たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

桐野夏生『ハピネス ハピネス・ロンリネス』タワマンの食生活

本筋に関係ないけど、高〜いビルに住みたがる人の気がしれない。
高〜い集合住宅で育つ子と土のそばの一軒家で育つ子では人生観が全然違うだろうな(どっちのほうがいいという話ではない。もちろん)
昔、一瞬不動産の広告を作っていたことがあった。
まだ入居前でがらんとしたマンション内コンビニは、結局採算がとれず短期間で閉店したという。
たぶん、この小説のタワマン住人と違って、「賢い」消費者が多かったのではないか。

有紗は洗顔もせず、ジャージ姿のままで冷蔵庫からキャベツとネギを取り出して刻み始めた。迷った末に、嫌いなニンジンも少し加える。小鍋でインスタントラーメンを煮て、刻んだキャベツとニンジンを入れる。ネギは花奈が食べられないので後回しにし、卵を1個割り入れて搔き回す。途端に腹が鳴った。今日の朝食は野菜ラーメン。勤め人の夫がいない日常は、気楽で自堕落で、怠惰にしようと思えば、いくらでも怠惰に流れていく。
有紗は、野菜ラーメンをミッフィーの描かれた食器に取り分けてから、花奈に声をかけた。
(中略)
「花奈ちゃん、朝ご飯食べよ」
花奈は、未練がましくテレビ画面を振り返り振り返りしながら、食卓にやって来た。だが、野菜を見て顔を背けた。有紗は、娘の野菜嫌いを今のうちに矯正したいと思っているが、花奈は元々食が細い上に、好きな物しか食べたがらない。
「ラーメンいや」
花奈が自分の器を押しやった。
「どうして嫌なの」
当然の反応に驚きもしない。
「におい、いやなの」
(中略)
「かなちゃん、おにく。おにくがたべたい」
「え? お肉って何のお肉。お肉なんか好きだったっけ」
有紗は、花奈の小さな手に幼児用のフォークをねじ込みながら聞く。
「あのね、ジュウジュウしゅるの」
花奈が小さな掌をひらひらとさせた。夏に実家の両親と行った、北千住の焼肉屋のことらしい。
「焼肉なんかしょっちゅう食べてたら、おでぶになるよ、花奈ちゃん。カロリーが高いから、おでぶになっちゃうよ」
(中略)
花奈は満足そうに笑ったものの、さも気乗りしない様子で、ラーメンをすすり始める。有紗は、箸で花奈の小さな口の中にキャベツを入れてやった。

中には、全員の分のミカンと、自分たち用のペットボトルを入れた。
(中略)
とはいえ、いぶママは、ちゃんと人数分の手作りクッキーなんかを持って来てくれる、そつのない人間でもある。
(中略)
誰も、有紗のミカンには気付かない様子だった。
「あたしも見たことないですね」
そう同意しながら真恋ママが、タッパーウェアの蓋を開けた。キウイとメロンが綺麗に並んでいた。色とりどりのプラスチックの楊枝が刺してある。
「あ、よかったら食べてください」
「すみません。あたし、何も持って来なかった」
美雨ママが詫びながら、先に手を伸ばしてキウイを取った。
「どうぞどうぞ」と真恋ママが勧めた。「花奈ちゃんママも遠慮しないでどうぞ」
有紗は礼を言って、キウイの端っこを食べた。冷えていて美味しかった。自分の持って来たミカンは安物だから、粒が小さくて酸っぱそうだ。気後れして勧めることができずにいる。すると、いぶママが、ナプキンでくるまれた包みを出した。
「お昼前だけど、ちょっといい出来だったから食べてみて」
手作りのバターケーキ。わーっと歓声が上がった。ほんのひとくちずつ、綺麗に5等分されている。有紗は、ますます居たたまれなくなった。キウイやメロンやケーキの後で、ミカンはさぞかし酸っぱく感じることだろう。仕方ないから、そのまま持ち帰ろうと思う。
(中略)
花奈はシャベルのことを言わないだろうか。そして、朝からインスタントラーメンを食べたことを。
(中略)
「ミカン頂くわね」
いぶママが、有紗の持って来たミカンを握って言ったので、ほっとする。他のママも、釣られてミカンを手にしてくれた。

「あのね、花奈ちゃんが今寝ちゃうとさ、ママも花奈ちゃんも食べる物がないの。だから、頑張って起きて、一緒に食べに行こうよ」
花奈は半目になって、呟いた。
「ラーメンいや」
有紗は苦笑する。
「ラーメンしないよ。おにぎりにしようか。一緒にアオキにお買い物行こう」
アオキまで行くのが無理なら、1階のコンビニで、おにぎりでも買って来よう。

有紗は居たたまれなくて、花奈の世話に没頭するふりをしている。幸い、花奈が食べている「ミラノ風ハンバーグ」は、トマトソースがあちこちに飛び散るので、始終、花奈の手や口を、お絞りやナプキンで拭ってやる必要があった。
晴子は無言でサラダを食べている。節の目立つ細い指が、フォークを器用に操ってレタスを畳み、胡瓜やブロッコリーと一緒に突き刺して、素早く口に運んで行く。
(中略)
それから腕を伸ばして、夢中でハンバーグを食べている花奈の前髪を撫でた。花奈の前で、その話をしたくない、というジェスチャーにも見えた。
「花奈ちゃん、お利口さんね。よく食べること」
晴子に褒められた花奈が、得意そうに笑った。さっき拭いたばかりなのに、口の周りをトマトソースで赤く染めている。花奈は昼ご飯を抜いたせいか、珍しく、旺盛な食欲を見せていた。お子様ランチでは嫌だ、と言うので、大人のメニューを頼んだほどだ。

新たに作るのが億劫なので、昨夜のカレーを朝食にするつもりだ。が、神経質な花奈は朝のカレーを嫌うかもしれない。トーストにして、芽玖ママから貰った手作りのイチゴジャムを塗って食べさせようかと迷う。
しかし、自分たちは「公園要員」に過ぎない、と美雨ママから聞いて以来、何だか癪に触って、芽玖ママのジャムさえも疎ましいのだった。せっかくの手作りジャムも、冷蔵庫の奥深くに突っ込まれたままになっている。

有紗が声を荒らげた途端、カレーの焦げる臭いがした。有紗は、慌ててガス台に走ったが、カレーはすでに鍋底に焦げ付いている。横に花奈がやって来て見上げた。
「カレーいや」と、はっきり言う。
「わかってるよ。ママも嫌だよ」
有紗はささくれた気持ちで、卵を茹で始めた。冷凍庫から食パンを2枚出して、オーブントースターに入れる。
花奈は、インスタントスープに、茹で卵とトマト、イチゴジャムをたっぷり載せたトーストを食べながら、満足した様子だ。だが、有紗は紅茶を飲みながら、不快さを拭えなくて苦しんでいた。

「花奈ちゃん。これから、このお姉ちゃんと一緒に行って、美雨ちゃんと遊んでてね。おばちゃん、唐揚げを用意しておいたからさ。それ食べてね」
「すみません」
花奈には、昼過ぎに焦げを取ったカレーを食べさせたきりだった。どうせお菓子を食べて入らないだろうと踏んでのことだったが、美雨ママがそこまでこまやかだとは思わなかった。

居酒屋に足を踏み入れた有紗は、魚を焼く強烈な臭いと、白い煙がもうもうと店中に立ち込めているのに驚いて立ち竦んだ。客の前に、それぞれ小さな七輪が置かれて、客が自身で魚や貝を焼いている。壁には、「ホッピー!」「自家製コロッケ!」「ブリカマ!」など、朱文字で書かれた大きな紙がベタベタと貼ってあった。
(中略)
料理はトモヒサが見繕ってくれることになった。火を熾した七輪が、2人の前にぽんと置かれた。顔だけがかっと熱くなった。
トモヒサが、生ビールふたつとワケギのヌタの小鉢を運んで来た。小鉢をちらっと覗いた美雨ママが言う。
「あたし、あん肝が好きなんだからね」
「わかってるなら、持って来いよ」
「じゃ、金払え。これはお通しだ」
(中略)
そこに、トモヒサが魚介の載った大皿を運んで来た。ハマグリやブリカマ、シシャモ、椎茸などがふたつずつ載っている。美雨ママが手際よく、七輪の網に載せて焼き始めた。
(中略)
「失礼だな、そいつ」
そう呟きながら、美雨ママがビールを飲み干して、ウーロンハイを注文した。有紗も真似て同じものを注文した。どうしてもペースが速くなるのは、帰りの時間が決まっているからだろう。
ハマグリがぽんと口を開いた。それぞれ小皿に取って、醤油を少し垂らして食べる。しばしの沈黙の後、美雨ママが尋ねる。
(中略)
あん肝と、赤貝の紐と胡瓜の和え物が運ばれて来た。トモヒサは2人の邪魔をしないように、鉢を置いてさっさと去って行く。
(中略)
子持ちシシャモから煙が上がっている。有紗は割り箸で慌てて引っ繰り返したが、片面が無残に焼け焦げていた。有紗は皿に取ってから、イカの切り身とシシトウと載せた。

初デートは、銀座の鮨屋だったの。勿論、TAISHO鮨チェーンなんかとは比べものにならないような高級な店だった。あたしは、一生懸命働いているダンナのことを思い出したよ。あの人はこういう店でシャリを握ることは一生ないし、こんな高級マグロを切ることもない。なのに、あたしは他人の亭主と美味い鮨を食ってるんだって。

有紗は、俊平に生春巻を勧めながら言った。1人1本は当たるはずだが、皆、話に夢中なふりをして、食べようとはしなかった。
(中略)
1本ずつ生春巻を頬張り、共犯めいた顔で笑い合う。それから、春雨サラダをひとくち食べて、『これ、辛ーい』と大袈裟に声を上げて眉を顰めた。俊平も同じ皿に箸を伸ばして『あ、ほんとに辛いね。駄目だ、俺、汗出ちゃう』と言ってくれた。
互いに食べ、飲み、それから2人は仕事の話をした。

材料の品質基準を確保するために、農民世帯が材料開発に参加する材料ゾーンに収集および前処理施設を建設する。

実家は、伊勢の方の牛肉屋で、以前、実家の商品だという、牛肉の佃煮を貰ったことがあった。そのせいか、豊かな感じがした。

「そうそう、持ち寄りでどうかしら。ローストチキンと、ロールサンドとかでいいんじゃない。あとケーキ焼いて。サラダも要るね」

「花奈ちゃん、お昼ご飯、ららぽに食べに行こうか。サンドイッチとかグラタンとか。あ、ツルツルのおうどんでもいいよ。お稲荷さん付けてもらって。花奈ちゃん、お稲荷さん、好きでしょう? きつねさんの甘ーいご飯だよ」
花奈は迷っているらしく、しばらく返事をしなかった。もともと家の中で一人でも退屈しないで遊んでいる子供だから、雨の中の外出が億劫なのだろう。

バナナやおにぎりを籠に放り込んでいると、携帯が鳴った。またも非通知だ。

芽玖ママを見かけた日、花奈と天麩羅うどんの夕食を食べている時、姑の晴子から電話があった。

紅茶とハムトースト、トマトサラダの朝食を摂っている時、メールの着信音がした。いちはやく花奈が、携帯電話を持って来てくれた。有紗がメールを開く間も、「ね、だれからめえる。だれからめえる」とうるさい。

大衆的ブランドのシュークリームの箱と、駅の売店で売っているような幼児用の絵本が2冊は言っていた。

「寂しいような、嬉しいような」有紗はそう呟き、陽平が持ってきてくれたシュークリームをひとつ頬張った。とてつもなく甘く、柔らかかったが、下の両端に微かな苦味が残った。

「あとね、聞きたいことがあったの。花奈ちゃん、白身のお魚だったら何が好きなの」
白身魚。有紗は一瞬、気の利いた答えを探したが、知識がないので思い付かなかった。滅多に魚料理をしないからだ。
「カレイとか?」
「カレイ? あら、贅沢な子ね」
晴子は上機嫌で笑った。遠くの方で、陽平と喋っている花奈の声が聞こえた。有紗は花奈と話したくてうずうずした。
「でも、花奈はお肉の方が好きだと思います」
「本人もそう言ってたわ」

6時に銀座1丁目のインド料理、『カイバル』でどう。
あそこのビリヤニ、うまいよ。
たまには辛い物食べたい!
YOKO

店も知らないし、ビリヤニが何かわからないが、ときめくものがあった。辛い大人だけの食事。

「笑っちゃうんだけどさ。今日は、『いい夫婦ごっこ』してるの。だから、いぶきは芽玖ちゃんのところでお好み焼き食べてる。あたしたち、これから二人でお食事なのよ」

美雨ママがメニューを見ながら、適当に料理を頼んでくれている。「カレイの煮付け」という語が聞こえて、有紗は姑に吐いた嘘を思い出し、苦い顔をした。

美雨ママが意外に器用な手付きで、ブリ大根を箸で分けながら呟いた。有紗は小さな声で続けた。

花奈はとっくに起きて、ホイップクリームやフルーツを盛った、晴子特製のパンケーキでも食べていることだろう。
誰に見せても、知られても、恥ずかしくない食事。それは、家族同様、自分がうまく作れなかったもののひとつでもある。

朝からインスタントラーメンを食べさせた時の罪悪感。食の細い花奈はどうせ食べないからと昼食を抜いた時の罪悪感。コンビニおにぎりだけの食事で済ませた罪悪感。野菜料理がひとつもない時の罪悪感。罪悪感だらけの自分。

手の込んだおかずに可愛い服。そして、ホイップクリームやフルーツを盛った朝の香ばしいパンケーキ。

新潟駅には、昼過ぎに到着した。2人は万代橋の方に出て、有紗も知らない新しい店で名物のへぎ蕎麦を食べた。「こんなの初めて食べた」と美雨ママは喜んでいたが、有紗は知り合いにでも会いそうで気が気ではなかった。
蕎麦屋を出ると、雨はいっそう激しく降っていた。

母から聞いた話では、瀬島農園は梨もぎや葡萄狩りなどの体験農園を始めて観光客を呼び込んでいるという。食堂も作り、ラーメンや蕎麦、ジンギスカン鍋を食べさせたり、最近はバーベキュー施設も作って、持ち込み可で手広くやっているのだそうだ。

タクシーに戻ろうとすると、手の中に紙袋を渡された。
「うちの『ル・レクチエ』だよ。洋梨。ふた箱あるからお友達に」

「花奈ちゃん、今ね、お祖父ちゃんとお菓子買いに行ったの。あの長いドーナツみたいなの何て言うの?」
「チュロスですか」
「そうそう、それね。帰って来たら、こちらからかけるわね。なにせ、ここから動くなって言われているから、待つしかないのよ」

午後になると、少し気分がよくなった。有紗は、紅茶にたっぷりの砂糖とミルクを入れて飲み、やっとの思いで洗顔を済ませた。

有紗は、冷凍うどんを煮て、やっとの思いで半分食べた。

「いえ、夜は用事があるので、お昼に伺います」
「あら、そう」晴子はがっかりした様子だった。「じゃ、天麩羅蕎麦か鰻にしますね」

食卓には、漬け物や吸い物椀も出ていた。キッチンのカウンターに鮨桶が見える。有紗の視線の先を見た晴子が、言い訳する。
「花奈ちゃんがお鮨が好きって言うから、お鮨にしたの。いいでしょ?」
「すみません」
花奈を膝の上に抱いて頭を下げた。
「ママもおしゅし、しゅきだもんねー」
花奈が回らない口で言うのが可愛くて、背中から抱き竦めた。何があっても離さないと思う。
「で、どうなさるおつもり?」
吸い物椀に出し汁を張りながら、晴子が早速訊ねてきた。

目の前に鮨桶が置かれる。花奈のは、アンパンマンが描かれた子供用の桶だ。巻物がメインで、唐揚げやタコウィンナーも入っている。花奈が子供用のフォークを握った。花奈の膝にタオルを広げながら、晴子が訴える。
(中略)
陽平が、3人のワイングラスにスパークリング・ワインを注ぐ。
(中略)
有紗は、グラスに口を付けた。昂奮しているのか、微かな泡が舌先にぴりぴりと感じられるだけで、味はわからなかった。初冬の午後の弱々しい光にグラスを透かしてみる。勢いがなくなった金色の泡が、浮かんではすぐに消えていく。
「ねえ、お鮨だってまだ残っているのよ」
晴子が首を伸ばして鮨桶の中を覗いた。その年寄りめいた仕種に胸が痛んだ。以前は、美しい晴子が威圧的に感じられたのに、今日は寂しい老女に見える。
「はい、頂きます」
一度は置いた箸を再び取り上げた。食欲はないが、せめて最後の昼餐を機嫌よく過ごさねば、と思い直す。
「花奈ちゃん、アイスもあるんだからね」晴子は冷蔵庫を指差した後、振り向いて有紗に聞いた。「あんまり食べさせたら、お腹こわしちゃうかしら?」
「かなちゃん、アイスいまたべる」
有紗が答える前に、花奈が慌てて遮ったので皆で笑った。花奈にアイスクリームのカップを渡しながら、晴子が弁解した。
(中略)
「だけど、時々は花奈ちゃんの様子を知らせてちょうだいね」
晴子が、アイスクリームを一心に食べている花奈の横顔を愛おしげに見た。

「いいよ。後でメシ食いに行くだろう?」
有紗は返事をせずに、お茶を淹れるためにキッチンに立った。
「久しぶりにうまい蕎麦が食べたいな」と、俊平がのんびりと独りごちた。
(中略)
「いいなあ。俺、あそこの鮨、好きなんだ。アメリカでも、何度も食いたいと思った」
「アメリカにはたくさんあるんでしょう?」
「いや、銀寿司の穴子は絶品だよ」
「じゃ、ららぽのお鮨屋さんに行く?」
「だって、今日食ったんだろう? だったら、違うものにしようよ」
(中略)
結局、ららぽーとの中にある蕎麦屋を選んで、奥の席に座った。俊平と有紗はビールを注文し、花奈にはジュースを取ってやる。

「俺、コンビニでおにぎり買うよ。飯、食いたい」
俊平に付き合って、タワマンの1階にあるコンビニに寄った。俊平は、ついでに缶ビールとワインも買い込んで満足そうだ。
(中略)
缶ビールを飲みながら、コンビニの握り飯を齧る。

ワインは軽くて飲みやすかった。俊平が選んだチーズ味のクラッカーをつまむ。

テーブルの上に、昨夜、俊平が買ったお握りが数個載っている。梅干しを選んで包装を剥がす。食欲はなかったが、無理やり食べようと思う。

「銀鮨食べたよ」
「穴子どうだった」
「旨かった」

「懐かしい。俺、花の中で桜が一番綺麗だと思うよ。ああ、早く日本に帰りたいな。『初音』のタンメン食いてえ」
桐野夏生著『ハピネス ハピネス・ロンリネス』

 

林真理子著『テネシーワルツ』

この昭和の終わりに発表された小説を20年ほどの間に3形態で読んでしまったことになる。
単行本、文庫本、そして文庫本を底本にした電子書籍。
スタアが出先で振袖の着付け直しができなくなったところに洋服を持ってかけつけ、その表情の不潔さにゾッとする、というところだけ覚えてるのな。
たぶん何かで成人式にラブホに出張する着付けサービスがある、ということを聞いたのとダブっているのだろう。

高度成長期は知らないけれども、テネシー州には縁があってこの歌には私も郷愁を覚える。

その夜、同じ町営住宅に住む元木さんの奥さんが、文勝と正治にふかし芋を持ってきてくれました。
(中略)
元木さんが急いでつつんできたらしく、まだあたたかいお芋の包みは、大きく新聞紙が盛り上がっています。

冬の陽は驚くほど早くかげり、駅前の商店街にたどり着いた時は、すでに薄闇が漂いはじめていました。この3、4年見られるようになった荒巻き鮭やきんとんなどといった正月用品が店頭に並んでいます。

バス停前の菓子屋で、私は100匁(め)45円のビスケットを200匁ばかり買いました。ABCD......と英文字の形をしており、上にザラメがかかったこの菓子は子どもたちの大好物でした。

私がサチの家に行く日は、元木さんは早めに夕飯をつくってくれて、その後自分の店に行くのでした。
「あんた、他人におまんまつくってもらうなんて、そんなみっともないことが出来ますか。田舎料理だから、ご馳走を食べつけているあんたの口には合わないかもしれないけど」

「わーい、お母ちゃん。今日はお魚だよ」
襖の向こうから文勝が声をかけました。台所の方からはタラを煮るにおいが漂ってきます。私はもう何日もそんなことに無気力だったはずです。夫や子どもたちに何を食べさせるかという、今までいちばん気がかりだったものがふうっとどこか遠くへ行ってしまっていたのでした。

「さ、サッちゃん、これ」
私は揺り動かして、魔法瓶から熱いほうじ茶を飲ませます。本当はそのまま寝かせてやってもいいのですが、
「朝早いとなかなか声が出にくいから、まず熱い茶を飲ませてやってくれ」
というのが横田の指示なのです。

錦蔵の部屋で出された料理はたいそう贅沢なものでした。洗足の家の食卓も他の人から見れば、おごったものかもしれませんが、戦災にも焼け残ったというその古い小さな旅館で運ばれてきたものは、私を驚かせるのに十分なものでした。若鮎があります。カツオの刺身があります。そしてじゅんさいの酢のものも生々とした緑を見せていました。

「ふつうの人と同じような暮らしですよ。サチはお茶漬けとか煮物が好きですし......」

元木さんと駅で別れた後、私は魚屋に寄りました。日が落ちたとたん冷えてきたのでチリ鍋にするつもりでした。タラとカキと一緒に、私は塩ジャケを2切れ買いました。私と圭子ちゃんの分です。女中は家族のものより値段が落ちるものにして、台所で食べるというのは時枝が守っていた習わしでした。

「このあいだ買った、外国のお料理ブックに出ていたようなものをつくってちょうだい」
と言うのですが、私にはさっぱりわかりません。もともとハイカラな料理はあまりつくったことがないうえに、その本は翻訳されていずに英語で書かれているのです。
「これよ、これ。ハリウッドのパーティーで飲んだことがある。パンチっていうのよ。これと同じものがほしいのよ」

頃合いを見はからって出すように、あらかじめつくられた料理の大皿がいくつか並んでいます。(中略)それは肉を焼いて薄く切り、汁をかけたものです。私は圭子ちゃんに気づかれないように肉の一片で縁の血をぬぐいました。赤い血は茶色の肉汁にまみれて見えなくなりました。

「このあいだどこかの雑誌に、サチはちりめんじゃこのお茶漬けが好きだって言ってたじゃないの」

時々はエプロンをつけ、サチが料理をつくる場面の撮影もあります。
「お得意はシチューとサラダ」
というのが決まり文句ですが、つくって皿に盛ってやるのは私の役目でした。
「まあそうは言ってもハイカラな家で、うちで働いている女の子なんか、あれを見るたびにため息が出るって言ってるわよ」
元木さんがつまみの皿をテーブルの上に置きながら言いました。ありあわせと言いわけしましたが、ぶ厚いまぐろの刺身もあれば、紫蘇を敷いた塩辛もあります。
「ま、奥さん、ぐっと飲んでくださいよ。この暑さだ。冷えたビールでもキュッとやらなきゃ仕事にとりかかれませんや」

「うちの人が言うにはね、今は人の舌も肥えてきた。昔みたいに飲ませりゃいい、食べさせれば客が満足する時代は終ったんだって。うちはね、この人の北海道の田舎から、直に魚や干物を送ってもらってんのよ。これが評判よくってね」
「そう。小料理の値段で、割烹みたいなもんが食える。これがはやらなかったら、いったいなにがはやるんだと俺は思ったわけだ」

朝、サチが起きると、私は美容にいいというジュースをミキサーでつくって飲ませてやります。トーストをふた切れ、バターを塗ってさし出し、野菜いためにフォークを添えます。夜は夜で、どんなに遅くなろうとも起きて待っているのも私です。アメリカに旅行してからというもの、サチはハイカラな洋食を好むようになりましたが、家ではやはりお茶漬けやお握りを欲しがります。
「外で食べるとなんか食べた気がしなくて、家へ帰ってきて、お茶漬けをかき込むとしんからホッとするわ」
言葉どおり、どんなに遅く帰ってきてもサチはおかわりをします。そのためにも私は糠ミソをつくり、冬は白菜をつけました。

新宿で私は、三越に寄ってステーキ用の肉を買いました。お菜をつくる時間がなかったので、簡単にできておいしいものをと思ったのです。それに新しい男主人の奥平は、牛肉がなによりも好きでした。ヒレ肉は3枚買います。神泉にいた時のような、みじめったらしい遠慮はもうしませんでした。夫婦が揃っている時は2人でテーブルに向かいますが、サチひとりの時は私が相手になります。私がサチたちと同じものを食べるのは当然という雰囲気がもうでき上がっていました。
私は冷蔵庫を開け、輸入もののバターの缶を出しました。フライパンにたっぷり落とします。やがて肉の焼けるにおいが台所いっぱいに漂いはじめました。ちょっと風味をつけるために、応接間の洋酒棚から奥平のブランデーを取り出し少しふりかけます。今日は2人とも仕事があって、帰るのは10時すぎになるはずです。
1枚200円近くした牛肉は確かにおいしく、余った肉汁をご飯にかけたほどでした。

「そう、お肉が買ってあるの。ステーキ用のね。じゃあ、あとはサラダをつくって......でももう一品なにかつくるわね」
緑色のツーピースを着替えるひまも惜しいらしく、サチはエプロンをつけます。
(中略)
サチは真剣な顔で包丁を手にとりました。じゃが芋の皮をむきます。粉ふき芋をつくるようです。私は思わず吹き出しそうになりました。
「サッちゃん、新じゃがは皮をむいたら何も残らないわよ。手でキュッキュッってこすればツルッとむけるから」
サチは黙ってじゃが芋を洗いはじめました。
(中略)
「ねぇ、今日は暑かったから、ご飯の替わりにひや麦にした方がいいと思わない? でも勇さんはご飯が好きな人だから、やっぱり少し用意しておこうかな」

「用意はできてるの。後はお肉焼くだけ」
「いいよ、そんなに急がなくたって。その前にビールを飲もうよ」

「私、帰りが遅くなりそうだから、勇さんに先にご飯を食べるように言っといてちょうだい。冷蔵庫の中にロースが入ってるわ。それを生姜で焼いてあげて。それとお野菜をたっぷりつけてね。大根おろしで食べるの、勇さん好きだから、忘れないでちょうだいね」

この言いわけを考えついてからサチは急に明るくなったようで、トーストをぱりっと歯でかみ切ります。

私は台所で炊き込みご飯をつくりながら、そんな連中を心の中で苦々しく思っていました。

その漢方茶を私は魔法瓶に詰め家を出ました。バスケットの中には、小さなお握りと、野菜の炊き合わせ、焼魚なども入っています。稽古には弁当が出るのですが、こうした特別製の食事をわざわざ運ばせるのは、主役としてのサチのプライドでした。

林真理子著『テネシーワルツ』より

海を渡る「ジャワカレー」湊かなえ『往復書簡』から

そう、アメリカで入手できる日本のカレールーの中でも私の観測範囲ではジャワカレーが一番人気だ。この彼のようにあえて「ジャワカレー」を指定する。他のと比べて高めなことが多いが、こくまろよりゴールデンカレーよりジャワカレー。最悪妥協して一部の米系スーパーにも置かれているバーモントカレー。

「あしながおじさん」以来、書簡文学に苦手意識があるのだが、本作は特に突っ込みを入れることなく面白く読んだ。ブラボー。

その代わり、お弁当を持ってきたからダム公園で食べて遊んで帰ろう、って言われて、みんな大喜びしました。来てよかったって心から思いました。
お弁当はすばらしかった。おいしいとか、豪華とか、かわいいとか、そういうのを全部ひっくるめて、とにかくすごかった。おにぎりだけでも6種類あったし、おかずも全部思い出しきれないくらいたくさんありました。先生は料理も上手なんだ、って感心したんだけど、実は全部だんなさんが作っていたんです。
(中略)
だんなさんはとても優しい人で、みんなが遠慮せずに食べられるように、紙皿におにぎりとおかずを取り分けてくれました。それも、一人ずつ、「どのおにぎりがいい? 食べられないものはあるかい?」って訊いてくれるの。「一番おいしいのがいい!」って言うと、「じゃあ、これかな?」ってだんなさんの手作りの蕗味噌が入った焼きおにぎりを入れてくれました。

以前、主人が作ってくれたおにぎりを持って、2人でピクニックに行ったとき、あの日のことを思い出しました。悲しい出来事ではありません。先生のだんなさんが作ったおにぎりがとてもおいしかったということです。蕗味噌入りの焼きおにぎりの味を、今でも忘れることができません。おにぎりを食べながら、事故のことを主人に話すと、涙が止まらなくなりました。

主人の作った蕗味噌入り焼きおにぎりの味を、わたし以外にも憶えている人がいたことがなによりも嬉しかった。

食事制限がないようでしたら、鮎の甘露煮や手打ちそばなど送らせていただきたいと思います。すみません、最初に気付かなくて。

―――鮎の甘露煮、美味かったなあ。昔は夕飯に出ると「またこれ? 勘弁してくれよ」なんて文句言ってたけど、今思うと、贅沢な話だよ。なあ。

家が貧乏なヤツから順に声をかけてくれていたんだって。俺は学級委員だから声をかけられたって当日まで思ってたけど、昼飯の弁当を見て、そうじゃなかったんだってわかったよ。
―――先生のご主人が作られた弁当ですか?
―――それも、真穂から聞いてるんだ。
―――ええ。蕗味噌入りの焼きおにぎりがおいしかったって言ってました。
―――あれだけ手の込んだおかずを食わせてもらって、焼きおにぎりとは、作りがいのないヤツだな。俺はエビと白身魚のすり身が入った卵焼きなんてあの日初めて食った。今じゃそこそこ収入があって、テレビで紹介されるような有名な寿司屋に行くこともよくあるけど、あれより美味い卵焼きは食ったことない。

弁当広げたのを見て、ここにはクラスの貧乏人が集められてるって気付いたときには、正直、めちゃくちゃショックだった。その場にいることが恥ずかしかったし、メシをよばれることも恥ずかしかった。でも、先生のだんなさんは全員平等に皿におかずを取り分けてくばってくれた。みんなの口に合えばいいんだけど、なんて言って。
俺は卵焼きに手を付けた。豪華なおかずが並ぶ中で、一番安っぽく見えたからだ。がっついていないってところを見せたかったのかもしれない。ところが、口の中に入れると、今まで体験したことのない味が広がった。思わず泣き出しそうになったくらいだ。

あの頃の俺みたいな子どもたちを日帰り登山やピクニックに連れていってやるんだが、さすがに美味い弁当は難しい。
せめて卵焼きだけでもと作ってみたが、だんなさんの足元にもおよばない。でも、同じボランティアの中にそれをおいしいと言ってくれた子がいて、来年の春に結婚することになっている。
なあ、それって全部先生のおかげだと思わないか?

オーガニックなんていうとおしゃれっぽい響きでdすが、この町のそれは、自分の家の庭で取れたハーブを入れてくれる昔ながらの喫茶店です。僕はカモミール、沙織さんはブルーマーロウを注文しました。僕は沙織さんが頼んだものを知らなかったのですが、運ばれてきたときはきれいなブルーをしていたお茶が、レモンを入れるとピンクに変わり、化学の実験のようでとても驚きました。

日本食は、食べたいものを挙げるとキリがないし、ここにいるあいだはなるべく、ここで手に入るものでどうにかやっていこうと思ってるが......カレーを入れてくれるとありがたいです。できれば「ジャワカレー」の辛口で。
先日、村人に歓迎パーティーを開いてもらったので、お礼に、日本食を作ってお返しをしたいので。日本のカレーは、日本の代表料理だ!

荷物が届いた情報は村中に伝わるらしく、村の診療所の病室で寝込んでいるところに、大家のおばさんが「荷物はどうするのだ」と何度もしつこく訊きにくるので、カレーを1箱やるから、開けて持っていってくれと言うと、翌日、わざわざ、作ったカレーを病室まで届けてくれた。
電子機器隊員から作り方は教わっていたらしいけど、分量を無視しているので、かなり水っぽいのができていた。おまけに、米ではなくイモが添えてあった。ありがたいけど食欲がないから持って帰ってくれ、と言うと、たまたま病室前を通りがかった看護師が嬉しそうに入ってきた。ひげにカレーをいっぱいつけながら、美味そうに食ってたよ。
(中略)
休日にきみの部屋で昼前まで寝ていると、カレーの匂いがしてきて、目を開けると、エプロン姿のきみがカレーの鍋をかきまぜていて、僕はそれをぼんやり眺めるのが好きだった。
熱に浮かされてナーバスになっているところに、カレーの匂い。それで、こんなことを思い出したのだろう。少し、泣いてしまった。カレーの匂いでホームシック。

秘境暮らしの俺のタンパク源は、巨大幼虫をから煎りしたもので、彼女や親には、手紙で「エビグラタン」の味がすると書いていたんだが、昨日、同期のヤツらと調整員の吉元さんの家に招待され、奥さんに本物のエビグラタンを作ってもらったら、俺は大嘘つきだったことに気付いたよ。
他にも、ロールキャベツ、鶏のから揚げ、ポテトサラダ、日本で当たり前に食ってたものが、本当に美味かった。
(中略)
そのあとビールを飲んでいるときに(これも久しぶりで、感激!)、日本から彼女が会いに来たってことが、吉元さんから判明した。だけど、純一本人は何にも教えてくれないから、「から揚げの分だけ話せ。1年ぶりの肉だったんだぞ」って問い詰めたら、郵便船に乗せてもらってきたとか、カレーをいっぱい持ってきたとか、健気なエピソードを小出しに教えてくれた。

湊かなえ著『往復書簡』

幸福な食卓から

初めて手に取った瀬尾まいこ氏の小説。大変よかったのだが、兄妹で「愛おしい」「ぎゅっとしたい」と言い合うのが気持ち悪い。フィクションだけど。フィクションだから。

最近、空腹だけど何も食べたいものが思いつかない、無理には食べたくない、みたいな状態が続いているのだが、ここに書かれているグラタンやスープ、シュークリームだったら食べたい。

いつも一番に起きて食卓に着いている父さんが、朝食を食べはじめる時間になっても姿を見せなかったのだ。
「どうする?」
私は慣れない光景に落ち着かなかった。
「いいじゃない。2人で食べよう」
直ちゃんは、いつものペースでコーヒーを入れてテーブルに着いた。
(中略)
「でも変な感じ」
私も自分の分の牛乳を入れて直ちゃんの隣に座った。

「当然でしょ? 子どもにご飯を食べさせるのは母親の義務なのよ」
「そうだったのか」
母さんは素直に納得すると、フライパンを火にかけた。
「何作ってるの?」
私はフライパンの中を覗いた。蕎麦と白ねぎが炒められている。白ねぎの焦げる匂いがそそられる。
「この中にね、醤油と生クリームを入れるの」
母さんは冷蔵庫から生クリームを出してきた。
「えー。気持ち悪い。蕎麦と生クリームって」
「でしょ。でも、おいしいって宮崎さんが言ってたのよね。ほら、あっという間に出来上がり」
(中略)
私は大きさの違う皿を2枚用意し、緑茶を入れた。母さんはほとんど何も持たずに家を出たから、食器が少ししかない。
「どう?」
私は先に口にした母さんに訊いた。生クリーム蕎麦は一応おいしそうな匂いがしている。
「さあ」
母さんはにやりと笑った。
自分で食べてみなさいってことだ。父さんはたわいない質問にでも、丁寧に正確に答えてくれるけど、母さんは私が子どもの頃から、答えを明かさない。
私はちょっと戸惑いながら、薄茶色の不思議なお蕎麦を口にした。
「あれ? おいしいかも」
「うん。おいしいらしいね」
母さんが答えた。
「醤油と生クリームって合うんだねえ」
私は妙に感心した。
「白ねぎがポイントなのよ」
「意外な組み合わせでできる美味さって癖になる」
私は感想を述べながら、生クリーム蕎麦をお代わりした。
一人暮らしを始めてから母さんの料理のバラエティはすごい勢いで広がった。みんなで暮らしていた時から料理は上手だったけど、食卓にはいつも定番のありきたりなものが並んでいた。1人になった母さんの料理は創意工夫がすばらしい。
「家族のごはんっておかしなもの作れないでしょ」
母さんが言った。
「そうかなあ」
「そうなのよ。栄養のバランスと確かなおいしさの保証が大切なのよ」
母さんは首を傾げる私に断言したけど、そんなことはないはずだ。父さんは融通が利かないところはあるけど、人の作るものに文句を言うタイプではないし、直ちゃんは何を食べてもおいしい人だから。
(中略)
「父さんが父さんを辞める話聞いた?」
私は、そばを食べ終えてお茶をおいしそうに飲んでいる母さんに訊いた。

「ああ。毎日仕事してると、周りをゆっくり歩くこともなかっただろう。歩いてみるとおもしろいね。おいしそうなパン屋を見つけたから、フランスパンを買ってきたよ」
父さんはしゃれた紙包みを机に置いた。
「なんか父さんがパン買うなんて、すごいね」
「ついでに、母さんの、もとい、妻の職場に行って和菓子も購入してきた」
「ちっとも、らしくないね」
(中略)
「さあ、夕飯にしよう。仕事もせず、ふらふらしていたらおなかがすいてしまった」
父さんはのんきなことを言うと、食卓に向かった。
「夕飯って、まだ早いし、何もないよ」
家を出てからも、夕飯はほとんど母さんが届けてくれる。ただ、金曜日は母さんのパートが遅いので、直ちゃんか私が作るのだ。
「桜餅と、フランスパンとでいいじゃないか」
父さんが言った。
「夕飯に?」
私は驚いた。
我が家は朝食にかぎらず、ちゃんとした食事をとる。
母さんがいなくても直ちゃんの職場の野菜などでバランス良い食事をしている。ファーストフードどころか、インスタントやレトルトのものすらあんまり食べない。
「いいね」
直ちゃんが賛成した。直ちゃんは結局何でもいいのだ。
父さんは桜餅を20個も買っていた。知っている人が売っていると思うとついつい買いすぎたのらしい。
桜餅の夕飯はちょっと悪いことをしているようで、わくわくした。なんだか、小さい時、夜中に直ちゃんとこっそりアイスクリームを食べたときのような感覚だ。私と直ちゃんは同時にそれを思いだしてくすくす笑った。甘いものが苦手な父さんは渋いお茶を何回もお代わりしながら桜餅をせっせと食べた。
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直ちゃんはグレープフルーツを剥きながら言った。冷やしておいて、食後のデザートに食べるためだ。グレープフルーツは半分に切って食べる方が手っ取り早いけど、直ちゃんはちゃんと一房ずつ剥く。
「それまで父さんに戻らないといいなあ」
「もう辞めたんだから戻らないんじゃないの?」
グレープフルーツを剥きおえた直ちゃんは皮をそこら中に置いた。部屋がさわやかな匂いで満ちる。どちらかというと、朝の匂いだけど。
「そうなのかな? 2、3ヵ月で父さんに戻るのかと思った」
「どうだろうね。ま、どっちでも一緒だって。さ、おなか空いたし、先にご飯食べちゃおう」
働きはじめてから、直ちゃんは食欲が2倍に増えた。そのことをすごく嬉しく思っているらしく、直ちゃんはしょっちゅうおなか空いたを連発する。
今日の夕飯は母さんにもらった鰆の西京漬けと切り干し大根の煮物とつぶしたじゃが芋に塩とこしょうと酢を混ぜただけのサラダ。それと炊きたてのご飯に生卵。
昔は生卵は苦手だったけど、直ちゃんが青葉の会の卵を持って帰ってくるようになって、欠かさず食べるようになった。青葉の会では鶏を平飼いにしていて、よく動かしているから卵がすごくおいしい。口の中でとろんと柔らかい味が広がる。
「いただきます」
直ちゃんと私は、2人の時にも隣同士に座る。母さんが家を出てから、2人で夕飯をとることが多くなって、向かい合わせに座った方が広々と食卓を使えて便利だなと薄々勘づいているのだが、どちらも実行に移さない。
「どっち?」
濃い茶色の卵と薄茶色の卵を直ちゃんが両手に持って見せた。
「こっち」
私は濃い色の卵を選んでお椀に割った。
「なかなか良い選択だね」
直ちゃんは黄身の具合を見ながら言った。白身の粘りがなくなるまでよく混ぜて、醤油をほんの少しだけ入れる。直ちゃんは醤油をかけずにそのままご飯にかける。
「こればかりは何度食べてもおいしいね」
本当にそう思う。直ちゃんの持って帰ってくる野菜も、母さんの新しい料理もおいしいものはたくさんあるけど、たいてい食べているうちに味になれてしまう。だけど、卵かけご飯は毎回おいしくて感動する。
「今日のはクリスティーヌと正子の卵を持って帰ってきたから」
直ちゃんが言った。

父さんが浪人生になるということより、今日の給食の献立の方が参った。先週塩焼きで出たところなのに、今日はみそ煮となって鯖が登場する。
うちの学校は海が近いせいか、1ヵ月に3回は給食に鯖が出る。鯖は腹の部分がぶよぶよしているし、皮の模様が気持ち悪くて私は大嫌いだ。
「でも、給食の鯖はほとんどノルウェーからの輸入なんだぜ」
坂戸君が言った。
「じゃあ、なんでこんなに出るの?」
「安いし、形も均等なのが多いから給食向きなんだ」
「ふうん」
やっぱり坂戸君ってすごいなと思う。ちっとも勉強できないくせいに、彼の頭は実生活向きの知識が詰まっている。
(中略)
「まあ、とりあえず今日のところは俺が食っとくわ」
「ありがと」
坂戸君は好き嫌いが全くない。給食を必ず残さず食べる。特に魚は好きみたいでよっぽどでない限り骨まで食べてしまう。私はその攻撃的な食べっぷりにすっかり心を奪われてしまっていた。

今日の朝食は豪華だ。当人は不在ではあるけれど「母の日」だから。
母さんが持ってきてくれた春巻きや鮭のクリームスパゲティ、直ちゃんが職場から持って帰ってきた新鮮な野菜や果物が無秩序に並んでいる。我が家は昔から記念日は豪華な朝食をとる。中華とかイタリアンとか和食とかジャンルを決めないで、むやみやたらにみんなの得意料理や好物を並べる。
「いいねえ」
父さんが嬉しそうに言った。
「夜遅くまで勉強してるから、朝、おなかすくんだよね」
(中略)
「葉が開くまで待っててね」
父さんが緑茶、私が牛乳、直ちゃんがコーヒーかカフェオレ。いつも飲むものはバラバラだけど、今日は直ちゃんが本格的に紅茶を入れてくれた。私とは違って季節や時間帯に感情も体調もまったく左右されない直ちゃんはいつでも機嫌がいいけど、今朝はいつも以上にウキウキしていた。

「パン焼けたよ」
直ちゃんはおはようの代わりにそう言った。
「おはよ」
私はトースターからパンを取り出して、席に着いた。
「調子悪いの?」
いつもは食パンにマーマレードかバターを塗るけど、今日は何もつけなかった。直ちゃんがバターもマーマレードもたpっぷり塗りながら訊いた。

私は昼前から友達の家に出かけていた。みゆきちゃんの誕生日で昼ご飯をごちそうになった。フライドチキンとちらし寿司を食べて、みんなで人生ゲームをした。誕生日プレゼントのお返しにかわいいシャーペンをもらった私はうきうきしながら、夕方家に戻った。

「そうそう、お菓子があるのよね」
母さんは今さっき作ったというプリンを出してくれた。私はありがとうを言って受け取ったが、まったく食欲がなかったし、プリンの甘いバニラの匂いは胃を刺激した。母さんはさっき父さんとも食べたんだけど、と言って自分の分も用意して席に着いた。
「うちの家庭って崩壊してるのかな?」
私がプリンにスプーンを突き刺しながら言うと、母さんが目を丸くした。

朝食はクロワッサンでバターの濃い匂いに気持ち悪くなった。普段の私はクロワッサンは大好きだけど、まったく口に入れられなかった。
「少しは食べないと」
父さんは心配そうな顔をした。
「わかってる」
私は直ちゃんが剥いてくれた瓜を食べようとしたけど、やっぱり胃が拒否をした。

「ね、桜餅買って帰ろう。母さんの店で。また、30個ぐらい」
「今の季節じゃ売ってないんじゃない?」
「じゃあ、みたらし団子でいいや」
私は父さんの手を引っ張った。
私たちは閉店間際の母さんの店で、安くなったみたらし団子や三色団子をどっと買い込んだ。たくさんの和菓子を抱えて家に帰ると、直ちゃんのギターが響いていた。
(中略)
「みたらし団子、冷めるとまずいしさっさと食べちゃおう」
「じゃあ、直ちゃん呼んでくるね」
私が2階に向かおうとすると、父さんが止めた。
「別にいいだろう」
「そっか。そうだね」
いつもいつもみんなが食卓にそろう必要はない。父さんと私は2人でみたらし団子を食べた。

直ちゃんは肩をすくめると、自分の席に着いた。最近はほどんと直ちゃんが夕飯を作っているのだけど、今日は落込んでいるだろうと気を利かせて、父さんと2人でスペシャルサラダを作った。ジャガイモや玉葱やキャベツ。春の野菜を何でも細切りにして、その上に卵の黄身とカリカリに焼いたベーコンをかけただけのサラダ。これだけで十分お腹がいっぱいになる。直ちゃんは失恋すると大量に野菜を食べたがる。病気や挫折をすると、身体がビタミンを欲するらしい。

「さあさあ、夕飯にしよう」
香水女を気に入ったのか、父さんはご機嫌に言った。
こんなことなら、ビーフシチューなんて作るんじゃなかった。今日は朝から直ちゃんと2人でシチューを煮込んでおいた。いつもと違って、直ちゃんの仕事場の虫食いだらけの野菜だけじゃなく、ペコロスや芽キャベツなどの可愛い野菜まで入れたのに。香水女にそんな繊細な心遣いなどわかるわけもない。私はがくりと肩を落とした。
「わあ。おいしそう」
香水女はシチューを見て、感嘆の声を上げた。「たくさん食べてね」と直ちゃんも父さんも嬉しそうに笑った。思った通り、香水女には中の野菜のことなど、どうでもいいようだった。それどころか、ご飯もシチューもお代わりまでしてきれいに平らげた。他人の家で、しかも初めて訪問する彼氏の家で、これだけ食べられるのは才能かもしれない。彼女の長所を挙げるなら、ただ一点。食べっぷりの良いところだな。そう思った。

私が油を3本差し出すと、母さんは驚いた。
「直ちゃんの彼女がお土産に持ってきたの」
「油を?」
「そう油を。6本詰め合わせのね」
母さんはずいぶん大胆な人ねと笑った。
「どう思う?」
「どう思うって?」
「そんな人だめじゃない。すごく嫌な女だった」
「ふうん。そうなんだ」
「そうなんだって他人事みたい」
私はふくれながら、母さんが作ってくれたねぎ焼きをつついた。母さんは私が来る時には必ず何かおやつを作っておいてくれる。離れて暮らすようになって、サービス満点になった。前までおやつはホットケーキやプリンだったのに、受験生になってからというもの、ねぎばかり食べさせられている。ねぎは頭にいいらしいが、さすがに飽きてきていた。

「普通の体型の人間が思いつくことは全て体験済みだよ」
「そっか。じゃあ、野菜は? 野菜ばかり食べるの」
「肉が好きなんだ。野菜がいいのはわかってても、味けなくって」
「違う。本当の野菜はすごいおいしいんだよ。兄がね、青葉の会ってところで働いてるの。無農薬野菜を作ってるんだけど、そこの野菜って形は悪いけど、みずみずしくて甘くて、味もはっきりしてて、すごいおいしいの」
私は会ったばかりの山田さんに一生懸命に説明をした。
「青葉の会って聞いたことあるよ。それって宗教団体じゃないの?」
山田さんが言った。
「宗教でも何でもいいのよ。だまされたと思って、食べてみて。最初はドレッシングとかつけて食べてもいいけど、そのうち、何もなしで食べられるよ。すごく身体にいいよ」

私は顔をしかめながらも、直ちゃんが作ってくれたオムライスを口に入れた。オムライスと言っても、夕飯の残りの野菜炒めとご飯をひっくるめて卵に混ぜて、焼いただけのものだ。卵が染みわたったご飯はふんわりとしておいしい。
母さんはできたてのフレンチトーストを私の前に置いた。もちろんフレンチトーストにはねぎが入っていない。落込んでいる時にねぎを食べて賢くなってしまうと、考えすぎてよくないから。そういう時には甘いものを食べるのに限るらしい。朝から牛乳と卵に浸しておいたというフレンチトーストは口に入れると、甘い匂いが広がった。

日曜日に駅前のケーキ屋に出かけた。気を落としているのが目に見えたのか、父さんが好きなものを買っておいでと小遣いをくれたのだ。食欲があったわけじゃないけど、とりあえず私はチーズケーキを買った。その帰り、覚えのある匂いがした。甘くて刺すような......。

翌朝、早くから起き、直ちゃんはステーキを焼いていた。台所に降りていくと、じゅうじゅうと肉の焼ける音と、油の焦げる香ばしい匂いがしていた。
我が家は、朝食はしっかりめに取る。だけど、さすがに朝から肉はきつい。
「どうしたの?」
「何が?」
「何がってお肉」
怪訝そうな私に、直ちゃんはおはよう、と言ってから説明した。
「今日は月曜日だからね」
「だから?」
「だからって、毎週月曜日は肉の日だろ」
「それは、スーパーの安売りの話でしょう? 朝から肉を食べろってことじゃないよ」
「まあまあ。座りなさい、妹よ」
言われるまま自分の席に着くと、直ちゃんが焼きたてのステーキを運んできた。ほうれん草とにんじん、潰したじゃが芋も添えてある。直ちゃんは自分の分も用意すると、私の隣に座った。最近朝食は2人で食べる。父さんは予備校の仕事が夜遅くまであるため、朝は遅い、
「佐和子。ついに中原家の兄妹も手を結ぶ時がやってきたぞ」
直ちゃんは勢いよく肉をほおばってから、意味のわからないことを宣言した。
(中略)
私も肉を口に入れた。朝からステーキを突っ込まれて、胃はびっくりしている。だけど、お肉は上手に焼けていておいしい。
直ちゃんはいつもできるだけ安い肉を買ってくる。そして、お酒やコーラに一晩漬けたり、せっせと叩いたりして、いかにおいしい肉に変身させるかに挑戦している。
(中略)
半分も食べると胃が疲れてきたので、私は肉を食べるのを止め、キャベツを生のままばりばり食べた。
我が家の食卓にはいつもキャベツを四つ割りにしただけのものが置かれている。それをみんなが好き勝手に剥がして食べる。直ちゃんの職場のキャベツは農薬を使っていないから、どこからかじっても安心だ。春のキャベツは何もしなくても甘くておいしい。それに、キャベツをかじると、口の中も胃の中もすっきりする。
(中略)
直ちゃんはそう言うと、また肉をほおばった。目覚めてしまうと、朝から重いもの食べて、妙な話をするんだなあ。私は感心しながら、キャベツばかり食べていた。

「すごく深刻に夕飯作るんだね」
「うん。今日はこの、イタリア風いかとキャベツの春の炒め物というのを作るよ。何とも、4月らしい料理だろ」
直ちゃんは雑誌の写真を私に見せると、台所へ向かった。
一緒に暮らしていた頃、母さんは本や料理番組で研究し、バランスが取れたおいしい食事を作ってくれた。だけど、今は我が家では誰もそんなことはしない。
一人暮らしを始めた母さんは、自分だけのためだからと気ままに自由に好きな物を作っている。私達の家でも、作る人が食べたいものを食べたいように作る。直ちゃんが農業をしているお陰で、おいしい食材はたくさんある。どう調理したところで、失敗することはめったにない。それが我が家のご飯だった。だから、本を片手に料理をする直ちゃんはとても神経質に見えた。
いかとキャベツの炒め物は正しくおいしい味がした。でも、材料に載っていたバジルが家になかったため、直ちゃんがわざわざ買いに行き、出来上がるまでにとても時間がかかった。
「バジルがなくたって構わない」と私が言い、「バジルの代わりにパセリを使えばいい」と途中から台所へ来た父さんが言った。それでも、直ちゃんは「バジルはバジルだ」と頑固にバジルを買いにいったのだ。
「まあ、バジルを買いに行っただけあって、おいしい気はするな」
父さんは細かい味などわからないくせに言った。
「バジルの匂いがイタリアって感じだね」
私もパセリで十分だと思ったけど、直ちゃんの苦労をねぎらうためにほめておいた。

母さんは文句を言いながら、牛乳のたっぷり入った紅茶を入れてくれた。
(中略)
「あっそう。まあその辺のことは大浦君が何とかするだろうしね。じゃなきゃ一緒にいる意味ないもの。つまらないことは大浦君に任せておいて、ケーキでも食べようか」
母さんはチーズケーキを冷蔵庫から出してきた。
クリームチーズと卵と生クリームをミキサーにかけて、そのままオーブンで焼いただけのシンプルな物で、最近の母さんの得意料理だ。昨日も一昨日も家に届けてくれた。
「またこれ?」
「昨日のとは違うのよ」
「どこが?」
私はケーキを口に入れてみた。まったく違いがわからなかった。
「チーズの種類が違うの。昨日は明治のクリームチーズだったけど、今日は森永なのよ」
「何、そのわかりづらい変化は。そんなのどっちにしてもクリームチーズでしょ? わかるわけないよ」
「でも、森永と明治の社員にとっては大問題よ」
そう言いながら、母さんもケーキを口に入れた。
「本当、さっぱりわからないわね。昨日とは決定的に違うのに。次、佐和子が来る時には、雪印のチーズで作るわ」
「あっそう」
昨日と今日の味の違いはわからないけど、チーズケーキはとてもおいしかった。

家に帰ると、机の上にシュークリームが乗っていた。
「これ、どうしたの?」
「ヨシコさんが家に来たんだ」
「うそ」
「本当」
(中略)
でも、小林ヨシコのお土産はサラダ油でも洗剤の詰め合わせでもなく、私と直ちゃんが大好きなシュークリームだった。
「ところでさ、私達の家族を復活させるって計画はどうなったの?」
私達は夕飯の用意もしないで、のんきに紅茶を飲みながら、シュークリームをほおばった。
(中略)
「それより、このシュークリームって、かなりおいしいな」
直ちゃんは3個目のシュークリームを食べながら言った。
「確かにね」
「パリパリの皮のやつ多いけど、俺はこうやって、クリームと一緒になってしっとりしちゃうシュークリームの方が好き。どこで買ったのかなあ。この辺のケーキ屋のじゃないよな」
小林ヨシコがくれたシュークリームは乱暴に紙袋に詰め込まれていた。だから、形が悪く、つぶれてクリームがはみ出ているものもある。
「あれ、何か入ってるよ」
私が食べたシュークリームの中に、堅い物が入っていた。舌でたぐり寄せて口から出してみると、それは卵の殻だった。
「これってさ」
「ヨシコさんらしいね」
私達は、夜がどんどん近付くのも構わず、不格好なシュークリームを2人で飽きるまで食べつづけた。

「鶏のほうが愛嬌があるし、味も日本人向けだしさ」
「味って、まさか食べる気?」
「もちろん。食べなきゃ意味ないよ。クリスマスまで丸々太らせて、ヨシコさんと一緒にローストチキンにして食べるんだ」
「それって、相当怖いよ」
「なんで。佐和子だって、去年、一緒にクリスティーヌ食べたじゃん」
確かに昨年のクリスマス、我が家で飼っていた鶏を絞めて、みんなで食べた。育てたものを食べることはありがたいことだと、私も思った。

父さんはコーヒーだけじゃなく、プリンを冷蔵庫からとってきた。一人で何かを食べたり飲んだりすることに慣れていない父さんは、自分が飲むときには必ず私の分のコーヒーも用意してくれる。
「父さんって、甘いもの苦手だったのにねえ」
私は父さんが出してくれたプッチンプリンを開けながら言った。プッチンプリンは甘ったるくて私は嫌いだけど、父さんはプリンを買うとなるとこれを買う。いかにもプリンという風体で、スーパーに並んでいると、むしょうに食べたくなるらしい。
「勉強してると、甘いものがほしくなるんだよなあ。ほんの少しでもいいんだけど、やっぱり甘いものを食べると救われる気がする」
父さんは大げさなことを言いながら、おいしそうにプリンを口に入れた。
(中略)
父さんとどうでもいい話をしながら、牛乳がたっぷり入ったコーヒーを飲む。追われるものは何もなく、毎日が自分の好きなように使える。1年の終わりに向けて時間はとてもゆったりと流れていた。

「こんなに着々と幸せに近づいていくのって、ちょっと不思議な感じ」
クリスマス・イブの前日、私は父さんとコーヒーを飲みながら、なかなかすてきに仕上がったマフラーを何度も眺めていた。
「やっぱりイエス・キリストがいるんだろう。毎年、なんだかんだ言ってもクリスマス前後の世の中は平和だ。それより、父さんや直にはないのか?」
「ないのかって何が?」
「何がってマフラーに決まってるだろう。父さんたちには編んでくれないのか?」
父さんはマフラーなんて巻いたことがないくせにそう言った。

うだうだ考えてると、ノックが聞こえて直ちゃんが入ってきた。オムライスと牛乳が載ったお盆を藻っている。
「昨日から何も食べてないからさ」
何も言ってないのに、直ちゃんは言い訳するように言った」
(中略)
「だったら、少しオムライス食べなよ。結構おいしいから」
直ちゃんがお盆を私のほうへ差し出した。お腹はすいているはずなのに、ケチャップの甘酸っぱい匂いに気分が悪くなって、私は思わず顔を背けてしまった。
「大丈夫。......お腹すいたら自分で下へ行くから」
「ほんとに?」
「うん。本当」
「それは信頼できる筋の情報?」

朝ごはんは半熟卵と、ほうれん草とベーコンのサラダで、私はどっちも大好きだったけど、少し口にするだけで胃が気持ち悪くなった。

「さあ、食べましょう。今日は父さんと力を合わせて料理したのよ」
母さんがにこやかに言って、みんなが手を合わせた。
夕飯は野菜とひき肉を何重にも重ねて、上にチーズを乗っけて焼いたグラタンと、きのこご飯と、たまねぎがたっぷり溶けたスープだった。こんがり焼けたチーズ、きのこの匂いがするご飯、甘いたまねぎのスープ。どれも私の好きなものだ。
「なんだか平茸とかエリンギとか調子に乗ってキノコをどんどん突っ込んだから、ご飯よりキノコのほうが多くなっちゃったのよね」
母さんが陽気に言って、父さんが少し笑った。
母さんがいるせいか父さんも直ちゃんもいつもより少しにこやかだ。食事はどれもおいしいらしく、ご飯もスープも何度かおかわりがされていた。でも、私の箸はちっとも進まなかった。

また同じように朝がやってきた。私がのろのろと重い身体で降りていくと食卓の雰囲気が違う。私のせいでどんより重いのはいつも通りだけど、なんだか華やいでいる。よく見ると、テーブルに並んでいるのは御節だった。
そうだ。知らない間に、着々と時間が流れるどころか、年まで変わっていたのだ。
「いやあ、今年はデパートの御節料理を注文しちゃったよ」
父さんが陽気に言い、直ちゃんが、
「たまにはこういう高級料亭のもいいかもね」
と、嬉しそうにお重を開けた。
(中略)
「まあ、いいじゃん。早く食べよう」
直ちゃんはさっさと席に着くと、私の分まで小皿に一通り御節を盛り付けてくれた。
「でも......」
「きっとすぐ帰ってくるさ」
父さんも箸を手にした。みんながこともなげに言うので、私は腑に落ちないまま、自分の席に着いた。
数の子、黒豆、くわい、田作り。幸せになる品々が御節の中には詰っている。去年も私はちゃんと御節を食べていた。だけど、幸せになんかならなかった。
父さんも直ちゃんも、それしか言うことがないかのように、何度もおいしいと言った。確かに高級料亭の御節は上品で奥深い味がしたけど、母さんの作る御節のほうがずっとおいしい。私はそう思いながらも、やっぱり一通り幸せになれそうなものをきちんと食べた。

ヨシコに渡された紙袋はずっしり重く、甘い匂いがする。
「シュークリーム。12個入ってるんだ。でも、全部あんたが食べたらいいよ」
私は突然ヨシコにシュークリームをプレゼントされ、ますます首
(中略)
「いいよ。とにかくちょっとでも復活してよ。あんたが元気になるまで、ローストチキンもお預けなんだからね」
ヨシコはいたずらっぽく笑うと、部屋を出て行った。
私はヨシコが帰るとすぐに、シュークリームを袋から取り出した。すごく甘いバニラの匂いがする。私はさっそくシュークリームを口に入れた。久しぶりに食べるお菓子はとても甘く、とてもおいしく感じた。2個食べたらお腹がいっぱいになって、3個目からはクリームが濃くて吐きそうになった。でも、私はまじめにシュークリームを片付けた。飲み物がなくて途中で苦しくなったけど、12個ともきちんと食べた。
ヨシコのシュークリームはクリームはそこそこおいしかったけど、皮は膨らみが悪くてかすかすだった。何より12個中、4個に卵の殻が入っていたのには参った。
ヨシコは不器用だけど、シュークリームはよく作って我が家に持ってくる初めこそ、殻が入った不恰好なシュークリームを持ってきたが、最近のヨシコのシュークリームはとても上手なものばかりだ。
私もシュークリームを何度か作ったことがある。それほど難しくはないけど、失敗の多いお菓子だ。きっと、ヨシコはいつも苦労してたんだ。今日は直ちゃんじゃなく私のために作ったから、こんなだけど。
シュークリームのおかげで胃は気持ち悪くなった。だけど、たくさん食べたせいか、甘いものを身体に入れたせいか、少しだけ元気になったような気がした。

夕飯はマーボー春雨、揚げ出し豆腐、鰯の蒲焼だった。昨日の夕飯はエビチリで、一昨日は鮭のクリームグラタンだった。この2週間、朝も昼も夜もメニューは私の好物ばかりだ。
「この豆腐は予備校の帰りに商店街の豆腐屋で買ってきたんだ。いつものよりずっとおいしいぞ」
父さんがそう言いながら揚げだし(ママ)豆腐を口に入れた。私も真似して豆腐を口に入れようとしたけど、あまりにお腹が膨れていてうまく飲みこめなかった。
「いいよ、無理しなくて」
「揚げ出しにしたのがよくなかったのかな。冷奴にした方が食べやすかったかもな」
心配そうな父さんと直ちゃんに、私はちょっと吹きだしてしまった。
「どうした?」
2人とも驚いて私の顔を覗きこんだ。
「本当はね......。お腹いっぱいなんだ」
「お腹がいっぱいって?」
「さっき、シュークリーム食べたから」
「へ?」
「小林ヨシコ特製の超濃厚なやつ。一気に12個も食べちゃったんだ」
私はそう告白して、くすくす笑った。
「どうして独り占めするんだ。1個ぐらいまわしてくれてもいいじゃん」
直ちゃんも笑った。
「でも、12個中、4つに卵の殻が入ってたんだよ。ひどいでしょ?」
「そっか。佐和子用だったんだな」

「まあいいや。これ、あげる」
私はきれいに包んだ箱をテーブルの上に置いた。
「何これ?」
「小林ヨシコ特製シュークリーム。今日一緒に作ったんだ」
今日、朝からヨシコの家でシュークリームを作った。小林ヨシコは教えてやるって誘ったくせに、「見て盗め」と言ったきりで材料の説明もなく、勝手に作りはじめた。仕方ないので、私も横目で自分の作り方でシュークリームを作った。なのに、出来上がったとたん、これはヨシコ特製シュークリームだと勝手に命名されたのだ。
(中略)
母さんは神妙な顔をしてうなずくと、さっそくシュークリームを口に入れた。
「うん。おいしい」
「ほんと?」
「うん。ヨシコさんがいい人だってちょっとわかる気がする」
「それはよかった」
私はシュークリームには手をつけず、母さんが入れてくれた紅茶を飲んだ。さすがにこないだ12個も食べたから、シュークリームはもうこりごりだった。

瀬尾まいこ著『幸福な食卓』から

「ぶかっこう」と「あげだし」に表記の不一致あり。何も問題ないけど。

ご飯食べた?『僕の狂ったフェミ彼女』

韓国の小説を読んだのはたぶん初めて。
LAのコリアン系の友人たちはみんな礼儀正しくて大好きな人たちなのだが、確かにちょっとルッキズム、家父長制に縛られているな...という傾向はある。

ただそれは日本も同じだし、米国から韓国のエンタテイメントの表象にふれていると、韓国が日本以上に少子化になっている理由がよく分からなかったのだが、この物語が「ハイパーリアル」と評されているなら、そりゃ子ども減るわ。

このふたりはひたすら一緒にご飯を食べたりソジュを飲んだりするのがいい。
会えない日に電話で「夜は何食べるの?」と気遣うのもいい。さすが밥먹었어?の国。
そんなに細かく描写しているわけではないが、どれも美味しそうだし、楽しそうだし、コリアタウンに行きたくなる。
結婚式にカルビスープが出るなんていいよね。

全てのことがあまりに突然で衝撃的だったので、マスクを外し「あんたのせいで走ったらお腹空いた。チキンおごってよ」とヘラヘラ笑いながら僕の腕をつかむ彼女の図々しさが、むしろ何でもなく思えるほどだった。
(中略)
心ではありとあらゆる想いが交錯していたが、それとは裏腹に、足はこの辺りで有名なフライドチキンの店へと向かっていた。
(中略)
彼女が肩を震わせて泣いているのを見て、店員がおどおどとビールとチキンをテーブルの上に置いていった。つまり僕たちは、注文した料理が出てきてもいないうちから、声を荒らげ、泣いて、大騒ぎをしていたわけだ。
あきれ果て、疲れ切って、僕たちはただ無言でチキンを食べた。彼女がジョッキを持ったので、僕も急いで持ち上げ、乾杯をした。よく冷えた生ビールはすぐに口の中に吸い込まれ、一瞬でジョッキが空になった。
(中略)
サクッとした衣に感動しつつ鶏肉を噛んでいた僕は、何気なく言った。
(中略)
僕は再びチキンに手を伸ばし、一番好きな手羽を一切れかじった。ところがなぜか、さっきほど美味しくは感じられなかった。

「あー、疲れた。ヘジャンククでも食べて帰ろ。忙しいならこのまま解散するし」
え、ヘジャンクク? 一体何を......。
(中略)
「いいからヘジャンククでも食べよ?おごるからさ」
彼女が少し申し訳なさそうに見える、はかりがたい表情を浮かべながら僕の腕に絡みついた。その表情は気に入らなかったが、結局しばらく後、僕は彼女と24時間営業の腸詰め(スンデ)スープの店に座っていた。

「あー、美味しそう」
ぐつぐつ沸いた汁の香ばしいにおいに感動しながら、彼女はうれしそうに海老の塩辛と薬味を混ぜた。その姿さえも憎たらしく思えて、僕は何も言わなかった。
ズズーッ、ズズーッ。
僕たちは無言でスープを飲み、ホルモンとご飯を食べた。熱々のスープで、胃は楽になった気がしたが、気分は依然として晴れなかった。約束通り会計は彼女がした。

「アイスアメリカーノ」
声を張り上げて呼び続け、ようやく引き止めた彼女をやっとの思いで説得し、一緒にカフェに入ることができた。彼女は店のガラスを開けるや否や、まるでコーヒーの取り置きでもしていたかのように僕に向かって注文を叫ぶと、席をとって座った。

会社近くの雰囲気のいい店を頑張って検索しておいたのだが、彼女が足を向けたのは焼肉の店だった。
「焼酎(ソジュ)1本ください」
すると僕に聞きもせずに焼酎を注文した。僕はビールが飲みたかったが、彼女の放つダークフォースにただならぬものを感じ、大人しくしていることに決めた。従業員がテキパキと鉄板と肉をセッティングし、焼酎の瓶とグラスを持ってきた。
彼女はポンという音を立てて豪快に瓶を開けると、勢いよく2つのグラスを満たした。
(中略)
僕は心の内がバレないよう、咳払いをしながら黙って肉を焼き始めた。ジュー、ジューと、聞いているだけで自ずと気分が良くなる音がした。
(中略)
僕は黙って彼女の前の皿に、美味しく焼き上がった肉をのせてあげた。
「まず食べて。お腹空いたろ」
「気分が低気圧の時は肉の前へ」という名言もあるように、彼女が肉でも食べて機嫌を直してくれることを願った。
(中略)
食欲がないのか、取り皿にたまった肉が手付かずのまま冷め初めていた。

僕らは近所のチキン店へ行った。一仕事終えると未だにチキンが食べたくなる、どうしようもない小学生のような舌だと、彼女は独り言を言いながら笑った。小学生だっていいだろ。僕もチキンが一番好きだ。僕らは食の好みまで、運命的に相性ピッタリ。
美味しいチキンに、目の前には彼女。何よりもフェミニズムの本からようやく解放されたと思うと、気分は最高だった。

「何食べてたの?」
「バナナと卵。食べる?」
彼女の言葉通り、食卓にはとても素朴な朝食が並んでいた。ダイエットメニューのようだった。
「毎日こういうの食べてるの?」
「うん、朝はあんまり食欲ないから適当に。豆乳飲みたかったら飲んでいいよ。冷蔵庫にあるから」
彼女に渡されたバナナをむきながら、急に悪戯心が発動して言った。
「僕は朝はしっかり食べる派なんだ。朝食はご飯と汁ものを一緒に食べないとね」

明らかにリゾートの中にも食べるところがあるのだが、まずいし高いからという伯父の強力な主張により、各家庭で一品ずつ持ち寄ることにしたらしい。母が準備したのはプルコギだったが、何しろ人数が多いので、量もものすごかった。数日前から買い出しをして、昨日も遅くまで下準備をして、とても大変そうだった。親戚がある程度集まると、伯母と従兄の奥さんたちがそれぞれ準備してきた料理を出した。各種チヂミにカルビ、魚にロブスターまで、種類もものすごくたくさんあって、ボリュームたっぷりだった。
70坪の大きな部屋を借りたおかげでキッチンも広々としていたので、女性陣がそれぞれ散り散りになって下ごしらえしてきた材料で料理を始めた。

「夜は何食べるの?」
「さあ、わかんない。少ししたらラーメンでも食べて帰ろうかな。そっちは?」
「ああ、こっちはそれぞれの家で一品ずつ持ち寄ったから、食べるものたくさんあるんだ。プルコギにロブスターに......」
「は? そんなとこまで行くのに、わざわざ料理を家で作ってきたってこと? なんでまた?」
彼女の声がまた鋭くなった。ああ、余計なことを言ってしまった。だが覆水盆に返らずだった。僕は委縮した声で言った。
「外食してもどうせまずいし高いからって......」
「まったく、準備するお母さんたちの労働力はなんでタダだって思うわけ? あんたの家ってほんとにすごく......」

祖父と一滴の血のつながりもない女性陣がお膳立てした料理が食卓に並んだ。祖父は曽孫を抱いて、巨大な餅のケーキに刺さったろうそくを吹き消した。

そうして僕たちは今回もまた豚ハラミ(カルメギサル)の店に焼酎を飲みに行った。周りに雰囲気のいいお店がいくらでもあるっていうのに。
肉を焼き、焼酎を注ぎながら、好奇心と恐怖心が共存した状態で僕は黙って彼女の話を待った。

ところがよりにもよってその出版社の入っている建物の1階には、マカロンを売っているお菓子屋さんがあった。有名な店らしく、女性たちが絶え間なく列を作ってマカロンを買っていった。彼女が出てくるのを待つなら離れるわけにもいかないので、しかたなく周りをぶらぶらしていると、並んでいる女子たちの視線を感じてきまりが悪かった。クッソ。僕はできるだけ離れたところに立った。
時間が流れ、マカロン店はいつの間にか「材料切れ」という4文字を貼り出して閉店していた。

彼女は食欲がないと言うので、僕たちはカフェに入った。僕は腹ペコだったので、サンドウィッチを1つ注文した。実は、1時間ずっとマカロンに魅了された人たちの中に立っているうちに、自分では一度も買ったことのないマカロンに手が出そうになったが、なんとか我慢した。

彼女がキッチンからグラスを2つ持ってきた。焼酎と一緒に広げたおつまみは、えびせんだけだった。
「何か食べるものないの? おつまみがないと胃に良くないよ......」
「ない。作ってよ。ムカついてるから飲むのに、自分でおつまみまで作るなんて無理」
「君が悪酔いするのが心配なんだよ。僕に作れるわけないだろ。何か出前とる?」
すると彼女がニヤッと笑った。
「作れないってことはないでしょ。男が料理したらタマがとれるとでも思ってるみたいだけど、迷信だよ」

元気付けてあげようと、週末に彼女の好きな梨泰院(イテウォン)の手作りハンバーガーの店へ連れて行った。だが彼女は相変わらず落ち込んでいるのか、ほとんど口をつけなかった。

僕たちが食事に行ったのは、美味しいと評判のうどん屋だった。前に女の子を紹介してもらいまくっていた頃、いつかのデートで行ったことのある店のうちの一つだった。
(中略)
スッキリしない答えに僕が首を傾げた時、ちょうどうどんが出てきたので、僕たちの会話は中断された。
さすがに評判の店なだけあって味は最高だったし、細長いちくわを食べる彼女の顔は無駄にセクシーだった。

風呂敷に包んだおかずのタッパーだった。ほお、お姉さんがおかずを作って持ってきてくれるんだ?

しかし彼女は特に反応もなくおつまみを食べるのに没頭していた。

僕らが結婚式の華である団体写真を撮っている間、彼女はまたご一腹なさり、ついに友達夫婦と一緒に食堂の丸テーブルを囲んだ。よくあるビュッフェ形式ではなく、カルビスープをメインにした料理が全てセッティングされているものだったので、気まずいメンバーで食事するにはむしろ都合が良かった。
(中略)
「いただきます」
僕たちがどうでもいい話をしている間、彼女は1人でちゃっかりご飯を食べ始めた。

「2人です。とりあえずビール2つとチキン1羽(ハンマリ)ください」
緊張のせいか空腹のせいか、僕は座るや否や出されたビールを口の中に流し込んだ。数ヶ月前、夏に彼女と初めてここに来た時のことを思い出した。実際はそんなに経ってないのに、すごく昔のことみたいに感じた。ビール1杯をほとんど一気に飲み干すと、2人連れやグループで座っている人たちをぐるりと見渡しながらしばらく考えにふけった。
「ご注文のチキンでございます」
ところが、思ったよりずっと早くチキンが出てきてしまった。ああ、このまま本当に1人でチメクして帰るのか。そんな中でも、湯気がゆらゆらと立ちのぼるチキンは本当に美味しそうに見えた。においも芸術的だった。僕はゆっくりと鶏肉に手を伸ばした。
(中略)
「とりあえずチキン食べてから考えよう」
僕は臨機応変に、つかみかけていた鶏肉を彼女に渡した。ちょうどビールも来たので、彼女はチッチッと舌を鳴らしてそれを一気に飲み干し、チキンを一口かじった。その顔を何気なくじっと見ていると、ふと気になった。

「まだわかんない? 私の好きな文章を思いだす。説明してもわからないことは、説明してもわからないんだよ」

ミン・ジヒョン著、加藤慧訳『僕の狂ったフェミ彼女』より

林真理子『ミルキー』

些末なことだが、会話の中で「カレーライス」とは言わないよね。
でも、中学校で美術の先生と理科の先生が結婚することになって、異動が決まったほうの先生が朝礼で挨拶に立ち、「みんなの目が三角形になってるんだけど...。XX先生(お相手)とはパチンコに行ってカレーライスを食べました。それだけです」と言ったのを妙に覚えているのよ。

公立校では教員が職場結婚したら必ず1人が他校に飛ばされるのが決まりだった。20年前は裏口が問題になるほど激戦だった教採だが今の日本はすっかり教員不足とのこと。異動などやってられないんじゃないだろうか。少子化なのに教育を舐めてバカな話だよ...。

イヴということもあって、四角いケーキの箱が山積みになっていた。アルバイトらしい若い女の子が声を張り上げている。
「クリスマスケーキいかがですかァ、クリスマスケーキ、いかがですかァ」
永沼は箱の前に立った。苺と生クリームを使ったタイプのもと、チョコレートを使ったものとの2種類がある。永沼は苺ののったいちばん小ぶりのケーキを選んだ。
(中略)
あの頃息子は育ち盛りだったから、ケーキの箱はもっと大きかった。美也子が自家製のケーキをつくった時もあったが、息子は素朴な手づくりよりも、派手なデコレーションの方をずっと好んだのだ。
(中略)
「これ、買ってきた。そこらのものだからたいしてうまくないものかもしれないけれど」
「まあ、ありがとうございます」
美也子はケーキをまるで花束のように受け取った。
「これは後でいただくとして、私、クリスマスだからミートパイを焼いてみたの。いかがかしら」
「ありがとう、じゃ、いただくよ」
ミートパイは永沼の好物である。美也子はヨーロッパ仕込みの香辛料のきいたうまいものをつくった。パイの他にサラダとちょっとしたオードブルもあり、クリスマスだからといって美也子は赤ワインの栓を抜いた。
(中略)
自分たちは離婚の話し合いのためにここにいるのではないか。クリスマス・イヴを共に祝い、パイとワインを楽しむためではない。しかしそうはいっても、この部屋がとても居心地がよいことは事実なのである。
永沼は今までの流れで、つい「乾杯」と陽気な声を出した。ワインを口に含む。色から判断したとおり、重たく深味のある味であった。
「うまいな、このワイン」
「でしょう。カリフォルニアワインなんだけど、そこいらのボルドーよりもずっといいわ。お料理教室に来てくれている人で、ワイン業者の奥さんがいて、その人が持ってきてくれたのよ」

何がきかっけか忘れましたが、2人で動物園へ行くことになりました。お昼にレストランへ入り、カレーライスを食べました。
(中略)
あの時連休ですごく混んでてさ、やっとレストランの席を見つけて、カレーライスを食べたじゃないか。タネはまずそうに食べて、実際にものすごくまずいカレーで、オレも食べてみてこりゃダメだと思った。タネは最後まで少しも楽しそうじゃなくて、オレはもうこれで駄目だと思ったね。
あら、そう、まるで憶えていないわ、と私は答えましたが、これは嘘です。鈴木君がカレーでいいねと言った時、私は暑いのととても疲れていることもあって、鈴木君のことを何と気がきかない、センスのない男だろうと思ったのでした。

「今度、朝子さん食べに来てくださいよ。居酒屋っていっても、フライ定食とかおでんもあって、家族連れも多いんですよ。この頃の親って、自分たちはビール飲んで、子どもたちにトンカツ食べさせたりするんです。朝子さんが来てくれるならご馳走しますよ」
(中略)
彼は朝子を見ると大層喜び、座敷の奥の上席へ導いてくれた。
「ゆっくりしていってくださいよ。うちのヤキトリはおいしいから、絶対にオーダーしてください」

老舗ぶることもなく、綺麗な店内でほどほどの値段の鰻を出してくれる。そして最近の店のように、刺身や酢の物をやたらつけてコースにし、値段を釣り上げることもないのも、久美子は気に入っている。
午後の2時を過ぎていたので、客は4分の入りというところか。久美子は隅の奥まった席を選び、三角巾と白上っぱりという、古風なウエイトレス姿をした若い女にビールを注文した。
「それとお新香を二人前ね。ねえ、鰻重でいいかしら。白焼きはどうする」
どうでもいいと、久野英二は言った。
「あんまりオレは食べられないから」
「じゃ、白焼きはやめて、鰻重だけでいいわ。特上ね」
久美子はビニールコーティングしてある品書きを、店員の手に戻した。暑さのためか、鰻の脂のせいか、それはぬるりと湿っている。久美子は運ばれてきたおしぼりで丁寧に両の指を拭った。
(中略)
やがて鰻重が運ばれてきた。プラスチックではない漆の蓋をとると、飴色の鰻がふっくらとした肌を見せて敷きつめられていた。箸で押さえると、見えるか見えないかのかすかな湯気をたてる。
「まあ、おいしそうよ」
久美子は、ねえと、男を見上げた。嫌な会話の最中でも、食べ物が前に出てくると久美子は相好を崩す。
「もうこの店でも天然物は出さないっていうけども、やっぱりいい鰻よね。ほら、かおりがまるで違うもの」
「よかったら、オレのも食わないか」
英二が重箱を前に押し出した。
「悪いけど、オレ、ビールで腹がいっぱいになっちゃったよ」
「このくらい食べなさいよ。ビールだけなんて絶対に駄目よ」
いつのまにか叱るような口調になっている。
「鰻が好きかどうかっていうのは、その人の生命力のバロメーターなんですってよ。私、誰かが言っているのを読んだわ。男たるもの、鰻をぱくぱく食べる元気がなきゃ駄目なのよ」
(中略)
「よかったら、オレの分、食べてくれよ」
「そんなに食べられるはずないじゃないの」
ぷりぷり答えながらも、久美子はこの鰻を折詰めにしてもらおうか、などと考えている。

「今夜はベイエリアのお店で食事。レインボーブリッジが窓から見えて、ロマンティックなことといったらない。
今夜はおじさま何人かとお食事だけれども、
『僕、わからないからよろしく』
とワインリストを渡される。私の大好きなシャトー・オー・ブリオンの赤、'76年。これを飲むと、とってもロマンティックな気分になるワタシです。ここから見える夜景みたいよね」
「今日は友だちのバースデー。場所は青山に出来たばっかりのキャビアハウス。ここってオープンパーティーの時に、キャビア食べ放題、シャンパン飲み放題で話題になったところ。私は知り合い5人のグループで行ったんだけれども、この一行が飲む、なんていうもんじゃない。次々とシャンパンを空けてどんちゃん騒ぎ。いくらご招待といっても、あれはなかったんじゃないかと反省。シャンパンはドン・ペリじゃなくて、ちょっと通っぽくヴーヴ・クリコだった」

玲子は料理が得意で、本格的なイタリア料理をつくる。いきつけのイタリアンレストランの、料理教室で習ったということだが、家の食卓にリゾットや牛肉のカルパッチョが出てきた時は心底驚いた。
「浩一郎さんは、どんなワインがお好きなのかしら。亜美ちゃん、うちのワインセラーをお見せしなさいよ。といっても、36本入りの家庭用だけれどもね」

浩一郎の遅い日は、必ず実家で食事をし、残ったものを詰めてもらってくる。ローストビーフの端っこだの、びしょびしょに濡れたサラダを出されると、浩一郎はひと言ふた言口にしたくなるのであるが、じっとこらえた。

早く帰ると言ってあった夜に、食事の用意がなされていないことがあった。一度めはピザの出前をとった。二度めは配達専門の鮨を頼んだ。が、三度めに浩一郎はたまりかねて電話をかけた。
(中略)
「冗談じゃないよ。もう腹がぺこぺこだよ。出かける時は、俺のために何かつくっといてくれよな」
玲子には出せない荒い声を出す。
「ピザでもとってくれればいいじゃないの」
「ピザは先週食ったばっかりだ」
「じゃあ、駅前のおそば屋さんにでも、ちょっと寄ってくればよかったのに」

こんな値段でやっていけるのかと心配になるほど安く、焼きソバやオムライスといった軽食も出す。

「ねえ、浩一郎さん。ご実家へのお中元、どうしたらいいのかしら。田舎の人に、あんまり食べつけないものを送ってもいけないと思って。うちはお使いものは、千成屋のチーズケーキって決めてるんだけど、ああいうものを召し上がるかしらねえ」

林真理子著『ミルキー』より

『日の名残り』夕食として申し分のないサンドイッチ

原書でしか読んだことのなかったイシグロの邦訳を初めて手にとって感激した。解説で丸谷才一が述べているように「土屋政雄の翻訳は見事なもの」。私は『アンネの日記』などの深町眞理子氏の翻訳が好きで書き取って勉強したりしているのだが、土屋氏のテキストもそこに加えたい。

その日、若いご夫婦のお客様があり、卿はあずまやでお2人をもてなしておられました。そしてそのあずまやへ、皆様お待ちかねの茶菓をお盆に山盛りにして進んでいったのが父でした。あずまやの前で、芝生は数ヤードの上り坂になっております。現在でもそうですが、当時も、ここの坂には4個の坂石が埋め込まれ、それが石段代わりに疲れておりました。父はこの石段を上りおわったところで倒れ、お盆にのせていたサンドイッチやケーキが、ティーポット、カップ、皿といっしょに石段近くの芝生に飛び散りました。

昨夜は、サマセット州トーントンの町はずれにある、馬車屋という宿に一泊いたしました。夕暮れの道をドライブしておりますと、道路脇に茅葺き屋根のこの宿が立っておりまして、鄙びたたたずまいがなんとも言えず魅力的でした。宿の主人について木の階段を上り、小さな部屋に案内されました。少し殺風景な感じがなきにしもあらずですが、一夜の宿としてはまずまずでしょう。夕食はすませたかという主人の問いに、私は部屋にサンドイッチを運んでくれるように頼みました。味も分量も、夕食として申し分のないサンドイッチでした。が、やがて、一人で部屋にいることにも飽き、なんだか落ち着かない気分になってきましたので、階下のバーでこの地のリンゴ酒でも試してみようと思い立ちました。
バーには5、6人の、近在の農夫であろうと思われる客が陣取っておりましたが、その一団を除けばバーはからっぽです。私は主人に言ってジョッキにリンゴ酒をもらい、一段からやや離れたテーブルにすわりました。

いま、ここにすわり、朝のお茶を楽しくいただきながら、昨夜はここに泊まったほうがよかったか、と考えているところです。外に出ている看板には、「お茶・軽食・ケーキ」と並んで、「清潔・静か・快適なお部屋」とも書かれております。この店は、マーケット広場のすぐ近くにあって、トーントンの大通りに面しています。1階が道路よりいくぶん沈んでいる建物で、重そうな黒い角材でできた外壁に特徴があります。私がいまいるこの喫茶室は、内壁にオーク材を張った広い部屋で、さよう、25、6人は十分にすわれるだけのテーブルを置いてありますが、それでも込み合った感じは少しもありません。カウンターには見事な出来栄えのケーキやパイが並び、その向こうに元気のいい若い娘が2人、客の注文をきくためにひかえています。
このように、朝のお茶をいただくには絶好の場所とも思われるのですが、トーントンの人々はここをあまり利用しないのでしょうか。

申し遅れましたが、当時、私どもは一日の終わりにミス・ケントンの部屋で顔を合わせ、ココアを飲みながら、いろいろなことを話し合う習慣ができておりました。

ミセス・テイラーは美味しいスープを出してくれました。それを堅パンといっしょにいただいている間、私はこれからどのようなことが起ころうとしているのか、つゆ知りませんでした。

産みたての卵にトーストという、ミセス・テイラーの心尽くしの朝食を食べおわりますと、約束どおり、7時半にはカーライル医師が迎えにきてくれましたから、昨夜のつづきのような困った会話が始まる間もなく、私は気持ちよくテイラーとご夫妻と———金銭的なお礼のことは、結局、聞き入れてもらえませんでしたが———お別れすることができました。

カズオ・イシグロ 土屋政雄訳『日の名残り』より

映画はなぜか、足を痛めて「バトラー、お湯と塩を」と言いつけたゲストのことしか覚えてないんだよなあ。ホプキンスの「品格」を見直したい。