしいよ。小麦の皮の中に細かく切った肉と野菜をつめて、焼くか茹でる。日本で餃子は、フィッシュ・アンド・チップスのようにもっとも普及している安いメニューだ」
「ダンプリンを食べてみたい。中華レストランに行こう」
「いいよ」
話しながら歩いているうちに、英国国教会の「聖メアリと全聖人の教会」を通り過ぎた。ここがオールドタウンの中心部だ。横断歩道を渡るとジョージホテルがある。1489年から営業している、この辺でいちばん古いホテルだ。中華レストランはジョージホテルの並びにある。
扉を開け「予約をしていないのですが、2人分の席はありますか」と尋ねた。背が低く、小太りの中国人のフロアマネージャーが「ミスター・サトウのお席ならばいつでもあります」と答えた。
「名前を覚えられているね。よく来るの」とグレンが尋ねた。
「平均すれば週に1回くらい来ていると思う。日本料理とはちょっと違うけれど、このレストランに来るとほっとする」
まず、バーに通された。私はドライシェリーを頼み、グレンはフレッシュオレンジジュースを頼んだ。フロアマネージャーがメニューと一緒に、飲み物とつまみをもってきた。横にケチャップとホットケチャップがついている。
「これはクリスプスじゃないの」とグレンが尋ねた。
「揚げているので感じは似ているけれど、味はずいぶん違う。ワンタンの皮を揚げたものだ。この皮で肉や海老を包んでダンプリンにする」
「焼いて食べるの」
「焼くこともあるが、スープに入れることの方が多い」
私はメニューを開いて、ワンタンスープと書いてある箇所を指した。
「この店のワンタンは海老入りだ。おいしいよ。グレンは何を食べたい?」
「メニューに写真がついていないからよくわからない。この店でいちばん変わった食べ物はなに?」
「そうだな。鮫のヒレのスープはどうだ」
「鮫って、人を食べる凶暴な魚なんでしょう」
「そうだよ。鮫の尾ビレや背ビレを乾して、それをスープに入れるんだ」
「おいしいの」
「おいしいよ」
「わかった。試してみる」
「あとは、クリスピーダックがおいしいと思う。アヒルを揚げて細かくほぐして、パンケーキに味噌のソースをつけてネギとキュウリと一緒に包む。それから焼き餃子を頼む。あと豆腐の炒め物を取ろうか」
「豆腐っておいしいの」
「好き嫌いがあるけれど、試してみるといい」
「ミスター・サトウを信頼するので、おいしいと思う物をとって」
「わかった」
私は、前菜に海老のすり身にごまをつけたトースト、春巻き、それに続いてスープ、メインにクリスピーダック、焼き餃子と豚肉、豆腐、キクラゲと卵の炒め物を注文した。
フロアマネージャーは私たちを席に案内した。壁には漢詩が掲げられ、中国風の壺や、貝殻細工の衝立がある。
「ロンドンの中華レストランよりも中国の感じがするね」とグレンが言った。
「いや、中国の感じというよりも、イギリス人が考える中国の雰囲気を出しているんだ」と私が答えた。テーブルを担当するのは中国人のフロアマネージャーではなく、イギリス人のウエイトレスだった。私はラガービールを、グレンはコーラを注文した。それほど待たずに飲み物と前菜がいっしょに出てきた。
「ここの春巻きは日本で食べるのと同じ味がする?」
「だいたい同じだ。僕が小学校2年生のときに、最寄りだった大宮駅が建て直されて近代的なビルになった。駅に付属してデパートができて、そこには春巻きや餃子などを売る専門店ができた。燕京という店だ。燕京というのは北京の昔の名前なんだ。この燕京で母がときどき買ってきた春巻きと、いま僕たちが食べている春巻きの味が似ているんだ」
(中略)
「ミスター・サトウ、この海老のトーストはおいしいけれど、日本でもよく食べるの」
「いや、僕もイギリスに来て初めて食べた。後で出てくるクリスピーダックもこの店で初めて食べたけれど、とてもおいしい」
ウエイトレスがフカヒレのスープを持ってきた。
「グレン、これがフカヒレのスープだ。試してごらん」
グレンは恐る恐るスプーンを皿に入れて、スープをかき混ぜた。
「この透明な麺みたいなのが鮫の背ビレなの」
「背ビレか尾ビレかはわからないが、鮫のヒレだ」
「食べると舌が痺れるんじゃないの」
「そんなことはない。大丈夫だ」
「辛いんじゃないの」
私はスプーンでフカヒレスープを口に入れた。いい味だ。
「辛くない。おいしいよ」
グレンはスプーンを口に入れ、苦しそうな顔をして飲み込んだ。
「ごめんなさい。味は大丈夫なんだけれど、臭いが気になる」
「無理しないでいいから。人食い鮫を想像したから気持ち悪くなったんだろう」
「ごめんなさい。鰻も鮫も食べてみたいと思うんだけれど、どうしてもできない」
「それはそうだ。食べ物は文化だから、無理したらだめだ」
私はウエイトレスを呼んで、グレンのスープを下げてもらった。
「ミスター・サトウは、このレストランに来る以外は、どうやってリラックスしているの」とグレンが尋ねた。
「僕は本を見ているといちばんリラックスできる。最近は、ロンドンのブライス通りで亡命チェコ人が経営しているインタープレスという古本屋によく行っている。土曜日と、ときには水曜日の午後にこの本屋に行って、店主からチェコの歴史や哲学について教えてもらっている」
「古本屋さんなのに歴史や哲学についてよく知っているの」
「実によく知っている。この人はズデニェク・マストニークさんといって、今は古本店主だけれど、もともとは BBC国際放送のチェコ語放送のアナウンサー兼記者だった。奥さんはケンブリッジ大学でチェコ語を教えている。大学の講義を聞くよりも、マストニークさんの話の方が勉強になる。マストニークさんは古本屋に僕専用の机を置いてくれているので、土曜日はその机に向かって半日勉強している。これがいちばんの気分転換になる」
中国系のウエイターが大きな皿の上にクリスピーダックを乗せ、持ってきた。
「クリスピーダックだけはいつも中国人が持ってくる」と私が言った。
「どうして」とグレンが尋ねた。
「このダックをほぐすのが職人芸なんだ。それをいつもこの人が上手にやってくれる」と私が説明した。それを聞いて、ウエイターが微笑んで「サンキュー」と言った。ウエイターはフォークとスプーンでよく揚げたアヒルのもも肉を皮ごと細かく引き裂いた。繊維にそって肉はサキイカのようになった。そこから上手に骨と軟骨を外した。
「ミスター・サトウ、これが有名な北京ダックなの。BBCテレビで見たけれど、中国ではアヒルを動けないような穴の中に入れておいて、無理矢理餌を食べさせるのでしょう」
「そういう話を僕も聞いたことがある。ただ、いま出てきたのは北京ダックじゃない。北京ダックは身ではなくて皮を食べる」
「皮? 味があるの」
「皮の下には脂がついている。この脂をつけるために無理な育て方をするんだ」
「肉は食べないの」
「日本の中華レストランだと肉はでてこない。イギリスだと肉を調理してくれる店もある。肉もおいしいよ」
私はウエイターに「この店で北京ダックはできるのか」と尋ねた。ウエイターは「できます。仕込みに時間がかかるので、当店ではメニューには載せていません。3日前までに注文してくださればできます」と答えた。
「グレン、それじゃ次にここに来るときか、ロンドンの中華街で食べよう」
「でも、皮と脂なんでしょう。おいしいのかな」
「それは好みによる。僕はクリスピーダックの方が好きだ」と私は答えた。
ウエイターは一旦テーブルから離れ、今度は蒸篭と味噌、キュウリと長ネギの千切りをもってきた。
ウエイターが「食べ方はわかりますか」と尋ねるので、私は「わかるよ。このレストランでも何回か注文したことがある」と答えた。
私が蒸篭のふたを開けると薄餅が5枚入っていた。
「これは何? 紙みたいだけれど」
「そうだな、パンケーキのようなものだ」
私はそう答えて、手で薄餅を1枚取って皿の上に広げた。そこに味噌を塗って、クリスピーダックを乗せた。
「グレンはネギとキュウリは好きか」
「キュウリは好きだけど、ネギは辛いと苦手だ」
「ちょっと味見をしてみる」と言って、私はネギを口に入れた。
「辛くないよ」
「それじゃ大丈夫だ」とグレンは答えた。私はダックの上にキュウリとネギを乗せ、薄餅でくるんでグレンに渡した。
「このまま食べるの」
「そうだよ」
「あの黒いソースは辛くないの」
「味噌のソースは辛くないよ。むしろ甘い」
「甘い?」
「そうだ。中華料理には甘い味付けが多い」
グレンはクリスピーダックを恐る恐る口に入れた。そして、「おいしい。いままでに食べたことがない味だけれども、とってもおいしい」と言った。
「もう一つ、包もうか」と私が尋ねると、グレンは「おねがい」と答えた。社交辞令で「おいしい」と言っているのではなく、ほんとうに気に入っているようだ。
(中略)
「僕も、外務省に入ってから自分の好きな本を読む時間を作れないことが、いちばんの悩みだ」
こんな話をしながらクリスピーダックを食べ終えた。続いて、ウエイトレスが焼き餃子と豚肉、豆腐、キクラゲと卵の炒めをもってきた。グレンはキクラゲに関心を示し、「これは真っ黒だけど食べることができるの」と尋ねた。するとウエイトレスが「もちろん大丈夫です。それから白いキクラゲもあります。これはシロップに漬けてデザートにします」と答えた。
クリスピーダックでお腹がいっぱいになったようで、グレンはあまり餃子や炒め物を食べなかった。私はこれらのメインディッシュで満腹になったので、 炒飯や焼きそばをとらずに、グレンにあわせてアイスクリームをとった。ウエイトレスが「アイスクリームに龍の目をつけますか」と尋ねた。
「龍の目? そんなものを食べるの」とグレンが目を輝かせた。
「いや、それはライチーという果物だ」と私が答えた。
「どういう果物なの。マンダリン(蜜柑)のようなもの」
「違う。味はあえて言うと葡萄に似ている。もう少し硬くて、中に大きな種が入っている。実が何となく龍の目みたいな感じだ」
「苦くない?」
「シロップ漬けなので甘い」
「それじゃ試してみる」
しばらく経って、ウエイトレスがライチーのシロップ漬けを4~5個添えたアイスクリームをもってきた。グレンはライチーを見て「これはおhんとうに龍の目をくりぬいたみたいだ」と興奮した。
将校クラブの入り口には、黒革張りの大きなノートがある。そこに私は「サトウマサルのゲストとしてファーラー夫妻」と書いた。カウンターで、私とファーラーさんはギネスビール、夫人はウイスキーソーダ、グレンはオレンジジュースを頼んだ。バーテンから飲み物を受けとって、私たちはラウンジに入った。
「立派なクラブですね。興奮します」とファーラー夫人が言った。
(中略)
グレンはクリスピーダックをどうやって食べるかについて、身振り手振りを加えて詳しく説明した。ファーラー夫妻は嬉しそうにその話を聞いていた。
「鰻は食べなかったの」とファーラー夫人が尋ねた。
「僕はもう鰻には関心がない。それよりも北京ダックを食べてみたい」
「グレン、来月は一緒にロンドンの中華街に行って、北京ダックを食べよう」
「ママ、僕たち、これから月に1回は会うんだ」とグレンが嬉しそうに答えた。
「武藤は今日はどうしていたの」
「朝から机に向かってロシア語の復習をしていた」
「食事は?」
「11時頃にブランチをとって、いまさっきフィッシュ・アンド・チップスを部屋で食べた。食後のコーヒーを飲みたくなってここに降りてきた」
佐藤優著『紳士協定―私のイギリス物語―』より