たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ソルロンタンとバゲット『骨が折れた日々』

あいかわらず、頻繁にたかられているようだ。SNSなどで多少なりとも連絡先を公開している有名人はこういうもんなのだろうか。

御母堂の葬儀の日にフラダンス仲間との間に起きたこと、エグいね。で、離れる選択肢があるのは多分幸運だ。自分の価値はツレ5人の平均というから、合わないと思ったらさっさとそこから抜け出さないとね...。

大好きだった100歳近いおじいさんがまたひとりあちらの世界に行ってしまった。
信じられないくらいおいしいコーヒーをいれてくれる人だった。
しかも毎回4杯分くらいいれてくれて、ひとりでみんな飲まないと拗ねるので帰りはいつもおなかがガボガボだった。

奄美に島尾ミホさんを訪ねたとき、ミホさんはビール瓶を6本くらいいっぺんにガタガタいわせながら持っていらして、さらにおみやげにと奄美の焼酎の一升瓶をひとり1本どうぞとくださって、この規模は昭和のものだなあとしみじみありがたく懐かしく思ったものでした。
商店に行けば、肉は竹の皮と紙で包まれてきたし、野菜はむき出しで自分が持っていった買い物かご(よくサザエさんが持ってるやつ)に入れていました。
そう、私の世代は実はエコな時代を普通に知ってるのです。

韓国で深夜ソルロンタンを食べに行ったら、24時間営業の肉屋が併設されていて、ショウウインドウの中には煌々と照らされたいろんな部位の肉たちが並んでいた。
赤身とホルモンの鮮度が見事だった。

近所の居酒屋に行く。そう、私はオムライスが好き。しかも高い洋食屋さんのでもなく、ふんわり卵をスプーンでパカと割るととろーんとなるやつでもなく、中華料理屋のケチャップドロドロのが。
そこにはそれがあるのだ!

子どもが小さいときから長年お世話になっている「まる竹」さんが閉まるというのであわててランチに行く。ここのおつまみ、お酒、お蕎麦はあらゆる意味で理想的であった。ピリ辛のこんにゃくとか大根もちとかとり天とか最高だった。

「VIRON」というフランスの小麦を使ったパンのおいしい店でバゲットを買うと、注意書きがついてくる。
湿気の多い日本では分単位で劣化していくから、こうするとフランス本場の味が保てるよ、というような内容だ。
ほんとうにそうなのだ。
だから日本人による日本人向けのバゲットは、初めから日本向けの味に作られていて、それはそれでおいしい。
でも、あの、歯が折れそうなのにもちろん折れないしおいしい、パリで食べるバゲットのすばらしさは決して再現できないと思う。

でも、あの、歯が折れそうなのにもちろん折れないしおいしい、パリで食べるバゲットのすばらしさは決して再現できないと思う。
単にバターとハムとチーズが挟んであるだけなのに、永遠に食べ続けられそうな魔法がある。
そこには湿気は入る余地がない。全部が乾いていて、人が何回も嚙み締めないと湿り気は生まれない。
ちょうど精米したてを炊いた炊き立ての米粒が立ったつやつやのごはんを、他の国では再現できないのと同じだと思う。
ある夜、メニューにあった、バゲットにチーズを挟んだシンプルサンドイッチというものを注文してみた。それなりに名の通った、アメリカ資本のレストランで。
そうしたらよく焼きのパニーニが出てきた。
あんなに悲しいことはない。パニーニと書いてくれたら、頼みやしないのに。
火が通ってなくて、湿ってなくて、パリパリしていて、硬い。
それがバゲットサンドだってば。
パリの、変な色の空。
乾きすぎていて心まで乾いてきそうな空気。
その中で、隣と距離がない狭い席に座って、あるいは歩きながら、ちょっとうす暗い気持ちになって、もりもり、バリバリと食べるバゲットサンドでないと、魔法は生まれないのだ。

その後、その希望に似た気持ちを抱いたままで、ウェスティンのラウンジで人待ちをしながらビールとポテトを楽しみ、「ちょろり」に言って爆食いする。どんな台湾料理店よりなぜか台湾を感じるあの店よ。
帰ってから、ポテト→餃子→腸詰め→チャーハン→ラーメン→申し訳程度のもやしと書き出してみて、ううむ、すごいな、と思い、松葉茶など飲んで罪悪感を消してみたり。

私は台湾のジーパイ(鶏肉を開いて叩いて揚げたもの)が好きなのだが、胸肉でしかもからりとしてないと全然好きではない。
某デパートの地下に専門店があったので、喜んで買ったら、見た目がどう考えてももも肉。そして肉につける下味が濃すぎてあるいは漬けすぎて、しょっぱいし肉が中まで黒い。さらに衣がぐじゃぐじゃで、食べているはじから崩れる上に、揚げ方がよくないので油が重くて具合が悪くなった。

吉本ばなな著『骨が折れた日々 どくだみちゃんとふしばな11』

ロールキャベツとクリームコロッケ『イニシエーション・ラブ』

なぜ作家は舞台を80年代にしたのか考えている。
いちばん大きな違いはインターネットと電話だろうけど、単行本が出た2004年ならガラケー、一部がパソコン持ってる、でも若干ややこしくても話に支障ないよね。
タバコかなーとも思ったけど、日本だったらまだ飲食店でも吸えたときだよね。今でも日本に行くと目の前で喫煙されてカルチャーショックを受けることがあるし。
OHP作りで残業、は印象的だった。

ビールの当てにさんざんおでんやら焼きそばやらを食べていたので、空腹は感じなかった。

落ち着いたところで、「じゃあ、とりあえず、お疲れさま」と僕が言って、ストローを挿したドリンクのカップで乾杯の真似事をした。  成岡さんはアイスコーヒーをひと口飲んだところで、「あー、今更になっちゃったけど、ビアガーデンって手もありましたね」と言って微笑んだ。
(中略)
僕もコーラで喉を潤した。渇ききった喉に炭酸の刺激が心地よい。彼女と同じタイミングでストローに口をつけると、よりいっそう成岡さんの顔が間近に見えて、目が合うと彼女は愉快そうな、まるで悪戯っ子のような表情を見せる。
(中略)
「あ、とりあえず温かいうちに食べましょう」と彼女が言ったので、僕はバーガーとポテトに口をつけ始めた。

僕は生ビールの中ジョッキを注文したが、彼女は生レモンサワーというのを頼んでいた。半分に切ったレモンが絞り皿とともに出て来て、僕がそれを絞る役を仰せつかった。まずは乾杯を済ませ、それから料理を注文する。同じ側からメニューを覗き込んで、
「この金ギョーザっていうの、ちょっと食べてみたくない?」
「え、どれどれ?」
などと言葉を交わしていると、それだけで親密の度がさらに増したように思える。

今回は最初から金ギョーザのあるあの店(ジョルダンという店名だった)に行った。僕は生ビールで彼女は生レモンサワーと、ドリンクは前回と同じものを注文する。

「でね、今日は一軒目は、ちょっと冒険してみようかと思ってるんだけど──」
と彼女が提案してきたので、それに従うことにして、僕たちは今日は、いつものジョルダンではなく、青葉通り沿いのDADAというイタリア料理の店に入ることにした。
薄焼きのピザを二枚とパスタを一皿頼み、まずはビールで乾杯をした。一気にグラス半分ほどの量を飲み干した彼女は、「んー 美味しい」と目を閉じ、幸せそうな顔をして、鼻の下についた泡を舌先でペロリと舐めた。昨日から気温が少し下がり、秋の気配を感じるようになっていたが、彼女は本当に美味しそうにビールを飲む。

「で、何作ってる?」
「それは成岡家直伝のロールキャベツで、これはサラダ。ご飯はもう炊けてるから、お腹空いたんなら、すぐに食べれるようにするけど」
食欲は……どうなんだろう? いちおうお腹は空いていると思う。今朝はヨーグルトをひとつ食べたきりで、あとは考えてみれば今まで何も食べていないのだ。
「じゃあ、そろそろいただこうかな」と言って食膳を用意してもらった。「ビールは?」と聞くとあるというので一本だけ付けてもらう。テレビを点けるとNHKで阪神対広島という地味な野球放送をやっていた。
サラダとロールキャベツの他に、作り置きの煮物の皿なども出る。ご飯から湯気が上がっていることにまず感動した。ロールキャベツも美味しかったが、何より炊きたてのご飯がうまかった。
(中略)
幸せな気分に包まれたまま、一膳目を食べた。しかしすぐにお腹一杯になった。
「おかわりは?」
「うん。……いいや」
ロールキャベツがあと半分残っていて、これだけは食べておきたいと思うのだが、手を出そうとすると胸が苦しくなり、知らず溜息が出てしまう。諦めて箸を置き、代わりに缶ビールを取り上げた。これ以上はもう何も喉を通らないと思っていても、ビールなら喉を通るのはなぜだろう。

昼にはマユと一緒に車で出て、緑ヶ丘の「あさくま」で食事を取った。ステーキ肉は目には美味しそうに映るのに、喉をなかなか通ろうとはしてくれない。結局そこでも僕は食事を半分以上残してしまった。

冷房の効いた店内に入りお冷で喉を潤したところで、ようやくひと心地つく。
「ここのクリームコロッケが絶品なんだよ」
「じゃあそれにしようかな」
「でも中身がすんごい熱いから、気をつけて食べないと口の中を火傷するよ。上顎のこのあたりがベラベラになって」
(中略)
そこで注文していた料理が出来上がってきて、会話が一時中断する。その間に僕は態勢を立て直した。
「とりあえず食べましょう。……あ、それはまだ、たぶん熱くて食べられないと思うよ」
「どれぐらい熱いのか、ちょっとだけ」
「あ、でも、だから、ちょっとでも齧ると中身が出てきて──」
という僕の忠告を聞かずに、クリームコロッケをひと齧りした石丸さんは、「あっ、あふ、あはぁ」と悶絶し、慌ててコップの水を口にした。「あー、熱かった」
(中略)
それからしばらくの間は、二人とも無言のままで食事に集中していた。しかし僕がほぼ食べ終わったとき(彼女はまだクリームコロッケの熱さに難儀しており、半分も食べていなかったが)、石丸さんは再び話をし始めた。

乾くるみ著『イニシエーション・ラブ』より

キャロリン・ベセット=ケネディ、生焼け肉のバーガーを貪り食う "Once Upon a Time"

JFK Jr.にとってビッグマザーがめちゃくちゃ気を遣う偉大な存在だったのはわかるけど、キャロリンとレストランにデートに来たらジャッキーが食事をしていたので裏口から逃げた、ってひどいと思う。それだけで別れる理由として十分。(しかもジャッキーは気づいていて「あの子は私が盲目だとでも思ってるのか」と言ってたらしい笑)

嫉妬したのであろう匿名の誰かからキャロリンはビッチだ、と訴える誹謗中傷手紙が届いて、それをキャロリンの顔に投げつけて怒った、っていうのもヤバい人。

本書はキャロリンがマンハッタンを謳歌していたころに通っていたお店の名前や代々暮らしたアパートの番地が書いてあるのが興味深くて、何度も検索してしまった。
ペパーリッジファームに冷凍ケーキ商品もあるのは知らなかった。買ってみよう。

Carolyn, with her older twin sisters, Lisa and Lauren, had set the kitchen table with a bright multicolored tablecloth, perfect for the cake—lemon, Carolyn’s favorite. Surrounding the table were boxes upon boxes that Ann, the girls' mother, was still sealing as she found the candles and located the ice cream.

I remember her sisters smiling at us and helping us with snacks. Carolyn would make the most unusual flavor creations and insist I try them, too. One day we had cheese and crackers, and she held one aloft, adding a sprinkling of McCormick's lemon and pepper seasoning on top, one of her stranger concoctions. Or at least I thought it was strange until I tried it. It was too good.

High schoolers convened and shopped on Greenwich Avenue, at D.W. Rogers, a clothing store that helped bring your bags to your car; bought candy and greeting cards at Mads; and grabbed burgers and milkshakes at Neilsen's Ice Cream. Especially popular, though, was the beach at Tod's Point. The freedom to walk the avenue and meet with friends at the beach was exhilarating.

"We all got sodas and junk food from the concession stand, and by spring, it turned into proper beach days," Giorgi recalled. "Someone always blasted music from their car, usually classic rock. It was a sweet, innocent time."

Carolyn and Dana Gallo pushed their single beds together in their dorm room, laughing and longing as they ate Pepperidge Farm coconut layer cake straight from the box, sometimes barely defrosted.
(中略)
Many months and many cakes later—red velvet, chocolate, pineapple upside-down—the girls’ friendship was firmly cemented.

Sometimes the eyebrow was half humor and half threat. Noonan, in his book Forever Young: My Friendship with John F. Kennedy, Jr., recalled that once, while she was about to dig into a slice of pizza, Carolyn heard a colleague berating Narciso Rodriguez, a new young designer for the women's collection, from behind one of the screens during a fitting. Carolyn stepped into the area of the scuffle. She looked at the pizza in her hand. She looked at the face of Narciso's attacker. She looked at pizza. Then, raising that right eyebrow, looked back at the attacker. Did this person want to stop berating her dear friend, or did she want this piece of piping-hot, dripping cheese pizza on her face? The colleague fled the scene and thereafter treated Narciso with due respect.

The guests sat "eating intentionally cold smoked salmon and unintentionally cold chicken, and bidding on delightfully idiosyncratic 'jungle costumes' designed by the right sort of designers," reported the New York Times in an article titled "Don’t Bungle the Benefit."

Carolyn's office hours were long and hard—she would often forget to eat lunch, though when she did remember, her favorite foods were mashed potatoes and scooped-out bagels loaded with tomatoes. But after work, she went out with her cadre of friends, sometimes grabbing dim sum at Jing Fong on Elizabeth Street, sometimes catching a movie.

Carolyn and John cut the cake, frosted with vanilla buttercream and adorned with flowers, her hair now released from its bun and falling into her face in a tousled mass.

They eventually stopped at a small roadside café, and I got a few beautiful shots of them having coffee and Turkish pastry at an outdoor table.

We stop at Bloomingdale's and give each other makeovers at the MAC counter. We order sticky rolls at Cinnabon.

"We went for ice cream at Four Seas; she always liked butter pecan, which wasn't my flavor of choice," Ariel said, laughing.

As she blew out the candles on the buttercream-frosted cake, John asked her what she wished, and Carolyn said, "All I want for my birthday is to know you'll always be around."


"When Effie didn't cook—and usually he did—Carolyn had one recipe, roast chicken with lemon and garlic. If it wasn’t one of those two then they ordered in, sometimes even from Kentucky Fried Chicken.


John was very quiet at dinner that night. Efigenio had prepared swordfish. But a different menu was prepared for Rob Littell.
"I was served my usual big, luscious burned burger and noticed Carolyn, who was sitting to my right, eyeing it greedily,” Littell wrote in his memoir. “I moved it to the left side of my plate. But as soon as I looked away, she grabbed it and took a big bite. Secretly pleased to have another culinary misfit on the island, I offered her the rest. But no, she handed it back to me and called out politely to Efigenio. I rarely saw Carolyn ask for anything, but that night, she said, 'Effie, would you mind making me one of those delicious hamburgers?' Efigenio, surprsed but amused, replied, 'Of course not, how would you like it cooked?' 'Rare,' said Carolyn. 'Bloody. Please.' I'm proud to say that on our next visit, a month later, Carolyn had dispensed with the gourmet menu entirely and was subsisting on pink burgers each night. She wolfed them down with the appetite of a linebacker."

"Frannie, it’s Carolyn. Which Cheerios does Colette [Rob and Frannie’s daughter] eat, regular or Honey Nut? Will Rob eat steak?"

"The plan," Carole wrote, "was grilled steaks and peach pie."
●●●
"Carolyn was not afraid to say no to John, or to get him angry," Carole Radziwill said. "And he needed that."

Carolyn was a big reader; there was always something literary on her desk, be it Charlotte Brontë or intellectual tomes on Henry James.

Elizabeth Beller, Once Upon a Time: The Captivating Life of Carolyn Bessette-Kennedyより

揚げ出し豆腐『あの人が同窓会に来ない理由』

西海岸の日本食レストランでバイトしてたときも大人気の前菜だった「揚げ出し豆腐」。アジェダシィ、というお客さんに「アゲダシドーフですね」と確認していたものだ。メインなしで揚げ出し豆腐だけ3オーダーしてご飯をつける若い子もいた。美味しいのか疑問だけど、ボニートなし、と注文されることも多かった。

生ビールと揚げ出し豆腐、軟骨の唐揚げ、エビとアボカドの春巻きが運ばれてきた。吾朗が頼んだのは揚げ物ばかりだった。斉藤さんが「若いね」とからかった。

一杯だけ付き合ってよ、と言った斉藤さんの誘いに乗って、すぐ近くにあるカフェに入った。薄暗い店内は降り出した雨のせいか、混雑していた。どうやら夜にはバーになるスタイルの店らしい。気がつけば午後6時半をまわっていた。
ビールとフィッシュ&チップス、それにトマトの薄切りの上にモッツァレラチーズが載っているつまみを頼んだ。

宏樹は白身魚のフライに手をのばしてから引っ込めた。なんで吾朗がいないのに、揚げ物なんて頼んだんだろう。ここでも悔やんだ。

律子は夕飯のおかずを差し入れてくれた。吾朗がさっそく箸をのばし、頬ばった煮物を褒めると、律子は「吾朗ちゃんは昔からお上手だから」と言って笑わせた。

吾朗は首をひねり、唐揚げに添えられていたサニーレタスをつまんで、食べるかどうか逡巡している様子だ。

建て付けのよくない磨りガラスの引き戸を開けると、午後七時前だというのに、店は混雑していた。テーブル席はすでに埋まっている。客のほとんどが中年を過ぎた男性で、女性の姿はない。カウンターの客に詰めてもらい、なんとか二人並んで席に着くことができた。
沢村あゆみは物めずらしそうに、肉を焙る煙と匂いの立ち込めた狭い店内をきょろきょろ眺めた。壁にはめ込まれた木札の品書きは、どれも燻製されたような色をしていた。
まずは生ビールともつ煮、それに"かしら”と“しろもつ”を塩で二本ずつ頼んだ。
注文して一分もしないうちに、おそらく宏樹の母親と同世代と思しき女将が、泡の溢れた生ビールのジョッキを「ゴトン、ゴトン」とカウンターに着地させた。愛想はない。続いて、お目当てのもつ煮。こちらも汁がこぼれそうだ。
(中略)
沢村あゆみは、さっそくあつあつのもつ煮に七味唐辛子を振り、「ここのもつ、大きいですね」などと感心している。
(中略)
沢村あゆみは口をハフハフさせながら、とろとろに煮えたもつを味わった。
(中略)
沢村あゆみは生ビールを生ビールを飲み、喉にもつが引っかかったみたいなうなずき方をした。
焼き場の若い男が“かしら”と”しろもつ”の皿をカウンター越しに差し出した。宏樹が受け取った皿を二人のあいだに置くと、沢村あゆみが割り箸で肉を串から外そうとしたので、「一本ずつ食べよう」と言って串を手にした。
「せっかく串に刺して焼いたものをバラバラにして食べられると悲しくなる」今日は姿が見えないが、以前この店の主人がそう言っていたのを思い出したからだ。
「もつの煮込みはどう?」
「期待通りすごく美味しいです」
沢村あゆみは、目尻を下げた。「でも残念でもあります」
「どうして?」
「やっぱり、ひとりでは来られそうもないから」

はらだみずき著『あの人が同窓会に来ない理由』より

「宏樹」が仕事を依頼している同窓会代行会社の担当者でちょっと距離があることを表しているんだろうなとは思うけど、「沢村あゆみ」って言い過ぎじゃない?ずっとフルネーム。

トリップとプリンとハンバーグ『キッチン常夜灯』(2)

このシリーズ、今月3冊目の新刊が出るらしい。密林を眺めていると似たような小説が無数にあることに気づくけれど、キッチン常夜灯には常連がついたのだろう、何より何より。

「……出してきたか」
「私の気持ちです」
「そのわりに重いだろ。次はもっと軽い料理にしろ」
シェフは私のほうを見て小さく笑った。
「バスク風のパテ。豚のレバーと豚挽肉。キントア豚の背脂を使いました。昔から、私の料理は大切な人を思いながら作る料理ですから」
どうあっても監物さんに肝臓を食べさせたいらしい。
(中略)
「ありがたくいただくよ。毎回、毎回、私の体を気遣った 美味い料理を出してくれる。それに内臓は嫌いではない。何せ、体の真ん中、一番大切な部分だ。そこを 美味しくいただかせてくれて感謝するよ」
監物さんはパテを切り分けると、さりげなく大きいほうを私の皿に置き、こっそりと片目をつぶって見せた。
それを見て見ぬふりをしながら、城崎シェフも言った。
「奇遇ですね。私も内臓料理が好きなんです。フランスには驚くほどたくさんの内臓を使った料理があります。私が修業したバスクもそうですが、羊や牛の放牧が古くから生活に根づいている。内臓や血液まで余すところなく使い、なおかつ美味しい料理に仕上げる。それに内臓はどれも時間をかけて丁寧に仕込まなければ臭みが残ってしまう。丁寧に、丁寧に食材に向き合う時間が好きなんです。何かに集中することは、時に無心になり、時に別のことをじっくりと考えることもある。いいものですよ」

バスク風パテを食べ終え、グラスのワインを飲み干すと、私は「ご馳走様でした」と席を立った。
「みもざさん、お腹いっぱいになりましたか」
まだほんのり赤い顔のシェフが、料理をすべて監物さんとシェアした私を心配してくれた。
「はい、今日は何だか胸がいっぱいです。それにワインのせいか頭がふわふわするんです」

私は用意した材料をテーブルに並べた。鰹節と昆布。そしてワカメとネギと豆腐。休憩時間に店を抜け出して買っておいたものだ。
昆布を鍋の水に浸けている間にシャワーを済ませ、髪を乾かしてから火にかけた。
スマホで合わせ出汁の取り方は検索済みだ。沸騰する前に昆布を取り出すのだと、菜箸を構えて鍋の中を見守る。鍋の底がフツフツしてきた気がして、昆布を取り出した私は、今度は鰹節を投入した。こちらも、グツグツと激しく沸騰させないように、でも煮立たせる。しだいに出汁の香りが濃くなっていく。
「ああ、いい匂い」
思わず声が出た。間違いなく自分の手で作り出した幸せの香りだ。
(中略)
自分で取った出汁は、とても美しかった。
鍋に戻し、蓋をする。まだ寒い時期だから、朝までこのままで平気だろう。
私は台所の明かりを消し、静かに三階の部屋に戻った。
ベッドの中で金田さんの笑顔を思い浮かべた。
夜が明けたら、私はあの出汁で金田さんに味噌汁を作るのだ。
台所いっぱいに広がった味噌汁の香りに、金田さんはどんな顔をするだろうか。

「今夜のスープは何ですか」
「オニオングラタンスープをご用意しています。いかがですか」
「お願いします」
今夜のように冷え切った夜にぴったりのスープだ。
シェフも奈々子さんに温まってもらいたくて、このレシピを選んだに違いない。
それなのに。

ぼんやりとした思考は、厨房から漂ってくる香ばしい香りに寸断された。
「美味しそうな匂い……」
「お待たせいたしました」
シェフがフツフツと湯気を上げるキャセロールを目の前に置いた。こんがりと焼き色のついたチーズが表面をすっかり覆っている。
気を取り直して私はスプーンを握った。奈々子さんを思ってスープを用意したシェフのためにも、美味しくいただかねばと思った。
「美味しそう。どこにスプーンを入れたらいいんですか」
「お好きな場所に」
私はキャセロールの縁に沿ってスプーンを入れた。焼けたチーズを破るような手ごたえの後、すんなりとスプーンは沈んだ。チーズの下のバゲットはすっかりスープを吸っていて、浮いた縁の部分だけはチーズと一緒にカリカリになっている。チーズの蓋が破けた場所から、丁寧に炒めたタマネギの甘く、ほろ苦い香りが立ち上った。
「うわ、食べる前からすでに美味しいです!」
さすがのシェフも耐え切れずに笑った。
「シェフのオニグラ、今日みたいに寒い夜は大人気なのよ」
熱々のスープも、蕩けるほど熱の入ったタマネギも、冷えた体に沁みるようだった。バゲットの上のグリュイエールチーズは厚みがあり、しっかりとした食感と濃厚な旨みが、スープの味わいにさらに深みを持たせている。
「このスープとサラダだけあればもう十分って感じです」
(中略)
「みもざさん、お料理、まだ食べられますか」
「え? ええ」
「トリップ、いかがですか」
「え?」
「トリップです。牛の胃を豚足と一緒にシードルやカルヴァドスで煮込みました。寒い日の定番料理です」
「牛の胃、豚足……」
また内臓料理がきた。シェフも内臓を調理するのが好きなようだが、それ以上に何かと丁寧に向き合って、じっくり考えたいことがあったからではないのか。奈々子さんのことだろうか。
「トリップ、お願いします」
私は勧められた料理を注文した。考えてみれば、イタリア料理店でトリッパを食べたことがある。こうして、普段食べ慣れないものを食べられるのもこういうお店での楽しみだ。
トリップを待つ間、立て続けに二組のお客さんが入ってきた。どちらも寒そうに顔をこわばらせている。
「温かい料理、何がお勧め?」
「今夜はオニオングラタンスープがありますよ。煮込み料理はトリップがお勧めです」
「いいね。じゃあ、両方もらおうか」
(中略)
イタリアンで食べたようなトマト煮込みをイメージしていたが、シェフのトリップは違った。そういえば、シードルやカルヴァドスで煮込んだと言っていた。見た目はインパクトがあるが、嚙むとぎゅっと美味しいスープが溢れてくる。ハーブが効いていて、臭みもまったくない。
内臓というと、つい嚙みしめなければならない気がするが、けっしてそんなことはない。時間をかけて煮込んだせいか、プリプリとしてやわらかい。添えられたジャガイモやニンジンなどの野菜もすっかり味がしみてほくほくと美味しい。

「お待たせしました。ホワイトアスパラのポタージュです」
「ホワイトアスパラ。そっか、もう春ですもんね」
「みもざちゃんが働いている間にすっかり春よ」
「そういえば、倉庫の玄関先にもミモザの木が植わっているんです。今、ちょうど満開なんですよ」
「まぁ、素敵ね」
オリーブオイルが回しかけられた真っ白なポタージュにスプーンを入れた。重い。スプーンの感覚でわかる。とても濃厚なスープだ。
口に入れてますますそれを実感した。ホワイトアスパラの味が口いっぱいに広がる。わずかなえぐみが、アスパラの新鮮さを物語っている。
「美味しい。私、ホワイトアスパラが大好きなんです。実家の家庭菜園にあったヒョロヒョロのアスパラを見慣れているせいか、太いし、きれいだし、アスパラの女王様って感じがするんですよね」
(中略)
私は大切に、大切にスープを飲んだ。奈々子さんにも食べさせたかったなと思った。その間に、今度はチーズの焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。
「シェフ、今度は何を出してくれるんですか」
「タラのグラタンです」
「へえ、タラのグラタンですか」
「タラとアンディーブのミルク煮に、グリュイエールチーズを載せてオーブンに入れます」
「アンディーブ?」
「チコリーのことです」
弾力のあるチーズの下に、シェフの言うとおりクタクタになったアンディーブがあった。ナイフで切り分け、熱々を口に入れる。じゅわぁとタラの風味とミルクの甘み、それから隠し味のように加えられた刻んだソーセージの味が口の中いっぱいに広がった。

肉の加工品から美味しい出汁が出ることを、この店に通うようになってすっかり覚えた。ほろっと崩れるタラの身、そしてこちらも旨みが沁み込んですっかりやわらかくなった白インゲン豆。
「いいですね。グラタンといっても、ベシャメルソースではなく、ミルク煮にチーズを載せて焼いているから、重くなりすぎない。とっても優しい味です」
「夜中のお料理ですから」
「少し、バゲットをいただけますか」
「温めますね」
しばらくしてオーブンで温めたバゲットを持ってきたシェフは私を見て言った。
「よかった。顔色が良くなりました」

「トリップ。牛の胃の煮込みが食べたいんです。メニューにありますか」
「ございます」
シェフの声に困惑の色が滲んだ。スープ以外の注文に明らかに戸惑っている。
それに気づいたように、奈々子さんは言った。
「もうスープはいいんです」
「奈々子さん?」
「ごめんなさい。シェフのスープはいつも優しくて、 美味しくて、私の体を温めてくれました。私はカウンターの奥でスープを飲みながら、ずっとシェフや千花さん、お客さんの会話を聞いていた。スープ以外の料理も、どれもとても美味しそうでした。出てきた料理をここから眺めるたびに、ああ、夫も好きそうだなとか、食べさせてあげたいなとか、終いには、ここで並んで食事をする自分たちの姿まで思い浮かべていました。こんな素敵なお店に二人で通いたかった......」
(中略)
「シェフ、私もトリップください。私も奈々子さんと一緒に、食べつくしてやります」
「かしこまりました」
シェフは厳かに頷くと、すぐに調理に取りかかった。
しっかり味の染みたトリップを、私と奈々子さんは無言で嚙みしめた。
嚙み砕いて、粉々にして飲み込んだ。しかし、それはシェフの料理をより一層丁寧に味わうことと同じだった。内臓料理は手がかかる。シェフが時間をかけて仕込んだ牛の胃の料理を、私たちもたっぷりと時間をかけて、自分たちの体に取り込んだ。
無言で料理を食べつづける私たちを、シェフは黙って見守っていた。
堤さんもそっとしておいてくれた。
奈々子さんは、時折洟をすすりながら、お皿が空になるまでトリップを食べつづけた。
「常夜灯」の料理は、一皿の量がわりと多い。いつもは物静かにスープをすする菜々子さんが、果たしてトリップを食べきることができるのかと思ったが、彼女はひとかけらも残さず、細い体に取り込んでいった。その姿はとても力強く見えた。
すでにスープを飲み、タラのグラタンを食べていた私も、負けられないと思った。

彼女の前には、スープ皿ではなく細いグラスが置かれていた。
「何を飲んでいるんですか」
「ミモザですって。甘いお酒が飲みたいって言ったら、堤さんが作ってくれたの」
「ああ、いいですね。堤さん、私も」
ミモザはシャンパンとオレンジジュースのカクテルで、鮮やかなオレンジ色が見た目にも美しい。華やかな香りと甘い味わいが、一日の疲れをふっと遠くへ押しやってくれた。

彼女たちの前には、受け皿の上に小ぶりの耐熱皿が載っている。店内に漂う濃厚なミルクの香りに、先日食べたタラとアンディーブのグラタンだとわかった。シェフが働いた、バスク地方のレストランでも人気だったという料理だ。

「アミューズはピンチョス風にしたイワシのマリネ、スープは、エスプレッソ用の小さなカップで三種類でした。コンソメ、ホワイトアスパラのポタージュ、ガルビュール。前菜は鮮やかな春野菜のテリーヌ……」
「そして、今はお魚料理、タラのグラタンですね。私、先日いただいたんです。すごく美味しかった」

「あら、じゃあ、私も今夜いただこうかな」
「私は春野菜のテリーヌが食べたいです。あと、ガルビュールも」
「いいですね。ガルビュール、本当に美味しかった。シェフ、わざわざ毎日違うスープを用意してくれていたんですよね。希望の見えない私の日々に、楽しみを与えてくれたんです。でも……」
奈々子さんは顔を上げて、厨房のシェフを見つめた。
「これからは、もっといろんなシェフのお料理を食べたい……」
「みんな美味しくて、ここに通うのが、ますます楽しみになりますよ」

「ねぇ、シェフ。これ、チコリーでしょう。こうやってグラタンにするのは、現地では当たり前なの?」  不意に、母親がシェフに質問をした。
(中略)
「……フランスでは冬の定番料理です。アンディーブのほろ苦さと、ソーセージやバター、チーズの塩気がよく合います」
「確かにそうね。サラダくらいしか発想がなかったわ。ありがとう、美味しいわ」
彼女はにっこりと微笑む。
シェフの表情もほっとしているように見えた。
お肉料理は、仔羊モモ肉のローストだった。きっとやわらかく、食べやすい料理を選んだのだろう。ハーブソースの爽やかなタイムの香りがここまで漂ってきた。
「いい匂い。私たちもそろそろ注文しましょうか」 
奈々子さんが言い、私たちは堤さんを呼んだ。
野菜のテリーヌふたつと、奈々子さんはタラのグラタン、私はガルビュールとバゲット。

シェフが皿を持って母親の前に来た。いよいよデセールである。
「お待たせいたしました。クレームカラメルです」
クレームカラメル! プリンだ!
カウンターに置かれた少し深めの皿。たっぷりのカラメルソースの中にケーキのように切り分けられたプリンが浮いている。
「横に添えているのは胡桃のジェラートです」
「まぁ……」
シェフの母親はじっとプリンを見つめていた。
「……覚えていますか」
「もちろん、覚えているわよ」
「あなたが、唯一食べてくれた私の料理です」
(中略)
「それから数年後よ。深夜に帰ったら、冷蔵庫にプリンが入っていたの。お菓子は初めてだった。あまりにも 美味しそうで、ペロリとふたつも食べちゃったのよ」
「……朝起きたら、あなたはもう家を出た後だった。てっきり帰っていないのかと思いましたが、プリンがなくなっていた。しかもふたつも。美味しかったんだなって、私はとても嬉しかった。家庭科の調理実習で教わりました。それで、あなたにも食べさせたいと思ったんです。甘い物なら夜中でも食べやすいのではないかと」

「そうですね、朝になればお味噌汁ですもんね」
「そう。愛情たっぷりの味噌汁です」
「具は」
「今朝はイワシのつみれ汁です」
きっとアミューズのマリネのために仕入れたイワシで作ったのだろう。
「美味しそう。私、朝までいます!」

厨房を見ると、シェフがオーブンを開けていた。ベシャメルソースのクリーミーでコクのある香りが漂ってくる。
「金田さん、私、シェフにお願いしておきましたよ。また食べたいって言っていたでしょう?」
「え?」
「お待たせいたしました。帆立貝のコキールグラタンです」
「あっ」
「今夜は特別大きな帆立が手に入りました。熱いうちにどうぞ」
シェフに促され、金田さんは真っ白なソースにスプーンを入れた。
「うわ、本当だ。真ん中に大きな帆立がそのまま入っている。昔食べたものよりすごいよ」
感激した金田さんを見て、シェフの口元が綻ぶ。
「きっと、ナイフを使ったほうが食べやすいかと思います」
次は私の料理だ。
「みもざさんには、ハンバーグステーキを」
「……すみません、ハンバーグが食べたいなんて言って。どうしてもシェフが作るビストロメニューのハンバーグが食べてみたかったんです」
そして「シリウス」のハンバーグと比べてみたかった。本当はドリアでも、グラタンでもよかった。もちろん使っている素材が違う。だけど「本物」の味を知ることで、目指す味を見つけることができそうな気がした。
(中略)
「ハンバーグが焼けました」
「いただきます!」
つやつやと輝くデミグラスソースがたっぷりかかった厚みのあるハンバーグに、私はさっそくナイフを入れた。澄んだ肉汁が 溢れ、口に入れるとふっくらとやわらかい。てっきり牛肉百パーセントのハンバーグが出てくるのかと思っていたが合い挽肉だ。
「牛肉百パーセントを謳うのなら別ですが、ハンバーグはジューシーなほうが好まれます。それには合い挽肉がいい。きっとみもざさんの店のパテもそうでしょう?」
「そうです」

長月天音著『キッチン常夜灯』より

ある天国『キッチン常夜灯』(1)

こういう小説に「文庫小説」なる呼称があるのを初めて知った。考えてみれば30年以上に流行ったコバルトとかもいきなり文庫でのみ発表される形式だったね。
日本の場合、言ってはなんだが二軍以下と思われるタイトルでも装丁にはお金がかけられていてオリジナルのイラストや同じフォトストックでも作者のクレジットがあるようなのを使っているのがすごくいい。こっちのペーパーバックはCanvaかPPTで素人が作ったかのような表紙のものが大量にあってもう目に入るな、という気になるので。

この小説はとてもよかった。「優しい味」と言い過ぎだが、日本語だと他に言いようがないのかな。フーコーの愛の定義「相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計」を連想させた。

私も週数時間だけどレストランで働く幸せに恵まれているので、訪れる人のことをもっとよく「見よう」と思ったよ。常夜灯ほどじゃないけど、ここは私たちのhomeだ、と言って通ってくれる人たちが少なからずいるので。

だいぶ経ってから戻ってきた大家さんは、すっかり冷え切ったようで「ココアでも飲みましょうか」と、熱くて甘いココアを作ってくれた。この部屋は停電もしていなければ、ガスも使えるようだ。

「そしたら、ぼんやり明かりが 点いた店があったの。 嬉しくなって、誘われるように入ったんだよ。あの時のコキールグラタン、 美味かったなぁ」
「コキールグラタン?」
「そう。ちゃんとした洋食屋だったんだ。帆立の殻に入ったグラタンだよ。まさか夜中にそんな料理食べられると思わないじゃない。グラタン、カミさんの得意料理だったんだよねぇ。何だかあの夜は夢を見ているような感じだったなぁ」
(中略)
金田さんは戸棚の奥をあさると、「僕の非常食」と言って、甘納豆を一袋くれた。
(中略)
甘納豆なんて何年ぶりだろう。子供の頃、おばあちゃんがよく食べていたのを思い出す。何だか金田さんとの暮らしは温かい。

「主菜のお勧めは何ですか」
「今夜は牛ホホ肉の赤ワイン煮、鴨モモ肉のコンフィ、バスク風の魚介の煮込みをご用意しております」 
お肉。お肉が食べたい。とにかく疲れた体に栄養を与えたい。
「牛ホホ肉の赤ワイン煮をお願いします」
頭の中はお肉でいっぱいだったが、ふと、こんな注文でよかったろうかと我に返った。一品料理でいいのか、前菜やサラダも頼むべきなのか。とっさにカウンターの奥の女性を見ると、彼女の前にもスープ皿が置かれているだけで、グラスの中はお水のようだった。
「どうぞ、お好きなものだけご注文なさってください」
サービスの女性はにこっと笑うと、カウンター越しに「シェフ、ブッフ・ブルギニヨンお願いします」と声を掛けた。料理人は顔を上げて 頷き、すぐに調理に取りかかった。
「ここでは、肩の力を抜いてお料理を楽しんでいただきたいんです。お飲み物はお水でいいですか? 温かいのが良ければ白湯もご用意できますよ」
(中略)
彼女はにっこり笑うと、「今度はぜひ魚介の煮込みを召し上がってみて下さい。当店のシェフはフランスのバスク地方で修業をしていたんです。つまりシェフの得意料理なんです」と、さりげなくアピールして厨房に向かった。
(中略)
まさか真夜中に牛ホホ肉の赤ワイン煮を食べることになるとは考えもしなかった。
しかし、この店に入ったとたん感じた、あらゆる美味しさが濃縮されたような香りに抗うことなどできただろうか。真夜中にコキールグラタンを注文した金田さんの気持ちがよくわかった。何よりも私は、ここ数日ロクなものを食べていないのだ。
赤ワインとフォンドヴォー、牛肉の旨みが溶け出した芳醇な香りが皿から立ち上っている。ダウンライトを浴びて輝く黒に近い赤褐色のソースは、まるでビロードのように滑らかだ。一緒に煮込まれたのはマッシュルームと小タマネギ。横にはたっぷりのジャガイモのピュレが添えられている。ナイフを入れた瞬間、肉のあまりのやわらかさに驚いた。口に入れるとほろほろとほぐれる。
「......美味しい」
ため息が出た。添えられたジャガイモもこれまで食べたことのないくらい滑らかで、口の中ですぐに溶けてしまった。
「美味しいです! すごく美味しい」
こんな稚拙な感想しか出てこないのが情けないが、一人で美味しさを嚙みしめるのがもったいない気がして、サービスの女性と厨房のシェフ、それぞれに向かって何度も言ってしまった。
(中略)
シェフはむっつりと押し黙っている。この二人の関係が面白くて、私は「美味しい」と何度も繰り返しながら牛ホホ肉を頰張った。
お肉を食べ終えた時、こんがり焼けた丸いパン、ブールが差し出された。
「シェフがどうぞって」
女性は皿を置くと、にっこり笑ってカウンターを離れた。シェフはそ知らぬ顔で仕込みを続けている。けれど、私の皿にたっぷりと残ったソースに気づいていたのだ。
「ありがとうございます!」
ブールの中はしっとりとしていて、ソースがよくしみ込んだ。パンの甘みと濃厚なソースがまた違う美味しさをもたらしてくれ、余すことなくきれいにソースを食べきることができた。今夜だけで何度美味しいと感激しただろうか。

昼過ぎに起き出した私は、書いそびれていた日用品の買い出しがて蕎麦屋で鴨南蛮をすすり、夕方には帰宅して、帰ってきた金田さんに先日訪れた「キッチン常夜灯」のことを報告した。

「アルザスの白にしました」
グラスに注がれる淡く黄色がかったワインを眺めるだけで、特別な空間にいるような錯覚に陥った。さっきまで暗い部屋で必死に目を閉じていたというのに。
それからすぐにシェフが大きな皿を運んできた。
「お待たせいたしました。上から時計回りに、ジャンボンブラン、ピスタチオ入りの豚モモ肉のソーセージ、スモークした鴨のハム、ココットの中は豚肉のリエットです。バゲットと一緒にどうぞ」
薄紅色のバラの花を盛り合わせたような皿を見たとたん、先ほどまでの気持ちがうそのように高揚してきた。
それにこれなら、ゆっくりとここで時間を過ごすことができそうだ。
小さい頃からおやつに魚肉ソーセージを与えられていた私にとって、大人になって覚えた肉の加工品、シャルキュトリーは、子供の頃の常識を覆す贅沢なおつまみだ。大皿に盛り合わされたこれらを独り占めできるのも大人なればこそ。
(中略)
華やかな香りに反してキリッとした飲み口のワインと、ハムの塩気がよく合った。
弾力のある嚙みごたえは、子供の頃に食べたソーセージと当然ながらまったく違う。嚙みしめるたびに旨みが広がり、それをワインで洗い流すように飲み込むと、さらに違った美味しさに脳が痺れた。さっきまでの言いようのない不安を押しやるように、私はワインを飲み、シャルキュトリーを嚙みしめた。
「お客様、ナイスチョイスです。ウチのシェフのシャルキュトリー類、なかなか人気なんですよ。さぁさ、リエットも食べてみて下さい」
堤さんに促され、大事にとっておいたリエットをすくい、薄くカットされたバゲットにのせた。バゲットも軽く焼いてあり、カリッとした食感と滑らかな味わいが口の中に広がった。
「美味しい!」
「でしょう! リエットやパテは特にシェフが得意としているんです。今度はぜひパテ・ド・カンパーニュも食べてみて下さいね!」

ふわりといい香りが漂ってきた。バターとタマネギの甘い香りだ。
何が出てくるのだろう。私はシェフの動きを目で追った。
シェフがオーブンを開け、さらに広がった香ばしい香りに頰が緩む。
「何を求めるかは人それぞれですから。私は料理がしたいから料理しかしない。生き方も仕事も、自分の身の丈に合ったものにしようと思っています」
シェフが私の前に皿を置いた。
「でも、ひたむきに仕事と向き合っていれば、いつかは与えられた仕事に相応しくなれるかもしれない。どうとらえるかは、やはり人それぞれです」
シェフはそれだけ言うと、厨房の奥へと戻ってしまった。
「ジャガイモのグラタン、とっても美味しいのよ。私が支配人にされて悩んでいる時に黙って作ってきたの。賄いも食べないから心配してくれたんでしょうね。熱いうちに召し上がれ」
グラタンといってもチーズもベシャメルソースもなかった。スライスされたジャガイモがこんがりと色づいていて、香ばしい香りがする。フォークを入れるとジャガイモの下にはクタクタになったタマネギと細く刻んだベーコンが隠れていた。タマネギはすっかりトロトロになっている。
「シンプルでしょう。クリームを加えて、もっとこってりさせてもいいけど、私はこれが好きなの。たいていお肉料理の付け合わせにされちゃうお料理だけど、シェフったら大皿にたっぷり作ってきて、全部食べろって。これがメインなのよ。ようは脇役でいるか主役になるかハッキリしろってことだと思うのよね」
(中略)
シェフのグラタンは美味しかった。表面のジャガイモは焦げ目の香ばしさとしんなりした食感が楽しく、タマネギとベーコンの旨みを吸ってホクホクとしていた。クリームを使っていないからしつこくなく、優しい味わいが体にじんわりと 沁み込んでいく。

「ビールといつものね。えっとスナギモ!」
まるで焼き鳥屋のような注文に、私は目を丸くした。
しかしシェフは毅然と答えた。
「砂肝のコンフィのサラダですね。かしこまりました」
堤さんが二人の前にビールを置く。当然ジョッキではなく、細長いお洒落なグラスだった。

「砂肝のコンフィのサラダ、お待たせしました」
シェフは料理名を強調させながらカウンターにサラダを置いた。
しかし抵抗も虚しく、オヤジは「おっ、スナギモ、待ってました」と、ノリはまったく変わらない。さっそくサラダをつつきながら、大声でシェフに追加注文をする。 
「あとは酸っぱいキャベツと、ぶっといソーセージね。マスタードたっぷりでよろしく」 「シュークルートですね。ソーセージのほか、一緒に煮込んだ豚バラ肉もお出しします」

夕方から飲みかけだったエナジードリンクに手を伸ばし、生ぬるい残りを飲み干した。すっかり炭酸が抜けて甘ったるいだけの液体になっているが、疲れた体にはその甘みこそが甘露だった。ああ、なんという背徳感。
帰りに「キッチン常夜灯」で熱々の煮込み料理でも食べたい気分だが、今日はまっすぐ帰宅すると決めていた。
給料日まであと二日。今夜は先日買い込んだカップラーメンをすするのだ。

永倉さんはブツブツ文句を言いながら、冷蔵庫からハンバーグのパテを二枚取り出し、乱暴にグリルに置いた。両面を焼いてからオーブンに入れるのが「シリウス」のマニュアルだ。
私は冷凍庫からハーフボイルのパスタを取り出し、ボイルマシーンに入れてタイマーをおした。その間に先に提供したいサラダに取りかかる。
すっかり閉店準備を進めていたため、いつもはスライスしてスタンバイしてあるトマトがない。ウォークインの冷蔵庫まで走り、トマトを一個持ってくる。注文は、よりによってトッピングの具材が多くて面倒なニース風サラダだ。
永倉さんは冷凍のチキンライスをドリア皿に空け、電子レンジにかけた。
「ファミリーグリル・シリウス」の一番人気のドリアは、セントラルキッチンで美味しく炊いたチキンライスと、同じくセントラルキッチンでじっくり煮込んだベシャメルソースを各店舗で組み合わせ、レシピ通りのトッピングを施してこんがりと焼くというシンプルな工程のメニューだ。

ニース風サラダ、フライドポテト、カキフライ、スパゲッティボロネーゼ、シーフードドリア、デミグラスハンバーグ、トマトとチーズのハンバーグ、 苺 サンデー、ホットコーヒーがふたつとアイスロイヤルミルクティーがひとつ。

カウンターにはスープ皿とスマートフォン。彼女は時々画面を見ながら、ゆっくりとスープをかきまぜている。
いつもよりも彼女に近いせいか、ふわりとコクのある香りが漂ってきた。美味しそうな香りに胃袋が刺激され、忘れかけていた空腹感を思い出す。
(中略)
「いつも奥にいらっしゃるお客さんのお料理は何ですか?」
「ガルビュール。フランス南西部、ベアルン地方の郷土料理で、お野菜がたっぷりの優しいスープです」
「ベアルン地方?」
「スペインとの国境に近いですね。シェフのスペシャリテのひとつなの。よろしければみもざちゃんもいかがですか」
初めて来た時、シェフはバスク地方で修業したと聞いた。野菜たっぷりのスープならお腹にも溜まりそうだし、給料日前のお財布にも優しいに違いない。
「私にもお願いします」
スープの女性がこちらを見て、わずかに微笑んだ気がした。

少しだけクセのある複雑な香り。淡い褐色のスープには細かく刻まれた野菜と白インゲン豆がたっぷり沈んでいる。上に飾られた刻みパセリも 瑞々しい。けれど、先ほど感じた独特の香りがわからない。
「いい匂い。これ、何の香りですか」
「うふふ。まずは召し上がれ」
私はスープをすくって口に入れた。香りの次はセロリやニンニク、香味野菜の風味が押し寄せる。スプーンで皿に沈む野菜をかき回すと、縮緬キャベツ、ニンジン、タマネギ、白インゲン豆がゆるりと踊り、野菜に混じるように細かいお肉が見えた。
「ええと、これは……」
「ガルビュールは生ハムのお出汁が効いたスープなんですよ」
言われてみれば、この深みのある味わいは生ハムだ。よく知っているはずなのに、スープに結びつかなかった。厨房に大きな生ハムの原木が置かれているのを何度も目にしていたではないか。
「生ハムの骨と刻んだ生ハムからいい旨みが出るんです。本当はキントア豚というバスクの黒豚の生ハムで作りたいそうですけど、ウチではとてもとても」
堤さんが残念そうに言うと、厨房のシェフがむっつりと睨んだ。キントア豚がどれほどのものか知らないが、このガルビュールも十分美味しい。
細かいお肉は生ハムのほかに豚のバラ肉を刻んだものも入っているらしい。生ハムの旨み、豚の脂と野菜の甘みが溶け出し、程よい塩味のなんとも優しい味わいのスープだ。
「これだけ具材があればお腹も一杯になりますし、体の隅々まで栄養が行きわたる感じがします。元気が出ました」

ランチメニューのシーフードドリアとサラダのセットを頼み、食後にコーヒーを付けた。

泉さんが、「大変お待たせしました」と緊張しながら、私のテーブルにシーフードドリアのセットを運んできた。
ドリアは湯気が上がるほど熱々だった。オーブンから出されてすぐに運んできたのだろう。
(中略)
私はスプーンを手に取った。ベシャメルソースの下のチキンライスも、トッピングの海老や帆立もしっかり火が通り、久しぶりに食べたけれど素直に 美味しいと思った。ソースもコクがありクリーミー、チキンライスもトマトの酸味がほどよく効いていて、ベシャメルソースと完璧な相性だ。けっこうウチの料理も美味しかったんだ。
「これ、作ったのは永倉さん?」
「は、はい」
「美味しいって、シェフに伝えておいて」
「シ、シェフ?」
「お客さんがそう言っていたって言えばいいから。あ、私が来たことは内緒でね」

私は勧められるまま、堤さんが用意してくれたホットビールを飲んだ。
ホットといっても熱々ではなく、ほんのりと温かい程度なのが心地よい。黒ビールを温めて蜂蜜 で甘みを加えているようだ。かすかに感じるスパイスはシナモンだろうか。ホットワインはよく見かけるが、温かい黒ビールを飲んだのは初めてだった。
「こんな日はスープはいかがです。温まりますよ」
(中略)
「どうぞ」
静かなシェフの声とともに、目の前に皿が置かれた。ほっこりと甘いクリーミーな香り。土の色のポタージュだ。上には粗挽きの黒胡椒が散らされ、受け皿には薄く切ったバゲットが添えられていた。
スプーンで軽く混ぜると濃厚なスープが絡みつく。たまらず口に運ぶと甘い風味が鼻に抜けた。美味しい。そして濃いのに優しい。
「栗のポタージュです。クリームも加えていますが、ナッツならではのコクと甘みが美味しいでしょう」
(中略)
「ちょっぴり加えたポルト酒とナツメグもいいのよね。こんな寒い日は濃厚なスープで体の芯から温まるのが一番なの」
(中略)
「毎晩、シェフは彼女のためにスープを用意しているんですか」
「スープは一皿で体を満たし、心を温めてくれる料理です」
「そう。それにバリエーションも豊富だし、色々な具材を使えば栄養もたっぷり。実はね、そのお客さん、ここに連れてきたはいいけど、何も口にしなかったのよ。食べることに 無頓着。そのくせいつまでもガタガタ震えていてね、見ていられなかったの」
そんな彼女を見かねて、シェフはその日用意していたスープを出したそうだ。
(中略)
「ああ、今夜は栗のポタージュなんですね。美味しそう。シェフ、私にもお願いします」
「かしこまりました」
シェフは小さく頷いて、すぐに調理に取りかかった。
堤さんは熱いミルクティーを淹れ、彼女と私の前に置いてくれた。
(中略)
奈々子さんは私に「冷めちゃいますよ」とスープの続きを促しながら、「私、シェフの作るスープが大好きなの」と語りはじめた。片手をスマートフォンの上に置き、時々画面を確認する。
「優しい味でしょう。単純じゃないの。いろんな具材が溶け込んで、体に栄養が行きわたる感じがする。きっとね、手間ひまの他にシェフの食べた人を元気にしたいっていう気持ちも込められていると思うの」
「そうかもしれません」
「前に教えてもらったの。栗のスープは、栗とタマネギをじっくり炒めるんですって。でも、その前に栗の渋皮を剝くのが大変なのよ」
(中略)
シェフは静かに奈々子さんの前にスープ皿を置いた。
「……美味しい」
スプーンでスープをすすった奈々子さんがため息のように言うと、シェフの表情がわずかに緩んだ。
奈々子さんはゆっくりとスプーンでスープをかき回している。濃厚なスープにまったりと渦が描かれ、それが少しずつ消えていくのを私はぼんやりと眺めていた。

「(中略)心細くて死にそうだった。あの時、理由も聞かずにシェフはコンソメスープを出してくれたんですよね。覚えていますか、澄んだスープにカウンターのダウンライトが映ってゆらゆら揺れていて、とってもきれいだった……」
「忘れませんよ」
シェフは答えた。堤さんが連れて来た女性に、シェフもきっと困惑したにちがいない。でも、何とか彼女を温めたいと思ってスープを出したのだ。
「美味しかったです。冷え切った体の隅々まで行きわたる温かさにホッとして、どうしてこんなに透明なのに複雑な美味しさがあるんだろうって驚いて……。夫のことしか考えられなくなっていた意識が、ふっとほぐれたんです。一口すすったスープで、びっくりするくらい気持ちが楽になったの」
「コンソメは、見た目はシンプルですけど、実際は香味野菜や牛肉、ワインをじっくり煮込んで、純粋な旨みだけを濾しています」

「気分よく飲んでいたら、すっかり終電逃しちまったよ。ちいっと朝まで、シェフの美味い漬物とタマネギの煮っころがしでいさせてくれねぇかな」
「はいはい、ピクルスと小タマネギのグラッセですね」
(中略)
「冬野菜のピクルスです。クミンとカルダモンの風味をお楽しみください」
シェフもカウンターにピクルスの盛り合わせを置いた。
色とりどりの野菜がダウンライトに艶やかに輝いている。パプリカにヤングコーン、カリフラワーにキュウリ。とても美味しそうだ。

埒が明かないので、私は自分でストッカーから取り出したリブロースに塩と黒胡椒を振ってグリルに置いた。
(中略)
「もういいから、他のオーダーはきちんと仕上げてください」
私は慎重に肉を焼き、細心の注意を払って付け合わせの野菜を盛りつけた。皿の縁の指紋や跳ねたソースをきれいに拭き上げ、先ほどのテーブルに向かった。

「今夜は野菜のポタージュです」
私の視線に気づき、奈々子さんが教えてくれた。きっと優しい味わいのスープだろう。今夜の私の心を鎮めるにはぴったりかもしれない。いや、けれど収まりきらない攻撃的な気分は、肉料理を求めている。

シェフの前にはローズピンクの大きな塊が置かれていて、シェフは右へ左へと包丁の角度を変えながら深く切り込んでいた。一分の迷いもない動きは何ともいえず美しい。
「シリウス」で成形されたハンバーグのパテや、一枚ずつ切り分けられてパッキングされたリブロースばかり見ていると、それらが本来動物だったということを意識しなくなる。
しかし、ここではブロックで仕入れた肉の骨や脂肪を外し、料理をイメージしながら切り分け、さらにお客さんに美味しく調理して提供しているのだ。料理人として生き物へのリスペクトも込めた、なんと素晴らしいことなのだろう。

「シェフ、仕込みはもういいんですか」
「ええ。お客様からのリクエストで仔羊のキャレを多めに仕入れたんです。あ、キャレとは背肉です。皮や脂を外し、背骨を切り離し、あばら骨の一本一本の間に包丁を入れる。その仕事に没頭する時、頭の中がとてもクリアになります」
(中略)
「どうです。せっかくなので新鮮な仔羊でも召し上がりますか」
シェフは私に顔を向けた。
「あっ、じゃあ、仔羊をお願いします! あと、スープも」
奈々子さんのスープは、刻まれた野菜がたっぷりで何とも美味しそうだったのだ。
「今夜のスープは農夫風ポタージュです。仔羊はおまかせでよろしいですか」

「ちゃんとした食材を仕入れても、注文が入らなければもったいない。こういう予約は、シェフが腕を振るう絶好の機会でもあるの。ありがたいことなのよ」
「じゃあ、今夜の私、新鮮な仔羊が食べられてラッキーでしたね」
「そう、ラッキー」
こんがりとした香りが漂ってきて、私たちは厨房へ視線を向けた。
シェフは小鍋からスープを器に移すと、オーブンで焼いたバゲットを上に載せて、私の前に運んできた。
「お待たせしました。農夫風ポタージュです」
「いただきます!」
スープには、ほぼ同じサイズに細かく刻まれた野菜がたっぷりと沈んでいた。タマネギ、ニンジン、セロリ、キャベツ、ジャガイモ、グリーンピース。それぞれの野菜の色の違いが楽しい。上に置かれたバゲットには、すりおろしたチーズがたっぷりと載せられ、上の部分は溶けて焦げ目がついていた。
私は野菜の甘い香りと、チーズの香ばしい香りを思う存分堪能した。
それからわざとバゲットを野菜の下に沈めた。カリカリもいいが、ふやけてすっかりスープを吸ったバゲットも絶対に美味しいはずだ。野菜はやわらかく煮えていて、ジャガイモさえも口の中でホクッととろけた。何という優しい味わい。
私は昼間の出来事など忘れ、スープに夢中になっていた。
(中略)
スープの最後のひと匙を口に入れた頃、再びいい香りが漂ってきた。香ばしさと肉の脂の甘い香り。きっと私の仔羊だ。
(中略)
シェフは両手で私の前に大きな皿を置いた。
「仔羊のロースト、ソースはバルサミコです」
仔羊など食べるのは何年ぶりだろう。
(中略)
突き出した骨のたおやかな曲線にうっとりし、ほどよく火の入った鮮やかな桃色の肉の断面にほれぼれした。
「ソースは肉に触れないよう添えています。お好みでどうぞ。せっかく新鮮なアニョーですから」
素材の味を堪能してほしいということだろう。その瞬間、たっぷりとしたソースに浸った、永倉さんの焦げたステーキが頭に浮かび、慌てて振り払う。
「お、いい匂い」
堤さんに案内されて入ってきた男性客が、さっそくカウンターに手をついて鼻をうごめかせた。
「うふふ。 矢口 さん、今夜は仔羊が入っていますよ。いかがですか?」
(中略)
私は仔羊肉にナイフを入れた。ナイフを押し返すしなやかな弾力に驚く。
まずはソースをつけずに口に入れた。程よい塩気とハーブの香りが鼻に抜ける。周りの脂がカリッと香ばしく、次にじゅわあっと、肉の旨みが口いっぱいに広がった。思ったよりもラム肉独特の癖を感じないのは、やはり鮮度がいいからなのだろうか。
気づけば、涎を垂らさんばかりの顔で矢口さんがこちらを見ていた。
「シェフ、俺も。俺も仔羊ね」

カウンターの奥には奈々子さんがいて、二人掛けテーブルでは、会社帰りらしき二人の女性がチョコレートをつまみながら食後のコーヒーを飲んでいた。
店内に漂う芳醇なコーヒーの香りに刺激され、私もたまらなくコーヒーが飲みたくなった。
(中略)
「堤さん、私、すっごくコーヒーが飲みたいんです」
そっと後ろのテーブルを示すと、堤さんは大きく頷いた。
「コーヒーって、つい香りにつられちゃうわよね。 淹れましょうか。この前、見つけた自家焙煎の喫茶店の豆がなかなかいいのよ」
(中略)
「今度、カフェインレスのコーヒーも探してみるわね。あ、そうだわ、みもざちゃん。今夜はリンゴのパイが焼けているわよ。サックリしたパイに、シェフ特製の焼きリンゴを載せているの。胡桃 のアイスを添えて、食べ応えもバッチリ。いかがですか?」
なんという美味しそうなデザートだろう。いつでも堤さんやシェフは、私がその時に食べたいと思うものを提案してくれる。
(中略)
「シェフはね、実はリンゴが大好きなの。知っている? バスク地方ってリンゴが有名なのよ」
そこで堤さんは両手を組み合わせ、目をキラキラと輝かせた。
「美味しいのよう、シェフの焼きリンゴ。バターとリキュールの風味がしっかり効いていてね、リンゴはトロットロ。皮ごと焼いた甘酸っぱいリンゴを、パイの上のカスタードがガッシリ受け止めているの。ほら、シードルというとブルターニュやノルマンディーを思い浮かべるけど、実はバスクのシードルも美味しいの。シェフの修業先だからね」
堤さんはまるでリンゴのパイを目の前にしたかのようにうっとりと語った。きっと堤さんもこのデザートが大好物なのだ。ここまで語られては、注文せずにはいられない。
(中略)
しばらくすると、甘酸っぱい香りが店内に漂いはじめた。期待に胸を膨らませた時、カランカランとドアベルが鳴った。続いて 賑やかな女性の話し声。すぐさま堤さんが玄関のほうへと向かった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました!」
その声に、わずかにシェフが身を竦ませた気がした。
「来ましたね」
シェフは呟きながら、私の前にリンゴのパイを置いた。皿に添えられた手がわずかに震えていた。
(中略)
想像したアップルパイとは大きくかけ離れていた。皿の上には、こんがり、しっとりと焼けた焼きリンゴがそのままひとつ。わずかに焦げた果皮と、融けてカラメル状になった砂糖が香ばしい香りを放っている。くり貫いた芯の中にはたっぷりとバターも仕込まれているようだ。その下に、カスタードクリームで接着されるようにパイ生地の土台がある。横にはたっぷりの胡桃のアイス。わずかにシナモンの混じったリンゴの甘酸っぱい香りもして、いくつもの美味しそうな香りに私はすっかり圧倒されていた。
感激に緩みっぱなしの私の顔に、シェフの頰もわずかに緩んだ気がした。
「どうぞ、熱いうちに」
「はい!」
ナイフでリンゴからパイまでを一気に切り分けた。とろりとした果肉、まったりと濃厚そうなバニラビーンズたっぷりのカスタード。パイもサクサクだ。大きく口を開けて頬張ったとたん、片手で頬を押さえて思わず呻いた。

「今夜はどんなお料理をいただけるのかしら。ねぇ、でもさっきから甘酸っぱくていい匂いがするの。これは何?」
「リンゴのパイです。よろしければデザートに同じものをご用意しますよ」
「まぁ、素敵。そうだわ。乾杯はシードルにしましょうか。千花ちゃん、ある?」
「ご用意いたします」
堤さんが三人のグラスに金色に透き通るお酒を注ぐと、彼女たちは「乾杯!」と声を揃えた。
堤さんとシェフも一緒になってカウンターの内側で拍手をしている。
(中略)
堤さんは準備していたアミューズブーシュをカウンターに並べ、シェフは次の料理に取りかかっている。
(中略)
「お待たせいたしました。まずはスパイスとハーブを効かせた仔羊肉のソーセージです」
シェフがカウンターに皿を置いた。
「ああ、そう言えば、最初にここで食べたものもソーセージだったなぁ。もしかして、シェフ、覚えていたの? まさかねぇ」
「覚えていますよ」
(中略)
「そう! そのソーセージがびっくりするくらい美味しかったの。もちろんソーセージのくせにずいぶん高かったけどね」
彼女の周りが笑いに包まれた。いつもそうだ。終電後にやってくる彼女はいつも楽しい話題を披露し、同僚と一緒に笑っている。
「それからは度々足を運んでくださいましたね。とくに何かお仕事で問題がある時に。お肉料理を注文されて、ワインもたくさんお召し上がりでした」

オーブンからニンニクとハーブの香りが漂ってきた。
「そろそろです」
シェフは厨房の奥へ向かい、女性客たちは期待に瞳を輝かせる。
(中略)
「お待たせいたしました。仔羊のペルシヤード、香草パン粉焼きです」
私はシェフの声に、つい顔を上げた。
木下さんの歓声が上がった。
「あっ、これ大好きなの! 懐かしいわぁ、やっぱり大きなクレームをひとつ処理した後にシェフが出してくれたのよねぇ。羊肉の焼けた脂の香ばしさと香草パン粉のサクサク感がたまらないの!」
ねぇ、食べてみて、と、友人たちの皿にも取り分けると、自分もすぐにナイフを握ってザクザクと刃を入れた。軽快な音が私にまで届き、思わずごくりと喉が鳴った。
「そうそう、このパセリとニンニクの風味がお肉の味を引き立てるのよ。シェフのお肉料理を食べると元気が出るのよね。疲れた体に美味しさが染みわたっていくの。そうすると、もっと欲が出るわけ。もっと頑張って、また美味しいお料理を食べよう。もっと、もっと頑張って、あれとこれを食べようって」

私はさっそくワインを口に含んだ。華やかな香りの、しっかりとした味わいだった。きっと彼女たちの仔羊料理に合うワインなのだろう。
テーブル席の男性たちは、「いい匂いがするなぁ」と、木下さんたちと同じ香草パン粉焼きを注文した。彼らも今夜はビールではなく、堤さんがワインを注いでいる。
その間にもシェフは次のお料理を仕上げていた。
「仔羊フィレ肉とフォアグラのパイ包み焼きです」
「これ、私、一番好き! 初めて食べた時、思わずおかわりって言っちゃったのよね」
「仔羊モモ肉のロースト、白インゲン豆の煮込みとご一緒にどうぞ」
「ああ、これ。嫌な上司が不祥事を起こして、子会社に出向になったの。その時に食べたわぁ! 勝利の味って感じなのよ。ちょっとシェフ、本当に私が絶賛したお料理、全部出してくれるつもり?」「お祝いですから」
シェフは静かに微笑んだ。
(中略)
「あっ、シェフ、今度は会社の仲間とお祝いしたいの。ええと、金曜日の遅い時間にお願い。次もお肉がいいわ。そうだ、豚がいいわね。前に作ってくれた豚足のパン粉焼き、あれ、とても 美味しかったもの。あとはシャルキュトリーを盛り合わせて、メインもいくつかお願いできる? 楽しみにしているわね」
「シェフ、聞いていました? 次はコションですよ」

「ワインが残っていますね」
「あ」
コーヒーとリンゴのパイを食べ終えた私に、木下さんのおめでたい話は、ワインのつまみとしては少し重かった。
しばらくして、シェフがそっと私の前に小皿を置いた。
「ロックフォールとオッソー・イラティ、どちらも羊の乳から作られるチーズです。こちらも先ほどのお客様にお出しするつもりでしたが、出しそびれてしまいました。堤もこちらに合うワインを選んだはずです」
仔羊ちゃんたちの希望は、めったにないような肉料理ばかりの組み合わせだった。チーズを挟むとしたらデザートの前だが、彼女たちはさっさとコーヒーを注文してしまったのだ。
「世界三大ブルーチーズのひとつと、羊の牧畜が盛んなピレネー山脈のあるバスク地方を代表するチーズ、お祝いの席にはふさわしいと思っていたのですけど」

小さな中華食堂。私は店の隅っこで父親が作った餃子や野菜炒めを食べ、二階の自宅へ上がって、夜中まで両親の帰りを待っていた。

それよりも、その横にいるシェフだ。大きな手で力強くおにぎりを握っている。先ほど感じた匂いは、お米の炊けた匂いだったのだ。そして、しっかりと出汁を取った味噌汁の香り。
(中略)
入ってきたのは高齢の男性だ。迷いもなくカウンターの真ん中に座ると、シェフは、すっと大きなお椀に入った味噌汁と、握りたてのおにぎりが載った皿を置いた。
続いてまたカランカラン。
「おはよう、シェフ、千花ちゃん。今朝は冷え込んでいるわよ~」
「早く温かいお味噌汁、飲みたいわぁ。ねぇ、今日の具材は何?」
次々とお客さんが入ってきて、店内は一気に満席となった。今では堤さんもカウンターの中でシェフを手伝って、味噌汁をお椀によそっている。
(中略)
「うまい! 朝はシェフの味噌汁が一番。これがなきゃ始まらないよ。握り飯も塩加減が最高なんだよ」
さっきまで久能さんがいた席に座った小柄な老人が目を細めて味噌汁をすすっていた。テーブルでは毛糸の帽子をすっぽりかぶった、やはり年配の女性二人組が両手で大切そうにお椀を包み持っている。
「ああ〜、温まる。冬の朝一番はきついからねぇ」
「そうそう、始発を待つ駅のホームの寒いこと! この店はまるで天国だよ」
おにぎりを頰張り、ほっこりとした老人たちの顔を眺めるシェフの顔も優しげに見えた。ふと私の視線に気づき、にこっと笑った。
「みもざさんもお味噌汁、いかがですか。今朝はカボチャと油揚げです」
「いただきます」
「みもざちゃん、おにぎりも食べるわよね。シェフの結び加減がいいのよ。何せ、お米はシェフの故郷、米どころ新潟のブランド米。お塩はミネラル豊富でまろやかなゲランドの天日塩。毎日でも飽きないって評判なんだから」
「日本人ですからね」
炊き立てのご飯から立ち上る湯気で、眼鏡を曇らせながらシェフが言う。
(中略)
目の前に置かれた大きなお椀からは優しい湯気がほっこりと立ち上り、ひと口飲んでみると、くっきりとした出汁の中に煮溶けたカボチャの甘みが加わって、じんわりと胃の腑に沁み渡る。
そしてシェフのおにぎりだ。もっちりとした炊き立てのお米の甘さを、まろやかなお塩がさらに引き立てて嚙むほどに甘みが増していく。
「美味しい……」
思わず声を漏らすと、シェフが頷いた。
「一日の始まりですから」

「どうせいつも朝ごはんも食べていないでしょう。これ、飲んでから行きなよ。くたびれた顔しているから」
手渡されたのは、フリーズドライの即席味噌汁 だった。たいてい金田さんはお弁当を持っていく。今日のお昼のお供だったに違いない。
(中略)
私はお湯を沸かして、インスタントの味噌汁をありがたくいただいた。具材は揚げ茄子。金田さんがくれた勇気をゆっくりと体に取り込み、いつもよりも混雑する電車で浅草へと向かった。

「いえ、違うんです。おかげ様で首尾よく行って、祝杯を上げたい気分なんです。だからお誘いしたんですよ。上手くいったのは、お味噌汁のおかげです。それに、知っていますか。『キッチン常夜灯』、あそこ、朝になると、炊き立てご飯の塩むすびとお味噌汁を出すんです。シェフ、真夜中に寸胴鍋いっぱいに出汁をとるんですよ。早朝から働く人たちがそれを楽しみに集まってきて驚きました」

「……温かい蜂蜜入りのワインでも作りましょうか。のんびりしていくといいわ」
「ありがとうございます」
私の不眠を知っている堤さんは、気持ちを鎮めるハーブティーや、カフェインレスのコーヒーなど、色々と気を遣ってくれている。以前、作ってくれた蜂蜜入りのホットワインがとても美味しくて、その夜は眠れそうだと話したのを覚えていてくれたのだ。

「アンドゥイエットです」
監物さんは検分するようにじっくり料理を眺めている。
こんがりと焼き色のついた太いソーセージ。マッシュポテトとサラダ、マスタードが添えられている。脂の焦げる香りがたまらない。
「……うん。うまそうだ。お嬢さん、一緒にいかがですか」
城崎シェフの表情がほっと緩み、すぐに取り皿を用意した。
監物さんは太いソーセージを半分に切り分けると、ポテトやサラダを添えて私の前に置いてくれた。
「せっかく注文したのに、半分でいいんですか?」
(中略)
「お嬢さん、アンドゥイエットは初めて?」
「はい」
「ケイ、説明して」
監物さんに促され、シェフは従順に従った。
「豚の腸に豚肉や内臓類を詰めたソーセージです。内臓といっても、丁寧に処理をして臭みなどはありませんので、安心してお召し上がりください。独特の食感がお楽しみいただけます」
「内臓のソーセージ……」
「フランスには、内臓から血液まで余すことなく使う料理があるんだ。そういう料理が好きな客もわりと多い。内臓はどこを使った」
「胃と小腸、肉は喉肉です」
「まぁ、食べてみてよ、お嬢さん」
私は恐る恐る切り分けて口に運んだ。
断面はかなり粗挽きのソーセージといったところで、口に入れるとしっかりとした食感がある。溶け出した脂が熱でカリッと焼けていて、口いっぱいに旨みが広がった。
監物さんも頷いた。
「うん。悪くない。店によっては詰め物も腸の形がわかるくらいのアンドゥイエットもあるけど、ケイのはかなり細かくしてあって食べやすい。まぁ、それも好み次第だ」
「初めて食べました。美味しいですね」
(中略)
「前にね、肝臓をやっちまったんだよ。やっと退院してここに来たら、ケイの奴、フォアグラを出してきた。さすがにきつかった。知っています? 同物同治っていう薬膳の考え方。体の悪い部分を動物の内臓の同じ部分で補おうって考えらしいんですけどね、病み上がりに出す料理ではない」
(中略)
「ピペラードです」
「お前さんが修業したバスクの料理だな」
グラタン皿のような器の中は、真ん中にポーチドエッグを落として生ハムをたっぷりと載せた野菜の煮込みのような料理だった。
監物さんがさっそく私の分も取り分けてくれた。
ラタトゥイユのような野菜のトマト煮込みの豪華版といったところか。半熟卵がとろりと蕩けて、トマトの酸味と絡み合う。大ぶりのパプリカは甘みがあって、たっぷりの野菜と生ハムのバランスが絶妙だ。
「上の赤い粉はピマン・デスペレットというエスペレット村原産の赤唐辛子で、味を引き締めてくれます。バスク地方はフランスとスペインにまたがっていて、この地方の料理には、大航海時代に新大陸、つまりメキシコのあたりからもたらされたトマトや唐辛子を含むピーマン類がよく使われます」
「美味いな。こういうのがいいんだ。私のような古い料理人は、教科書通りのフレンチしか作れなかった。郷土料理っていうのか、その場所、その場所の美味い料理を食べられるのも、こういう店の良さだよな」

長月天音著『キッチン常夜灯』より

益田ミリとフィンランドとシナモンロールと

フィンランド、エストニア

文中のユーロの円換算が今より3割くらい安い。どこへ行っても日本人だらけ、という記述。観光スポットや有名店の最寄駅からは日本人が大勢歩いているから絶対に道に迷わないとか。マリメッコに並んでいた30人ほどがほぼ日本人とか。パンデミックを経て様変わりしたんじゃないかと思う。ラスベガスや西海岸の観光地も全然日本人を見なくなったので...。
他方、ヘルシンキの人気カフェで日本の芸能人を見かけた、とも書いてある。私が米国でたまたま気づいた日本の芸能人はただひとり、中村玉緒 in ラスベガス。MGMグランドでスロットを打っていた。たぶん、ホノルルあたりではすれ違っているんだろうけど気づいたことがない。そういえば、カリフォルニアのネイティブアメリカン・カジノで韓国の俳優を見かけた。50ドルずつガンガン入れてて目立った。

アカデミア書店の2階のカフェ・アアルトで、オレンジジュースを飲んで一休み。旅の間中、いろんなカフェでオレンジジュースを飲んだが、必ずその場で生のオレンジジュースをぎゅーっとしぼったものだった。氷なしで、なみなみグラスに注いでくれるのも共通である。夕食用に、カンピショッピングセンター内のカフェでフルーツサラダやヨーグルトを買い、その後、地下のスーパーにも寄ってみた。
(中略)
お土産に長ネギのカップスープなどいくつか買ってホテルに戻る。午後8時を過ぎても太陽は明々と輝いていた。

一通り見て回ったあと、港のマーケットへ。ポストカードを数枚買い、港近くのオールドマーケットのスープ屋「ソッパケイッティオ」で昼食を取る。パプリカスープはすっきりとした苦み。レンガ色だ。もろもろとした食感も楽しく、おかわりしたいくらいおいしかったが、並んでいる人もいたのでやめておく。

夕飯はセルフサービスの気軽なカフェで、ショーケースに並んでいたクルミとブルーチーズのサンドイッチを注文するのだが、まったく通じない。
クルミって、「ウォールナッツ」っていうんじゃなかったっけ?
3回くらいやりとりしても通じないので、適当に「イエス」と言ったらトマトとハムのサンドイッチが出てきたのだった。もう、ヨシとする。
トマトとハムのサンドイッチを食べながら、海外旅行、についても考える。

タリンの滞在時間、短く設定しすぎた!
(中略)
帰路の船内では、レストランのビュッフェを利用してみた。日本円で3千円くらい。トナカイ肉の煮込みや、ミートボールなどの北欧料理も並んでいた。
デザートコーナーには危険なものが。ボールいっぱいの生クリームである。ビスケットにつけて食べてみたところ、空気を含んでふっわふわなのに、力強いコク。
どうしよう、生クリームおいしすぎる!
最後は生クリームだけお皿に盛り、コーヒーとともに食べるという暴挙に......。レストランの座席はゆったりした配置で、2時間の席料も込みだと考えれば、ビュッフェレストランはお得かもなと思った。

エスプラナーディ公園にクレープを売る屋台が出ていた。屋台というより、自転車の荷台にホットプレートをのせただけと言ったほうがいいかもしれない。若い男性の店主が大きな声で歌い、客寄せをしていた。めちゃくちゃ適当な感じの歌なのだが、それがあんまり楽しそうなので、みな、つい立ち止まって笑顔に。彼が焼くクレープは、おそろしく分厚く、端のほうは焦げ、歌と同じく適当な仕上がりだった。中学生くらいの男の子たちがおもしろがって買っていた。

4日目はアアルトのカフェで朝食。午前9時のオープンと同時に一番乗りだ。
(中略)
モーニングは4種類。「アアルト」「詩人」「ミュージシャン」「ラツァエロ」。なかなか素敵なネーミングなのだった。
「ミュージシャン」をチョイスしてみた。
黒パン、ヨーグルト、分厚いトマトスライス、同じく分厚いキュウリスライス、チーズ、ナッツとドライフルーツのグラノーラ、フレッシュオレンジジュース、コーヒー。
これでだいたい1300円くらいだろうか。物価の高い北欧では、かなりお得に感じる。見た目よりボリュームがあり、食べ終わるとおなかがいっぱいに。
(中略)
朝食のあとは、電車に乗ってミュールマキ教会へ。光の教会とも呼ばれている、美しい教会らしい。

再びトラムに乗り、今度は「カフェ・スッケス」へシナモンロールを食べに行く。前回のひとり旅のときに、おいしくて感激したカフェである。
コーヒーとともにシナモンロールを注文。食べる。
そうだった!!
前回は店のオープンと同時に入店したから、シナモンロールができたてで、ぬくぬくだったのだ。せっかくなら、またそうすればよかったと大いに後悔。
店を後にし、海が見えるカイヴォプイスト公園へ。
(中略)
その後はトラムで街中に戻り、ヘルシンキ大聖堂の真ん前にある老舗のカフェ・エンゲルで一息。
隣のテーブルのカップルが何やらおいしそうなものを食べていた。見た目はカリっと揚げたハンバーグ。ふたりの会話から、どうやら野菜料理のようである。赤っぽいので人参かもしれない。食べてみたい気持ちがパンパンにふくれあがる。が、しかし、さっきのシナモンロールでおなかはいっぱい。
明日の夜ご飯は、絶対に、ここで同じものを食べよう!
と店を出た。
(中略)
夕飯はストックマンで買ったお惣菜。量り売りなので、少しずついろんなものが食べられる。
チキンとヤングコーンのカレー、ライス、ガーリックポテトグラタン、ロールキャベツ。
これで千円くらい。どれもおいしく、ロールキャベツは、売り場のお姉さんのおすすめ。中にお米が入っていてもちもちしていた。

手早く身支度し、アアルトのカフェまで朝食を食べに。昨日のモーニングセットは量が多かったので、今日はオレンジジュースとプッラにする。プッラは甘いパンのこと。相変わらず店員の女性は感じがよく、弾むように働いている。

「スープランチ、プリーズ」
ワインビネガーがかかった、酸味のあるパプリカスープが運ばれてきた。サラダはビュッフェスタイルで、コーヒーと紅茶も飲み放題。観光スポットから少し離れているので地元客が多く緊張したけれど、おいしくて、もう一度次の日のランチにも訪れたほど。「Café Deja」という店だった。

ハンバーグに見えたのは、千切りにしたビーツを丸くして、フライにしたようなものだった。サクサクしていたので、小麦粉を混ぜているのかも。大量のマヨネーズをつけて食べる。疲れたからだが欲している塩気だった。

朝食はエルプラナーディ通りのカフェ・エスプラナードへ。ショーケースにケーキやパンが並ぶセルフサービスのカフェである。旅の間、何度かお茶しに寄ったが、広いから混んでいても席がないということがなかった。
窓側の席に座り、ホットカプチーノとカレリアンピーラッカ(お粥入りのパイ)の朝ご飯。

カウンターで注文し、先にお金を払うシステムだった。ネットで調べるとサーモンスープがおいしいらしいが、ハンバーガーも有名みたい。メニューに野菜のハンバーガーがあり、それに決める。
(中略)
しばらくして、楕円の城井お皿にのったハンバーガーが運ばれてきた。ベジバーガーが16.9ユーロ。日本円にして2千円ちょっと。グリーンサラダが添えられている。
バンズは見るからにやわらかそう。パクリと頬張ると意外な食感。グリルした大きめの茄子やパプリカである。大豆ミートのパティを想像していたので意表をつかれる。
塩加減もぴったり。おいしい。しかし、半分を過ぎたあたりで、パンとグリル野菜だけというのがものたりなくなり、今度来たときは肉のバーガーにしようと思う。

キアズマのあとは、トラムで老舗カフェ・エンゲルへと向かう。お昼のベジバーガーを食べたのが遅かったので、夕飯は軽めにデザートと紅茶に。
窓辺の席が空いていた。キャロットケーキとルイボスティー。しばし読書タイムだ。旅先で、さらに本の世界に旅する贅沢さよ。
本の世界から戻って顔を上げれば、窓の外にヘルシンキ大聖堂。特等席だ。読書と観光とお茶を同時に行えるひとときを味わった。

缶入りのシードルを何度か買った。甘いタイプ、辛いタイプ、両方試したが、わたしは甘めが好み。ほどよいアルコールで、ほろよい。楽しい一日だったなとホテルのベッドで眠りに落ちる幸せなひととき。
インスタントスープや、チョコレート、マリメッコの紙ナプキンなども、お土産にちょこちょこ購入。日増しに、スーツケースの中がスーパーの棚のようになっていく。

宿泊先の、「ラディソン ブル プラザ ホテル ヘルシンキ」の朝食ブッフェが充実していて、ついつい食べすぎてしまう。甘すぎないシナモンロール、香ばしいライ麦パン、クロワッサンはバターたっぷり。チーズは固形からクリームタイプまで豊富に揃い、豊富といえばヨーグルトもいろんな種類が並んでいる。野菜のソテーには、マッシュルームがごろごろ。サーモンやハムやたまご料理。しぼりたてのオレンジジュースも、ベリーのジュースも本当においしい。ここの朝食ブュッフェを控えめにするには強〜い意志が必要である。
だがしかし、短い旅だ。ホテルの朝食が、昼食兼用になってしまうのはもったいない。今回の旅では、レストランでおいしいランチを食べようと張り切っていたのに、おなかが減らないのは大問題である。
というわけで、強い意志で朝食を飲み物とフルーツだけにして、4日目は気になっていたレストランでランチ。
(中略)
ハカニエミマーケットから歩いて5分くらいの「シルヴォプレ」という店である。
ランチは11時から。混み合う昼時を避けて一番乗り。店の中央にズラリと料理が並んでいた。30種類くらいあっただろうか。さまざまなサラダや煮込み料理。
「好きなのをこの皿に取って、レジで重さを量ってもらえればいいよ!」
(中略)
窓側の席に座り、窓の外を見ながら食べる。
マッシュルームにバジルソースがたっぷりかかったサラダ。おいしい!
カリフラワーのトマト煮込みはちょっとスパイシー。おいしい!
どれもこれもおいしい!
改めて、不思議だなぁと思う。生まれ育った場所からこんなに遠い国へ来て、そこの料理をおいしいと思うこと。おいしいって、不思議だ。

夜、フィンランドでパスタを食べた。黄色いパスタである。
カウンターで注文するとき、
「黄色いパスタを食べたいんですけど」と英語で言うと、すぐに伝わった。デザイン博物館や、老舗のパン屋、おしゃれな雑貨屋があるエリアにある、「ナンバーナイン」というカフェである。
(中略)
黄色いパスタがやってきた。本当の名前は「ポッモ・リモネロ」だとガイドブックには載っている。
レモンが添えられていたので、なにも考えずしぼってしまった。当然、食べるとレモン風味。しまった、先に味見したらよかった。もとの味がよくわからない。
薄味だ。そしてクリーミーだ。香辛料は感じないので、カレーの黄色ではないようだ。じゃあ、この黄色はなんなのか。サフランか。ガイドブックにも味のことは書かれていない。なにかわからないけど、きらいじゃない。おいしいとも思う。レモン風味の黄色い生クリームパスタだ。やわらかい鶏の胸肉が入っていた。
食後はトラムに乗って、おなじみ「カール・ファッツェル・カフェ」へ。
オープンテラスの席でホットチョコレート。ヘルシンキの9月初旬は秋である。なのに、陽が沈むのは夜の9時くらい。長い一日が楽しめる。
(中略)
カールファッツェル[ママ]のホットチョコレートはあっさりしているので、甘い物を欲しているときはものたりない。ケーキも注文すればよかったなと思いながら、店を後にする。

開店したての社員食堂には、まだほとんど人がいなかった。
(中略)
ビュッフェ形式で、カウンターに並んだおかずを皿に取っていくようだ。食器やトレーもすべてマリメッコである。
社員らしき女性がトレーを手におかずを選び始めていた。
よし、あの人をマネしよう。
彼女につづき、あれやこれやと皿に盛っていく。並んでいるのは野菜料理が中心だ。
ブルーベリーのジュースを彼女が選んだので、わたしもマネする。彼女は牛乳も選んだ。わたしは牛乳を飲みたい気分じゃなかった。でもなぜかマネする。最後にパンを切り分け、バターをのせる。レジに進んでお会計。量に関係なく11ユーロ。1500円ほどである。
さて、どこに座ろう。混んできたときにふたり席だと申し訳ないので長テーブルの端にする。料理は薄味でとても食べやすい。大豆ミートのフライ(のようなもの)に、タルタルソース(のようなもの)をかけたのがおいしかった。

パン屋さんでシナモンロールを買い、ジップロックに入れて日本に持ち帰る予定だ。
まずは、港近くの老舗のパン屋「エロマンガ」へ。
店に入ると、小さいけれどカフェスペースもあった。シナモンロールとライ麦パンを持ち帰り用に買い、せっかくなので、コーヒーと一緒に、この店の名物のピロシキを食べていくことに。
ピロシキは、まだほんのり温かく、中はコロッケの具みたいだった。
普通のコロッケが、ポテト9:ひき肉1だとすれば、エロマンガのピロシキの具は、ポテト1:ひき肉9の比率。ひき肉の中に、かすかにポテトを感じる。ヘルシンキでの食事は基本、どこも薄味だった。ここのピロシキもまた薄味でおいしかった。
食べ終わる頃、日本人のカップルが入ってきた。互いに軽く挨拶。ガイドブックで見てきたんですよネ、という照れ隠しのような「おはようございます」である。
トラムに乗り、今度は別のパン屋「カンニストン・レイポモ」へ。ここのシナモンロールは、ヘルシンキ新聞によるシナモンロール・ランキングで1位になったこともあるらしい。店舗はいくつかあり、わたしはヘルシンキ中央駅近くの店へ。
見過ごしてしまいそうな小さな店だ。ショーケースをのぞいてもシナモンロールが見当たらない。
(中略)
店員の女性に、シナモンロールはあるかと聞くと、「ある」という。彼女の背後に山盛りにあった。名物でどんどこ売れるから、ショーケースに並べるまでもないということか。1個買い、一旦ホテルに戻ってゆっくり荷造り。
チェックアウトを済ませ、再びトラムで港のほうへ。去年行ったカフェのスープランチがおいしかったので再訪してみれば、内装はそのまま。店名が変わっていた。メニューを見るとスープもある。ベジタブルスープを注文。ベジタブルの種類は聞き取れなかったが、トマトベースのネギのスープだった。サッとふりかけたバルサミコ酢の酸味が絶妙で、スープ自体にはピリッと辛味も。ものすごくおいしい。この旅の中で一番おいしかった。「Cafe LOV」という店だった。

旅の初日。いろいろあったせいでホテルに到着したのが夕方になり、取りあえず甘い物を食べようとフィンランドの有名チョコレートショップ「カール・ファッツェル・カフェ」へと向かった。
店内は相変わらず混んでいた。旅行客もいるが大勢の地元の人々が気楽におしゃべりしている。
温かいカフェオレとシナモンロールを注文して席に着く。
(中略)
いろいろあったが、とにかくカール・ファッツェル・カフェまで辿り着くことができた。シナモンロールは心に染み入るおいしさだった。

朝、ヘルシンキ中央駅前からトラムに乗って港へ。トラムの路線図が一部更新されていたのでまごまごしたものの、なんとか間に合い10時30分、出航。タリンまで約2時間の船旅である。
この船に乗るのは2度目なので勝手知ったるなんとやら。階段をさくさくあがってデッキ9のフロアへ。セルフサービスのカフェでいちごのスムージーを買い、てきぱきとテーブル席を確保。

昼過ぎのタリンのクリスマスマーケット。
人出はまだそう多くなかった。手袋やマフラーの屋台を中心に、オーナメント、キャンディ、ホットワインを売る屋台が見えた。
じゃがいもと一緒にグリルしたソーセージも売っていた。血合いの黒いソーセージ(ヴェリ・ヴォルスト)はエストニアのクリスマス料理なのだそう。

注文したサンドイッチがやってきた。薄くてパリッとした雑穀パンにアルファルファがたっぷり。トマト、パプリカ、スパイスが効いたカボチャのサラダが挟んである。薄味だが、塩漬けのオリーブやナスのピクルスがアクセントになってちょうどいいバランス。忘れた頃にパイナップルのようなあまい果物が顔を出し、あわい、からい、あまいが絶妙だった。
あと少しでラエコヤ広場のクリスマスマーケットが輝く時間である。食後の熱い紅茶を飲みながら夕日が沈むのを待った。

ノンアルコールのホットワインがあったので買ってみた。テーブルに干しぶどうやカットしたオレンジが置いてあり、お店の女の子がホットワインに入れるようすすめてくれた。ほのかな酸味。香辛料でちょっとスパイシー。両手を温めながらマーケットをゆっくりと歩く。シベリアンハスキー柄のミトンを見つけてお土産に買った。
そうだった。チョコレートドリンクを飲みに行かねば。前回時間がなくて寄れなかったカフェがあったではないか。
(中略)
店に入る。アンティーク調の家具が置かれていた。ホットチョコレートは予想以上に甘かったが「行けた」ことに大満足! もう、これで心残りはない。

ホテルの部屋で湯を沸かし、カップスープの晩ご飯。チーズ味。ショートパスタが入っていた。おいしかったので5個くらい買い足して土産にした。

クリスマスマーケット内でドーナツを食べている人がいた。どこだ? どこだ? 探していたら揚げたてドーナツの屋台があった。ホットコーヒーと一緒に買ってベンチに座る。
ドーナツにはシャリシャリの砂糖がたっぷりかかっていた。
そっと頬張る。
こーゆードーナツを、ずっと、わたしは、食べたかったんだーっ。
心の中でドーナツを叫ぶ。サクサクしていない。でも、パンみたいでもない。そういうドーナツ。
なんておいしいんだろう......。なんだか泣けてきそうだった。
おいしい余韻のままクリスマスマーケットを見てまわる。手作りジャム、キャンドル、アクセサリー。もちろんホットワインの屋台も。フィンランド名物のお粥入りパイ「カレリアンピーラッカ」の屋台には行列ができていた。
冷えてきたので一旦、ホテルへ。夕方には独立記念日のパレードがあるらしいので見に行くつもりだ。それまでちょと一休み。
部屋に戻るとチョコレートと英語のメッセージが置いてあった。
「ありがとう! チョコレートをあなたに」
そうだった。朝、部屋を出る前にチップを枕の下にしのばせたのだった。フィンランドではチップ不要なのだが、今日は祝日なので「独立記念日おめでとう」というメッセージとともに5ユーロを。チョコレートはそのお礼なのだ。
喜び合えたことが嬉しかった。

冷えたからだを温めに「カール・ファッツェル・カフェ」へ。
店の扉を開いた瞬間、チョコレートの香りに包まれる心地よさ! 室内は暖かく、テーブルでは老若男女がおしゃべりを楽しんでいる。お酒もあるので、ひとりでワインを飲んでいる女の人もいた。
わたしはカプチーノ。
(中略)
ちなみに、ヘルシンキで紅茶を注文すると必ず種類を聞かれるので、最初から「ルイボスティー」と注文している。どんな発音で言っても「ルイボスティー」ならわかってもらえる。心強い飲み物である。
お茶していたら、店内に知っている顔があった。日本の芸能人だった。

そうだ、今日はおいしいスープを飲もう!
スープ専門店「ソッパケイッティオ」のスープを飲むため、ハカニエミマーケットまで地下鉄で。
(中略)
スープ屋がオープンし、一番乗りで席に着く。本日の野菜スープはトマト。角切りチーズが入っていた。どんぶり一杯あるのでスープだけでおなかいっぱい。なのに、そのあとマーケット内のカフェで生クリームたっぷりのドーナツを注文するわたし。クリスマスマーケットでおいしいドーナツを食べて以来、からだがドーナツを欲している。おそろしい現象である。

夕飯を食べにおなじみ「カフェ・エンゲル」に行く。窓からヘルシンキ大聖堂が見える老舗のカフェだ。
(中略)
ビーツのハンバーグがやってきた。ビーツのパテは2段になっており、グリルしたマッシュルームが添えられている。相変わらずマヨネーズの量がすごい。怖いもの見たさでまた注文してしまった。

翌朝の日曜日はヘルシンキ市の隣、エスポー市にある近代美術館へ。
(中略)
美術館の1階にはカフェがあり、紅茶とベイクドチーズケーキで一休み。林の中にある静かな美術館だった。

「カフェ・アアルト」には、わたしが好きなお姉さんがいた。よかった、今年も会えた。優しい笑顔で元気よく働いている。
サッと日本語メニューを持ってきてくれた。カフェラテとサバランを注文する。サバランは一口サイズで、たっぷりとお酒が沁みてものすごくおいしかった。味見程度と思い1個しか頼まなかったことが悔やまれた。
夜はストックマンのデパ地下の惣菜コーナーであれこれ買ってホテルの部屋で、部屋着に着替え、テレビを観ながら気楽に食べる。

まだ暗い中、といっても8時過ぎだが、トラムに乗って「エクベリ」へ。ヘルシンキ一老舗のパン屋さんだ。店頭には大好きな菓子パン、バタープッラが並んでいた。この店のバタープッラはスパイスの香りがする。たぶんカルダモン。生地はしっとり。しかしブリオッシュのようなパサつきもあり、一度食べたらクセになる。
日本に帰ったら熱いコーヒーと一緒に食べよう。
そう思うと旅がまだ少しつづく感じがする。
買い物のあと、せっかくなので隣のカフェで温かいカプチーノを飲む。

わたしの最後のミッションは、「ミシュランガイドに載った店でランチを食べてみる」である。
デザイン博物館からすぐの場所にある「ユーリ」という店で、サパスという小皿料理が有名なのだとか。予約はしていないので、オープンと同時に攻め込む作戦である。
(中略)
すぐにメニューを持ってきてくれた。クリスマスメニューの一択であったが、コースによって品数が違うようだ。
「短いコースはありますか?」
と聞いてみた。
ある、という。
3品のコースでメインはチョイスできるらしい。
ポーク、または「なにか」。
パイという単語だけ理解できた「なにか」のほうにしてみる。
しばらくしてパンがきた。クリーム状のバターみたいなのが別添えになっている。あとでわかったが、これが1品目だった。
(中略)メインは魚のすり身の上に薄いパイ生地がのった料理だった。はんぺんを焼いたヤツにかなり近い。ふわっとして淡白。付け合わせはグリルした野菜だったと思う。

オールドマーケットを後にして、最後はお気に入りの「カフェ・エスプラナード」へ。ホットのカフェオレを注文したら、きれいなガラスのコップで出てきた。

益田ミリ著『考えごとしたい旅 フィンランドとシナモンロール』より