夜9時半過ぎ、私はイタリアンレストランでオギちゃんとジントニックを片手にボロネーゼのパスタを食べていたはずだったけれど、本当は小学校の鶏の飼育小屋周辺で土を掘り返し石をひっくり返し、ミミズをわんさか捕獲しては貪っていたのかもしれない。
キッチンでペットボトルからコップに水を注ぎ一気に飲み干すと、パックの野菜ジュースにストローを差し輪に手渡した。
ロールパンとハムと作り置きしておいたゆで卵を皿に載せる。毎朝、目覚めと同時に空腹を訴える輪のため、二日酔いの朝も睡眠時間1時間の朝も容赦なく叩き起こされ朝ご飯をせがまれる私のストレスを緩和するため、朝ご飯は2分以内で出せる物に限定している。キッチンから出た私の手元を見て、輪は不服そうな顔をした。
「ちゅるちゅるめんめん、ためたい」
イヤイヤ期特有のとりあえず拒否という様子ではなく、何か切実なものを感じさせる言い方だったため、目の前に出したらはたき落とされるかもと、ローテーブルに皿を置き、輪の隣に座った。
保育園へお迎えに行き、近くのスーパーに寄って輪の好きなヨーグルトや、ワインやシャンパンを買い込むと、ベビーカーに乗ったままヨーグルトを大事そうに抱える輪と歌を歌いながら帰宅した。
ソファに腰かけるとオットマンに足を乗せ、ゆっくりと時間を掛けてハーブティーを飲み干した。持病や体調、メンタル面をカウンセリングし、一人一人にオリジナルの配合をしてくれる専門店で購入しているハーブティーを飲み始めてから、冷え性と原因不明の鼻炎が良くなった気がする。
ここ最近、半ばオカルティックなハーブティーや健康食、ホメオパシーにまで手を出すようになったのは、子宮筋腫の事があったからだ。
セロリの煮浸し、根菜の味噌汁、玄米、納豆。朝ご飯を作ると、携帯を開いた。メールが届いていない事を確認して、不安を無視するようにカメラを起動させ、ご飯に向けてシャッターを切った。
ハンバーグを半分以上残して実家を後にし、誰もいない家に帰ると、弥生をお風呂に入れて寝かしつけた。
左手にクラッチ右手にシャンパングラスという格好で、給仕係からマカロンを受け取りぱくんと1個口に入れた瞬間、五月ちゃんと声を掛けられた。
ライブが終わった頃、入り口の方から土岐田ユカが口をもぐもぐとさせながら手を振っているのに気がついた。よく見ると、その手の親指と人指し指の間に2つか3つ、マカロンが挟んである。
輪を寝かしつけてしまうと、WOWOWの二流映画を観ながらワインの栓を抜いた。おつまみ用に買っておいた瓶詰めのピクルスを開けると、二人で交互に箸を突っ込む。 美味しい、美味しいね、これ美味しいねほんと、と唸るようにして私たちはキュウリやヤングコーン、タマネギやカリフラワーのピクルスをどんどん食べていった。
「何か、今本当に体が必要としてる物って感じがするなあ」
「うん。染みるって感じ。やっぱりお酢って体に良いんだろうね」
「子供の頃って、こういうの嫌いだったけどな」
「私も。ハンバーガーから出して捨ててた」
[中略]
「若い頃ってさ、食べ物ってそんなに好きじゃないじゃない?」
央太はそう言って、グラスにワインを注ぎ足した。彼は大学生の頃、半年間カロリーメイトだけで生きていた事があるという。
ジントニック、和牛のタルタル、エビのフリット、カルボナーラを注文すると、オギちゃんはそこにシャンディーガフを付け加えた。オギちゃんがシャンディーガフ以外の酒を頼むのを見た事がない。お酒は甘いものしか飲めないと、前に言っていたような気がする。
NHKの教育番組を点け、炊飯器に残ったご飯でニンジンとじゃがいも入りのおじやを作り、一弥を椅子に座らせ首にスタイをつける。母乳を飲み終えたばかりの一弥は、おじやを手づかみでテーブルに広げるばかりで、一向に口に入れようとしない。椅子の下にはビニールシートを敷いているが、たまに飛び散るおじやがシートを越えそうになってはらはらする。濃い煮物や油を使ったものを食べるようになったら、カーペットを外すしかないかもしれない。
母親が黙り込んでパウンドケーキを食べ始めると、携帯を開いてブックマークから「view」というサイトへ飛んだ。IDとパスワードを空で入力し、操作ボタンをクリックして1歳児クラスから0歳児クラスへカメラを動かす。
ソーセージエッグマフィンにしよう、ユカは独りごち、先にカウンターに向かった。私はしばらくメニューを見上げてから、ユカの後ろに並んだ。注文を終え出来上がりを待つユカの隣に立ち、ホットドッグのセットを頼んでお金を払うと、隣でユカが大量の小銭を募金箱にじゃらじゃらと詰め込んでいくのを見やり、何してんのと苦笑する。
おどけて言う待澤の脇腹を軽く小突いて、運ばれてきたシャンパンを飲み始めた。何食べたい? と聞く待澤に「マンゴーとアボカドのサラダは?」「バジル風味の季節野菜スープは?」「チーズ盛り合わせは?」と確認する。彼はそうして私の提案するメニューに、否定的な言葉で答えた事がない。いつも「いいね」と微笑み、私の意向通りの注文をする。夜はほとんど炭水化物をとらない私に一切文句を言わない人は、モデル仲間以外では待澤くらいだ。
冷蔵庫の中をチェックして、残り物の雑穀米とトースターであぶっためざしを食べると、薬箱を漁った。
運動会の日の夜、私は絶対に浮気はしていないと亮に断言し、亮が信じるよと言うのを聞いた瞬間前向きな気持ちになって、一昨日は亮の帰宅に合わせて豚の角煮を作った。亮は珍しいなと言って珍しく穏やかな表情を見せ、2人で日本酒を飲んだ。飲んだのはほんの1時間程度だったけれど、私は私たちの関係が大きく改善したような気がして沸き立つ喜びを抑えきれなかった。休日の前日には、またつまみを作って亮の帰宅を待とうと思っていた。次は亮の好きなふろふき大根にしようか、それとも鰤大根にしようか、という考えは消し飛んで、私はまず自分の腹に根付いた胎児の処遇を決めない事には一歩も前に進めないのだと自分に言い聞かせた。
ママー、と駆け寄ってくる輪を抱き上げ、パソコンを閉じてリビングに出た。パンと魚肉ソーセージとヨーグルトを出すと、NHKの教育番組を点けて顔を洗いに行った。
チキンベーグルとラズベリーソーダを載せたトレーを持って、テラス席に座った。ノートを開き、左手でベーグルからチキンとチーズを抜き取って口に運びながら、右手でノートに「涼子」と書きつける。
[中略]
チキンを全て食べてしまうと、私はベーグルを脇の草むらに放った。すぐに雀がやって来て、パンをついばみ始める。くさくさした気持ちで雀を踏みつぶしてやろうかと思っていると、大きなカラスが上空から物凄い勢いで飛んで来た。
「俺はやっぱりおにぎりでいきたいんだよ」熱血な感じの男の子がそう言って憤りを露わにした。「何でたこ焼きじゃないんだ何で焼きそばじゃないんだって皆言うんだろ? でもおにぎりの何がいけないわけ?」。一方的に話されている男の子は「はあ」と繰り返しながらへこへこしている。私はそのおにぎりに固執する男の子が気持ち悪くて憎くて憎くて堪らなくて憎すぎるあまり好きになっておにぎりでいい! と言いたい衝動に駆られた。
そうか洗わなくても禿げるのか、と独りごちる央太にもう一度「全然禿げてないよ」と声を掛けると、私はマッシュポテトに手を伸ばした。ソーセージ、ロールキャベツ、牛フィレステーキ、次々と出てくるドイツ料理はどれも美味しく、ロールキャベツを数口食べた所でお腹が一杯になった。フィレ肉を一口食べると、私はビールで口の中に残るソースの味を流し込んだ。互いに最近の仕事について話しながら、昼過ぎに飲んだツリーがいつの間にか完全に抜けている事に気がついた。
全く華やかな世界だ。何かのパテが載ったカナッペを食べながら低い窓枠に腰かけ、外を見る。28階の高層マンションの一室からは、美しい夜景と東京タワーが拝める。もしゃもしゃとカナッペを嚙み砕きながら下を見つめていると、自分が顔面からどんどん降下していき地面すれすれの所で足に巻き付くゴムがぴんと張ってびよんと上に跳ね上がるバンジージャンプの映像が浮かぶ。
私は久しぶりに 蘇った現実感に沸き立つ喜びを抑えきれず、帰り道の途中カフェに寄ってモーニングを食べた。美味しかった。生きていると思った。
昼過ぎ、冷凍のからあげを4つ食べ終えた頃、電話が鳴った。私は携帯に浮かび上がった「浩太」という名前を見て動揺した。
開いた大判の封筒の上に出ていた2冊の「Maxx」を手に取って表紙を見ていると、ハムの盛り合わせを持ってきたユカが「それいる?」と聞いた。
[中略]
ねえ五月の持ってきてくれたカルパッチョってもう味ついてる? オリーブオイルとか足す? 味ついてるけど、バルサミコとかあったらかけると 美味しいかも。バルサミコなんてないようちは庶民家庭だぜ。そう言って笑い合いながら、2人は再びキッチンに戻った。
[中略]
テーブルにはハムとチーズの盛り合わせやカルパッチョ、ローストビーフやサラダやナポリタンスパゲッティが並んだ。
「すごい。美味しそう」
「ほとんど伊勢丹の出来合いだけどね。カルパッチョとローストビーフは五月の手作りだから美味いはず。ナポリタンは子ども用ね。別に大人も食べていいけど」
「何かごめんね、私だけ何も持って来なくて」
[中略]
思い過ごしか。私は観察を止め、一弥の皿にナポリタンを取り分けた。
しまったカルボナーラにするんだった! 子どもたちの強烈な食べ散らかしを見てユカが言う。木目テーブルの僅かな亀裂にスパゲッティを詰め込んで遊んでいた輪ちゃんは服を全取っ替え、ほとんど手づかみで食べていた一弥も持ってきていた服に着替えさせた。さすがに、弥生ちゃんはしっかりと零さずに食べている。
炎のように怒りが湧く。別にと言って、私は黙り込んだ。ワイングラスを持ち上げ甘ったるいデザートワインをぐっと喉に押し込む。
「輪ちゃんがどうしてもお風呂に入るってぐずり始めたから、今入れてる。ご飯食べるでしょ? 用意するね」
五月さんはそう言ってキッチンに向かった。
「え、いいです自分で適当に食べます」
「いいよいいよ。座ってて。コーヒーでいい?」
はいと答えて、私は一弥を抱っこしたままテーブルについた。弥生ちゃんおはよう、と言うと弥生ちゃんは少し恥ずかしそうにおはよう、と言ってはにかんだ。ケチャップをかけたスクランブルエッグをフォークで突き刺し、小さな口で僅かずつ食べ進み、時折コップからこくっこくっと音をたててお茶を飲む。3歳でこんなにしっかりするのかと感心しながら「食べるの上手だね」と言うと、弥生ちゃんは「弥生もうお姉ちゃんだから。こぼさないんだよ」と言う。コーヒーと温め直したスクランブルエッグ、トーストに昨日の残りのハムやサラダを持ってきた五月さんにありがとうございますと言うと、母乳でお腹が一杯の一弥を遊ばせておき、3人で向き合って朝ご飯を食べ始めた。
「五月さんが作ったんですか?」
「うん。ユカ、子どもには魚肉ソーセージ渡しときゃいいとか言うから、作るよって言ったの。って言ってもほとんど昨日の残りだけど」
[中略]
コーヒーの入ったマグカップを置いて、スクランブルエッグを頰張った。ふわふわしていて、油の嫌な味もしない。何かコツがあるのだろうか。