たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

アイスレモンティー、緑茶、ボバ、オリーブ茶『人生の旅をゆく』

あとがきにこの本の校正に対する考え方が書いてある。一括置換で表記を揃え、文法をととのえた文章が必ずしもいいとは限らない。生活の手ざわりを書いた作品ならなおさら。今はまだAIが書いたものというのは何となくわかるが、いずれ区別がつかなくなるだろう。今、人間が焦ってAIのまねをする必要はないよね。

この本には、名前はわからないけれどほんとうにおいしそうなお店のことがたくさん書かれている。が、ひとつ感じ悪いなーと思ったのは、パンデミック中に飲食店の支援をしなかった人をうっすら批判していたこと。『7つの習慣』じゃないけど、それぞれに見えない事情があるわけよ。さばいちゃダメ。

お茶を淹れるということは、「待てる」ということなのだ。
全てを一拍くらい遅くする。コーヒーとは違う。「あ、忘れてた」くらいの気持ちがないとおいしくならない。
(中略)
切れが必要なのは最後に急須をぴしっと振って、いちばんおいしい急須の中の最後の一滴をしぼりだすときくらいだ。この一滴の中においしい味がみんな詰まっている。ただそれだけ。

レッスンの前に、あっこおばちゃんはいつもアールグレイのアイスレモンティーを作ってくれた。ガムシロップを入れたそれがおいしくて、子どもだった私でもそのおいしさはわかり、何回もおかわりをした。

大人になってわかった。
紅茶を濃いめに淹れて、ロックアイスをがんがんに盛ったポットの中にジャーと入れれば、アイスティーってできるよね? と。
ガムシロップは買ってくればいいし、と。
そのとき初めて、あっこおばちゃんの不器用さに気づいた。
多分本で見たとおりに作ったのだろう、あっこおばちゃんは、ポットの外側に冷凍庫で作った氷をみっちり入れて水を張り、その中に粗熱の取れた紅茶が入ったポットを入れて、一時間くらいかけて、アイスティーを冷やしていたのである。
そしてガムシロップは小鍋で手作りしていた。
それをていねいに氷抜きのコップに注ぎ(氷を入れるとお茶が薄まるからということだった)、レモンの輪切りを添えて、出してくれていたのだ。
氷やガムシロップを買えない経済の状況と、手を抜くということを全く思いつかないその人柄が合わさって生まれた飲みもの。
私はそのたいへんな手間と労力に、後から気づいた。

今日は懐かしいものを作ったのよ、あの『あっこおばちゃんのアイスティー』!」
そして、あの懐かしいアイスティーと全く同じ作り方で、さらにガムシロップももちろん手作りで、私の前にあの懐かしい味がやってきたとき、涙がにじんでしまった。もう二度と飲めないと思っていたもの。そして全く同じように再現されているもの。

ぴかぴかで活き活きした山菜の数々を取り出す手つきからして、彼女は山菜慣れしていた。私は必死でその輝きを逃すまいと調理したのだが、ちょっと気の抜けた味になったことは否めない。
それでもやはり、命の力がみっちりつまった、空気のいい、土のいい春の山からやってきた山菜はきらめいていた。食べるごとに口の中で春のパワーが弾ける感じがした。ぐったり、がっかりしていた私の目の前が急に明るくなって、すごい食べものだと思った。東京で手に入る、水煮になって中国からやってくるやつとか、しなびてアクばかりが強くなった古びた山菜とは違うのだった。

慣れない私が不器用に料理した山菜よりもずっとおいしい食べ方を彼女は知っているだろうし、きっと自分で作りたかっただろうと思う。
でも「おいしいよ」と彼女は言ってくれた。

生き生きとしたゴーヤや、ねっとりとして深い甘みがある里芋や、一ヶ月くらいずっと生き生きとして全体がピンと張っている玉ねぎを、いつも送ってもらっていた。ただ煮るだけで、ほとんど味つけをしなくてもおいしい野菜だった。

プチトマトを屋上でたくさん育てているというのに、私は夏になると毎週トマトを箱で買う。そしてジュースにしたり、サラダにしたり、ソースにして思う存分食べる。
そのためだけに庭でバジルを育てている。
バジルの花は紫蘇の花とそっくりで、味の共通項を感じている自分に確かな実感を与える。
(中略)
夏の間にバジルを枯らしてしまったり虫がついてしまうと、トマトがおいしく食べられない。トマトソースのパスタもバジル抜きだと気が抜けてあいまいな味になってしまう。
そのためだけに毎日いっしょうけんめいに水やりをする。  トマトってとても不思議で、単独で見るよりも「群れ」で見るほうがインパクトがあるしトマトらしい気がする。それはそもそもトマトというものが枝にまとめて 生るものだからだと思う。箱からたちのぼってくる青い香りこそがトマトの力なんだ。  トマトをただ手でつぶして、種もそのままにして、塩とオリーブオイルだけのサラダも大好き。トマトの力が体に移ってくるような感じがする。  それには見極めが大切で、追熟してちょうどよく熟れた状態でないと、この食べ方はできない。ぐじゅぐじゅでもだめだし、固いと全く味が出ない。
春にはアスパラガスを、秋にはりんごやぶどうや新米を、冬はじゃがいもや里芋を箱で買う。忙しい時期にはラーメンを箱買いする。

梅干し作りには至れないけれど、梅ジュースは作る。
大きな魚はさばけないけれど、アジやイカくらいまでならなんとかできる。
真空パックになっているしじみは日持ちがしてありがたい。

前にものすごく厳格なヴェジタリアンの友だちが「最高においしいベイビーケールを持ってきたのよ、かいでみて、ほらなんていい匂い」と取り出しているわきに、キッチンから他の友だちが「ほ~ら、牛肉の赤ワイン煮込みできたよ!」とぐつぐつ煮えた鍋を持ってきた。ここまでくるともうまんがみたいなもので、私はげらげら笑ってみんなに怒られた。

その知人のおうちで猪の肉をごちそうになったことがある。
成人男性3名、成人女性3名、肉は1キロ。
足りないかもしれないし、野菜や豆腐を入れようと他の材料をたくさん買ってきた。
しかし、全然問題なく、足りてしまったのである。
あまりにも肉の栄養が濃厚で、数枚いただいたらもう満腹になり、肌がつやつやになり、風邪まで治ってしまった。ものすごい力を肉は持っていた。山で生まれ、山で育ち、自然の食べ物を食べて生き抜いてきた雌の猪の力。ありがたいとしか言いようがない。 
ああ、ふだん焼肉屋さんなどでみんなで何キロも肉を平らげて、ごはんまで食べるというあの感覚は「そこにそれほど栄養がつまっていないから」なんだ。食べものから栄養をしっかりいただける時代はすでにもう過去になってしまったのだ。そう実感した。

おいしいきゅうりをコールドプレスジュースにすると透明な緑色の液が出てくる。きゅうりのエッセンスがみんなつまった、どんな水よりも生き生きした水だ。

幼い頃、初めて自動販売機に熱い缶コーヒーが登場したときのことをよく覚えている。そんな話をしていると「ほんとうに長く生きてきたんだなあ」と我ながら驚くけれど。
まだコンビニが日本になかった頃だ。 
夜遅くに姉といっしょに歩いてその自動販売機に行って、甘くて熱いミルクコーヒーを買う。カフェオレ的な考えにおいては決しておいしいものではなかったそれだが、寒い夜には、コートのポケットに入れてしばらく暖を取った。今みたいに微妙な温度調整機能がないからか、その缶はすごく熱かった。だからポケットに入れてしばらく冷ましてちょうどいいくらいで、取り出してもポケットはまだ温かく、コーヒーは熱々だった。 
あのおいしさのうちには、極端な甘さ、そして熱さも入っていたんだなと思う。
原稿を書いていてへろへろになったとき、熱湯でハーブティーを淹れる。ほんとうは熱湯でないほうがおいしく出るのだが、勢いがほしいから熱々の濃いお茶を作って、はちみつやきび砂糖をちょっと入れる。冷まさないでちびちび飲むと、糖分と熱さで頭がしゃっきりしてくる。

いつかとある県のボロボロの民宿に子どもとふたりで泊まることになり、晩ごはんは駅前で軽く済ませ、夜中にお腹が減るかもとコンビニでカップ麺を買った。夜中になってふとポットを見ると、なんとコードがついてない。それは昔ながらの「魔法瓶」だった。宿の人たちはとっくに寝ていた。中に入っていたお湯だったものはすっかりぬるま湯になっていて、私たちはそれでじっくりと麺を戻して食べたけれど、悲惨な味だった。

これまでにいちばん渋かったのは某ホテルのけっこうお高いビュッフェで、タラバだと思うのだが、細すぎてとてもタラバだとは思えなかった。あまりに冷凍が長すぎて「おまえは模型か?」というような色をしていた。そして「だれかの食べたあとの殻ですか?」くらいしか身が入っていない。  ああ、私は息子のおかげでずっとおいしいかにを食べながら生きてきたんだとしみじみした。自分では決して注文しないから。

いちばん楽しい思い出は、韓国の芸能界の仕事をした時期のことだ。
ライブが終わってほっとしてから、家族で深夜までやっているカンジャンケジャン(かにの醬油漬け、辛くない)のお店に行って、日本よりはちょっぴり安いそのおいしいワタリガニの漬けたものを思う存分食べて、かにミソにごはんを混ぜてピビンバにする。
そのストリートは「カンジャンケジャン通り」と呼ばれていて、安いところから高いところまで、とにかくとある一軒のお店に便乗してたくさんのカンジャンケジャン専門店ができているところだ。深夜に新鮮な生ものが食べられるってすばらしい。
しかも深夜特有のうらぶれ感が全くない。人々はずっと生き生きと働いていて、お客さんもひっきりなしで、ソウルのパワーを感じた。
あるとき、「たこの刺身も頼もう」と言って頼んでみたら、塩やごま油がたっぷりついている皿の上のたこの薄切りたちが、わいわい動いてテーブルの上に去っていってしまった。新鮮にもほどがある。食べると喉に貼りつくし、置いておくと去っていくし、もはや恐怖だった。
その店にはとってもアンモニア臭いアンコウのチム(蒸し鍋)もあり、なんというかこんなパワフルなものを日々食べている人たちには太刀打ちできないなと思った。

そのピザ屋さんはとても地味で、内装は70年代の喫茶店のよう。
粉チーズとタバスコが並んで置いてある感じも、セットのつけあわせのサラダにコールスローが載っているところも、懐かしい。

おじさんは寡黙でダンディ、冷蔵庫から彼の作った唯一無二のタネを取り出して、くるくる回しながらピザを作る。耳だけがかりっと焼けていて、真ん中はもちもちした、他にはないすばらしいピザだ。
どんなときにもずっと同じように作り続けてきたその味は完成されていた。パスタもそうだ。ちょっとひき肉が載ったトマトの冷たいパスタや、異様ににんにくが効いたスープパスタのボンゴレ、長ネギが入った明太子のパスタなど、オリジナルの味だ。

「いくらなんでも、マルゲリータ発祥の店、ナポリの『ブランディ』よりおいしいっていうのは言い過ぎじゃない?」と思っていた私だが、よくよく比べてみると、ほんとうにそうだと思えてきた。(中略)
他にも「タピオカ本体だけなら、うちの近所の店のほうが、台湾の名店よりおいしい。台湾のお店はドリンク部分がおいしいからみんな惑わされてるんだ」と言われてびっくりしたことがあるのだが、実際にそうだった。

台湾でタピオカドリンクを頼むと、よほどのことがない限りはほぼ完璧なできぐあいで出てくる。
ちょっと時間がかかるのはそのせいで、そっけないバイトの人が小学生みたいな顔をして淡々と作るのに、ちゃんとおいしく、はっとするようなオーダーメイドのタピオカドリンクを作ってくれるのである。
飲みものはミルクティーか、別のお茶か。ベースは烏龍茶か紅茶か。レモン果汁かパッションフルーツか。甘さはどのくらいか。中に入れるのはブラックタピオカかナタデココかプリンか。熱い、超熱い、ぬるめ、冷たい、氷あり。などなどけっこうな情報量なので、ちゃんと出てくるとものすごい満足感がある。

台湾の有名なお店の支店が下北沢にもできて、数回行ったのだがもう行かなくなってしまった。なぜなら、何かのギャグかドッキリではないかと思うくらい、注文通りには全く作ってくれないからである。私のオーダーは毎回「ミルクティー、無糖、タピオカ抜き、プリン、熱め」ただそれだけなのだけれど、ほんとうにその通りに出てきたのは指導スタッフがいた最初の一回だけだった。無糖でなかったり、タピオカが入っていたり、むちゃくちゃぬるくてもはやアイスだったりする。 

もやしやパクチーをたくさん載せることができて、麺少なめで頼むことができて、すごく私に合っていたのだが、なんと夜の7時には閉まってしまう。
(中略)
お昼も食べずに午後いちばんにジムに行き、へなちょこななままみっちり汗をかいて、シャワーも浴びずに腹ペコでよくそこに行った。この状態で思い切り飲んだり食べたりしたらお相撲さんみたいな体型になってしまうと思い、いつもビールと麺少なめを頼んだ。ひとりで行っても全く居心地が悪くない。思いやりがある無言の親切さに包まれて、のんびりと食べることができた。

鮨職人もすごいと思うのだが、天ぷらというものにはこれまた特別な技術が必要なのだ。  帆立の中身だけうっすらと生にしあげたり、うにを揚げて中身がしっとりしていたり、衣が薄いのにちゃんと天ぷらとして成立していたり、あの技術はほんとうにすごいなあと思うのである。

子どもの頃は、私の父が作る天ぷらを天ぷらだと思っていた。
パンなのか? と思うような分厚い衣がついていて、揚げるのは芋となすだけだったような。
もしかしたら魚もあったのかもしれないが、あまりの衣の厚さにみんな同じ味になってしまうという不思議なものだった。小麦粉を揚げたものを食べているのと同じというか。なすに至っては考えられないくらい油を吸っていて、危険な感じさえした。
(中略)
最高にすごかったのは、おかゆの中に肉用のミックススパイスを入れるという考え方で、おでんの中にヨーグルト(しかもキウイ入りだった)と同じくらい無国籍な味がした。
もしかして父は、鍋焼きうどんの中のえび天と、父が嫌っていた懐石料理の中の天ぷらくらいしか食べたことがなかったのではないかと思うと、胸がきゅんとする。生きているうちに、ほんとうにおいしい天ぷら屋さんの天ぷらを食べさせてあげればよかった。職人さんが油に指を入れて温度を見るくらいの、本格的なお店で。

そんな気持ちを持っているから、父の分も食べなくてはならないと思う。天ぷら屋さんに行ったときは真剣である。どんなにおしゃべりしていても、出てきたら即座に、やけどするくらいにすばやくいただく。

お茶くらいしか淹れられなさそうな小さな厨房。本格的なお料理ではなくて軽食しか出てこないな、と思ってメニューを見たらとても珍しいバーワンという点心や、はまぐりのスープ、レバーの醬油煮など、かなり本格的な台湾料理が並んでいた。
(中略)
その小さな厨房で彼女の作ったビーフンは、かけねなく私の人生でいちばんおいしかった。たった500円で茶こしといっしょにさらっと出てきた烏龍茶も台湾の茶藝館クラスのおいしさで、いつまでも渋みが出ない。小籠包もバーワンもちまきも蒸し餃子も、その小さな台所から、大した物音も立てずにさっと魔法のように出てくるのに最高級の味つけなのだ。
「これはもう奇跡だな」と思いながら、私はゆっくりお茶を飲む。

家に卵しかなかったので、目玉焼きを焼いて皿に載せて、塩胡椒をして、そのまま出前のように持っていった日もある。おじいちゃんの部屋についたときまだ温かかった。スープの冷めない距離である。

そこでは人々はその日に川や森で獲れたものをその日のうちに調理していた。動物を狩った場合は、腐敗しないうちにその場で 捌いて肉を持って帰り、すみずみまで食べたり皮を敷物にしたり内臓を干したり薬に加工したりしていた。
なるほど、と私は思った。按田さんの「食べつなぐ」という考えはとても新鮮だったが、同時に懐かしさもあった。そういえば、じゃがいもをまるまるひと箱もらってしまったからたとえ飽きても毎日じゃがいも料理が一品あったり、安くてたくさん買ったほうれん草を全ての料理にちょっとずつ使ったり、昭和の家庭はそんな感じだったなと思ったのだ。

しかしちゃんと調べてみると、その手作りの内容の手作り感がハンパない。お米も優しく研ぎ、野菜にも決してピーラーを使わない。おしゃべりしないで集中して作る。そしておむすびの作り方も、決して強く握らない。のりはきっちり全部を包めるように正方形に切り、たがいちがいに巻く。
ずっと休まないその手こそが祈りのようで、手作りという概念があまり好きではない(家で作ったらみんな手作りだろう! と堂々と思っているような)私でさえも、「ここには何かがある」と思わずにはいられないような気合いなのだ。

私がかなりてきとうに作った梅おかかのおむすびを、最近亡くなったおじいちゃんがおいしそうに「おかかも入ってるねえ」と言いながら、大切に食べている動画がある。
もっとおいしく作ればよかったと思うし、いや、残りごはんをさくさくと結んで作ったからこそよかったのかもしれない、とも思う。どちらもほんとうの気持ちだ。

フランスの田舎の内装がまっ茶色のレストランで、同じ色のこってりしたカスレを食べて、胃の底からその場所に溶けこむようだと思ったこと。
キラキラ光るミコノスの海と夕陽を見ながら、小さなストロベリーが入ったスパークリングワインを飲んでいたら、波しぶきが足にかかった、その潮の香り。
青空の下でどこまでも続くオリーブ畑を、ゆっくりと歩いて行ったこと。
レモンの木の下でうにのパスタを食べたこと。山の上まで細かい白い建物が立ち並んでいるのを見上げたこと。
(中略)
乗り継ぎのフランクフルトでここぞとばかり、ソーセージとビールを短時間でかけぬけるように楽しんだこと。
ソウルのキンキンに冷えた冷蔵庫みたいな街で、くっついて歩くまわりの恋人たちの熱を感じたこと。家族で深夜にうどん屋さんに入って暖を取ったら、おじいさんが「やり方わかるかい?」とキムチをはさみでていねいに切ってくれたこと。

イタリアの朝ごはんは甘いパンとカフェラテくらいで、チーズとか肉とかが申し訳程度についてくる感じなので、毎日野菜に飢えている。

デンマークに行ったとき、サーモンとじゃがいもとミートボールばっかりの毎日だったのだが(人の家に滞在したので、家庭料理だった)、そこにはどことなくイメージしていた「北欧」の世界があった。

初めてフィンランドに行って、きっとデンマークに似ているんだろうと思っていたら、言葉の成り立ちからして全く違っていた。
(中略)
金と鏡とガラス系のお店のほうでは、こてこてのサーモンスープや、豆とチーズがたくさんのサラダや、サワークリームが浮いたビーツの色のスープなど、どう考えてもボルシチだろという感じのものが重厚な器で出てくる。じゃがいもを必ずこってりとクリームで和えてある。その向こうにはやっぱりなんとなくロシアが見えるのである。

渋谷のカフェ・ドゥマゴにはよく行く。ムール貝を食べたり、ちょっとワインを飲んだり。
まるでパリにいるようで幸せな気分になる。雨が降っていると店の前の路面が濡れて、いっそう日本ではないみたいなシックな雰囲気になる。
ギャルソンが程よく放っておいてくれるし、がっつり食べるも、飲むだけでも、お茶でもお酒でもいいから、自由な雰囲気で長居しやすい。

息子とお気に入りになったホテルの近所のカフェで毎日生ハムを食べたり(最後のほうでは、黙っていても手切りのハムですか? と聞かれるようになった)。
奇跡のメダイ教会に行ってメダイ売り場で優しい日本語に触れてホッとしたかと思ったら、スリにつけられてドキドキしたり。
息子が風邪をひいていたから胃に優しいがすごく高い日本そばを食べたり、びっくりするほど多いムール貝の鍋をがんばって平らげたり。
(中略)
頼み方がよくわからないままにレバノンサンドのスタンドに行ったり(すごくにんにくが効いていたが、大人気の店らしくひっきりなしに人が来ているだけあって確かにおいしかった)。
(中略)
古い書店で雨宿りをしたり、おいしいパト・ド・フリュイを探してお菓子屋さんをめぐったり、旅の仲間で集合して和食屋さんで串揚げを食べたり。

オリーブオイルを搾る時期だったので、どこに行ってもフレッシュなオイルで作ったトマトとガーリックが載ったブルスケッタというパンのお通しが出てきたが、日本で食べるオリーブオイルに比べてまるでジュースのような新鮮さだった。
そして町の人たちは、農家のスタンドにある一升瓶のような大瓶で、次々オイルを買っていた。どんなにおいしいと思っても、これは地元の人たちの喜びで、私たちの生活にはほんとうの意味で入ってこない文化なのだなとしみじみ思った。
レストランを探して真っ暗な町を歩き、その小さな明かりを見つけたときの幸せな気持ちも一生忘れないだろう。中には暖炉があり、頰が赤くなるくらいの暖かさの中、できたての料理や山で獲れた動物の肉を食べる。それはヨーロッパ文化の味わいそのものだった。

チャイというのは単なる「ミルクの入ったスパイスティー」ではない。
全てがミックスされて新しい飲みものに生まれ変わったすばらしい何かだと思っている。
ミルクだけでは出ない風味と甘みの妙。
お茶の葉がうんと高価なものだと香り高すぎて味が違ってしまう。できればつぶつぶになっている屑茶を集めた安いチャイ用のアッサムメインの葉をたっぷり使っているといい。入っているクローブやカルダモン、シナモンは丸ごとごろっとポットで煮出されているといっそういい。

インドやネパールでは列車の中で買える紙コップのチャイさえおいしいので、基本はずれというのがない。それこそが人々の暮らしに空気のように自然に根づいた味なんだと思う。日本で飲む日本茶が、一煎目であれば合宿専用旅館のものでさえうんとおいしいのと同じことで。
市場での買いものの値切り競争や、やたらに金を要求してくる子どもたちの群れをかわすことにそれなりに緊張していたのだろう。チャイ屋の横の長い石に腰かけて荷物をしっかりと前に抱えながら飲んだ熱々のチャイ、使い捨ての素焼きコップに入ったそれは、考えられないくらいおいしかった。
濃厚なミルクの味と、濃すぎるくらい濃いお茶の味と、大釜で煮られた大量のスパイスと、頭痛がするくらいの甘さと。
飲みながら私はネパールの青空を眺めた。
(中略)
やがて友だちが合流してきて、隣でチャイを飲み始める。
全ての光景が、その日そのときしかないなにかに輝かしく縁どられていた。
そんな暑く乾いた気候の、ミルクとスパイスが豊富な環境の中で自然に生まれた特別な飲みものだから、素焼きのコップの中でこそちょうどよく味や温度が保たれるのだろう。

クラフトビールはおいしいけれど、炭酸飲料のようにぐいぐいとは飲めない。
東京のちょっと湿った汚れた空気の中では、やはり国産の薄くて冷たくて炭酸の強いビールが似合うんだなあと思う。
これは誰もが言うことだけれど、なぜか沖縄で飲むオリオンビールはおいしい。東京の沖縄居酒屋で飲んでも「ちょっと味が薄いなあ」と思うだけなのに、沖縄で飲むといきなりちょうどいい味になる。そしてどんな食べものにも合う。
そしてインドネシアのバリで飲むビンタンビール! この飲みものが食べものにはデフォルトでついてくるんだよと言われても信じてしまいそうなくらいだ。
最近のインドネシアではワインが 流行っていて、けっこうおいしいワインがスーパーの特別な冷蔵庫で冷えている。あのちょっと辛いサンバル(薬味のようなもの)や、サテ(串焼きみたいなものに辛いスパイスがまぶしてある)や、バビグリン(豚の丸焼きの全ての部位を様々な調味料で和えたもの)や、ドリアンにかなり合うはずなので、私はいろんなことを試してみた。でも違う。あの蒸し蒸しした空気の中で、虫たちにたかられながら食べるバリごはんには、やはりビンタンビールしかない。

それぞれが高山茶とか白茶とか長年寝かせたプーアール茶を選んで、小さい茶碗で何回も何回もおかわりをする。たまにそれぞれのお茶を交換したりする。そばにはたっぷりのお湯が小さな電熱器にかけられてふつふつとずっと沸いている。お茶請けは干した梅(烏龍茶につけてある)や、かぼちゃの種や、ひまわりの種や、松の実や、そんな素朴なものばかり。

台湾でタピオカだのフルーツティーの店に行くと、様々なバリエーションのタピオカだとかチーズクリームだとか中国茶ミルクティーだとかレモンがみっちり入ってるだとかナタデココだとか、に混じって、必ずあるのがちゃんとした茶葉をパックに入れて濃いめに出した薄い色の中国茶の冷たいポット売りである。プラスチックのポットに蓋がついて、1リットルくらいあって、家に持って帰って冷蔵庫に入れてもいい大きさなのだ。

喉が渇いて、へとへとで、そこに売っていた冷たいオリーブ茶を買った。
あまりのおいしさに2本飲み干してしまった。ほどよい苦み、わずかな甘み、冷たさ。全てがそのときの渇きに最適だった。飲むと元気が湧いてくるのがわかった。生命に直結した飲みものだと感じた。
友人は別の飲みものを買おうとしていたのだけれど、私はオリーブ茶を勧めた。
「オリーブはこのあたりの特産で、オリーブのエキスには体力を回復させる力があるんだって。オリーブの絵が書いてあるかわいいガラスの容れものは持って帰って家で使えるんだよ」
彼はオリーブ茶を買って飲み、おいしい、こんなにおいしいとは思わなかった! と喜んだ。

暑かったからアイスコーヒーをお願いした。彼女はとてもていねいに時間をかけて、でも器用な手つきでコーヒーを淹れた。そしてふんだんな氷で冷やしたそれを、小さなきれいなガラスのコップに入れて出してくれた。
ごくごく飲みたいくらいに喉が渇いていたのに、あまりにもおいしかったからびっくりして、ちびちびと大切に飲んだ。
冷たさ、苦味、カフェインの力。全てが完璧だった。

私にとっていちばんの簡単な違いはソテツと鶏飯だ。そのふたつが奄美を九州のままにじっと留めている、そんな気がした。
大好きなソテツの尖った緑の葉がもりもりしているだけで、私に流れる九州の血は輝くように浮きたった。
とにかく、私たちはそんないろいろがありながらも鶏飯を食べてカラオケに行って一軒のロッジで寝て、その中心にはいつも小さな赤ちゃんがいた。

そして鶏飯。
最後のお昼まで、何回もくりかえし鶏飯を食べたけれど、シンプルなのに奥深い味で、お店によって出汁が少しずつ違って、飽きることは決してなかった。

たまに差し入れや著書を持っていく私に、年に1回、先生がマンゴーを送ってくれる。沖縄にいたときに知り合ったマンゴー農園にお願いするから、安くて、そしてほんとうにおいしいんだよ、と笑顔で語っていた。
確かにそのマンゴーはとても甘くて、濃い味がして、大切な宝物みたいに箱に入っている。

近所にものすごく腕の良いタイ料理シェフがいる。どのくらいおいしいかというと、スパイスはちゃんと効いているのにあまりにも優しい味だから、高熱を出しているときでもその人の作ったパッタイやガパオライスならば食べられるというくらい。それってすごいことだ。
寝込んでいて自分でごはんを作れないときは、いつでも彼女のお店からお弁当をテイクアウトしてきてもらう。
今や風邪をひいて弱っていると、反射的に彼女の野菜がたくさんのスパイシーな味が浮かんでくるほど。
彼女のお店は彼女の小宇宙。その小さなキッチンで自由自在に作られる料理の奇跡を長い間見続けてきた。
普通の食材が彼女の魔法にかかると、急に色とりどりで生き生きとした一皿になる。
栄養満点な味わいなだけではなく、じわっと元気が湧いてくるのがわかる。

あの日は夫がなかなか日本では売っていない巨大な骨つきラムをスーパーで見つけ、食べたいというのであばら骨を切り離してくれいと頼んだのじゃい(夫は身体教育が仕事なので、骨と肉を実にうまく切り離します 笑)! 
ピロチくんの嫌いな牛の塊肉はオレがひとりで味つけしてミディアムレアで焼いたのじゃい! そしてアシスタントのいっちゃんはなんとお好み焼き屋で働いていたプロなので、そこは全て任せたのじゃい!

オレは少し遅れてお鮨屋さんに到着した。
友だちたちはもうすっかりできあがっていて、その日来ていた後輩はヒラメのえんがわを初めて食べた、おいしいおいしいとおかわりしていた。

たどりつくといつも友だちのお母さんが猛然とごはんを作り始めて、みんなでできあがるのを待つ。串揚げの材料をみんなで串に刺した楽しい思い出もある。フライヤーでどんどん揚げて、どんどん食べて、たくさん笑って、「お先に失礼」とお父さんはちょっと苦しそうに寝室に上がっていった。
(中略)
朝起きたら、お母さんがあのバターたっぷりのオムレツを作ってくれる。そう思うと、生まれて初めて味わう「お母さんのごはん」(私の母は料理をしない人だったので)の幸せに涙が出そうになった。
みんな宵っ張りだから朝も遅くて、ちょうどみんなが目覚める頃にお母さんが卵をかき混ぜる男がその小さなおうちに響き始めたものだった。

吉本ばなな著『人生の旅をゆく 4』より