たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

トリップとプリンとハンバーグ『キッチン常夜灯』(2)

このシリーズ、今月3冊目の新刊が出るらしい。密林を眺めていると似たような小説が無数にあることに気づくけれど、キッチン常夜灯には常連がついたのだろう、何より何より。

「……出してきたか」
「私の気持ちです」
「そのわりに重いだろ。次はもっと軽い料理にしろ」
シェフは私のほうを見て小さく笑った。
「バスク風のパテ。豚のレバーと豚挽肉。キントア豚の背脂を使いました。昔から、私の料理は大切な人を思いながら作る料理ですから」
どうあっても監物さんに肝臓を食べさせたいらしい。
(中略)
「ありがたくいただくよ。毎回、毎回、私の体を気遣った 美味い料理を出してくれる。それに内臓は嫌いではない。何せ、体の真ん中、一番大切な部分だ。そこを 美味しくいただかせてくれて感謝するよ」
監物さんはパテを切り分けると、さりげなく大きいほうを私の皿に置き、こっそりと片目をつぶって見せた。
それを見て見ぬふりをしながら、城崎シェフも言った。
「奇遇ですね。私も内臓料理が好きなんです。フランスには驚くほどたくさんの内臓を使った料理があります。私が修業したバスクもそうですが、羊や牛の放牧が古くから生活に根づいている。内臓や血液まで余すところなく使い、なおかつ美味しい料理に仕上げる。それに内臓はどれも時間をかけて丁寧に仕込まなければ臭みが残ってしまう。丁寧に、丁寧に食材に向き合う時間が好きなんです。何かに集中することは、時に無心になり、時に別のことをじっくりと考えることもある。いいものですよ」

バスク風パテを食べ終え、グラスのワインを飲み干すと、私は「ご馳走様でした」と席を立った。
「みもざさん、お腹いっぱいになりましたか」
まだほんのり赤い顔のシェフが、料理をすべて監物さんとシェアした私を心配してくれた。
「はい、今日は何だか胸がいっぱいです。それにワインのせいか頭がふわふわするんです」

私は用意した材料をテーブルに並べた。鰹節と昆布。そしてワカメとネギと豆腐。休憩時間に店を抜け出して買っておいたものだ。
昆布を鍋の水に浸けている間にシャワーを済ませ、髪を乾かしてから火にかけた。
スマホで合わせ出汁の取り方は検索済みだ。沸騰する前に昆布を取り出すのだと、菜箸を構えて鍋の中を見守る。鍋の底がフツフツしてきた気がして、昆布を取り出した私は、今度は鰹節を投入した。こちらも、グツグツと激しく沸騰させないように、でも煮立たせる。しだいに出汁の香りが濃くなっていく。
「ああ、いい匂い」
思わず声が出た。間違いなく自分の手で作り出した幸せの香りだ。
(中略)
自分で取った出汁は、とても美しかった。
鍋に戻し、蓋をする。まだ寒い時期だから、朝までこのままで平気だろう。
私は台所の明かりを消し、静かに三階の部屋に戻った。
ベッドの中で金田さんの笑顔を思い浮かべた。
夜が明けたら、私はあの出汁で金田さんに味噌汁を作るのだ。
台所いっぱいに広がった味噌汁の香りに、金田さんはどんな顔をするだろうか。

「今夜のスープは何ですか」
「オニオングラタンスープをご用意しています。いかがですか」
「お願いします」
今夜のように冷え切った夜にぴったりのスープだ。
シェフも奈々子さんに温まってもらいたくて、このレシピを選んだに違いない。
それなのに。

ぼんやりとした思考は、厨房から漂ってくる香ばしい香りに寸断された。
「美味しそうな匂い……」
「お待たせいたしました」
シェフがフツフツと湯気を上げるキャセロールを目の前に置いた。こんがりと焼き色のついたチーズが表面をすっかり覆っている。
気を取り直して私はスプーンを握った。奈々子さんを思ってスープを用意したシェフのためにも、美味しくいただかねばと思った。
「美味しそう。どこにスプーンを入れたらいいんですか」
「お好きな場所に」
私はキャセロールの縁に沿ってスプーンを入れた。焼けたチーズを破るような手ごたえの後、すんなりとスプーンは沈んだ。チーズの下のバゲットはすっかりスープを吸っていて、浮いた縁の部分だけはチーズと一緒にカリカリになっている。チーズの蓋が破けた場所から、丁寧に炒めたタマネギの甘く、ほろ苦い香りが立ち上った。
「うわ、食べる前からすでに美味しいです!」
さすがのシェフも耐え切れずに笑った。
「シェフのオニグラ、今日みたいに寒い夜は大人気なのよ」
熱々のスープも、蕩けるほど熱の入ったタマネギも、冷えた体に沁みるようだった。バゲットの上のグリュイエールチーズは厚みがあり、しっかりとした食感と濃厚な旨みが、スープの味わいにさらに深みを持たせている。
「このスープとサラダだけあればもう十分って感じです」
(中略)
「みもざさん、お料理、まだ食べられますか」
「え? ええ」
「トリップ、いかがですか」
「え?」
「トリップです。牛の胃を豚足と一緒にシードルやカルヴァドスで煮込みました。寒い日の定番料理です」
「牛の胃、豚足……」
また内臓料理がきた。シェフも内臓を調理するのが好きなようだが、それ以上に何かと丁寧に向き合って、じっくり考えたいことがあったからではないのか。奈々子さんのことだろうか。
「トリップ、お願いします」
私は勧められた料理を注文した。考えてみれば、イタリア料理店でトリッパを食べたことがある。こうして、普段食べ慣れないものを食べられるのもこういうお店での楽しみだ。
トリップを待つ間、立て続けに二組のお客さんが入ってきた。どちらも寒そうに顔をこわばらせている。
「温かい料理、何がお勧め?」
「今夜はオニオングラタンスープがありますよ。煮込み料理はトリップがお勧めです」
「いいね。じゃあ、両方もらおうか」
(中略)
イタリアンで食べたようなトマト煮込みをイメージしていたが、シェフのトリップは違った。そういえば、シードルやカルヴァドスで煮込んだと言っていた。見た目はインパクトがあるが、嚙むとぎゅっと美味しいスープが溢れてくる。ハーブが効いていて、臭みもまったくない。
内臓というと、つい嚙みしめなければならない気がするが、けっしてそんなことはない。時間をかけて煮込んだせいか、プリプリとしてやわらかい。添えられたジャガイモやニンジンなどの野菜もすっかり味がしみてほくほくと美味しい。

「お待たせしました。ホワイトアスパラのポタージュです」
「ホワイトアスパラ。そっか、もう春ですもんね」
「みもざちゃんが働いている間にすっかり春よ」
「そういえば、倉庫の玄関先にもミモザの木が植わっているんです。今、ちょうど満開なんですよ」
「まぁ、素敵ね」
オリーブオイルが回しかけられた真っ白なポタージュにスプーンを入れた。重い。スプーンの感覚でわかる。とても濃厚なスープだ。
口に入れてますますそれを実感した。ホワイトアスパラの味が口いっぱいに広がる。わずかなえぐみが、アスパラの新鮮さを物語っている。
「美味しい。私、ホワイトアスパラが大好きなんです。実家の家庭菜園にあったヒョロヒョロのアスパラを見慣れているせいか、太いし、きれいだし、アスパラの女王様って感じがするんですよね」
(中略)
私は大切に、大切にスープを飲んだ。奈々子さんにも食べさせたかったなと思った。その間に、今度はチーズの焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。
「シェフ、今度は何を出してくれるんですか」
「タラのグラタンです」
「へえ、タラのグラタンですか」
「タラとアンディーブのミルク煮に、グリュイエールチーズを載せてオーブンに入れます」
「アンディーブ?」
「チコリーのことです」
弾力のあるチーズの下に、シェフの言うとおりクタクタになったアンディーブがあった。ナイフで切り分け、熱々を口に入れる。じゅわぁとタラの風味とミルクの甘み、それから隠し味のように加えられた刻んだソーセージの味が口の中いっぱいに広がった。

肉の加工品から美味しい出汁が出ることを、この店に通うようになってすっかり覚えた。ほろっと崩れるタラの身、そしてこちらも旨みが沁み込んですっかりやわらかくなった白インゲン豆。
「いいですね。グラタンといっても、ベシャメルソースではなく、ミルク煮にチーズを載せて焼いているから、重くなりすぎない。とっても優しい味です」
「夜中のお料理ですから」
「少し、バゲットをいただけますか」
「温めますね」
しばらくしてオーブンで温めたバゲットを持ってきたシェフは私を見て言った。
「よかった。顔色が良くなりました」

「トリップ。牛の胃の煮込みが食べたいんです。メニューにありますか」
「ございます」
シェフの声に困惑の色が滲んだ。スープ以外の注文に明らかに戸惑っている。
それに気づいたように、奈々子さんは言った。
「もうスープはいいんです」
「奈々子さん?」
「ごめんなさい。シェフのスープはいつも優しくて、 美味しくて、私の体を温めてくれました。私はカウンターの奥でスープを飲みながら、ずっとシェフや千花さん、お客さんの会話を聞いていた。スープ以外の料理も、どれもとても美味しそうでした。出てきた料理をここから眺めるたびに、ああ、夫も好きそうだなとか、食べさせてあげたいなとか、終いには、ここで並んで食事をする自分たちの姿まで思い浮かべていました。こんな素敵なお店に二人で通いたかった......」
(中略)
「シェフ、私もトリップください。私も奈々子さんと一緒に、食べつくしてやります」
「かしこまりました」
シェフは厳かに頷くと、すぐに調理に取りかかった。
しっかり味の染みたトリップを、私と奈々子さんは無言で嚙みしめた。
嚙み砕いて、粉々にして飲み込んだ。しかし、それはシェフの料理をより一層丁寧に味わうことと同じだった。内臓料理は手がかかる。シェフが時間をかけて仕込んだ牛の胃の料理を、私たちもたっぷりと時間をかけて、自分たちの体に取り込んだ。
無言で料理を食べつづける私たちを、シェフは黙って見守っていた。
堤さんもそっとしておいてくれた。
奈々子さんは、時折洟をすすりながら、お皿が空になるまでトリップを食べつづけた。
「常夜灯」の料理は、一皿の量がわりと多い。いつもは物静かにスープをすする菜々子さんが、果たしてトリップを食べきることができるのかと思ったが、彼女はひとかけらも残さず、細い体に取り込んでいった。その姿はとても力強く見えた。
すでにスープを飲み、タラのグラタンを食べていた私も、負けられないと思った。

彼女の前には、スープ皿ではなく細いグラスが置かれていた。
「何を飲んでいるんですか」
「ミモザですって。甘いお酒が飲みたいって言ったら、堤さんが作ってくれたの」
「ああ、いいですね。堤さん、私も」
ミモザはシャンパンとオレンジジュースのカクテルで、鮮やかなオレンジ色が見た目にも美しい。華やかな香りと甘い味わいが、一日の疲れをふっと遠くへ押しやってくれた。

彼女たちの前には、受け皿の上に小ぶりの耐熱皿が載っている。店内に漂う濃厚なミルクの香りに、先日食べたタラとアンディーブのグラタンだとわかった。シェフが働いた、バスク地方のレストランでも人気だったという料理だ。

「アミューズはピンチョス風にしたイワシのマリネ、スープは、エスプレッソ用の小さなカップで三種類でした。コンソメ、ホワイトアスパラのポタージュ、ガルビュール。前菜は鮮やかな春野菜のテリーヌ……」
「そして、今はお魚料理、タラのグラタンですね。私、先日いただいたんです。すごく美味しかった」

「あら、じゃあ、私も今夜いただこうかな」
「私は春野菜のテリーヌが食べたいです。あと、ガルビュールも」
「いいですね。ガルビュール、本当に美味しかった。シェフ、わざわざ毎日違うスープを用意してくれていたんですよね。希望の見えない私の日々に、楽しみを与えてくれたんです。でも……」
奈々子さんは顔を上げて、厨房のシェフを見つめた。
「これからは、もっといろんなシェフのお料理を食べたい……」
「みんな美味しくて、ここに通うのが、ますます楽しみになりますよ」

「ねぇ、シェフ。これ、チコリーでしょう。こうやってグラタンにするのは、現地では当たり前なの?」  不意に、母親がシェフに質問をした。
(中略)
「……フランスでは冬の定番料理です。アンディーブのほろ苦さと、ソーセージやバター、チーズの塩気がよく合います」
「確かにそうね。サラダくらいしか発想がなかったわ。ありがとう、美味しいわ」
彼女はにっこりと微笑む。
シェフの表情もほっとしているように見えた。
お肉料理は、仔羊モモ肉のローストだった。きっとやわらかく、食べやすい料理を選んだのだろう。ハーブソースの爽やかなタイムの香りがここまで漂ってきた。
「いい匂い。私たちもそろそろ注文しましょうか」 
奈々子さんが言い、私たちは堤さんを呼んだ。
野菜のテリーヌふたつと、奈々子さんはタラのグラタン、私はガルビュールとバゲット。

シェフが皿を持って母親の前に来た。いよいよデセールである。
「お待たせいたしました。クレームカラメルです」
クレームカラメル! プリンだ!
カウンターに置かれた少し深めの皿。たっぷりのカラメルソースの中にケーキのように切り分けられたプリンが浮いている。
「横に添えているのは胡桃のジェラートです」
「まぁ……」
シェフの母親はじっとプリンを見つめていた。
「……覚えていますか」
「もちろん、覚えているわよ」
「あなたが、唯一食べてくれた私の料理です」
(中略)
「それから数年後よ。深夜に帰ったら、冷蔵庫にプリンが入っていたの。お菓子は初めてだった。あまりにも 美味しそうで、ペロリとふたつも食べちゃったのよ」
「……朝起きたら、あなたはもう家を出た後だった。てっきり帰っていないのかと思いましたが、プリンがなくなっていた。しかもふたつも。美味しかったんだなって、私はとても嬉しかった。家庭科の調理実習で教わりました。それで、あなたにも食べさせたいと思ったんです。甘い物なら夜中でも食べやすいのではないかと」

「そうですね、朝になればお味噌汁ですもんね」
「そう。愛情たっぷりの味噌汁です」
「具は」
「今朝はイワシのつみれ汁です」
きっとアミューズのマリネのために仕入れたイワシで作ったのだろう。
「美味しそう。私、朝までいます!」

厨房を見ると、シェフがオーブンを開けていた。ベシャメルソースのクリーミーでコクのある香りが漂ってくる。
「金田さん、私、シェフにお願いしておきましたよ。また食べたいって言っていたでしょう?」
「え?」
「お待たせいたしました。帆立貝のコキールグラタンです」
「あっ」
「今夜は特別大きな帆立が手に入りました。熱いうちにどうぞ」
シェフに促され、金田さんは真っ白なソースにスプーンを入れた。
「うわ、本当だ。真ん中に大きな帆立がそのまま入っている。昔食べたものよりすごいよ」
感激した金田さんを見て、シェフの口元が綻ぶ。
「きっと、ナイフを使ったほうが食べやすいかと思います」
次は私の料理だ。
「みもざさんには、ハンバーグステーキを」
「……すみません、ハンバーグが食べたいなんて言って。どうしてもシェフが作るビストロメニューのハンバーグが食べてみたかったんです」
そして「シリウス」のハンバーグと比べてみたかった。本当はドリアでも、グラタンでもよかった。もちろん使っている素材が違う。だけど「本物」の味を知ることで、目指す味を見つけることができそうな気がした。
(中略)
「ハンバーグが焼けました」
「いただきます!」
つやつやと輝くデミグラスソースがたっぷりかかった厚みのあるハンバーグに、私はさっそくナイフを入れた。澄んだ肉汁が 溢れ、口に入れるとふっくらとやわらかい。てっきり牛肉百パーセントのハンバーグが出てくるのかと思っていたが合い挽肉だ。
「牛肉百パーセントを謳うのなら別ですが、ハンバーグはジューシーなほうが好まれます。それには合い挽肉がいい。きっとみもざさんの店のパテもそうでしょう?」
「そうです」

長月天音著『キッチン常夜灯』より