たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

揚げじゃがバター『そして誰もゆとらなくなった』

朝井リョウのエッセイは1冊分は読み通せない。くどくて途中で拾い読みに入ってしまう。年かもしれない。でもその点、筆者も好きだというさくらももこは名人であった。今もときどき読み返したくなるし、しかもそのたびに「フッ」て笑っちゃうもんね。

「それでは、コースを始めますね」
私に人生をざっと把握された料理長が、会話を繋いでくれる。こういうとき、テーブルの上の景色がどんどん変わるコースはありがたい。
決め打ちで誘っていただいたお店というだけあって、天ぷらはとてもおいしかった。旬の食材をシンプルに塩やレモンでいただくのはまさに大人の楽しみ方といった感じで、普段のソースやマヨネーズに埋もれるような食生活では味わえない旨味がそこにあった。特殊な油を使っているらしく、どんな食材でも全くしつこくなくさくさく食べられる。先生は健康のためお酒も飲まれないようだ。私も健康のため──ではなく「アルコール、全部苦くない?」と思ってしまう舌の持ち主なので、普段から飲酒はしない。かしこまった店でお酒を頼まないことに関して気を遣わなくていいというのも、ありがたかった。

ざく切りの旬の食材、上質なストールのようにこっそり本体を包んでいる衣、塩とレモンの風味が引き立てる素材独自の甘味……そんな上質な料理と共に味わう話の数々は、余計に粒立って聞こえた気がした。

今日のお店だって、若者が好きな揚げ物と健康的な食べ物の 折衷案を考えてくださったのかもしれない。揚げ物とはいえ、良質な油で様々な種類の野菜や海鮮を食べられるこの店は、ガツンと満腹になるような劇薬的なインパクトはないにしてもじゅうぶんな満足感を得られる。健康的でヘルシーなのに美味しくて満足感があるだなんて、なんて素晴らしいチョイスなのだろう。
「では、もうあと数品なのですが」 
図らずも私に人生をざっと把握されている料理長が、カウンターの向こう側から皿を差し出してきた。
「揚げじゃがバターです」
ゴクリ──。
私と先生の喉が、同時に鳴った。

真っ白い皿に、堆く積まれているのは揚げられたジャガイモ。少し厚めにスライスされた十枚ほどのジャガイモの間には、これまた少し厚めにスライスされたバターがその都度挟まっている。熱々のジャガイモの間にあるバターが溶け、今にも倒れそうになっている塔に、ぽたりぽたりと茶色い液体がかかる。
「醤油をかけて、熱いうちにお召し上がりください」
私と先生は、すごい勢いで糖質と脂肪を摂取した。ガツンと満腹になるような劇薬的なインパクトに、頭がビリビリと 痺れた。突如現れたこの世の全背徳感を凝縮したようなその料理は、変なホルモンがビュービュー分泌されたのかと思うほどおいしかった。

そこには、この日までに画像や紹介文を何度見直したかわからない、クリスマスの幕開けに相応しい上品なホールケーキが鎮座していた。王道の、苺のショートケーキだ。ふんわりと香る甘い匂い、職人の熟練の 業 が生み出す生クリームの曲線美と、瑞々しく輝く苺の張った肌。このシーズンの主役は私でしょうと言わんばかりのそのクラシックな佇まいに、私はうっとりした。やはり一つ目のケーキをキミにして正解だったよ──。

その後、Dが予約してくれていた海鮮料理店で夕飯を摂った。生ガキ、ウニ、エビ、貝類、カニ等が山盛りになって出てきたので皆ワイワイ大騒ぎだったのだが、Dは殆ど箸を動かさず、やがて「生ガキ、ウニ、エビ、貝類が食べられないんだ」と神妙な面持ちで告白した。

そんな中、ある日私は、某パティスリーのケーキをクリスマスに絶対に仕留めたいと、固く決意することになる。
というのも、たまに開催している【甘党仲間と集って思い切りスイーツを楽しむ会】において、素晴らしく好みのパティスリーに出会ったのだ。その店舗はもともと気になっていたものの、いつでも行列という噂を耳にしていたので、若干敬遠していた。でも行列も友人と並べば楽しいということで、その会で訪問することにしたのだ。結局、3人合わせて20個弱テイクアウトし、私の自宅でたっぷり時間をかけて味わったのだが、本当にどれも噂に違わぬ美味しさで感激しっぱなしだった。
唯一納得いかなかったのは、シャンティフレーズ、いわゆる苺と生クリームのショートケーキが直方体にカットされていた点だ。私は、特に生クリームが使用されているケーキに関しては断然、扇形派だ。だってあの形じゃないと、最背面の生クリームたっぷりゾーンをじゅうぶんに楽しめないではないか。こと生クリームのケーキに関してはあのゾーンを楽しむために選んでいる節もある。断固として扇形派!
そのパティスリーのシャンティクリームは甘みとコクが豊かなのにふわっと軽い食感で、本当に私の好みだった。でも直方体だったのだ。てか初めにこの形に切ったやつ誰? オシャレって理由でこうしてるなら考えを改めてもらいたいねェとコーヒーが日本酒にすり替わったくらい管を巻いていると、会のメンバーの一人が「じゃあホールで買えばいいじゃん、クリスマスに」と言った。調べてみると、そのパティスリーのクリスマスラインアップのメインは、ホールのシャンティフレーズだった。
その年のクリスマスケーキが決まった瞬間だった。

(朝井リョウ著『そして誰もゆとらなくなった』より)

"Ten Steps to Nanette"「メインランド」の夜

自分の稼ぎでアチーブメントの場に親に同席してもらう晴れがましさ。超わかる。

When my parents had made the trip to Melbourne to see my second show at the Comedy Festival ten or so years earlier, I had taken them out for dinner afterward at a nice restaurant in the city and can still remember the feeling of pride spilling out from all of us. There we were, eating fish-and-chips on white tablecloths on the mainland. And I was paying. 

(Hannah Gadsby, Ten Steps to Nanetteより)

由美ちゃんとローナにキュウリとナスをお裾分け『女房が宇宙を飛んだ』

「由美ちゃん」とは、ヒューストンの向井博士夫妻自宅の隣家に住むNASA勤務(当時)の女性だが、千秋氏の両親が渡米してきたときに「群馬の我が家の近くに住んでいる由美ちゃんそっくり」と言ったのを機に向井家では「由美ちゃん」と呼ぶようになったという。内輪のあだ名あるあるでウケる。

また、「ローナ」は宇宙開発事業団ヒューストン事務所の現地採用員(当時)で、エリソン・オニズカ宇宙飛行士の夫人である。

というわけで、この日の朝の食事は、前の晩からたっぷり眠って起きたレッド・チームにとってはふだんどおりの朝食。しかし、朝の5時半ごろから2時間ほどの仮眠だけをとって起きたブルー・チームにとっては夕食となる。
女房は、朝食だというのに、たっぷりと食べた。オレンジ・ジュース、パン、卵、サーロイン・ステーキ。すでに宇宙飛行経験があるキャバナ機長などは、紅茶をわずかに飲んだだけですませている。女房は、私って宇宙飛行前にしては食べすぎなのかしら、とも思ったが、緊張で食欲がないというわけでもないし、いつもと同じように食べられるんだから好きにしようと思った。それに、模擬訓練のときも同じようにたくさん食べたんだし。

「ドクター・ムカイ、打ち上げが無事にいってよかったね。テレビで見たよ」
「ありがとうございます」
「どうかね、カフェテリアでいっしょに朝食をとらないかね?」
教授といっしょに朝食をとるなんて初めてのことだ。私はうれしかった。教授は、女房が乗り込んだスペースシャトルの打ち上げが成功したことを本当に喜んでくれているのだ。これってけっこう幸先イイじゃん、と私は心の中でほくそえんだ。
7時前の病院内カフェテリアは空いていた。出勤したばかりの数人の医師、看護婦が白衣姿で朝食をとっているだけだ。同じように白衣姿の私たち二人は、イングリッシュ・マフィンとコーヒーを手にして壁際の席に向かった。まわりの席には誰もいない。

女房は、アメリカにいるときは必ずキュウリとナスを自宅の庭で栽培していた。自宅で栽培した野菜を食べるのが女房は大好きなのだ。で、きちんとキュウリとナスに水をやるように、と私に厳しく命じて女房は宇宙に行ったのだ。出発前の女房から私への伝言はそれだけだったといってもいい。私がフロリダに行っていた間は、近所のおじさんに頼んであった。これからは私の大事な役目だ。
庭に出てみると、キュウリもナスも今が盛りと実っていた。女房は宇宙に行く前にたらふくキュウリとナスを食べている。しかし、食べ飽きるということがないのだ、私の女房の場合は。宇宙から帰ってみたらキュウリとナスが枯れていたなんてことになったら、どんなに悲しむことか。

私たち夫婦は毎日キュウリとナスをたらふく食べていたが、ほかのご家庭では全然食べていないということだ。で、私は女房に提案したのだ。
「ねぇ、チアキちゃん、キュウリとナスをほかの家にも分けてあげようよ」
ところが、女房はこう言うのだ。
「ナンデ? マキオちゃん、キュウリとナスがおいしくないの?」
「いや、とってもおいしいよ」
「だったら、ナンデ人にあげなきゃいけないの。私たちだけで食べましょうよ」
「でもさぁ、オレたちだけでこんなにたくさん食べる必要もないんじゃないの。オレたちって、ここんとこ草食動物みたいだぜ」
「いいの。おいしいものはいくら食べても」
私の女房は驚くほど物欲のない女だ。ところが、たった一つだけ例外があって、それが食べ物なのだ。おいしいものは、どんなにたくさんあっても絶対に自分で食べ切ってしまうのだ。人に分けてあげるという発想がまるでない。おいしいものを自分が食べないで人にあげるということが理解できない。
でも、私は心配だった。ほかのご家庭では噂しているのではないか。〝向井さんちって、自分のところだけあんなにキュウリとナスが穫れてんだから、少しくらい分けてくれたっていいのにねぇ〟。で、私は女房に言った。
「ねぇ、チアキちゃん、チアキちゃんが宇宙に行っている間は、キュウリとナスをほかの家にも分けてあげるよ、オレ」
「ダメ!」
「そんなこと言ったって、これまでは二人だから食べ切れたけど、オレ一人じゃ食べ切れないよ」
「マキオちゃんが一人で食べなさい、おいしいんだから」
[中略]
私は我が家のキュウリとナスを他人に分けてあげる手始めとして、由美ちゃんとジャックにキュウリとナスをあげることにした。
私が大きく実ったキュウリとナスを数個ずつ由美ちゃんとジャックにあげると、二人はとても喜んでくれた。由美ちゃんは喜ぶだけではなく、キュウリとナスを空に向かって差し出しながら、大きな声で空に向かって言った。
「チアキのキュウリとナスをもらったわよ。サンキュウ、チアキ!」
ほら見ろ、キュウリとナスをあげると、みんなこんなに喜んでくれんだよ、チアキちゃん!

基本的に、長期保存できるものは何でも宇宙にもっていって食べられる。そんなのは当たり前ではないか。だから、基本的に、缶詰なら何でもオーケーだ。レトルト・パック製品もしかり。スペースシャトルに用意されているオーブンで温めておいしく食べられる。凍結乾燥食品もしかり。スペースシャトルに積み込まれた特別な給水装置から水か湯を入れておいしく食べられる。宇宙飛行士たちは意外と恵まれた食生活を宇宙でしているのだ。
こうしたじつにおいしい食料を宇宙にもっていくわけだが、街のスーパーで売っているものを買ってもっていくわけではない。すべてNASA特製のものばかりなのだ。これにはわけがある。万が一、食料に細菌が混入していて、乗組員が宇宙で食中毒になったりしたら大変だからだ。

いったいどんなものを女房は朝食として食べていたのか。まず、プリン。我々が普通買って食べるものと変わらない。ふたを 開けてスプーンで食べる。甘くておいしい。次に、スープ。チキンコンソメスープ。凍結乾燥された粉に湯を入れて食べる。おいしい。それから、乾燥洋梨をかじる。甘くておいしい。
食べ終わったところで、女房はリック・ヒーブとともに実験室に向かうわけだが、その前に、決心していたことを実行に移した。凍結乾燥された粉に湯を入れてレモネードを作ったのだ。しかも、2本。女房は、この2本のレモネードをもって、ミッド・デッキから実験室に通じている通路をプカプカ飛んでいった。実験室の中では飲食禁止なので、1本のレモネードは実験室に入る前に通路の床にマジックテープで貼り付けておく。実験中に水分が欲しくなったら、そこまで来て飲むのだ。では、もう1本は? これは、実験室内にもち込んだ。ナント、それを女房は湯たんぽとして使うのだ。宇宙で実験を開始してから女房には気づいたことがあるのだ。実験室の中が妙に寒く感じると……。

私には、腰を下ろす前にやっておかなければならないことがあった。両手にもったビニール袋5つをローナの前のテーブルに置きながら、私は言った。
「ローナ、これ、穫りたての我が家のキュウリとナス。皆さんに差し上げるためにもってきたんだ。この袋はローナの分。あとは、駐在員の皆さんにローナから渡しておいてくんない?」
ローナはニコニコしながら受け取ってくれた。
「まぁ、うれしいわね。今夜のオカズはキュウリとナスにするわ。娘たちも喜ぶわ、きっと」

(向井万起男著『続・君について行こう 女房が宇宙を飛んだ』より)

鮮やかな朝の楽しみ『悲しみよ こんにちは』

たぶん20年ぶりの再会。

アンヌが顔も上げないので、わたしはコーヒーカップとオレンジを一個持って、ゆったり石段にすわり、朝の楽しみにとりかかった。まずオレンジをかじる。口じゅうに甘い果汁がほとばしる。続いて、やけどしそうに熱いブラックコーヒーをひと口。それからまた、さわやかなオレンジ。朝の太陽がわたしの髪をあたため、肌についたシーツの跡を消していく。あと五分で泳ぎに行こう。
そのとき不意にアンヌの声がして、わたしは飛び上がりそうになった。
「セシル、食べるものは?」
「朝は飲みものだけでいいの。だって......」
「あと三キロは太らないと。見場をよくするにはね。頬がこけてるし、あばら骨が見えるわよ。バターを塗ったパンを取っていらっしゃい」
そんなものを押しつけないでとわたしがたのみ、アンヌがどうしても食べたほうがいいと理由を言いだそうとしたとき、父が、おしゃれな水玉もようのガウン姿で現れた。

シリルがコーヒーをとりいってくれた。エルサはしゃべりにしゃべった。見るからに、わたしを非常に頭の切れる人間だと思って、信じている。コーヒーはとても濃く、とても香り高かった。太陽がわたしを少し力づけてくれた。

あたりがしんとした。それからアンヌの声がした。いつもながら落ち着いた声が。
「レイモン、お店の人にストローをたのんでくださらない? オレンジのフレッシュジュースには、ストローがないと」
シャルル・ウェッブは、すごい勢いで次々とソフトドリンクを飲み干した。父は大笑いして、急にグラスの中身に集中しているふりをした。アンヌはわたしに、たのみこむような視線を送ってくる。そしてわたしたち一行は、みんなで食事をすることを即座に決めた。あやうく仲たがいしそうになった人たちのように。
食事のあいだ、わたしたちはお酒をいっぱい飲んだ。

そのとき、ドアにノックの音がした。わたしは大急ぎでパジャマの上をはおると、叫んだ。
「どうぞ!」
アンヌだった。手には注意深くコーヒーカップを持っている。
「少しコーヒーがいるんじゃないかと思って......そんなに気分悪くない?」
「とっても元気。ゆうべはちょっと酔っぱらったみたいね、わたし」
「一緒にでかけると、いつもそう......」アンヌは笑いだした。「でも、私の気をまぎらせてくれたことは確かね。ゆうべは長かったわ」
わたしはもう太陽にも、コーヒーの味にさえも、気持ちが向かなくなった。アンヌと話しているとすっかり心を奪われて、自分が存在していないようになってしまう。

(フランソワーズ・サガン著、河野万里子訳『悲しみよ こんにちは』より)

ボーヴォワールとパン粥『娘時代』(1)

私が持っているこの本は1964年刊行の11刷。2段組み340ページで文字は7ポイントくらいの小ささ。裏面には「450円」と書かれている。
朝吹登水子の訳はこの装丁には合っているが結構問題あり。

ルイーズとママンの主な仕事は、私に食べさせることだった。彼女たちの努力は必ずしも用意ではなかった。世界は、私の目や手よりももっと直接(じか)に私の口から入って来た。私はその全部を受け入れなかった。青麦のクリームの味気なさや、オートミールや、パン粥は私に涙を流させた。脂肉や、貝類などの妙にねばっこい感じは不愉快だった。嗚咽、泣き声、吐き気......私があんまり頑として嫌うので、母たちはそれを強制することをあきらめた。それにひきかえ私は、美しさ、奢侈、幸福が食べられるものであるという子供の特権を大いに利用した。ヴァヴァン街のキャンディー屋で、私はぴかぴかした果物の砂糖漬けや、にぶく玉虫色にひかる果物ようかんや、緑、赤、オレンジ、紫の色さまざまのキャンディーに眩惑わされ、立ちすくんだ。私は、それらから約束されている喜びと同じぐらいに、それらの色彩に見とれた。運良く、私のあこがれはしばしば快楽に終ることができた。ママンは鉢の中で巴旦杏を挽き砕き、そのつぶつぶの粉を黄色いクリームに混ぜた。キャンディーのバラ色のぼかしはすばらしいニュアンスをもっていた。私は、スプーンを夕陽のようなお菓子に突っ込んだ。両親がお客を招いている夜は、客間の鏡はクリスタル・ガラスのシャンデリヤの光をきらきら反射させていた。ママンはグランド・ピアノの前に坐り、チュールの服を着たひとりの婦人がヴァイオリンを、そして従兄のひとりがセロを弾いた。私は歯の間で、果物をつつんだお菓子の皮をぼりぼりいわせた。黒すぐりとパインアップルの味のする泡がぷんとした。[中略]
私は、川の水のかわりに牛乳が流れたり、蜂蜜が流れたりするお伽の国にひきつけられたことは一度もなかったが、お菓子の国のタルチイヌおばさんのお菓子でできた部屋は羨ましかった。私たちが住むこの世界がもし全部食べられるものでできていたら、断然世界を脚下に置くことができるのだが! おとなになってからの私は、アマンドの花をむしゃむしゃ食べてみたかった。ニューヨークの空を背景にしたネオン・サインは巨大なお菓子のように見え、食べられないのが残念だった。
食べるということはひとつの探検や征服ではなく、それは私のやるべきもっとも重要な仕事だった。
《さあ、ママンのためにひと匙、おばあちゃまのためにひと匙.....食べないと大きくなりませんよ》

私は節度のある食欲をもって、医者の処方した食餌療法の口絵を眺めた。チョコレートをカップに1杯、半熟卵、狐色のカツレツ。

(シモーヌ・ド・ボーヴォワール著、朝吹登水子訳『娘時代 ある女の回想』より)

ちゅるちゅるめんめん『マザーズ』(1)

今朝、礼拝が始まる前、立ちションをしているおじさんを見かけた。ハレルヤすぎる。

夜9時半過ぎ、私はイタリアンレストランでオギちゃんとジントニックを片手にボロネーゼのパスタを食べていたはずだったけれど、本当は小学校の鶏の飼育小屋周辺で土を掘り返し石をひっくり返し、ミミズをわんさか捕獲しては貪っていたのかもしれない。

キッチンでペットボトルからコップに水を注ぎ一気に飲み干すと、パックの野菜ジュースにストローを差し輪に手渡した。

ロールパンとハムと作り置きしておいたゆで卵を皿に載せる。毎朝、目覚めと同時に空腹を訴える輪のため、二日酔いの朝も睡眠時間1時間の朝も容赦なく叩き起こされ朝ご飯をせがまれる私のストレスを緩和するため、朝ご飯は2分以内で出せる物に限定している。キッチンから出た私の手元を見て、輪は不服そうな顔をした。
「ちゅるちゅるめんめん、ためたい」
イヤイヤ期特有のとりあえず拒否という様子ではなく、何か切実なものを感じさせる言い方だったため、目の前に出したらはたき落とされるかもと、ローテーブルに皿を置き、輪の隣に座った。

保育園へお迎えに行き、近くのスーパーに寄って輪の好きなヨーグルトや、ワインやシャンパンを買い込むと、ベビーカーに乗ったままヨーグルトを大事そうに抱える輪と歌を歌いながら帰宅した。

ソファに腰かけるとオットマンに足を乗せ、ゆっくりと時間を掛けてハーブティーを飲み干した。持病や体調、メンタル面をカウンセリングし、一人一人にオリジナルの配合をしてくれる専門店で購入しているハーブティーを飲み始めてから、冷え性と原因不明の鼻炎が良くなった気がする。

ここ最近、半ばオカルティックなハーブティーや健康食、ホメオパシーにまで手を出すようになったのは、子宮筋腫の事があったからだ。
セロリの煮浸し、根菜の味噌汁、玄米、納豆。朝ご飯を作ると、携帯を開いた。メールが届いていない事を確認して、不安を無視するようにカメラを起動させ、ご飯に向けてシャッターを切った。

ハンバーグを半分以上残して実家を後にし、誰もいない家に帰ると、弥生をお風呂に入れて寝かしつけた。

左手にクラッチ右手にシャンパングラスという格好で、給仕係からマカロンを受け取りぱくんと1個口に入れた瞬間、五月ちゃんと声を掛けられた。

ライブが終わった頃、入り口の方から土岐田ユカが口をもぐもぐとさせながら手を振っているのに気がついた。よく見ると、その手の親指と人指し指の間に2つか3つ、マカロンが挟んである。

輪を寝かしつけてしまうと、WOWOWの二流映画を観ながらワインの栓を抜いた。おつまみ用に買っておいた瓶詰めのピクルスを開けると、二人で交互に箸を突っ込む。 美味しい、美味しいね、これ美味しいねほんと、と唸るようにして私たちはキュウリやヤングコーン、タマネギやカリフラワーのピクルスをどんどん食べていった。
「何か、今本当に体が必要としてる物って感じがするなあ」
「うん。染みるって感じ。やっぱりお酢って体に良いんだろうね」
「子供の頃って、こういうの嫌いだったけどな」
「私も。ハンバーガーから出して捨ててた」
[中略]
「若い頃ってさ、食べ物ってそんなに好きじゃないじゃない?」
央太はそう言って、グラスにワインを注ぎ足した。彼は大学生の頃、半年間カロリーメイトだけで生きていた事があるという。

ジントニック、和牛のタルタル、エビのフリット、カルボナーラを注文すると、オギちゃんはそこにシャンディーガフを付け加えた。オギちゃんがシャンディーガフ以外の酒を頼むのを見た事がない。お酒は甘いものしか飲めないと、前に言っていたような気がする。

NHKの教育番組を点け、炊飯器に残ったご飯でニンジンとじゃがいも入りのおじやを作り、一弥を椅子に座らせ首にスタイをつける。母乳を飲み終えたばかりの一弥は、おじやを手づかみでテーブルに広げるばかりで、一向に口に入れようとしない。椅子の下にはビニールシートを敷いているが、たまに飛び散るおじやがシートを越えそうになってはらはらする。濃い煮物や油を使ったものを食べるようになったら、カーペットを外すしかないかもしれない。

母親が黙り込んでパウンドケーキを食べ始めると、携帯を開いてブックマークから「view」というサイトへ飛んだ。IDとパスワードを空で入力し、操作ボタンをクリックして1歳児クラスから0歳児クラスへカメラを動かす。

ソーセージエッグマフィンにしよう、ユカは独りごち、先にカウンターに向かった。私はしばらくメニューを見上げてから、ユカの後ろに並んだ。注文を終え出来上がりを待つユカの隣に立ち、ホットドッグのセットを頼んでお金を払うと、隣でユカが大量の小銭を募金箱にじゃらじゃらと詰め込んでいくのを見やり、何してんのと苦笑する。

おどけて言う待澤の脇腹を軽く小突いて、運ばれてきたシャンパンを飲み始めた。何食べたい? と聞く待澤に「マンゴーとアボカドのサラダは?」「バジル風味の季節野菜スープは?」「チーズ盛り合わせは?」と確認する。彼はそうして私の提案するメニューに、否定的な言葉で答えた事がない。いつも「いいね」と微笑み、私の意向通りの注文をする。夜はほとんど炭水化物をとらない私に一切文句を言わない人は、モデル仲間以外では待澤くらいだ。

冷蔵庫の中をチェックして、残り物の雑穀米とトースターであぶっためざしを食べると、薬箱を漁った。

運動会の日の夜、私は絶対に浮気はしていないと亮に断言し、亮が信じるよと言うのを聞いた瞬間前向きな気持ちになって、一昨日は亮の帰宅に合わせて豚の角煮を作った。亮は珍しいなと言って珍しく穏やかな表情を見せ、2人で日本酒を飲んだ。飲んだのはほんの1時間程度だったけれど、私は私たちの関係が大きく改善したような気がして沸き立つ喜びを抑えきれなかった。休日の前日には、またつまみを作って亮の帰宅を待とうと思っていた。次は亮の好きなふろふき大根にしようか、それとも鰤大根にしようか、という考えは消し飛んで、私はまず自分の腹に根付いた胎児の処遇を決めない事には一歩も前に進めないのだと自分に言い聞かせた。

ママー、と駆け寄ってくる輪を抱き上げ、パソコンを閉じてリビングに出た。パンと魚肉ソーセージとヨーグルトを出すと、NHKの教育番組を点けて顔を洗いに行った。

チキンベーグルとラズベリーソーダを載せたトレーを持って、テラス席に座った。ノートを開き、左手でベーグルからチキンとチーズを抜き取って口に運びながら、右手でノートに「涼子」と書きつける。
[中略]
チキンを全て食べてしまうと、私はベーグルを脇の草むらに放った。すぐに雀がやって来て、パンをついばみ始める。くさくさした気持ちで雀を踏みつぶしてやろうかと思っていると、大きなカラスが上空から物凄い勢いで飛んで来た。

「俺はやっぱりおにぎりでいきたいんだよ」熱血な感じの男の子がそう言って憤りを露わにした。「何でたこ焼きじゃないんだ何で焼きそばじゃないんだって皆言うんだろ? でもおにぎりの何がいけないわけ?」。一方的に話されている男の子は「はあ」と繰り返しながらへこへこしている。私はそのおにぎりに固執する男の子が気持ち悪くて憎くて憎くて堪らなくて憎すぎるあまり好きになっておにぎりでいい! と言いたい衝動に駆られた。

そうか洗わなくても禿げるのか、と独りごちる央太にもう一度「全然禿げてないよ」と声を掛けると、私はマッシュポテトに手を伸ばした。ソーセージ、ロールキャベツ、牛フィレステーキ、次々と出てくるドイツ料理はどれも美味しく、ロールキャベツを数口食べた所でお腹が一杯になった。フィレ肉を一口食べると、私はビールで口の中に残るソースの味を流し込んだ。互いに最近の仕事について話しながら、昼過ぎに飲んだツリーがいつの間にか完全に抜けている事に気がついた。

全く華やかな世界だ。何かのパテが載ったカナッペを食べながら低い窓枠に腰かけ、外を見る。28階の高層マンションの一室からは、美しい夜景と東京タワーが拝める。もしゃもしゃとカナッペを嚙み砕きながら下を見つめていると、自分が顔面からどんどん降下していき地面すれすれの所で足に巻き付くゴムがぴんと張ってびよんと上に跳ね上がるバンジージャンプの映像が浮かぶ。

私は久しぶりに 蘇った現実感に沸き立つ喜びを抑えきれず、帰り道の途中カフェに寄ってモーニングを食べた。美味しかった。生きていると思った。

昼過ぎ、冷凍のからあげを4つ食べ終えた頃、電話が鳴った。私は携帯に浮かび上がった「浩太」という名前を見て動揺した。

開いた大判の封筒の上に出ていた2冊の「Maxx」を手に取って表紙を見ていると、ハムの盛り合わせを持ってきたユカが「それいる?」と聞いた。
[中略]
ねえ五月の持ってきてくれたカルパッチョってもう味ついてる? オリーブオイルとか足す? 味ついてるけど、バルサミコとかあったらかけると 美味しいかも。バルサミコなんてないようちは庶民家庭だぜ。そう言って笑い合いながら、2人は再びキッチンに戻った。
[中略]
テーブルにはハムとチーズの盛り合わせやカルパッチョ、ローストビーフやサラダやナポリタンスパゲッティが並んだ。
「すごい。美味しそう」
「ほとんど伊勢丹の出来合いだけどね。カルパッチョとローストビーフは五月の手作りだから美味いはず。ナポリタンは子ども用ね。別に大人も食べていいけど」
「何かごめんね、私だけ何も持って来なくて」
[中略]
思い過ごしか。私は観察を止め、一弥の皿にナポリタンを取り分けた。
しまったカルボナーラにするんだった! 子どもたちの強烈な食べ散らかしを見てユカが言う。木目テーブルの僅かな亀裂にスパゲッティを詰め込んで遊んでいた輪ちゃんは服を全取っ替え、ほとんど手づかみで食べていた一弥も持ってきていた服に着替えさせた。さすがに、弥生ちゃんはしっかりと零さずに食べている。

炎のように怒りが湧く。別にと言って、私は黙り込んだ。ワイングラスを持ち上げ甘ったるいデザートワインをぐっと喉に押し込む。

「輪ちゃんがどうしてもお風呂に入るってぐずり始めたから、今入れてる。ご飯食べるでしょ? 用意するね」
五月さんはそう言ってキッチンに向かった。
「え、いいです自分で適当に食べます」
「いいよいいよ。座ってて。コーヒーでいい?」
はいと答えて、私は一弥を抱っこしたままテーブルについた。弥生ちゃんおはよう、と言うと弥生ちゃんは少し恥ずかしそうにおはよう、と言ってはにかんだ。ケチャップをかけたスクランブルエッグをフォークで突き刺し、小さな口で僅かずつ食べ進み、時折コップからこくっこくっと音をたててお茶を飲む。3歳でこんなにしっかりするのかと感心しながら「食べるの上手だね」と言うと、弥生ちゃんは「弥生もうお姉ちゃんだから。こぼさないんだよ」と言う。コーヒーと温め直したスクランブルエッグ、トーストに昨日の残りのハムやサラダを持ってきた五月さんにありがとうございますと言うと、母乳でお腹が一杯の一弥を遊ばせておき、3人で向き合って朝ご飯を食べ始めた。
「五月さんが作ったんですか?」
「うん。ユカ、子どもには魚肉ソーセージ渡しときゃいいとか言うから、作るよって言ったの。って言ってもほとんど昨日の残りだけど」
[中略]
コーヒーの入ったマグカップを置いて、スクランブルエッグを頰張った。ふわふわしていて、油の嫌な味もしない。何かコツがあるのだろうか。

(金原ひとみ著『マザーズ』より)

味噌玉『イン・ザ・メガチャーチ』

本屋さん、この本がいちばん売りたい本なの?ホンマに????
本屋大賞の変節なんてみんな指摘してるから今更だけど...それにしても。

インスタントの味噌汁を一口 啜る。まだじゅうぶん温かい。通話を切るころには、用意しておいた汁物がすっかり冷めていた夜だってあった。

なんとなくアルコールを摂取したくなって、冷蔵庫にビールとつまみを取りに行く。コンビニで買っておいた砂肝のパックがあったはずだ。風呂にはなかなか入れないのに、酒を飲むためならば簡単に腰を上げられる。
[中略]
冷蔵庫から砂肝のパックを取り出す。フィルムの左下を少しだけ捲って、レンジに入れる。600ワットで20秒。ボタンを何度か押すだけで、さっきまで長期間冷蔵保存されていたものが温かく、おいしく仕上がるのだから、本当に便利だし楽だ。

味噌を溶かすだけで出来るインスタントの味噌汁。レンジでチンするだけで出来る砂肝。冷蔵庫から取り出すだけの缶ビール。一人暮らしに戻ってからはずっと、そういうシンプルな構造のものばかり口にしている。そういうもので出来た身体なのだから、複雑化していく時代に適応できないのも当然かもしれない。

ここ数日の夕食は、自分で用意した味噌汁で乗り切っている。テレビで料理研究家の人が「味噌汁には何を入れてもいい」って言っていたから、本当に、何でも野菜を入れてみている。でも、体重も体脂肪も減らない。寧ろ、さすがに減ってるでしょっていうときほど体組成計は空気を読まなくて、無駄に落ち込む回数だけが増えている。
はあ。
目の前の汁椀に、小さなため息が降りかかる。今日も自分で作ってみた。だけど、どんな具材を入れたところで別にあんまりおいしくもない。足りない、という感覚がいつも最上位にくる。

「あ」いづみさんが冷蔵庫のほうを見る。「アイス、忘れてた」
いづみさんはいつも、一応手ぶらでは来ないよう心がけてくれている。しかも今日は、Xのキャンペーンで割引クーポンが当たったとかで、普段なら買わないハーゲンダッツのセットを持ってきてくれた。
[中略]
ソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。コンビニでもらえるアイス用のスプーンは小さくて心もとないけれど、洗い物が増えると水道代も上がるので、ゴミが増えるほうを選ぶ。
「てかいづみさん、この前ダイエットするとか言ってませんでしたー?」
「アイスは溶ければ液体だから。つまりゼロキロカロリー」

「それ、もしかして味噌玉?」
頭上からいづみさんの声がした。
「倫太郎がブログで書いてたやつだよね?」
「そうです。ちょっと、あんま中じっくり見ないでくださいよ~」
「ごめんごめん、アイス何味があったっけなと思って」
謝りつつも、いづみさんの視線は相変わらず冷凍庫の中に注がれている。霜のかまくらの中には、ラップに包まれたいくつかの球体が収まっている。
活動休止を発表する少し前、倫太郎がブログで今ハマっているものとして教えてくれたのがこの味噌玉だった。味噌汁に合う具材を味噌に練り込んで丸めたもので、ラップに包めば一ヶ月程度は冷凍保存できるらしい。熱湯で味噌玉を溶かすだけで美味しい味噌汁が完成する。
「これ作るのだいぶ面倒なんですけど、ストックしちゃえばめっちゃ楽ですし、何よりテンション上がりますよ、簡単に汁物追加できるの。倫太郎イチオシのなめたけ入りのやつがめっちゃおいしくて」
[中略]
「味噌玉とか言って女の存在一切疑われない倫太郎、ほんと信頼できるよね」
私クッキーアンドクリームで、と、いづみさんがソファに戻っていく。
[中略]
ばふん、と扉を閉めると、私はソファに移動し、いづみさんにスプーンとは名ばかりの木の棒とアイスを渡す。
「ありがとー、って買ってきたの私だけど」
いづみさんが、「ちょっと溶かそ」と、アイスを両掌で包み込んでいる。
[中略]
ラムレーズンのコク深い甘みが、脳に直接染み渡っていく。
[中略]
「一口ちょうだい」
いづみさんが、私のラムレーズンに勝手にスプーンを突き刺す。私も無断で、いづみさんの残り少ないクッキーアンドクリームに手を伸ばす。
「うわ、結構持ってくじゃん」
「ごちそうさまでーす」
喉の奥の奥まで、もったりとした甘さが染みていく。でも、口に含んだものがどっちの味でも、別にどうでもよかった。何味だったとしても、こうして笑い合える相手がいるということで、私の五感は今のうちは満たされている。
この気持ちが幸せの証拠なのかはわからない。だけど、同じ推しを追う友達とすっぴんでアイスを食べる夜というのは、間違いなく自分で定義できる一つの〝幸せ〟だ。
今の私は、そう信じている。
「ラムレーズン、トーストに載せて食べたいわー」
「いづみさんのアレンジ、毎回発想がデブすぎるんですよね」

「それカツオ? うまかった?」
橋本が俺の定食に視線を落としながら、向かいの席に腰を下ろす。
「そう。カツオのたたき定食。ここ、魚がうまいみたいで」
「へえ、俺も魚にしようかな。食えるときに栄養あるもん食っとかないとな」
普段はこんなふうにゆったり昼食も摂れないから──そんな多忙さを思わせる口ぶりだ。俺は確保しておいたメニューを橋本が見やすい位置に差し出す。

「お待たせいたしました」
俺の発言を遮るように、橋本のもとに定食が届く。鮭のちゃんちゃん焼きから立ち上る白い湯気が香ばしい。
「今日朝から何も食ってなくてさ、とりあえず食っちゃっていい?」
俺は「もちろん」と応じる。やっぱり、エース社員はとにかく多忙らしい。
自分だけ早く食べ終わってしまわないようゆっくりと咀嚼しながら、この間橋本から届いたメッセージを思い出す。
[中略]
「結構ボリュームあるな、ここ」
橋本がちゃんちゃん焼きを食べ終えると、店員がすぐに盆を下げに来た。

はいはい熱いよ、と、ユリちゃんがキッチンから盆を運んでくる。道中で色んなものを跨ぐので危なっかしいけれど、その足取りに迷いはない。
「わ、おいしそう」
盆の上には、ユリちゃんが頼んでくれた宅配の料理たちが並んでいる。プルコギキンパ、キムチチヂミ、チーズ入りのロゼトッポギ。韓国料理を頼むと聞いていたので、私はコンビニでチャミスルを買ってきた。
「この店ね、安いのに量多いしメニューの種類も多くて最高なの」
「そうなんだ、いい匂い」
糖質、脂質、夜ご飯──ダイエットに本腰を入れるようになってから、いつしか料理を食材ではなく栄養素で、そして摂取する時間帯で読み取るようになってしまった。
だけど、今日はもういい。
「はい」
ユリちゃんが割り箸を差し出してくる。紙の箸袋に入れられているよくある割り箸だ。
[中略]
「いっただっきまーす」
パチン、と音がした。ユリちゃんが割り箸を割ったのだ。
「まだ熱いかなー」
ユリちゃんはそう言いながら、レンジでチンしたチーズトッポギを自分の取り皿によそう。その表面を、透明の脂がまるで水のように流れ落ちていく。アニメに出てくる魔法の絵の具みたいに、その軌跡がキラキラと輝いている。  私は脂から目を逸らし、手元にある割り箸を見つめる。
[中略]
「もしかして、辛いのダメ?」
パッと顔を上げると、青色の髪の毛をラフにまとめたユリちゃんが、「このお店だいぶ日本人向けの味付けだよ」と補足した。
[中略]
ユリちゃんが、トッポギから伸びるチーズを割り箸で巻き取る。
[中略]
「そもそも大学行ってる友達がおらんから、すみちゃんから聞く話ってすみちゃんからしか聞けんしね」
今の進次郎構文ぽいね、とユリちゃんがキンパを一つ摘む。
細長い容器の中で整列させられていたキンパが、その断面を見せつけるようにパタンと倒れた。ご飯の中に押し込まれているプルコギの脂がぴかりと光る。
[中略]
「って、用意してもらったご飯の前でする話じゃないね」
私はあえて明るく「いただきまーす」と言うと、キンパを一口で食べた。胡麻油と牛肉の脂質と白米の糖質。頭の中で点滅する栄養成分表示も一緒に、がしがしと嚙み砕いていく。こういうものを食べないと乗り越えられない夜がある。
「わ、ほんとに美味しい」
「でしょ!? よかった、ここのキンパ大好きなんよね」

「すみちゃんまだ食べられるっしょ? こういうときはチートデイよ」
ユリちゃんは「よっしゃ」と立ち上がり、パーカーの袖を捲った。
「うちが最近ハマってるラーメン作ってあげる。すぐできるから待っとって」
「え、そんな、いいのに」
「いいのいいの、ていうかうちが食べたいだけー」
ユリちゃんのとぼけた声が、キッチンへと遠ざかっていく。
ルイボスティーをもう一口啜る。温かいものが身体を巡っているというだけで、気持ちが落ち着く。こういう空間が、私の気質には合っている。
[中略]
ユリちゃんはローテーブルの上をさっと片付け、空いたスペースに二つに折ったタオルを敷いた。そして、もくもくと白い湯気を立ち上らせる鍋を慎重に着陸させる。
「いい匂い」
立ち上る湯気から香る胡麻油の風味を吸い込んだ途端、それなりに覚えていたはずの満腹感がサッとどこかへ消えてしまった。
「てか料理までしてもらってごめんね、ありがとう。さすがキッチンのエース」
「それ言いよんのすみちゃんだけなんやけど」
ユリちゃんが笑う。
「こんなん料理のうちに入らんよ。辛ラーメンに色々ブチ込んだだけ」
「いやいや、立派な料理だよ」
私は、何度作ってもおいしくならないダイエット味噌汁のことを思い出す。あれこそ料理とは言えない。
「インスタント麵って絶対身体によくないけど、そんなのわかりきっちょんのやけど、ストックしちゃうんよね」
[中略]
「いただきます」
インスタントの辛いラーメンを豆乳で煮て、卵を落として、チーズを入れて、韓国海苔をかけて胡麻油を垂らした──多分、それくらいのものだろう。冷凍していたのか、エビも入れてくれているみたいだ。韓国のインスタント麺のアレンジは、インスタとかでもよく見る。
[中略]
「ねえ、おいしすぎるこれ」
「よかったー!」
感激する私に、ユリちゃんが「落ち込んだときこそカロリー爆弾」と笑う。
胡麻油の香りを含んだ湯気が、鼻の頭を潤していく。
[中略]
辛味の向こう側にある旨味が、胡麻油や豆乳と溶け合って鼻腔を駆け抜けていく。
[中略]
「やばい、なんか今日胃バグってるかも。まだ全然食べられそう」
隣でユリちゃんが、はふはふと麺に息を吹きかけている。
[中略]
麵を啜る。チーズが固まりつつあるけれど、落ち込んでいる私のためにユリちゃんがその手を動かして生み出したものだから、一口目の感激がずっと続く。

じゃあチャミスル飲むか!と、ユリちゃんは勢いよくその場に立ち上がり、冷蔵庫のほうへと移動する。

いづみさんが口からスプーンを引き抜く。このアイスはTomoyoさんが買ってくれた。Tomoyoさんは何かを買うとき、クーポンや割引券を使わないから会計が早い。それに今日は3人分のホットコーヒーも買ってくれた。家の中でインスタントでないコーヒーを飲むなんてすごく久しぶりだ。

「お腹空きませんか?」
2人の視線がかすかに揺れる。
「もう外も真っ暗じゃないですか。私今日お昼ちゃんと食べれてなくて」
私は、背後にある狭いキッチンへと身体を向ける。すると、2人から漂っていた独特の香りがかなり軽減された。
「そうだね」
背後からTomoyoさんの声が聞こえる。
「じゃあさ、ちょっと奮発してお寿司頼んじゃわない? 私の奢り」
[中略]
「あ、じゃあ私、汁物だけ用意しちゃいます」
「いいよいいよ、お吸い物とか一緒に頼めると思うし」
Tomoyoさんは早速、スマホの画面を覗き込んでいる。
「いえ、時期的にそろそろ危ないかなって思ってたものがあって。むしろ食べてもらえると助かるんです」
私は電気ケトルに水道水を入れる。
「うわー、お寿司とかいつぶりだろう。本当にいいんですか? 嬉しいなー」
「2人とも何か食べられないものとかある? アレルギーとか」
「ないです! すみちゃんも大丈夫だよね?」
いづみさんの声が喜びに沸き立っている。ウーバーイーツとかで頼むのだろうか。私は一度も使ったことがない。配達料や手数料でずいぶん割高になると聞くし、そもそも今月自由に使えるお金はあと2,055円しかない。
ケトルのスイッチを入れて、冷凍庫を開ける。味噌玉がちょうど3つ残っている。
「よし、あと30分くらいで届くみたい」
「やったー、ありがとうございます!」
ラップから取り出した味噌の塊を、黒塗の汁椀に転がす。汁椀は2つしかないので、自分の分は白い茶碗に入れる。

菜箸の先端が軽くなる。
よし。
これで大丈夫。
みそが溶け切った。
だから、大丈夫。
「ねえ」
たった2文字だけれど、自分に呼びかけているとわかった。
振り返る。いづみさんが笑顔でこちらを見つめている。
「すみちゃんも行くよね?」
私は、菜箸の端を水で洗って、タオルの上に置く。そして、
「もちろん」
と頷く。
熱湯の中でゆらめく味噌の香りが、鼻腔を優しく刺激する。
「お味噌汁できたので、お寿司来る前ですけど出しちゃっていいですか」
私はまた、キッチンのほうに身体を向ける。「えーわざわざありがとう」いづみさんの声を背中で受け取りながら、器を運ぶための盆を手に取る。

午後2時すぎの明治神宮前のカフェは、テーブルの殆どが女性客で埋め尽くされている。世代は様々だが、斜め前のテーブルにいる若い女性は、何らかのアクスタと一緒にワッフルやらパンケーキやらを撮影している。
コーヒーを一口啜る。
[中略]
斜め前のテーブルの彼女はずっと、アクスタの位置を微修正しながら写真を撮り直している。ワッフルでもパンケーキでも、温かいうちに食べるという選択肢はないようだ。

「全身紫だからすぐわかったよ~いつも一緒に布教頑張ってくれてありがとう。これ、オタクの必需品ね」
手渡されたものを見てみると、それは個包装の和菓子だった。
「うちの近くの和菓子屋さんの柏餅なんだけど、餡に味噌が練り込んであって美味しいの。お待たせしたお詫びねー」
ライブ前に大福など餅系のものを食べておくと尿意が起きづらいという情報は、何度かSNSで見かけたことがある。この界隈ではやはり常識なのか
「これ確かカステラでもいいんだよね」、「私ブルーベリーで視力上がるやつは効かないんだよな~」と、話はどんどん派生していく。
私は「美味しそうです~ありがとうございますー」なんて言いながら、受け取った袋をなんとなく裏返した。
柏餅、味噌餡。熱量168kcal、炭水化物35.1g。
まず目が合ったのは、栄養成分表示だった。

(朝井リョウ著『イン・ザ・メガチャーチ』より)