自作の映画化作品を評価していないことをはっきりと書いているのが興味深かった。どうしても『セクシー田中さん』を思い出すよね。クリエイター同士として、エッセンスが汲み取られないのはやり切れないだろうと思う。
いろんな監督に映画化してもらったけれど、撮ってしまうと必ず「ちょっといい話」「で、だからどうした?」という映画になる。
若木(信吾)監督の「白河夜船」だけが私のよくわからない底知れなさに迫っていたが、あとはみんな、あの偉大な森田(芳光)監督や市川(準)監督さえ、しくじっていた。
私は実は「ちょっといい話」を一回も書いたことがない。
(中略)
監督や脚本のみなさんはとてもよい人たちだったのでこんなこと書くのはとても悪いのだが、あれだけのカス映画はなかなか作れないというくらいひどく、やけどの設定抜きにしていいですか? とか、おばあちゃんが死んだエピソード抜いていいですか? とかレズのからみを入れてもいいですか? とか言われたときには、じゃ、違う話なんで、原作と書かないでくれと素直に言った。そうしたらわけのわからないままに私のクレームだけが生きて、いっそう収拾のつかない内容になっていた。
(中略)
これからは自分が脚本でなかったら(湯浅<政明>監督のアニメ化以外は......彼にならもう何をしてもらってもいい)、もう映画化を許可しないようにしようと思う。脚本家というのは脚本のプロなんだから、まかせたほうがいいんだろうなと長年思ってきて、やっぱりそんなことなかったんだな、と最近気づいた。調子に乗って言ってるだけで脚本書いたことないくせに、とみんなに言われるのだが、少なくともマシには書けるな、と心から思う。謙遜してる場合じゃなかった。
ところでこの方、言葉を商売道具にしているわりには頻繁に地の文で「レズ」と言っていて鈍感。それも女性同士で仲が良いことを説明する文脈で「レズではないが...」とか、何度も書いてる。最低。
きちんとした服で気合を入れて行く高級鮨屋も、ひとりふらりと夕方の回転ずしでビールを飲んでちょっとつまむサーモンやツナ巻きなども、楽しみ方が違うけどすごく楽しい、どっちがいいなんて野暮なことは言わないわ、と同じような感じでね。
ごはんの内容は昔よりも若干創作料理寄りにはなっていたけれど、ちょうどよい量でなおかつ地元のものを使ってしっかり組み立てられていた。
むしろ現代では好もしい流れであった。お米の炊き加減も絶妙で、そうとう工夫しているということがよくわかった。おばあちゃんの気持ちは感謝と食べもののふたつに集約されていました。
お花を見せたら、おいしそうねえ! と言っていました。
なにもかもに対する感謝と、お茶やコーヒーが飲みたい、お魚が食べたい、パンが食べたい。そんな気持ちだけが残ったおばあちゃん。
自分の身内だったら、思い切ってはちみつやジャムをなめさせたり(親にはやっちゃいました、とても喜んでいた)、お水をスポイトでちょっとずつ飲ませたり、しちゃうんですけれど、さすがによそんちのおばあちゃんにはできないよなあ。
施設の人を呼んで、まずそうなとろみつきの何かを飲ませてもらったら、おばあちゃんは、
「ありがとうございました。おいしいです」と大声で言っていました。母は、若い頃結核になりきつい闘病生活をしたり、栄養をつけるために食べろと言われて食べたくないものを食べさせられて、食べるということが大嫌いになっていたのだが、晩年ボケてからはおまんじゅうだのだんごだの、酢豚だのサンドイッチだの、がんがん食べていた。元気だったときにはありえないことだ。
若い人はたいていとんでもないものを食べています。古い油で揚げたチキンとか、ただ辛いだけのラーメンとか、なんでもかんでも入れたチゲとか。
でも、底には必ず実家の味がある。だから不健康なものを食べても大丈夫。人の情が唯一のトーチカとなって、手を温める。ソルロンタンの汁のように、トッポギの赤のように。
その物件を内見する前、喉が渇いたので、コーヒー屋のお姉さんのお店でアイスコーヒーを買った。
お姉さんに「これから内見なんです」と言ったら、「いい物件でありますように」と言ってくれた。
不動産屋さんのお姉さんといっしょに、その部屋に行って、部屋のあちこちを見ながらアイスコーヒーを飲んだ。 窓からは雨に煙る駅と陸橋が見えた。
たたみの部屋に湿った風が抜けていった。
ここでこれから仕事するのか、としみじみとしながら飲んだアイスコーヒーはとてもおいしかった。
結局だめになったので、もう私は二度とあの部屋からの景色を見ることはない。
すごく不思議な気分だ。
あの日のアイスコーヒーの味だけが、汗をかいたプラスチックカップの冷たさだけが、残っている。テニスを終えたふたりと食堂に行って魚の定食を食べたり。
港のそばの市場で魚を買って焼いたり。港に船が着いて、観光客が降りてくる。
港には海鮮料理のお店が並んでいる。
貝や、蒸した魚や、ゆでた海老を、手を使ってたいらげる人たちの賑わい。
明かりが海にゆらゆらと映って、どこか感傷的な感じがする。まだバリバリに築地が市場だったから、病室にピロココちゃんが場外市場で「牛丼とカレーのあいがけ」を買ってきてくれた。
病人なのに、もりもり食べた。前にここに来たときは、小さい男の子といっしょだった。今私の右手は誰にもつながれていない。ここでウニやピザばかりを食べたがったあの子はどこにもいない。
目の前には冷え冷えのスパークリングワイン。
この世にこんなおいしい飲みものはないくらいおいしい。光を飲んでいるようだ。二十代の終わりにパンを作っていたときは、全粒粉ではなくて、ふわふわの白いパンばかり作っていた。
全粒粉のしみじみしたおいしさがわからなかったみたいだ。
そして気持ちがいつもあせっていたから、ふわふわなだけで、なんだか豊かじゃないパンができていた。
忙しさは昔よりも増しているのに、今はじっと見ている。ふくらむところを。
(中略)
全粒粉だからふくらまなくって、ぺったりしていて、ぎっしりしていて、味もそっけもないんだけれど、そしてプロじゃないからへたなんだけれど、それでもかわいいパン。そして彼はひたすらにパンケーキを焼いてくれた。確かにおいしかった。
テーブルのセッティングもかわいくて、いかにも女性が好みそうな雰囲気。
吉本ばなな著『気づきの先へ どくだみちゃんとふしばな7』より