本書では、氏が考えるところの優れた編集者が減っていること、オンライン媒体や電子書籍で作家が直販できるシステムの勃興について書かれたところが面白かった。
それ以外はたかられたという話ばっかり(というのは言い過ぎだが、2、3回も出てくるとそういう印象になる)。
父がエッセイの中でかっぱえびせんのことを書いたら、
カルビーからひと箱のかっぱえびせんが送られてきたことがあった。
もうかなり晩年に近づいていた父にとって、それはほんとうに嬉しいことだったのだと思う。
喜んで部屋に置いて、こつこつと食べていた。
歯が悪くなっていて、さくさくと食べられなかったのだと思うけれど、時間をかけてしみじみと食べていた背中を覚えている。
「おう、まほちゃん、これをひと袋やるよ」
とくれたこともある。なんだかすごく嬉しかった。大切なものを分けてくれるなんて。
もう自分で歩いて買いに行けないのだから、人にあげたくなんかないはずなのに。あのうまみは、ゆかりにも出せないし、東京駅のカルビーで売っている高級なえび
せんでもだめなのだ。私がどうしても忘れることができない父の味は、ふたつある。
ひとつは豚肉と白菜とにんじんの鍋だ。
白菜はかなり思い切って芯のところまで入っているし、にんじんが想像以上に分厚く切ってある。私は勇気がなくてあんなに厚く切れないし、輪切りじゃなくて縦なところも不思議だ。豚はバラではなく多分もも肉だったと思う。これを、私はついぽん酢で食べてしまうのだが、そうではないのだ。
父のバージョンではすりおろし玉ねぎとしょうゆのみにて食べるのである。それが異様にあとをひくおいしさなのだ。
もともとおいしいと思っていたのかどうかさえ覚えていない。あまりにも昔からくりかえし出るメニューなので、刷り込まれてしまっている。
翌日にその残りをみそ汁にしたものが確実に出てくるのだが、それがまたものすごくおいしい。冬の幸せだった。
でも、自分で作るとついみそを控えめにしてしまう。
だから二度と再現できないのだった。
もうひとつは、バターロール(高いやつでは決して再現できない)の中に、思い切りバターをはさんで(塗るのではない)、さらにチーズ(ごくふつうのプロセスチーズ)、コンビーフ、レタスを挟んで、それをアルミホイルに包んでオーブンで焼くというものだ。
これは禁断のおいしさなのだが、もうあらゆる意味でほとんど溶けそうなくらいの油なのである。
自分で作るとつい、レタスを増やしたり、バターを薄く塗ったり、パルミジャーノを挟んだりしておいしくしてしまう。
しかし違うのだ。それをしたら消えていくなにか、多分時代に深く関係があるなにかがあるのだろう。
添加物いっぱいでも、油ぎらぎらでも、化学調味料をぎっちりかけてあっても全く気にならずに、ふつうに飲むようにそれらを食べていた時代。ポテトチップスはひと袋すぐにあけ、サイダーは際限なく飲み、買ってきたお菓子はふつうにその日のうちに食べ切ってしまう、そんなことがあたりまえだった頃。お母さんが大量の串揚げの準備をしてくれたり、みんなで餃子を包んだりして、さあごはんを食べようという感じになるときも幸せだった。
料理上手な奥さまが凝ったカレーを出してくれました。
窓の外は海、とてもおいしいカレーやサラダ、すてきなマンションの部屋。
すばらしい生活ですね、と若い私と友だちは、はしゃいで言いました。高校のとき、いつも遊びに行っていた洋子ちゃんのお母さんが、まるで料理本のお手本みたいなシンプルなたらこスパゲティをよく作ってくれました。
夕方五時くらいになると、なにもお願いしてなくても黙って出てきちゃうんです。
なんの工夫も特になくて、バターとたらことカットレモンだけなんだけれど、絶妙な塩加減で、幸せでした。
でも、なによりもあの、お母さんの笑顔が嬉しかったんだと思います。
おいしいと思って食べてくれてありがとうね、という笑顔が。
ごちそうさまでした、と言って、チャリンコで帰りました。
(中略)
あれ以上少しでも凝ったお料理だったら、私も親も、手土産とかお中元だとかお歳暮だとか、そういう世界に突入したように思います。もちろん多少はお返ししていましたが、自然な形でした。
まるでおやつみたいに常備してあるあの味が、全員をむりなく幸せにしてくれていて、私は今もああいうさりげないたらこスパゲティをうまく作ることができないんです。近所のおばあちゃんは毎年、たくさんのおいなりさんをお正月に作ってくれた。
私は毎年それを楽しみにしていた。
昔ながらの江戸っ子好みの甘い味で煮た油揚げと、酢が利きすぎていない優しい酢飯。
それはちょうど、父が大好きだった谷中銀座のいなりずしやさんで売っていたものによく似ていた。
味も、大きさも。
父がそのお店に寄って、おやつを買うみたいに嬉しそうに、おいなりさんとかんぴょうののり巻きを買う場面をよく覚えている。
何個でも食べることができる素朴な味だった。おばあちゃんちでいただいてきたいろんなもの。
やっぱりそれは食べたいからではなかった。お腹が減ってるからではなかった。
おいなりさん目当てじゃなかった。
会いたかったのだ。
おばあちゃんのおいなりさんは、食べ物というより、かけてくれた時間とか、エネルギーとか、そういうものをいただいていたのだった。朝はゆっくり起きて、風邪ひきさんの彼の胃のために近所のそば屋でそば。
天気が良く暖かければ、マルシェでパンとかハムとかちょっと買ってベンチで食べる。そして同じおいしいジェラート屋に行く。
(中略)
それからお決まりの席のできたカフェに行って、テラス席に座り、私はワインかスペインのビール、子どもはジュースかペリエで生ハム。
夜は友だちとごはん、あるいはふたりでその辺の安いアジア料理へ。パト・ド・フリュイが好きな息子は、あちこちのお店でちょっとずつそのお菓子を買って、ちょびちょび食べ比べていた。
(中略)
だんだんカフェでのオーダーにも慣れてきて、手切りの生ハムと機械切りの生ハムを食べ比べてみたり。これは父方の親戚の話だが、いとことその息子が、新宿駅をいっしょに利用するとき、いつも行くお寿司屋さんがあって、規定のお金を払って残しさえしなければ、食べ放題だそうなのだ。オーダーは六貫単位で、同じものを六貫でもいいと。
「ふたりで百貫くらい食べたんだけど、最後に頼もうって言って、まぐろとえんがわを三貫ずつ頼んだんだけど、横を見たらこの子がなんかうつろになってて、もう食べられないかもっていうから、なんだかかわいそうになっちゃって。炭水化物は控えているんだけど(聞いてると全く控えてる気がしないんだが)、よし、がんばろうと思って、最後まで食べたのよ~」高校生の子どもと一緒に、夜中の2時にマックのポテト(深夜に買ってきた)など食べていると、自分が何歳なのかすぐわからなくなる。
そうか、あの日、泊めてもらっていたピロココのおうちで、かなり夜遅くにみんなで餃子を食べたときなんかに、あの家のお父さんとお母さんはきっと、この気持ちを味わっていたんだなと思う。そう思えた瞬間から、いきなりひとりお昼ごはんのポーク卵を完璧に作れるようになった。
卵のベタッとした感じがどうしてもできず、オムレツみたいになっちゃって下手だったんだけれど。
そんな形で恩恵を受けるなんて思わなかった。
近所にまだ沖縄そば屋があった頃、おじさんがほんとうにてきとうにベタッと作るポーク卵を作る手順のさくさく感が、さくさくにしようとすればするほどできなくて、ちょっと放っておくとか、ポークの脂に手伝ってもらうとか、理屈でいうとそんな感じ。
でもそれだけじゃない。
イメージだけして、さささっと。
ポーク卵とあまったごはんのランチ。
やがて夜にも好評な、冷蔵庫に卵以外なにもないときのふつうのメニューになった。
イメージすることがいちばん大切だったのだ。あとは遊び心が。
吉本ばなな著『新しい考え どくだみちゃんとふしばな6』より