たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

レモンの砂糖漬け『ファイア・ドーム』

好きな作家の新刊が出るというのは嬉しいものだな。といっても、あらすじを見て青少年が主人公の作品や、ファンタジーみがありそうな作品には全然手を出していない。そっち方面に評価が高い作品が多いのは知っているのだが、なんというか面倒に感じる。

「ちょっと待って」
その袋を、ごそごそ光汰朗のお母さんが探る。「何かなかったかな」と呟きながら。やがて、小分けに四連つながったグミの袋を取り出すと、その一つをその場で切り離して、「これ」と速斗にくれた。
「来てくれてありがとう。よければもらって」
「はい」
袋を受け取り、リュックにしまう。光汰朗、このグミ好きなのかな、オレと一緒だな、と思いながら。

最初の料理が運ばれてくる。刺し身の盛り合わせの皿を置いた店員に、吉沢が「 生、おかわり」とジョッキを上げて見せ、残っていたビールを流し込んだ。

保護者の作ってくれたレモンの砂糖漬けを一人一つ食べるように言われ、脱水防止のために、冷えたスポーツドリンクを手渡される。速斗の母親は、今日は同窓会の集まりがあるとかで応援に来られなかった。練習試合なんてたくさんあるから、毎回行かなくてもいいと思ったのかもしれない。
せっかくゴールを決めたのにな、と少しばかり残念な気持ちになる。
「ほら、速斗くん、活躍したんだから、レモン!」
速斗と同じ四年生の潤平のお母さんに言われる。けれど、速斗はレモンをそのまま使った砂糖漬けは酸っぱすぎて苦手だ。「これ、食べるからいい」と母親に持たされた、薬局で買った塩分補給のタブレットをバッグから出して口に放り込む。
頰っぺたの内側に、タブレットのレモンの酸味が沁みていく。

座った状態で、もう少し肩をほぐしてもらってから、温かいお茶を出された。しょうがの香りが微かにするここの玄米茶が、美冬は大好きだ。

哲朗の帰宅時間が遅いなら遅いで構わないし、それなら尚更、光汰朗と絵梨は二人きりで食べるより自分たちと一緒に夕飯をとる方がいいのではないかとも思ったが、高齢の忠治たちと光汰朗とでは好むメニューがまるで違う。ハンバーグと煮魚がまったく別の食卓のように並ぶことを、好美も絵梨も内心では気にしていたのかもしれない。

昨日の夜、晩ごはんを食べていたら、速斗の家の電話が鳴った。
速斗は、テレビを見ながら弟の結斗や両親と一緒にカレーを食べていて、電話は、母が取った。

「──もし行くなら、角の和菓子屋の塩 羊羹 を買ってってやれよ。浅川さん、支局に異動してからはなかなか食えなくなったって前に文句言ってたから」

線香の匂いにまじって、台所の方から米が炊ける匂いが漂い始めていた。捜索してくれる人たちにふるまうため、この家では数日前から常に好美や絵梨を中心に女性たちが握り飯を作っている。今も、朝からやってきた近所の主婦たちがあわただしく立ち回る気配がしていた。

あまりに多くのことがあって疲れ、夕食が、苦手な魚の煮つけだったこともあってほとんど食欲がわかない。

遠慮がちに黙り込む二人の間に、光汰朗の母親がお茶を運んできた。
お構いなく、と伝えたけれど、彼女たちは美冬のために紅茶とケーキを用意してくれていた。美冬が遠慮すると、「この子も一緒に食べますので」と言われた。
「先生と一緒に食べるケーキを、今朝、病院の帰りに選びに行ったんです。楽しみにしていたので、ぜひ」
[中略]
「先生にお願いがあるんだけど」
光汰朗が選んでくれたというモンブランを、彼らの厚意に甘えて皿の上に載せてもらうと、光汰朗がふいに言った。

「もし迷惑でなかったら、先生、野菜、持ってくか」
「え?」
「今朝穫れたトマトと茄子がちょうどある。他に、ちょっと待っててくれたら、下の畑でもろこしを──」
「お父さん、ご迷惑だよ。先生、自転車だから」

注文したペスカトーレのスパゲッティが目の前に運ばれてきても、食べる手がなかなか進まなかった。彼女たちに会う前、あんなにも不安だったのに、まったく知られていないことがわかって今度はとても複雑な気持ちになる。

その言葉を母に伝えると、母が「光汰朗くんって、市販のお菓子とか食べられそう?」と聞いてきた。
「アレルギーがあったり、添加物NGの方針の家もあるから。市販のお菓子でよければお土産に持って行きなさい」
「たぶん、大丈夫。前に光汰朗のお母さんからグミもらったし」
言いながら、あ、このことはナイショにしてたんだった、と今更気づく。[中略] 速斗の隠しごとに母が気を留めたのかどうかはわからない。母は「そっか。じゃ、いいかな」と言って、ポテトチップスと筒型のクラッカーを紙袋に入れて持たせてくれた。

山道を登り続けると、目的も忘れて、みんなで遠足にでも来ているような気持ちになる。「食べる?」と光汰朗が肩掛け鞄からグミを出してくれて、それを分け合って食べながら、小蒔山をどんどん登っていく。

『新沼さんから、新米を送っていただきました。私と、祐介のところにそれぞれ』
はっとして、息を吞んだ。
『丁寧に包んであって。来年も送ってくれると書いてありました。──とても、おいしかった』
暁は、感情をあまり声に出す人ではない。だけど、その暁の声の語尾が、明らかに膨らんだ。喜びと、光に。
──笑ったのだとわかる。

(辻村深月著『ファイア・ドーム』より)

揚げじゃがバター『そして誰もゆとらなくなった』

朝井リョウのエッセイは1冊分は読み通せない。くどくて途中で拾い読みに入ってしまう。年かもしれない。でもその点、筆者も好きだというさくらももこは名人であった。今もときどき読み返したくなるし、しかもそのたびに「フッ」て笑っちゃうもんね。

「それでは、コースを始めますね」
私に人生をざっと把握された料理長が、会話を繋いでくれる。こういうとき、テーブルの上の景色がどんどん変わるコースはありがたい。
決め打ちで誘っていただいたお店というだけあって、天ぷらはとてもおいしかった。旬の食材をシンプルに塩やレモンでいただくのはまさに大人の楽しみ方といった感じで、普段のソースやマヨネーズに埋もれるような食生活では味わえない旨味がそこにあった。特殊な油を使っているらしく、どんな食材でも全くしつこくなくさくさく食べられる。先生は健康のためお酒も飲まれないようだ。私も健康のため──ではなく「アルコール、全部苦くない?」と思ってしまう舌の持ち主なので、普段から飲酒はしない。かしこまった店でお酒を頼まないことに関して気を遣わなくていいというのも、ありがたかった。

ざく切りの旬の食材、上質なストールのようにこっそり本体を包んでいる衣、塩とレモンの風味が引き立てる素材独自の甘味……そんな上質な料理と共に味わう話の数々は、余計に粒立って聞こえた気がした。

今日のお店だって、若者が好きな揚げ物と健康的な食べ物の 折衷案を考えてくださったのかもしれない。揚げ物とはいえ、良質な油で様々な種類の野菜や海鮮を食べられるこの店は、ガツンと満腹になるような劇薬的なインパクトはないにしてもじゅうぶんな満足感を得られる。健康的でヘルシーなのに美味しくて満足感があるだなんて、なんて素晴らしいチョイスなのだろう。
「では、もうあと数品なのですが」 
図らずも私に人生をざっと把握されている料理長が、カウンターの向こう側から皿を差し出してきた。
「揚げじゃがバターです」
ゴクリ──。
私と先生の喉が、同時に鳴った。

真っ白い皿に、堆く積まれているのは揚げられたジャガイモ。少し厚めにスライスされた十枚ほどのジャガイモの間には、これまた少し厚めにスライスされたバターがその都度挟まっている。熱々のジャガイモの間にあるバターが溶け、今にも倒れそうになっている塔に、ぽたりぽたりと茶色い液体がかかる。
「醤油をかけて、熱いうちにお召し上がりください」
私と先生は、すごい勢いで糖質と脂肪を摂取した。ガツンと満腹になるような劇薬的なインパクトに、頭がビリビリと 痺れた。突如現れたこの世の全背徳感を凝縮したようなその料理は、変なホルモンがビュービュー分泌されたのかと思うほどおいしかった。

そこには、この日までに画像や紹介文を何度見直したかわからない、クリスマスの幕開けに相応しい上品なホールケーキが鎮座していた。王道の、苺のショートケーキだ。ふんわりと香る甘い匂い、職人の熟練の 業 が生み出す生クリームの曲線美と、瑞々しく輝く苺の張った肌。このシーズンの主役は私でしょうと言わんばかりのそのクラシックな佇まいに、私はうっとりした。やはり一つ目のケーキをキミにして正解だったよ──。

その後、Dが予約してくれていた海鮮料理店で夕飯を摂った。生ガキ、ウニ、エビ、貝類、カニ等が山盛りになって出てきたので皆ワイワイ大騒ぎだったのだが、Dは殆ど箸を動かさず、やがて「生ガキ、ウニ、エビ、貝類が食べられないんだ」と神妙な面持ちで告白した。

そんな中、ある日私は、某パティスリーのケーキをクリスマスに絶対に仕留めたいと、固く決意することになる。
というのも、たまに開催している【甘党仲間と集って思い切りスイーツを楽しむ会】において、素晴らしく好みのパティスリーに出会ったのだ。その店舗はもともと気になっていたものの、いつでも行列という噂を耳にしていたので、若干敬遠していた。でも行列も友人と並べば楽しいということで、その会で訪問することにしたのだ。結局、3人合わせて20個弱テイクアウトし、私の自宅でたっぷり時間をかけて味わったのだが、本当にどれも噂に違わぬ美味しさで感激しっぱなしだった。
唯一納得いかなかったのは、シャンティフレーズ、いわゆる苺と生クリームのショートケーキが直方体にカットされていた点だ。私は、特に生クリームが使用されているケーキに関しては断然、扇形派だ。だってあの形じゃないと、最背面の生クリームたっぷりゾーンをじゅうぶんに楽しめないではないか。こと生クリームのケーキに関してはあのゾーンを楽しむために選んでいる節もある。断固として扇形派!
そのパティスリーのシャンティクリームは甘みとコクが豊かなのにふわっと軽い食感で、本当に私の好みだった。でも直方体だったのだ。てか初めにこの形に切ったやつ誰? オシャレって理由でこうしてるなら考えを改めてもらいたいねェとコーヒーが日本酒にすり替わったくらい管を巻いていると、会のメンバーの一人が「じゃあホールで買えばいいじゃん、クリスマスに」と言った。調べてみると、そのパティスリーのクリスマスラインアップのメインは、ホールのシャンティフレーズだった。
その年のクリスマスケーキが決まった瞬間だった。

(朝井リョウ著『そして誰もゆとらなくなった』より)

"Ten Steps to Nanette"「メインランド」の夜

自分の稼ぎでアチーブメントの場に親に同席してもらう晴れがましさ。超わかる。

When my parents had made the trip to Melbourne to see my second show at the Comedy Festival ten or so years earlier, I had taken them out for dinner afterward at a nice restaurant in the city and can still remember the feeling of pride spilling out from all of us. There we were, eating fish-and-chips on white tablecloths on the mainland. And I was paying. 

(Hannah Gadsby, Ten Steps to Nanetteより)

由美ちゃんとローナにキュウリとナスをお裾分け『女房が宇宙を飛んだ』

「由美ちゃん」とは、ヒューストンの向井博士夫妻自宅の隣家に住むNASA勤務(当時)の女性だが、千秋氏の両親が渡米してきたときに「群馬の我が家の近くに住んでいる由美ちゃんそっくり」と言ったのを機に向井家では「由美ちゃん」と呼ぶようになったという。内輪のあだ名あるあるでウケる。

また、「ローナ」は宇宙開発事業団ヒューストン事務所の現地採用員(当時)で、エリソン・オニズカ宇宙飛行士の夫人である。

というわけで、この日の朝の食事は、前の晩からたっぷり眠って起きたレッド・チームにとってはふだんどおりの朝食。しかし、朝の5時半ごろから2時間ほどの仮眠だけをとって起きたブルー・チームにとっては夕食となる。
女房は、朝食だというのに、たっぷりと食べた。オレンジ・ジュース、パン、卵、サーロイン・ステーキ。すでに宇宙飛行経験があるキャバナ機長などは、紅茶をわずかに飲んだだけですませている。女房は、私って宇宙飛行前にしては食べすぎなのかしら、とも思ったが、緊張で食欲がないというわけでもないし、いつもと同じように食べられるんだから好きにしようと思った。それに、模擬訓練のときも同じようにたくさん食べたんだし。

「ドクター・ムカイ、打ち上げが無事にいってよかったね。テレビで見たよ」
「ありがとうございます」
「どうかね、カフェテリアでいっしょに朝食をとらないかね?」
教授といっしょに朝食をとるなんて初めてのことだ。私はうれしかった。教授は、女房が乗り込んだスペースシャトルの打ち上げが成功したことを本当に喜んでくれているのだ。これってけっこう幸先イイじゃん、と私は心の中でほくそえんだ。
7時前の病院内カフェテリアは空いていた。出勤したばかりの数人の医師、看護婦が白衣姿で朝食をとっているだけだ。同じように白衣姿の私たち二人は、イングリッシュ・マフィンとコーヒーを手にして壁際の席に向かった。まわりの席には誰もいない。

女房は、アメリカにいるときは必ずキュウリとナスを自宅の庭で栽培していた。自宅で栽培した野菜を食べるのが女房は大好きなのだ。で、きちんとキュウリとナスに水をやるように、と私に厳しく命じて女房は宇宙に行ったのだ。出発前の女房から私への伝言はそれだけだったといってもいい。私がフロリダに行っていた間は、近所のおじさんに頼んであった。これからは私の大事な役目だ。
庭に出てみると、キュウリもナスも今が盛りと実っていた。女房は宇宙に行く前にたらふくキュウリとナスを食べている。しかし、食べ飽きるということがないのだ、私の女房の場合は。宇宙から帰ってみたらキュウリとナスが枯れていたなんてことになったら、どんなに悲しむことか。

私たち夫婦は毎日キュウリとナスをたらふく食べていたが、ほかのご家庭では全然食べていないということだ。で、私は女房に提案したのだ。
「ねぇ、チアキちゃん、キュウリとナスをほかの家にも分けてあげようよ」
ところが、女房はこう言うのだ。
「ナンデ? マキオちゃん、キュウリとナスがおいしくないの?」
「いや、とってもおいしいよ」
「だったら、ナンデ人にあげなきゃいけないの。私たちだけで食べましょうよ」
「でもさぁ、オレたちだけでこんなにたくさん食べる必要もないんじゃないの。オレたちって、ここんとこ草食動物みたいだぜ」
「いいの。おいしいものはいくら食べても」
私の女房は驚くほど物欲のない女だ。ところが、たった一つだけ例外があって、それが食べ物なのだ。おいしいものは、どんなにたくさんあっても絶対に自分で食べ切ってしまうのだ。人に分けてあげるという発想がまるでない。おいしいものを自分が食べないで人にあげるということが理解できない。
でも、私は心配だった。ほかのご家庭では噂しているのではないか。〝向井さんちって、自分のところだけあんなにキュウリとナスが穫れてんだから、少しくらい分けてくれたっていいのにねぇ〟。で、私は女房に言った。
「ねぇ、チアキちゃん、チアキちゃんが宇宙に行っている間は、キュウリとナスをほかの家にも分けてあげるよ、オレ」
「ダメ!」
「そんなこと言ったって、これまでは二人だから食べ切れたけど、オレ一人じゃ食べ切れないよ」
「マキオちゃんが一人で食べなさい、おいしいんだから」
[中略]
私は我が家のキュウリとナスを他人に分けてあげる手始めとして、由美ちゃんとジャックにキュウリとナスをあげることにした。
私が大きく実ったキュウリとナスを数個ずつ由美ちゃんとジャックにあげると、二人はとても喜んでくれた。由美ちゃんは喜ぶだけではなく、キュウリとナスを空に向かって差し出しながら、大きな声で空に向かって言った。
「チアキのキュウリとナスをもらったわよ。サンキュウ、チアキ!」
ほら見ろ、キュウリとナスをあげると、みんなこんなに喜んでくれんだよ、チアキちゃん!

基本的に、長期保存できるものは何でも宇宙にもっていって食べられる。そんなのは当たり前ではないか。だから、基本的に、缶詰なら何でもオーケーだ。レトルト・パック製品もしかり。スペースシャトルに用意されているオーブンで温めておいしく食べられる。凍結乾燥食品もしかり。スペースシャトルに積み込まれた特別な給水装置から水か湯を入れておいしく食べられる。宇宙飛行士たちは意外と恵まれた食生活を宇宙でしているのだ。
こうしたじつにおいしい食料を宇宙にもっていくわけだが、街のスーパーで売っているものを買ってもっていくわけではない。すべてNASA特製のものばかりなのだ。これにはわけがある。万が一、食料に細菌が混入していて、乗組員が宇宙で食中毒になったりしたら大変だからだ。

いったいどんなものを女房は朝食として食べていたのか。まず、プリン。我々が普通買って食べるものと変わらない。ふたを 開けてスプーンで食べる。甘くておいしい。次に、スープ。チキンコンソメスープ。凍結乾燥された粉に湯を入れて食べる。おいしい。それから、乾燥洋梨をかじる。甘くておいしい。
食べ終わったところで、女房はリック・ヒーブとともに実験室に向かうわけだが、その前に、決心していたことを実行に移した。凍結乾燥された粉に湯を入れてレモネードを作ったのだ。しかも、2本。女房は、この2本のレモネードをもって、ミッド・デッキから実験室に通じている通路をプカプカ飛んでいった。実験室の中では飲食禁止なので、1本のレモネードは実験室に入る前に通路の床にマジックテープで貼り付けておく。実験中に水分が欲しくなったら、そこまで来て飲むのだ。では、もう1本は? これは、実験室内にもち込んだ。ナント、それを女房は湯たんぽとして使うのだ。宇宙で実験を開始してから女房には気づいたことがあるのだ。実験室の中が妙に寒く感じると……。

私には、腰を下ろす前にやっておかなければならないことがあった。両手にもったビニール袋5つをローナの前のテーブルに置きながら、私は言った。
「ローナ、これ、穫りたての我が家のキュウリとナス。皆さんに差し上げるためにもってきたんだ。この袋はローナの分。あとは、駐在員の皆さんにローナから渡しておいてくんない?」
ローナはニコニコしながら受け取ってくれた。
「まぁ、うれしいわね。今夜のオカズはキュウリとナスにするわ。娘たちも喜ぶわ、きっと」

(向井万起男著『続・君について行こう 女房が宇宙を飛んだ』より)

鮮やかな朝の楽しみ『悲しみよ こんにちは』

たぶん20年ぶりの再会。

アンヌが顔も上げないので、わたしはコーヒーカップとオレンジを一個持って、ゆったり石段にすわり、朝の楽しみにとりかかった。まずオレンジをかじる。口じゅうに甘い果汁がほとばしる。続いて、やけどしそうに熱いブラックコーヒーをひと口。それからまた、さわやかなオレンジ。朝の太陽がわたしの髪をあたため、肌についたシーツの跡を消していく。あと五分で泳ぎに行こう。
そのとき不意にアンヌの声がして、わたしは飛び上がりそうになった。
「セシル、食べるものは?」
「朝は飲みものだけでいいの。だって......」
「あと三キロは太らないと。見場をよくするにはね。頬がこけてるし、あばら骨が見えるわよ。バターを塗ったパンを取っていらっしゃい」
そんなものを押しつけないでとわたしがたのみ、アンヌがどうしても食べたほうがいいと理由を言いだそうとしたとき、父が、おしゃれな水玉もようのガウン姿で現れた。

シリルがコーヒーをとりいってくれた。エルサはしゃべりにしゃべった。見るからに、わたしを非常に頭の切れる人間だと思って、信じている。コーヒーはとても濃く、とても香り高かった。太陽がわたしを少し力づけてくれた。

あたりがしんとした。それからアンヌの声がした。いつもながら落ち着いた声が。
「レイモン、お店の人にストローをたのんでくださらない? オレンジのフレッシュジュースには、ストローがないと」
シャルル・ウェッブは、すごい勢いで次々とソフトドリンクを飲み干した。父は大笑いして、急にグラスの中身に集中しているふりをした。アンヌはわたしに、たのみこむような視線を送ってくる。そしてわたしたち一行は、みんなで食事をすることを即座に決めた。あやうく仲たがいしそうになった人たちのように。
食事のあいだ、わたしたちはお酒をいっぱい飲んだ。

そのとき、ドアにノックの音がした。わたしは大急ぎでパジャマの上をはおると、叫んだ。
「どうぞ!」
アンヌだった。手には注意深くコーヒーカップを持っている。
「少しコーヒーがいるんじゃないかと思って......そんなに気分悪くない?」
「とっても元気。ゆうべはちょっと酔っぱらったみたいね、わたし」
「一緒にでかけると、いつもそう......」アンヌは笑いだした。「でも、私の気をまぎらせてくれたことは確かね。ゆうべは長かったわ」
わたしはもう太陽にも、コーヒーの味にさえも、気持ちが向かなくなった。アンヌと話しているとすっかり心を奪われて、自分が存在していないようになってしまう。

(フランソワーズ・サガン著、河野万里子訳『悲しみよ こんにちは』より)

ボーヴォワールとパン粥『娘時代』(1)

私が持っているこの本は1964年刊行の11刷。2段組み340ページで文字は7ポイントくらいの小ささ。裏面には「450円」と書かれている。
朝吹登水子の訳はこの装丁には合っているが結構問題あり。

ルイーズとママンの主な仕事は、私に食べさせることだった。彼女たちの努力は必ずしも用意ではなかった。世界は、私の目や手よりももっと直接(じか)に私の口から入って来た。私はその全部を受け入れなかった。青麦のクリームの味気なさや、オートミールや、パン粥は私に涙を流させた。脂肉や、貝類などの妙にねばっこい感じは不愉快だった。嗚咽、泣き声、吐き気......私があんまり頑として嫌うので、母たちはそれを強制することをあきらめた。それにひきかえ私は、美しさ、奢侈、幸福が食べられるものであるという子供の特権を大いに利用した。ヴァヴァン街のキャンディー屋で、私はぴかぴかした果物の砂糖漬けや、にぶく玉虫色にひかる果物ようかんや、緑、赤、オレンジ、紫の色さまざまのキャンディーに眩惑わされ、立ちすくんだ。私は、それらから約束されている喜びと同じぐらいに、それらの色彩に見とれた。運良く、私のあこがれはしばしば快楽に終ることができた。ママンは鉢の中で巴旦杏を挽き砕き、そのつぶつぶの粉を黄色いクリームに混ぜた。キャンディーのバラ色のぼかしはすばらしいニュアンスをもっていた。私は、スプーンを夕陽のようなお菓子に突っ込んだ。両親がお客を招いている夜は、客間の鏡はクリスタル・ガラスのシャンデリヤの光をきらきら反射させていた。ママンはグランド・ピアノの前に坐り、チュールの服を着たひとりの婦人がヴァイオリンを、そして従兄のひとりがセロを弾いた。私は歯の間で、果物をつつんだお菓子の皮をぼりぼりいわせた。黒すぐりとパインアップルの味のする泡がぷんとした。[中略]
私は、川の水のかわりに牛乳が流れたり、蜂蜜が流れたりするお伽の国にひきつけられたことは一度もなかったが、お菓子の国のタルチイヌおばさんのお菓子でできた部屋は羨ましかった。私たちが住むこの世界がもし全部食べられるものでできていたら、断然世界を脚下に置くことができるのだが! おとなになってからの私は、アマンドの花をむしゃむしゃ食べてみたかった。ニューヨークの空を背景にしたネオン・サインは巨大なお菓子のように見え、食べられないのが残念だった。
食べるということはひとつの探検や征服ではなく、それは私のやるべきもっとも重要な仕事だった。
《さあ、ママンのためにひと匙、おばあちゃまのためにひと匙.....食べないと大きくなりませんよ》

私は節度のある食欲をもって、医者の処方した食餌療法の口絵を眺めた。チョコレートをカップに1杯、半熟卵、狐色のカツレツ。

(シモーヌ・ド・ボーヴォワール著、朝吹登水子訳『娘時代 ある女の回想』より)

ちゅるちゅるめんめん『マザーズ』(1)

今朝、礼拝が始まる前、立ちションをしているおじさんを見かけた。ハレルヤすぎる。

夜9時半過ぎ、私はイタリアンレストランでオギちゃんとジントニックを片手にボロネーゼのパスタを食べていたはずだったけれど、本当は小学校の鶏の飼育小屋周辺で土を掘り返し石をひっくり返し、ミミズをわんさか捕獲しては貪っていたのかもしれない。

キッチンでペットボトルからコップに水を注ぎ一気に飲み干すと、パックの野菜ジュースにストローを差し輪に手渡した。

ロールパンとハムと作り置きしておいたゆで卵を皿に載せる。毎朝、目覚めと同時に空腹を訴える輪のため、二日酔いの朝も睡眠時間1時間の朝も容赦なく叩き起こされ朝ご飯をせがまれる私のストレスを緩和するため、朝ご飯は2分以内で出せる物に限定している。キッチンから出た私の手元を見て、輪は不服そうな顔をした。
「ちゅるちゅるめんめん、ためたい」
イヤイヤ期特有のとりあえず拒否という様子ではなく、何か切実なものを感じさせる言い方だったため、目の前に出したらはたき落とされるかもと、ローテーブルに皿を置き、輪の隣に座った。

保育園へお迎えに行き、近くのスーパーに寄って輪の好きなヨーグルトや、ワインやシャンパンを買い込むと、ベビーカーに乗ったままヨーグルトを大事そうに抱える輪と歌を歌いながら帰宅した。

ソファに腰かけるとオットマンに足を乗せ、ゆっくりと時間を掛けてハーブティーを飲み干した。持病や体調、メンタル面をカウンセリングし、一人一人にオリジナルの配合をしてくれる専門店で購入しているハーブティーを飲み始めてから、冷え性と原因不明の鼻炎が良くなった気がする。

ここ最近、半ばオカルティックなハーブティーや健康食、ホメオパシーにまで手を出すようになったのは、子宮筋腫の事があったからだ。
セロリの煮浸し、根菜の味噌汁、玄米、納豆。朝ご飯を作ると、携帯を開いた。メールが届いていない事を確認して、不安を無視するようにカメラを起動させ、ご飯に向けてシャッターを切った。

ハンバーグを半分以上残して実家を後にし、誰もいない家に帰ると、弥生をお風呂に入れて寝かしつけた。

左手にクラッチ右手にシャンパングラスという格好で、給仕係からマカロンを受け取りぱくんと1個口に入れた瞬間、五月ちゃんと声を掛けられた。

ライブが終わった頃、入り口の方から土岐田ユカが口をもぐもぐとさせながら手を振っているのに気がついた。よく見ると、その手の親指と人指し指の間に2つか3つ、マカロンが挟んである。

輪を寝かしつけてしまうと、WOWOWの二流映画を観ながらワインの栓を抜いた。おつまみ用に買っておいた瓶詰めのピクルスを開けると、二人で交互に箸を突っ込む。 美味しい、美味しいね、これ美味しいねほんと、と唸るようにして私たちはキュウリやヤングコーン、タマネギやカリフラワーのピクルスをどんどん食べていった。
「何か、今本当に体が必要としてる物って感じがするなあ」
「うん。染みるって感じ。やっぱりお酢って体に良いんだろうね」
「子供の頃って、こういうの嫌いだったけどな」
「私も。ハンバーガーから出して捨ててた」
[中略]
「若い頃ってさ、食べ物ってそんなに好きじゃないじゃない?」
央太はそう言って、グラスにワインを注ぎ足した。彼は大学生の頃、半年間カロリーメイトだけで生きていた事があるという。

ジントニック、和牛のタルタル、エビのフリット、カルボナーラを注文すると、オギちゃんはそこにシャンディーガフを付け加えた。オギちゃんがシャンディーガフ以外の酒を頼むのを見た事がない。お酒は甘いものしか飲めないと、前に言っていたような気がする。

NHKの教育番組を点け、炊飯器に残ったご飯でニンジンとじゃがいも入りのおじやを作り、一弥を椅子に座らせ首にスタイをつける。母乳を飲み終えたばかりの一弥は、おじやを手づかみでテーブルに広げるばかりで、一向に口に入れようとしない。椅子の下にはビニールシートを敷いているが、たまに飛び散るおじやがシートを越えそうになってはらはらする。濃い煮物や油を使ったものを食べるようになったら、カーペットを外すしかないかもしれない。

母親が黙り込んでパウンドケーキを食べ始めると、携帯を開いてブックマークから「view」というサイトへ飛んだ。IDとパスワードを空で入力し、操作ボタンをクリックして1歳児クラスから0歳児クラスへカメラを動かす。

ソーセージエッグマフィンにしよう、ユカは独りごち、先にカウンターに向かった。私はしばらくメニューを見上げてから、ユカの後ろに並んだ。注文を終え出来上がりを待つユカの隣に立ち、ホットドッグのセットを頼んでお金を払うと、隣でユカが大量の小銭を募金箱にじゃらじゃらと詰め込んでいくのを見やり、何してんのと苦笑する。

おどけて言う待澤の脇腹を軽く小突いて、運ばれてきたシャンパンを飲み始めた。何食べたい? と聞く待澤に「マンゴーとアボカドのサラダは?」「バジル風味の季節野菜スープは?」「チーズ盛り合わせは?」と確認する。彼はそうして私の提案するメニューに、否定的な言葉で答えた事がない。いつも「いいね」と微笑み、私の意向通りの注文をする。夜はほとんど炭水化物をとらない私に一切文句を言わない人は、モデル仲間以外では待澤くらいだ。

冷蔵庫の中をチェックして、残り物の雑穀米とトースターであぶっためざしを食べると、薬箱を漁った。

運動会の日の夜、私は絶対に浮気はしていないと亮に断言し、亮が信じるよと言うのを聞いた瞬間前向きな気持ちになって、一昨日は亮の帰宅に合わせて豚の角煮を作った。亮は珍しいなと言って珍しく穏やかな表情を見せ、2人で日本酒を飲んだ。飲んだのはほんの1時間程度だったけれど、私は私たちの関係が大きく改善したような気がして沸き立つ喜びを抑えきれなかった。休日の前日には、またつまみを作って亮の帰宅を待とうと思っていた。次は亮の好きなふろふき大根にしようか、それとも鰤大根にしようか、という考えは消し飛んで、私はまず自分の腹に根付いた胎児の処遇を決めない事には一歩も前に進めないのだと自分に言い聞かせた。

ママー、と駆け寄ってくる輪を抱き上げ、パソコンを閉じてリビングに出た。パンと魚肉ソーセージとヨーグルトを出すと、NHKの教育番組を点けて顔を洗いに行った。

チキンベーグルとラズベリーソーダを載せたトレーを持って、テラス席に座った。ノートを開き、左手でベーグルからチキンとチーズを抜き取って口に運びながら、右手でノートに「涼子」と書きつける。
[中略]
チキンを全て食べてしまうと、私はベーグルを脇の草むらに放った。すぐに雀がやって来て、パンをついばみ始める。くさくさした気持ちで雀を踏みつぶしてやろうかと思っていると、大きなカラスが上空から物凄い勢いで飛んで来た。

「俺はやっぱりおにぎりでいきたいんだよ」熱血な感じの男の子がそう言って憤りを露わにした。「何でたこ焼きじゃないんだ何で焼きそばじゃないんだって皆言うんだろ? でもおにぎりの何がいけないわけ?」。一方的に話されている男の子は「はあ」と繰り返しながらへこへこしている。私はそのおにぎりに固執する男の子が気持ち悪くて憎くて憎くて堪らなくて憎すぎるあまり好きになっておにぎりでいい! と言いたい衝動に駆られた。

そうか洗わなくても禿げるのか、と独りごちる央太にもう一度「全然禿げてないよ」と声を掛けると、私はマッシュポテトに手を伸ばした。ソーセージ、ロールキャベツ、牛フィレステーキ、次々と出てくるドイツ料理はどれも美味しく、ロールキャベツを数口食べた所でお腹が一杯になった。フィレ肉を一口食べると、私はビールで口の中に残るソースの味を流し込んだ。互いに最近の仕事について話しながら、昼過ぎに飲んだツリーがいつの間にか完全に抜けている事に気がついた。

全く華やかな世界だ。何かのパテが載ったカナッペを食べながら低い窓枠に腰かけ、外を見る。28階の高層マンションの一室からは、美しい夜景と東京タワーが拝める。もしゃもしゃとカナッペを嚙み砕きながら下を見つめていると、自分が顔面からどんどん降下していき地面すれすれの所で足に巻き付くゴムがぴんと張ってびよんと上に跳ね上がるバンジージャンプの映像が浮かぶ。

私は久しぶりに 蘇った現実感に沸き立つ喜びを抑えきれず、帰り道の途中カフェに寄ってモーニングを食べた。美味しかった。生きていると思った。

昼過ぎ、冷凍のからあげを4つ食べ終えた頃、電話が鳴った。私は携帯に浮かび上がった「浩太」という名前を見て動揺した。

開いた大判の封筒の上に出ていた2冊の「Maxx」を手に取って表紙を見ていると、ハムの盛り合わせを持ってきたユカが「それいる?」と聞いた。
[中略]
ねえ五月の持ってきてくれたカルパッチョってもう味ついてる? オリーブオイルとか足す? 味ついてるけど、バルサミコとかあったらかけると 美味しいかも。バルサミコなんてないようちは庶民家庭だぜ。そう言って笑い合いながら、2人は再びキッチンに戻った。
[中略]
テーブルにはハムとチーズの盛り合わせやカルパッチョ、ローストビーフやサラダやナポリタンスパゲッティが並んだ。
「すごい。美味しそう」
「ほとんど伊勢丹の出来合いだけどね。カルパッチョとローストビーフは五月の手作りだから美味いはず。ナポリタンは子ども用ね。別に大人も食べていいけど」
「何かごめんね、私だけ何も持って来なくて」
[中略]
思い過ごしか。私は観察を止め、一弥の皿にナポリタンを取り分けた。
しまったカルボナーラにするんだった! 子どもたちの強烈な食べ散らかしを見てユカが言う。木目テーブルの僅かな亀裂にスパゲッティを詰め込んで遊んでいた輪ちゃんは服を全取っ替え、ほとんど手づかみで食べていた一弥も持ってきていた服に着替えさせた。さすがに、弥生ちゃんはしっかりと零さずに食べている。

炎のように怒りが湧く。別にと言って、私は黙り込んだ。ワイングラスを持ち上げ甘ったるいデザートワインをぐっと喉に押し込む。

「輪ちゃんがどうしてもお風呂に入るってぐずり始めたから、今入れてる。ご飯食べるでしょ? 用意するね」
五月さんはそう言ってキッチンに向かった。
「え、いいです自分で適当に食べます」
「いいよいいよ。座ってて。コーヒーでいい?」
はいと答えて、私は一弥を抱っこしたままテーブルについた。弥生ちゃんおはよう、と言うと弥生ちゃんは少し恥ずかしそうにおはよう、と言ってはにかんだ。ケチャップをかけたスクランブルエッグをフォークで突き刺し、小さな口で僅かずつ食べ進み、時折コップからこくっこくっと音をたててお茶を飲む。3歳でこんなにしっかりするのかと感心しながら「食べるの上手だね」と言うと、弥生ちゃんは「弥生もうお姉ちゃんだから。こぼさないんだよ」と言う。コーヒーと温め直したスクランブルエッグ、トーストに昨日の残りのハムやサラダを持ってきた五月さんにありがとうございますと言うと、母乳でお腹が一杯の一弥を遊ばせておき、3人で向き合って朝ご飯を食べ始めた。
「五月さんが作ったんですか?」
「うん。ユカ、子どもには魚肉ソーセージ渡しときゃいいとか言うから、作るよって言ったの。って言ってもほとんど昨日の残りだけど」
[中略]
コーヒーの入ったマグカップを置いて、スクランブルエッグを頰張った。ふわふわしていて、油の嫌な味もしない。何かコツがあるのだろうか。

(金原ひとみ著『マザーズ』より)