たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『燕は戻ってこない』から

『東京島』(何も覚えてない)以来、10年ぶりに手に取った桐野夏生。最近の作品は、冒頭の5ページで無理になったりしたのだが、今回本作を読むことができて、ずっと書き続けてくださってありがとう、という気持ち。面白かった。終わりもすごくよかった。
私も「りりこ」と同じ理由で代理母システム反対。リキがもらった手当ての金額を見るたび、エルトン・ジョンカップルは代理母に3万ユーロ以下しか払わなかったらしいという話を思い出していた。
庶民の食べ物の書き込みも細かくてナイス。『OUT』のコンビニ弁当の描写を思いだした。コンビニに行ったら「おにぎり1個にカップ麺」てまさに私の学生時代のディナー。桐野さんよくご存じで。
ところどころ、コンビニの「握り飯」となっているのが面白い。うちの父親の言い方。「握り飯」ってコンビニっぽくないというか竹の皮に包まれてそうではないですか。
日本のコンビニ、もう3年以上行ってないけど、進化してるんだろうな。シュークリームとみかん入りの牛乳寒天買いたーい。

リキは、小皿に垂らした醤油に茹で卵を浸した。子供の頃から、茹で卵は塩ではなく、醤油を付けて食べるのが好きだ。だから、遠足の時は塩しか持たされないので、ちょっと嫌だった。そんな話をしたら、東京に来て初めて付き合った男が、すごく馬鹿にしたような顔をした。
「田舎の人だねえ。醤油が好きなんだ」

同じ派遣でも、東京に実家がある女はスタバでコーヒーを買えるけど、リキはセブン-イレブンのコーヒーも買えない。しかも、来年は雇い止めになるはずだから、また仕事を探さなくてはならない。腹の底から、金と安心が欲しい。
リキはコンビニの袋から、仕事帰りに買ったタラコおにぎりを取り出した。コンビニは高いから買わないことにしているのに、「おにぎり百円セール」とあったので、空腹に負けて、明日の朝の分まで、つい買ってしまった。
タラコの小さな粒を前歯でぷちぷちと噛む。

茹で卵とタラコおにぎり、キャベツの味噌汁を食べ終わったリキは、ブックマークしてあったエッグドナー募集サイトを開いた。

昼休みは、それぞれ自作の弁当を休憩室で食べる。弁当と言ったって、おにぎりと茹で卵(リキはほとんど毎日茹で卵を持ってきて、休憩室に備え付けの醤油をかけて食べる)や、白飯とウィンナー炒めとか、そんな程度の簡単な代物だ。だが、テルの弁当はすごい。キャベツだの竹輪だのトンカツの残りだの、残り物をすべてフライパンに入れて炒めた、わけのわからないおかずを持ってきたりする。リキは最初、粗末な弁当の蓋を開けるのが恥ずかしかったけど、テルの弁当があまりにすごいので、平気になった。
病院の隣にはセブン-イレブンがあるが、セブンで毎日買っていたら金が続かない。だけど、この日はかねてから、セブンで何か買ってイートインで食べようよ、とテルと約束していたから、財布を持って外に出た。こんな楽しみもたまにないと、心が折れてしまう。
リキはレタスサラダが食べたかったが、高いので我慢した。だから、いつも、おにぎり1個にカップ麺とか、サンドイッチと菓子パンとか、炭水化物祭りになる。それでも300円はかかるので勿体なく感じる。甘党のテルはシュークリームを奮発して、乱杭歯を剥き出しにして、へへへと喜んでいる。

帰りに、受付で「お車代」と書いた封筒をもらったのだが、開けてみたら千円札が2枚入っていたのだ。それで、カルビ弁当とカップ味噌汁、デザートにみかん入りの牛乳寒天まで買ってしまった。

「早かったじゃん」
カップに湯を注いでいたテルが振り向いて手を振った。スプーンで手早くかき回しているのを見ると、インスタントスープらしい。
「うん、何とか間に合ったよ」
リキは電子レンジに弁当を入れて目盛りを合わせた。

テルの昼食は、コンビニのおにぎり2個と、ポタージュスープだ。

千味子は、部屋の隅にある小さなキッチンに行き、ガスに火を点けた。紅茶を淹れてくれるつもりらしい。
「基、今日、お昼どうする?」
キッチンシンクにもたれて、こちらを振り向いた。
「たまには、蕎麦でも取ろうか」
「そうしようか」
2人はほとんど毎日、一緒に昼食を食べる。店屋物を取ることもあるが、3階の千味子の住まいで、何か食べさせてもらったりすることがほとんどだった。

「これ、開けていい?」
菓子の箱を持ち上げて見せると、りりこが頷いた。
箱を開けると、大きなシュークリームがふたつ入っていた。銀座ウエストのだという。
「この世で、このシュークリームが一番美味しいと思うんだ」
「銀座まで行ったの?」
「うん、行った」
「たった2個のために?」
「当たり前」
(中略)
だが、悠子は「うん、元気だよ」と答えて、シナモンティーのティーバッグをポットにふたつ入れた。少し糖分があるので、手がべたついた。

基は、ニースのバレエ団に2年以上いたことがある。その時は、アパートで自炊していたらしい。だから、フレンチが得意だ。結局、今夜も基が料理を作って、白ワインの栓を開けることになった。基は糖質制限をしているから、作る料理は野菜と動物性蛋白質がメインで、炭水化物の類は一切ない。
「たまには、パスタとか食べたいね」
悠子がワインに口を付けて言うと、基が太い首の上に載った小さな顔を横に振った。
「白い食べ物は、百害あって一利なしだ。そんなに食べたきゃ、俺のいない昼飯の時に食えばいいんだよ」
血糖値が急上昇するのを防ぐために、基は最初に野菜サラダから食べる。基は自分の作った、アボカドとグレープフルーツ、タコやエビなどが入った彩り豊かなサラダを、サーバーでかき混ぜてから、グレープフルーツをまず口に放り込んだ。酸味に顔を歪めている。その基の顔を、おこぼれを期待するマチューが、真剣な表情で見上げている。
「今日、お昼に何を食べたの?」
「長寿庵の蕎麦だよ」
「お蕎麦は糖質だよ」
「でも、茶色いから、白よりいいと思ってさ」と、気休めを言う。
基は父親を早くに喪ったせいか母親の千味子と、とても仲睦まじい。ほとんど毎日、稽古場で顔を合わせて、昼食も一緒に食べる。
(中略)
「長寿庵まで、わざわざ出かけたの?」
「いや、出前だよ」
「茶色だって白だって、糖質は糖質じゃない」
糖質を摂取したことに文句を言っているのではないと、悠子自身は気が付いている。2人して、昼食の相談をしている図が目に浮かぶのだ。
「そうだけど、俺も現役じゃないから、これくらいはいいかと思って。あんまり糖質を取らないのも偏り過ぎだろうから」
「そうね。私も今日、りりこが持ってきたシュークリーム食べたよ。こんな大きいの。甘くて美味しかった。あの子、シュークリームが好きなのよ」
基が顔を上げる。
「へえ、どこのシュークリーム?」
「銀座ウエストだって」
「昭和だね。シュークリームだったら、恵比寿のウェスティンデリが一番美味しいんだそうだ。予約しないとなかなか手に入らないんだって。今度、りりこさんに教えてあげたら?」

テルがプラ容器の蓋を不器用な手付きで開けた。今日は自作の弁当らしいが、大量の赤いケチャップのようなものが見える。
「それ何?」
「茹で卵や野菜」
小ぶりの茹で卵がふたつと、冷凍ものらしいインゲンが数本、ケチャップの海に埋もれていた。
「ケチャップ多くない?」
「ケチャップ好きなんだ。私の唯一の贅沢だよ」
「それは知ってるけど、それにしても多くない?」
「中身が足りないから仕方ないよ。オニ貧乏だもん」
(中略)
テルは、見たことのないラベルのカップ麺にポットの湯を注ぎながら、困った顔をした。
(中略)
リキは、昨夜の残り物を詰めた弁当の蓋を開けた。豚コマとキャベツの炒め物と飯だ。飯の上でふやけた、のりたまふりかけを見たテルが、一瞬羨ましそうな顔をした。
(中略)
テルが、ケチャップに染まった茹で卵を齧りながら呟いた。つるりと転がりそうな卵を器用に割り箸で押さえ、黄身の部分に注意深くケチャップをなすり付けている。卵とインゲンを食べてしまうと、大事そうにプラ容器に蓋をした。残ったケチャップを、また使うのだろう。

休憩室に行こうとして、弁当の入った紙袋を駐輪場の前に置き忘れてきたことに気が付いた。銀チャリを取り除く時に、紙袋を下に置いたことを思い出す。
中身は握り飯ふたつと茹で卵、もやしとキュウリの和え物、という貧相な内容だけれど、今朝は奮発して握り飯の中に鮭を入れたので、ショックは大きかった。プラ容器に入れてあるが、今頃は野良猫の餌になっているに違いない。
やむを得ず、リキは病院の隣にあるセブン-イレブンで、握り飯とカップ麺を買った。

夕方、ミヨシマートに寄って、総菜売り場で半額になったトンカツとマカロニサラダを買い、おそるおそるアパートに帰った。

「このところ、調子がよくなくてね。だけど、つい2週間前はすごく元気だったんだよ。ウナギ食べたい、なんて言ってたくらいだったからね。結局、スーパーでパック買って、チンして持ってったんだ。パックだって高いんだよ」
母親は沈んだ調子ながらも、ぺらぺらとよく喋る。放っておくと、いくらでも喋りそうで、気味が悪かった。

佳子叔母をうんと垢抜けさせて、知的な眼差しにしたその人は、デザートのジェラートをひと匙口に運んでから、リキの視線を感じたのか顔を上げた。

昼休み、リキはいつものように休憩室に行き、テルと昼ご飯を食べた。リキの弁当は、昨夜コンビニで買ったおにぎりとカップ麺だ。テルは珍しく、スーパーで買ったという鶏挽肉のハンバーグ弁当だった。
「夜7時以降に買いに行くと、弁当が6割引きになってるの。いつも売り切れてるんだけど、昨日はあったからトンカツ弁当と、ハンバーグ弁当ふたつ買った。ねえねえ、ふたつで500円もしないんだよ。トンカツの方は昨日食べちゃった」
テルは嬉しそうに言って、割り箸を割った。ハンバーグは小さいけれど、シュウマイや野菜とがんもの煮物などが入っていて豪華だった。
「いいな、豪華じゃん」
「今度、リキにも買ってきてあげるよ」

毎朝6時に起床して、ストレッチをしてから、コーヒーとサラダやフルーツなど、簡単な朝食を摂る。
(中略)
日曜は2人で外食することもあるが、夕食はほとんど同じ時間に、あまり代わり映えのしないメニューを食べるのが2人とも好きだ。
今夜もそうだが、よく食卓に上るのは、イタリアンプレート風のメニューだ。野菜を茹でて彩りよく並べ、ついでに生ハムやチーズやキウイなども載せて、オリーブオイルと塩で食べる。体型維持に気を遣う基が好む適当な料理だ。いや、料理と言えるほどのものではないが、これだけでも結構、腹がくちくなる。
しかし、遅くまで仕事をして空腹だった悠子は、パスタでも足そうかと冷蔵庫を物色し始めた。冷凍エビとチーズを見つけたので、ペンネとからめようかと思案する。でも、基はパスタには手を付けないだろうから、自分が食べるためだけに、これから調理するのは、少し面倒に感じられた。

結局、悠子は、ペンネを茹でて、戻した冷凍エビとチーズで和えた料理を足した。滅多に炭水化物に手を出さない基も、腹が減ったのか半分以上食べた。
「うまいね、ペンネ。悠子の料理はセンスがいいよ」
(中略)
「あら、大石さんだって、料理上手かもしれないよ」
「まさか。北海道の田舎出身だって言ってたから、シャケやイクラの石狩鍋ばっかで、しゃれた料理なんて、食べたことないんじゃないの」

「とりあえず、生ビーでいい?」
「挨拶もなしで、いきなりくるね」
悠子は苦笑して、席に着いた。
「あとね、ラム肉の串焼きと、ラム肉のクミン炒め、ラム肉のおやき、干し豆腐の冷菜でいいかな?」
一人でメニューを見ながら、注文する料理を勝手に決めた後、りりこは初めて顔を上げた。
「悠子、ラムは大丈夫?」
「好きだよ。だけど、ラム料理多くない?」
「そうかな。このくらい食べられるよ」
(中略)
「いくら払うの?」
干し豆腐の冷菜の皿に、割り箸を突っ込みながらりりこが訊く。悠子は、答える代わりに指を1本立てた。
(中略)
悠子は香ばしいクミン炒めの肉を皿から取った。
「ハイボール飲むけど、悠子も飲む?」
「飲む」

悠子がそんなことを考えている間、りりこは頬杖を突いて、店の壁に貼られた写真付きメニューを眺めている。自家製チャーシュー、火鍋セット、豚バラ肉と白菜漬け煮、山椒辛チャーハン、りりこが唐突に言う。

しかし、その夜は久しぶりに帰ってきた娘を歓迎して、ジンギスカン鍋になった。

リキは、居酒屋のけばだった赤いカーペットを踏んで、狭い階段を2階に上がった。小さな個室に入ると、居並んだ面々よりも、まずテーブルの上の料理が目に飛び込んできた。ど真ん中の刺身を盛った大皿には、ツブ貝、マグロ、サーモン、トリワサ、タコ頭、〆サバ。その周囲に、ぎっしりと料理の皿が並んでいた。鶏の唐揚げ、メンチカツ、温玉を載せたシーザーサラダ、冷や奴、枝豆、玉ネギの丸焼き、キムチとチーズのチヂミ、そして特大ホッケの塩焼き。
「すごい、こんなに食べるの」

墓参りを済ませた後、母親が一緒にラーメンを食べようというので、街に戻って有名なラーメン店に入った。贅沢に、チャーシュー麺をふたつ頼んだ母親は、とても嬉しそうだった。
「なかなか外で食べることもしないから、今日はあんたとラーメン食べようと思って、楽しみにしてきたんだよ」
食べ終えた後、リキが料金を払おうとしたら、母親は頑として受け取らなかった。

食らい気持ちで、家に戻った。すると、ひと足先に帰っていた母親から、「これ、ダンナさんに持ってって」と、大きな紙袋を渡された。中を見ると、北見の土産物がいっぱい入っていた。カーリングのクッキーや、特産品のハッカ飴などだった。

「お土産だよ」
リキは、ハッカ飴を差し出した。他にもクッキーや和菓子があったが、ダイキは喜ばないように思った。
「え、俺にくれるの? マジ、嬉しいんだけど」
意外にも、ダイキはすごく喜んだ。
「飴、好きなの?」
「好きっていうか、人からお土産もらうと嬉しいじゃん。俺のこと考えててくれたんだな、と思って。それに、北海道なんて行ったことないからさ、ちょっとわくわくするじゃん。俺、離島の出身だからさ。北海道ってすごく遠く感じるんだよ。外国みたい」
(中略)
「それよっか、リキちゃんもウーロンハイでいい? 俺おごるから、適当に料理頼んでもいい?」
力が承知すると、ダイキは唐揚げやコロッケなど、揚げ物を中心に注文した。

「北海道に帰っていました。母からです」と、簡単なメモを付けた。鮭の形をした和菓子は、自分で食べてしまった」

千味子が鍋から白菜を取って、自分の取り鉢に入れた。白菜には春雨が数筋、纏わり付いている。春雨は基の好物だ。基は、春雨だけを箸ですくい取った。
白菜と豚肉のミルフィーユ鍋は、千味子に子供の頃からよく食べさせられた。バレエを生業とする草桶家のダイエット食である。しかし、悠子と結婚してからは食べたことがない。悠子は、鍋料理が嫌いだからだ。
そのせいか、やたらと旨く感じられて箸が進み、悠子と食事の好みが微妙に違っていたことに気付く。

りりこが、グラスに赤ワインを注いでくれた。つまみは、フランスパンとチーズだ。
(中略)
フランスパンにチーズを載せて、かぶりつこうとしていたりりこが、振り返った。

そして、土産に持参したシュークリームのカスタードクリームを、スプーンですくって口に運んだ。
「これ、うまい。悠子も食べてみなよ。ビヤンネールのだよ」
まだ気分の悪い悠子は、断った。
「まだ食べたくないから、跡で」
「じゃ、持って帰る」

食堂には、常に食べ物が用意されていて、いつでも好きな時間に、何かかにか食べることができた。冷蔵庫も勝手に開けて、中の食物を食べていいと言われている。遠慮しつつ開けてみると、缶ビールにアイスクリーム、フルーツ、そして冷凍食品に至るまで、ぎっしりと食品が詰まっているのには驚いたものだ。

リキは、納豆ご飯をかっ込むタカシの斜め前に腰掛けた。テーブルには、朝定食よろしく、卵焼き、豆腐とわかめの味噌汁に漬け物、海苔などが並んでいる。
「リキさんは何を食べるの? ご飯? トースト?」
杉本が炊飯ジャーの蓋を開けながら訊いた。
「今日はご飯にします」
「遠慮しないで、トーストでもいいのよ」
すでにしゃもじを手にした杉本が言うので、遠慮せざるを得ない。
「してないです」
応えながら、何と贅沢な環境に身を置いているのだろうと、リキは感激するのだった。食客とはよく言ったもので、三食すべて賄い付きである。りりこの仕事も思ったよりも面白く、楽しかったから、文句など、まったく生まれようがないのだった。
「ご飯が旨いよ。僕がもち麦を入れるように言ったからさ」
(中略)
「そうだよ。リキちゃん、納豆食べなよ。取ってやろうか」
タカシが手を伸ばして、テーブルの端から納豆パックをひとつ取って、手渡してくれた。礼を言って、納豆を受け取る。

りりこは滅多に食堂で朝食を摂らない。自分のアトリエでコーヒーを淹れ、シュークリームやモンブランなどの洋菓子を食べて済ませるのだ。

悠子はカットされたスイカの入っているバッグと、洋菓子の入っていそうな小さな箱をリキに手渡した。
「スイカは大石さんに。妊娠すると、スイカが美味しいらしいじゃない。こっちはババロアだから、みんなで」
リキはインターホンで、杉本に冷茶を運んでくれるように頼んだ。りりこは早速ババロアの箱を開けている。りりこは洋菓子に目がない。

「これ、どうぞ。千寿庵のどら焼きです。有名な店ですから、美味しいと思いますよ」
基が土産の手提げ袋を差し出すと、りりこは、「どうも」と素っ気ない返事をして袋を受け取った。気のない様子に、りりこはシュークリームが好き、と悠子が言っていたことを思いだしたが、後の祭りだ。

病室に戻ってくると、シュークリームの箱を持ったりりこが待っていた。
「リキちゃん、お疲れ。これさ、なかなかないんだよ。可愛いでしょう?」
りりこが箱を開けると、スワン形のシュークリームがふたつ入っていた。

シャインマスカットを見舞いに持ってきてくれたので、常に喉が渇いているリキは喜んだ。

桐野夏生著『燕は戻ってこない』

富士日記(57)ついに完結

中断を経た終盤はやや毛色が変わって夫氏のセリフの書き取りが増え、初めから読んできた読者にとっては『エースをねらえ』11巻以降のような寂しさがある。

この「おいしいと言う」の連打が「あめゆじゅとてちてけんじゃ」っぽい。

9月14日
裏の氷川様の祭礼。今日と明日。今年は陰まつりだからお神輿は出ず、盆踊りと夜店が出るだけ。主人「お祭りだから、皆でうなぎとって食べよう。花子も百合子も食べろ」と提案し、異議を申し立てられないように、先に怖い眼をして私をみる。どさくさに紛れてうなぎを食べてしまおうとしている。「とうちゃんのお父さんも伯父さんも、うなぎを食べたあと、ころっと死んじゃったんでしょう。毒のものはおいしいねえ。白米も毒だからおいしいねえ」と言いながら、主人の分も少しとって食べる。やっぱりうなぎはおいしい。東京のうなぎはおいしい。花子はゆかたを着て、盆踊りに行く。

9月15日
今日も一日中、階下にいて、テレビをみたり、天どんを食べたいといったりしている。

昼 柔かい御飯一ぜん、牛肉うす切り一切れバター焼、トマトときゅうりといんげん少しずつ。
夕 りんご半分、バナナ半分、ぶどう5粒、ベルのケーキ1個。とてもおいしいという。

9月18日 快晴 夏のよう
裏の林でセミがまだ鳴く。夜は虫の声で一杯。
朝10時頃 白米ごはん軽く一ぜん、牛肉うす切り1枚、しらたき、やき豆腐、白菜、ねぎ、それぞれ少しずつのすきやきをする。トマトときゅうり少々。
おいしいと言う。すきやきが一番食べ易いと言う。ずーっとすきやきがいいと言う。
麦茶を冷やして水呑みでのむ。麦茶がおいしいと言う。
(中略)
夜 冷たいすいみつ桃1個、カステラ。
何をしていても胸が一杯だ。

紀ノ国屋へ行って、かます4枚、かれい1枚、牛肉少々買う。
朝食昼食兼ねて かます1枚、おかゆ1杯、糠漬、大根ときゅうりと大根の葉の刻んだの。
床の上に起きて食べると言う。糠漬がおいしいと言う。
(中略)
夜、そばがきが食べたいと言って、つくると少し食べる。
よく眠る。

朝食 おかゆ、かれい煮付、糠漬の刻んだの、かつおぶし、はんぺんのおすまし。
ねたまま食べる。はんぺんがおいしいといいお代りする。
(中略)
夕方 白桃のかんづめ半分切り1個。
食べてから「桃ばかりでなく、いろんな果物の入っているのがいい」と言う。花子すぐ明治屋に買いに行く。
(中略)
病院にはおいしい食堂もついてて、チーズトーストなんかおいしいから、私はそれを食べて遊んで暮すよ」などと言うと、黙ってきいている。臼井吉見先生から毎年頂く「すや」の栗のお菓子が昨日着いたので、見せる。「食べる?」ときくと、「いまはいい。二人で食べろ」と言う。花子と私と一杯食べる。隣りにもおわけした。

9月21日(火) くもり
朝9時半 おかゆ一ぜん、かます干物一枚、キャベツ糠漬、かつぶし、清し汁はかつおだし、半ぺん半分の実。
今日も清し汁の半ぺんをおいしがって食べる。今日はねたきりで口の中へ養う。食べ方がうまくなった。
(中略)
おすしをとって隣りの部屋に行って三人で食べていると、すしが食べたいという。自分たちばかり食べていて、と怒る。大急ぎで一人前またとって見せると納得して、そのうちから、かっぱ巻き一つといかを醤油をたっぷりつけて、口に入れてなめる。ついに二つ食べてしまう。すると大へん御機嫌となり、また四人で話す。そのうち、かんビールくれというので皆唖然とする。「今日は誰も飲んでいないよ。よくなったら飲もう」と竹内さんがいうと、湯呑みにビールいれて三人だけ飲んでいるという。「かんビールをポンとぬいてスッとのむ」と、手つきをして繰り返してねだる。「かんビールをポンとぬいてスッとのむ。簡単なことでしょう。かんビールくれ」と言う。私が「ダメ」と言うと、「いつのまにか権力者のような顔しやがって」とにらみつけ、埴谷さんたちに向って「この女は危険ということを知らないんだから。前へ前へ暴走するんだ。俺はずーっと心配で」などと言う。

武田百合子著『富士日記』より

富士日記(56)私もごめんなさいと言わない

来訪者にパイナップルとコンビーフの罐詰をあげて喜ばれる、というのは微妙に戦時中っぽい。

8月22日(日) 快晴
朝食 麦飯、味噌汁(大根)、炒り豆腐、焼肉、いんげんと玉ねぎ中華風サラダ、切干大根とあぶらげ炒め煮、桃。
夕食 早めに、焼きにぎり、さけ。
6時頃、ホットケーキ。
(中略)
4時前、花子の早めの夕食、焼きにぎりと佃煮、味噌汁。私と2人で食べていると「俺にもくれ」と言うので3人とも焼きにぎりの晩ごはん。花子を送り旧登山道を上って戻る。
(中略)
焼きにぎりを食べたあと、一杯うんこが出て上機嫌となった。

2時頃より口述筆記はじめる。ブランデーをうんと薄めたのを飲みながらするので、私の鼻先はブランデーの匂いで二日酔気分。

朝 麦飯、牛肉と焼豆腐とねぎをすきやき風に。
(中略)
丁度終ったところへ海老原さんと都築さん現われる。メロン頂く。
ぶどう酒、ビール、東坡肉いんげん添え、いかと茄子中華風酢漬、チーズとくんせいのさけ、とりひき肉揚団子、春巻。
主人昼ぬきなので、よく食べる。子供のように食べる。7時半か8時頃まで歓談。

今日は一日、昨日の残りの料理を食べている。原稿が終ったので、主人はおだやかな顔をしている。私が酔っぱらったことを言わない。私もごめんなさいと言わない。
夕食 かけそば、メロンを食べる。

私、かにコロッケ、ごはん、とてもおいしい。
主人、えびフライ、パン。
ビール1本飲む。「トラ、おいしいか」と、私の顔をみて訊く。「これを食べたあと、もう1回かにコロッケをとって食べたい」と食べながら言うと、「ものの限度をわきまえない人はやっぱりトラだ」と笑う。何年か前、大岡夫妻とここにきたとき、大岡さんがおとりになったフライ料理が一番まずくて、ぼやきながら食べていらっしゃったことなど思い出して笑う。そのときは地元の養蚕業の家を訪ねて、奥様が蚕をみたらすっかり気分がわるくなって、その上、そのうちの人から紬など買ってしまって、奥様はコーヒーしか召上がらなかった。あのときのことを話しする。

久しぶりに牛乳にコーヒーをいれて、ケーキを食べる。主人、おいしそうに食べる。ケーキ、カステラの上に白いクリームとバナナがあるもの。もう一つのケーキ、カステラの上にコーヒーのプリンと白クリームがのっていて、その上にまた黒いプラムがついている。それを二つずつ食べる。タマは白いクリームを少し食べる。
夕食 麦飯、さんま塩焼、はす炒め煮、豆腐あんかけ汁、パイナップル。

9月2日(木) くもり時々晴
朝食 パン、スープ、トマトときゅうりとにんじんのサラダ、ハンバーグステーキ、じゃがいもからあげ、いんげんとキャベツ。
3時頃 やきいもにバターつけて食べる。牛乳コーヒー。
夕食 麦飯、納豆、味噌汁(なす)、サバみりん焼、ももとりんご。

朝食 主人はカレー南ばん、グレープフルーツ。
(中略)
夕食 麦飯、精進揚げ、きすとえび天ぷら、梨、りんご。
午後ひととき、河野多恵子「血の貝殻」前半読む。読み残しの谷崎賞候補作品を読まなくてはならないが、眼が疲れるから読んでくれというので。

主人、東京へ帰ったら重箱でおいしいうなぎを沢山食べると言う。

9月5日(日) 快晴のちうすぐもり
秋晴れとなる。
朝 花子と私、麦飯、ひじき、佃煮、納豆、のり。主人、あわもちの雑煮。
(中略)
5時頃、車が直ったので武田を乗せて大岡さんへ。上って、ビールとトマトと玉ねぎのかつおぶしのかかったのを頂く。鞆絵さんの婚家先の、熱湯で漬けたきゅうりの漬物。おいしかった。ここもストーブを焚いている。

3時にコーヒーを入れてケーキを二個ずつ食べる。主人「大岡にケーキを持っていってやれ」と何度も言う。のこりもののようで気がすすまないけれど、あまり言うので、持って伺う。大岡さんは新聞を1カ月で断わったので、新聞がこないから東京へ帰りたいとおっしゃっているそうだ。ケーキを差上げると、「大岡はこの頃甘いものが食べたくて食べたくて。タイやきを一度に二つも食べますよ。今日、イトーヨーカ堂の地下食堂であんみつを食べました」と奥様は話された。
帰ってきて、後藤明生「夢かたり」と「鼻」を読む。主人ねころんで眼をつぶってきく。
夕食 天ぷら。
午後9時近く庭を下りて来る一人でない足音がする。(中略)受取りの署名をしてパイナップルとコンビーフのかんを包んであげる。遠慮していたが、喜んで持って行く。

肉まんの素が残っていたので、豚肉をひいて椎茸とたけのこと白菜を入れて作ってみる。10個出来たので、4個ふかしたてを大岡さんのところへ持って行くと、黒い雨戸が閉っていて車がなかった。

後姿が軽くふらふらして見えたが、帰りはにこにこして、へそまん二折り買って先に乗りこんで来る。

帰京してから1週間ほどは、テレビをみたり、うなぎなど食べたり、洋服屋をよんで寸法をとって誂えたりした。

武田百合子著『富士日記』より

富士日記(55)天ぷら、奈良漬、たい焼き

思えば、寿司やすきやきだけにとどまらず、大人になってから好きになった食べ物は本当に多いなあ。天ぷらも奈良漬もたい焼きも全然興味なかったのよ、子どもの頃は。

朝 麦飯、豆腐味噌汁みょうが入り、さつまあげ大根おろし、切干と豚肉いり煮、きゅうりトマト。
夕食 パン、豚肉とじゃがいもといんげんの入ったボルシチスープ。

夕食 麦飯、天ぷら(きす、桜えびの天ぷら、野菜精進揚げ)。
きすの天ぷらがおいしいと主人いう。精進揚げも沢山食べる。「海」を休めるし、その上、「文学」のシメキリものばせたので、ゆっくり陽に当ったり、草刈りしたり、仕事に入るまで本を読まないで、好きにしているのだという。天ぷらを食べながら言う。

朝 麦飯、納豆、大根菜漬もの、南瓜の煮たの、生卵、のり。
主人、納豆に大根菜のつけものの刻んだのをまぜて、それに海苔をもんでいれて御飯にかけて、二膳食べる。私は同じようにして二膳、もう一膳を生卵をかけて食べる。
夕飯 ハンバーガー、いんげんとじゃがいもバター炒め、トマトのスープ。

8月5日(木) くもり時々小雨
朝 麦飯、緑豆と桜えびの卵とじ、味噌汁(豆腐)、まぐろ油漬、サラダ、大根おろし。
夜 花子と3人 麦飯、清し汁、サンマ塩焼、さつまあげ大根おろし、なすしぎやき、パイナップル。
(中略)
電報配達人は傘をさした女の人。鳴沢郵便局のものだという。果物かんづめをあげる。

朝食 花子ハンバーガー、主人ハンバーグステーキ、麦飯、トマト、アスパラガス、味噌汁(茄子)。
朝食後、しばらくして大岡夫人がみえる。さっき、おそばのだしを添え忘れたといって。

夕食 主人だけ5時にとる。パン、トマトと玉ねぎのスープ、ソーセージとサラダ、コーヒー。
私たちは玄米の焼きにぎり飯2個ずつ作って出かける。
(中略)
花子と私はおにぎりを食べながら観る。9時位になると2人増えて、私たちが9時半に出る頃には14、5人となる。
ここは全部で12、3人の客に、しょっちゅう呼出しがかかる。黒い幕をくぐって音もなく小母さんが入ってきて、すぐうしろで急に「アスミの何とかエミ子さあん」とどなるので、ジョーズがいつ出るかいつ出るかと思って観ている皆は一斉にギョッとする。
(中略)
大福とおせんべを食べて、お茶をのむ。主人、ふとんの中から「面白かったか」といったが、起きてきて大福とおせんべを食べなかった。

新しいドライブインが沢山出来たので、前からあった、雉など育てて肉なべ料理やそばを売っていた田舎家風の食堂は、ペンキがはげて古ぼけて、客が全く入っていない。ここは富士が真正面に見える。
(中略)
3時頃足を洗って、鮭の燻製半分と中国王宮風焼肉のたれを持って大岡さんのところへ。

3時にタイヤキを食べるとき「タイヤキがこんなにうまいなんて知らなかった。何でも馬鹿にしたもんではない」と、私に訓示を垂れる。私は「生れてから、一度もタイヤキを馬鹿にしたことはない」と言う。
夕食 かけそば、有合せのおかずと。

8月11日(水)
花子に電話をかけに行く。「奈良漬が壇ヨソ子さんという人から送られてきたから、少しわけて管理人さんにあげて、あとは今度山に持って行く。とてもおいしいから。そのほかには連絡することなし」と言う。

イトーヨーカ堂の食品売場は人の体温と息で冷房なんか効いていないみたい。お盆の買物をする地元の人ばかり。お盆用品と赤いビラに書いてあるところを見ると、いなり用あぶらげ、焼豆腐、卵豆腐、そうめん類、まぐろの刺身、いかの刺身など。
カタマリ肉(つまり大量の肉)を買った人には絵皿一枚プレゼント、と書いてある。お盆特別サービスコーナーが所々にある。山と積み上げて売っているそのコーナーは、果物(スイカ、ブドウ、スイミツ)、菓子(大福、ピンク色のスアマ、草餅、チューインガム、あめ、袋菓子)、いなりずし、そうめんとつけ汁かん入り。浜松のうなぎ蒲焼1串470円(よくよく見たら、うまそうでなかった)。
(中略)
ビール、木須肉、かにときゅうりと錦糸卵の中華酢かけ、あわびと数の子。
(中略)
夕食 かけそば、くだもの。
外が真っ暗になってから、テレビを二人でみていると(8時頃だったかな)バラスを踏む音がして、硝子戸の外に庄司[薫]さんの顔が浮かんでいる。そのあとから紘子さんが現れた。5日ほど前から富士ビュー[ホテル]に来ていて、今夜東京に帰るので帰りがけに寄ったとのこと。庄司さんはナポレオンコニャックを「はい」と下さる。紘子さんはレコードを下さる。

8月15日(日) くもり時々小雨、涼し
朝 麦飯、トンカツ、はんぺん煮付、あわび佃煮、サラダ、白桃。
夜 うどん煮込み、納豆をいれてみる。
(中略)
主人「トンカツを食べて元気をつけたから、午後からはじめるかな」と、朝食後いう。午後、岩波講座「文学」原稿後述筆記はじめる。

8月17日(火) くもり、夕方より小雨
朝 麦飯、味噌汁、炒り卵ととりひき肉そぼろ煮、いんげんと玉ねぎ中華風サラダ、トマト。
午後、口述筆記。
夕食 麦飯、納豆、サンマ塩焼、かぼちゃ甘煮、ひじきとあぶらげ煮たの、白桃、トマト。

充電する間に、魚勘でかます12枚としそ巻かまぼこを買い、青埜で赤坂もち10個とおやき10個買う。
(中略)
夕食 赤飯、かますの干もの、かぼちゃ、ひじき、なすとみょうがのスイトン汁。
かますを沢山食べた。タマにも1枚食べさせてやる。タマは頭も目玉も食べてしまう。
東京までかますを買いに行っただけ。主人、かますをおいしいと言う。以前は、かますの干もののことを馬鹿馬鹿しいなどといっていたのに。魚ならブリ、サンマ、マグロ、サバが大好きで今も大好きだけれど。口述休み。

夕食 ざるそば、天ぷら(桜えびと枝豆のかきあげ)、なすからあげ、キャベツ酢漬。

武田百合子著『富士日記』より

『南相馬メドレー』と「お父さん、違憲なの?(目に涙)」

「フルハウス」は日本に行ったらぜひ行きたい書店。
前回帰国したときはSNSなどでよく目にしていた大阪の隆祥館書店に足を運んだが、ネット上の情報のイメージと裏腹にあまりに小さなところでびっくりした。でも7冊買ってトランクで持って帰ってきたけどな。

ところで、これは何の害もないことで批判ではないが、同じ作家さんのひとつのエピソードが媒体によって矛盾してるの、何冊も読んでいるとちょっと気になってしまう。
安倍の「お父さん、自衛隊は違憲なの?(目に涙をためて...)」を連想する。

内田樹氏が離婚するときに娘さんに「お父さんについていくのを選んだのは、お母さんについていったらお父さんに会えなくなると思ったから」と言われて賢い子だなと思った、というエピソードに「すごい、マジで娘さん賢い」と感心したのだが、別の本では内田氏自ら娘さんの前で「お母さんを選んだら会えなくなるよー」と嘆いた、と書いてあって、別にいいけど、賢い賢さんの話は...?ていうか娘さんに異常な負担を強いたのでは?と思ってしまった。

その足で、隣の鹿島区にある菓子店「松月堂」にのし餅を取りに行きました。
前日に、のし餅を売っているかどうかを松月堂に電話をして問い合わせました。
「注文に応じて搗くので、何時に取りに来られますか?」
「じゃあ、12時に」
「何升ですか?」
「え? 升?」
「1升から承っております」
「じゃあ、1升で......」
1升という馴染みのない単位にも面食らいましたが、直前の注文にも拘わらず、客が取りに来る時間に合わせて搗くという心遣いにも驚きました。
デコレーションケーキを入れるような白い紙箱の蓋を開けて、半円状の板蒲鉾のような一升餅が2本入っているのを目にした時も、その形状の意外性に驚き、わたしたちは顔を見合わせて笑いました。
年末年始、わたしたち家族は、新しい場所で、旧いしきたりに触れ、それを我が家に取り入れることを楽しみました。
この地に住む人の暮らしを満たしている感覚を味わってみたい。それを知らなければ、原発事故後もこの地に残っている人々、この地を離れた人々の気持ちに通じることはできないと思うからです。

原発から半径20キロの避難区域のラインからぎりぎりではずれたというお宅で4世代同居しているCさん(60代女性)から聞いた話です。
(中略)
最初のうちは、自宅の冷蔵庫から梅干や漬物を持ってくる避難者もいて、それをみんなで分け合っておかずにしていました。
やがて、全く具のない白いおにぎりを1人1日1個だけという状態になりました。
Cさんは、支援物資として配られたポテトチップスを砕いて、それを混ぜて握り直して孫息子に食べさせたりしていました。

東と共に過ごした16歳から31歳までの15年間は、日本各地の湯治場などに長期滞在して、座卓やこたつで東と向かい合って仕事をしていました。朝夕2食付きの宿が多かったのですが、お櫃のご飯が余ると、東は必ずおにぎりにして、幼少期の思い出を繰り返し語りました。
東は、とても貧しい家庭で育ちました。母親を幼い頃に亡くし、継母が家にやってくるまでの数年間、食事の支度をする大人がいませんでした。
ある晩、東の妹が米を研ぎ、2人は米が炊き上がるのをじっと待っていました。おかずは何もありませんでした。東は、炊き上がったご飯を塩むすびにしようか醤油をかけご飯にしようか迷いに迷い、口の中は唾でいっぱいだったそうです。しかし、いくら待っても湯気が立ち上らない。おかしいなと思って電気釜を調べてみると、なんとコードが抜けていた。東は大声で妹を叱り飛ばし、妹はわっと泣き出し、その泣き顔を見たら、情けなくて情けなくて涙が止まらなくなった、と―――。
おにぎりは本来、愛情や喜びの固まりであるはずなのに、わたしの記憶の中のおにぎりは白く、重く、悲しい。
1つのおにぎりは、どうしたら、いま、苦しんでいる人、悲しんでいる人と、その苦しみと悲しみを分かち合えるか、という問いを含んでいるから重いのだと、わたしは思います。

南相馬の飲食店の特徴は、家族経営が多いということです。
たとえば、原発事故以降不通となっている(2016年7月の避難指示解除に合わせて運行が再開される)JR常磐線の磐城太田駅前にある今野畜産です。地元では、メンチカツ(1枚85円)が有名で行列ができるほどの人気店です。
今野畜産は、原発事故で屋内避難指示が出ている最中、2011年3月20日に営業を再開し、物流が途絶えて食糧難に陥っていた南相馬の人々のためにコロッケやメンチカツや唐揚げを家族で揚げ続けました。
1頭買いで自社精肉しているので、大型スーパーなどよりも新鮮で上等な肉を安価で提供できるという強みを生かして、2年前に千壽という料理屋をオープンしました。
今野さん一家は、朝から夕方前までは精肉店で働き、夕方からは千壽で料理を作っています。睡眠時間をとれるのだろうかと心配になるのですが、いつどちらの店に行っても、厨房からは笑いや冗談が聞こえてくるのです。
オススメは、ステーキ丼です。16歳の息子はいつも「ステーキ丼、大盛りで!」と注文します。会計の時に、「おいしかったです」と言うと、「おいしいでしょう。1カ月に1度、うちの家族で食べて『間違いない、こんなおいしいんだったら、みんな食べるわ』って確認し合うんですよ」と、若旦那は誇らしげに胸を張ります。
今野畜産だけではありません。山田鮮魚店も、屋内退避の中、シャッターを半分だけ上げて営業を続け、寝たきりのお年寄りや障害者を抱えていたために避難できなかった人々を救いました。山田鮮魚店のご主人は交通事故で足が不自由なのに、毎朝、宮城県まで食材を仕入れに行っていたそうです。それでも、「あの時、タダで配らなかったことを後悔している」とおっしゃる。
彼らは、極限状態の中で地域の人々の信頼に応えたのです。

国の重要無形民俗文化財である野間懸が行われる相馬小高神社で参拝をし、浮舟文化会館で豚汁とお弁当を食べました。

わたしと青来有一さんは壊れた堤防に肩を並べて座り、コンビニエンスストアで買ったおにぎりを食べました。
あの目(ママ。日?)の空と海の青さは、あらゆる倫理の行き止まりとして、わたしの胸に今も在ります。

穂高くんは、地元の銘菓「凍天」(ドーナツのような衣の中にヨモギの「凍もち」が入っている揚げ餅菓子)を手土産に持ってきて、しっかりした口調で「見ず知らずの人に家を売るのは嫌なんです」と、小高の家への思いを語りました。

夕飯を食べていると、息子がフォークにミートソースパスタを巻きつけながら首を傾げました。

起床してすぐに茹でた卵と塩を銀紙の中から取り出し、息子と向かい合って食べました。バナナとヨーグルトとプロセスチーズとリーフパイも食べ、駅で買ったほうじ茶を飲みました。
乗換駅の名取まで2人で眠りました。

ショーウインドーから店内を覗いてテイクアウトできそうな店に入り、英語の長い料理はよくわからないから、黒板にチョークで書かれていた「Today's soup」とパンをテイクアウトし、ホテルの部屋で夕食を済ませました。
時差ボケでほとんど眠れないまま朝6時20分に起床し、ホテル1階の朝食ビュッフェ会場に行ってみました。
細長いカウンターテーブルで食後のコーヒーを飲んでいたら、隣の席の東南アジア系の女性に「Where is that coffee?」と訊かれ、思わず「ああ、あっち!」と指差し、赤面しました。
けれど、真向かいでスクランブルエッグとウインナーを食べていたどっしりした感じの黒人の老女が、席を立つ際に「Have a good day!」と笑いかけてくれて、「Have a good day!」と笑い返したら、すっかりうれしくなって、そのまま思い切って散歩に出掛けることにしました。
ホテルを出て右に真っ直ぐ歩けば、ミシガン湖が見え、湖畔には遊歩道がある。
オバマ元大統領の家も近くにあるらしい。

「(中略)お母さん、しばらくしたら戻ってきて、アップルクーヘンをうちから持ってきてくれたんですよ。アップルクーヘンって、知ってる人、いますか? 丸くて、ギザギザのナイフが付いてて、それで切ると、りんごが1個丸ごと入ってるんですよ。外側はバームクーヘンで、中はアップルパイのりんご。食感は外側のバームクーヘン部分はやわらかいんですけど、中のりんごはちょっとシャキシャキしてて、おいしいんですよ。めちゃくちゃ......。
おれたちきょうだい3人でアップルクーヘン分けて食べてたら、お母さんがこう言ったんです。
『朝ごはん、冷蔵庫に卵があったから、目玉焼き作ろうと思ったんですけど、すぐにガスが止まっちゃって、フライパンの上にタマゴ生のまま置いてきちゃった、ハハハ』って、ハハハってお母さん笑ってたんですよ、ハハハって......それが、すごい軽い感じの明るい笑い声で、でもだからこそ気持ち悪いくらい鮮明に記憶に残ってるんです。おれは見てないはずなんだけど、フライパンの上の生卵も......黄色い生卵......」

部屋にスーツケースを置いて1人でフロントに下り、5分ほど歩いたところにあるコンビニでミネラルウォーターとヨーグルトとバナナとチョコレートを購入しました。

柳美里著『南相馬メドレー』より

富士日記(54)すいみつ桃、ぶどう、プリンスメロン

このあたりを読むと、山梨の甘い果物も糖尿の原因になったのではという感じ。

田中角栄の拘置所食は理想的では。

6月30日(日) 雨
朝 麦ごはん、けんちん汁、とりささみバター焼、紫キャベツ酢漬、プリンスメロン。
昼 トースト、とりスープ、果物ゼリー。
夜 麦ごはん、とろろ汁、鮭、茄子しぎ焼。

7月1日(月) 終日雨
朝 麦ごはん、オムレツ、いんげんと玉ねぎサラダ、じゃがいも味噌汁。
昼 パン、ビーフシチュー、紅茶、プリンスメロン。
夜 天ぷらそば(桜海老かき揚げ)、ほうれん草おひたし。
雨がやんだとき、リスがきておせんべいのかけらをくわえてゆく。
午前中、「山梨県全県ママさんコーラス発表会」を山梨テレビで長時間やる。
(中略)
主人も私も食堂の椅子に腰かけて、ずーっと見ていた。

7月2日(火) 終日雨
雨が降り続きながら、一日ましに緑が濃く拡がって、家にかぶさってくるようだ。
朝 麦ごはん、チキンカツ、キャベツ塩もみ、トマト、茄子味噌汁。
昼 ホットケーキ、野菜スープ。
夜 麦ごはん、きんぴらごぼう、けんちん汁、納豆、海苔、うに。

夕方、向いの寮の奥さんが庭に現われる。車に乗せてつれていってもらったお礼だと、鮭の燻製とからすみ、羊かん、ビール3本を持って。
花子より、必要郵便物を入れた速達便届く。

7月15日(月) くもり、暑し
朝 麦ごはん、味噌田楽、ささみつけ焼、きんぴらごぼう、紫キャベツ塩もみ。
昼 ざるそば。
夜 麦ごはん、まぐろ煮付、くこおひたし、かきたま汁。

●昭和51年

談合坂のドライブインでシューマイと幕の内を買う。600円。今年は隣りのTさんも留守番がみつかったらしく、家を開けている。庭には赤いなでしことデイジー、マーガレット、つりがね草、あざみ、のばら、月見草が盛り。
昼 買ってきた弁当。
夜 ホットケーキ、スープ、グレープフルーツに蜂蜜かけ。

7月24日(土) くもりのち晴、一時雨
9時起きる。くもり空。枕が高かったので頸が痛い。
朝 麦飯、味噌汁(なす)、さんま干物、大根おろし、佃煮、グレープフルーツ。
昼 サンドイッチ、紅茶。
夜 うどん、みょうがとかきたま汁、スイカ、かぼちゃ甘煮、ぶどう、しらすときゅうり酢のもの。

朝 味噌汁(豆腐)、麦飯、じゃがいもとなまり煮付、豚ロースバター焼、キャベツ酢漬、スイカ。
昼 とうもろこし、ぶどう。
夜 パン、中華風スープ、じゃがいも、キャベツバター炒め、大根菜漬もの。

7月26日(月) 快晴
朝 麦飯、味噌汁(みょうが、豆腐)、とりささみバター焼、なすしぎ焼、きゅうり油酢漬、キザミ味噌漬。
夜 サンドイッチ、コーヒー、サラダ、ハム、とりのだし野菜スープ、黄桃シロップ煮、大根菜漬もの、ぶどう。
主人、大根菜の漬ものをおいしいと言う。毎日食べたいと言う。

夕食 パン、牛肉ロースバター焼、じゃがいも、いんげん、にんじんバター炒め、紅茶、グレープフルーツ。

7月28日(水) 晴
朝 麦飯、味噌汁、納豆、さばみりん干し、大根切干と豚肉がんもどき煮付、きゅうり中華酢漬、ぶどう。
夕食 麦飯、牛肉とねぎだけのすきやき風、きゅうりとしらす三杯酢、パイナップル。

7月29日(木) 晴 時々くもり
田中角栄は拘置所で麦飯と一汁一菜の朝飯で元気にしているとテレビでいった。田中角栄はとても丈夫なのだ。
朝 麦飯、さけ罐、大根おろし、きゅうり酢のもの、卵。
夕飯 パン、ビーフシチュー、すいみつ桃、ぶどう。
主人、冷やしすいみつ桃がおいしいと言う。ぶどうもテレビをみながらずっと食べている。

7月30日(金) くもりのち晴、風涼し
朝起きぬけに、花畑のまんなかで髪の毛をとかしているといい気持だ。
朝 麦飯、じゃがいもベーコン炒め、さばみりん干し、のり。
夕食 麦飯、豚ロースしょうが焼、いんげんとじゃがいも添え、トマトときゅうりのサラダ、切干大根とがんもどき煮付、スイカ。

武田百合子著『富士日記』より

山内マリコ『かわいい結婚』ズワイ蟹のトマトクリームのタリアテッレ

2編目の「悪夢じゃなかった?」がよかった。男女の関係として理想的。だから夢なんだとはいえ。

グラタンとタリアテッレ食べたーい。

都会の有名な洋菓子店で何年も修行も修行したという職人が帰郷し、実家の裏に作ったという小ぢんまりしたパティスリー。ログハウス風の外観で内装も凝っている。イギリスのアンティークテーブルとアーコールチェアが置かれたイートインスペースもあり、高尚な食べ物とおしゃれな空間を求める地元の女性でいつも混雑していた。
「ファミレスとか、もう行ってらんないよね」
たえちゃんは桃のパイをフォークで掬いながら言った。
たしかにたえちゃんと行動を共にするようになってから、ひかりの文化レベルはすっかり上がってしまい、夫のまーくんとの外食が物足りなくなってしまった。まーくんが行くのは幹線道路沿いにあるチェーン店ばかりだ。そういうところの大味で高カロリーなメニューはもう体が受け付けないと、内心ひかりは思っている。
「ひかりの家って、ルンバあるんだよね。いいなぁ~。あたしも買おっかな」
桃のパイを食べ終えると、たえちゃんはレモングラスティーを飲みながらふぅーっと一息ついた。

「たまにならいいの。たまに半日くらいかけて、手の込んだ料理作ったりして、友達招いてご馳走するのは好きなの。でも毎日っていうのはね。すっごい手間だよね」
「そうだねぇ」
ぼんやりと相槌を打ちながら、たえちゃんは普段どのくらいの食事を用意しているんだろうかと、ひかりは考えた。レトルトの合わせ調味料で炒めた、麻婆豆腐やチンジャオロースといった大皿料理がボンとテーブルに置かれた手抜きスタイル? それとも一汁三菜しっかりそろったヘルシー志向? メインの料理の脇に、おひたしとか、もやしの胡麻和えなんかがちょろちょろっと添えられた気の利いたお膳? そういうディテールをたえちゃんは口にしないから、肝心のレベルがいまいちわからなかった。
(中略)
「うちの旦那さん、冬瓜のスープが飲みたいんだって。よくお母さんが作ってくれたって言うの。まあ美味しいけど、冬瓜ってけっこう固いし、包丁入れるの大変じゃない?」
「あ、わぅぅん」
ひかりは返答に詰まった。
冬瓜なんて、切ったこともなければスーパーで手にとったこともない。そもそもその見た目すら、パッと頭に浮かばない。

時々スターバックスで甘いコーヒーを飲むのが、ひかりのちょっとした息抜きだ。とてもこの街の人とは思えない洗練された態度の店員たちを相手に、しれっとした顔で複雑なメニューを諳んじ、たえちゃんが見つけてくるお店とはまた違う、グローバル・スタンダードな安定した世界観に身を浸す。
いつもほどほどに混んでいる店内、ひかりは運よく空いていたソファ席に腰を下ろした。ショートサイズのホワイトモカ400円が高いか安いかはさておき、ひかりにとって昼間のスタバで1人コーヒーを飲むことは、十分すぎるほどリッチで優雅な行為なのだった。

毎朝起こしてもらい、眠い目をこすりながら食卓につけば、そこにはバターがとろりとしみた熱々のトーストと、いちごやマーマレードのジャムが並んでいた。

味噌汁はダシを取ることなど思いつきもしないので、とりあえずお湯に味噌をぶちまけ、鍋の中で銀河系みたいに渦を巻き、ぐつぐつと煮立ってきたら完成とした。米を研ぐときに食器洗い洗剤を入れているところをまーくんに見られ、「殺す気か!?」と怒鳴られた。その結果、レトルトのお米とフリーズドライの味噌汁が主食という、現在のスタイルに至ったのだ。

こんなの別に食べたくないけど......と思いながら、三杯酢付きのところてんや練り物といった、調理の必要のないものをカゴに取り、精肉売り場では同じ理由からステーキ肉をチョイスする。塩コショウを振って焼くだけなら、ギリギリ自分にもできる。惣菜コーナーでポテトサラダの大パックを取り、ついでに熟れたアボカドもカゴに入れた。アボカドは切ってわさび少輔をかけるだけで一品になるから、重宝している。
アボカドの有用性を教えてくれたのはたえちゃんだった。
ひかりの実家の食卓にこんなものは出なかったから、長らくアボカドは、気取ったカフェ飯や創作居酒屋でときどき巡り会う、得体の知れない美味しいもの、という認識だった。たえちゃんとスーパーに行き、野菜なんだかフルーツなんだかわからない、ごつごつした洋なし状の、恐竜の皮膚みたいな外皮の山から、黒ずんだものを手にとって、「これ、ちょうど食べごろかな」と選んでいる姿を見て、ひかりは「ふむふむ」と真似して買った。
たえちゃんは、一体いつアボカドを、カジュアルに調理するようになったんだろうとひかりは考える。
たえちゃんはおしゃべりのくせに、肝心の自分自身のことは話してくれない。まるで生まれたときからアボカドに親しんでます、アボカドに対する心理的ハードルはゼロです、みたいな感じだが、そんなはずがない。だってアボカドなんて昔はなかったじゃん。たえちゃんのこの、パクチーとかも「大好き!」って言いそうな軽薄なこじゃれ感って、なんなんだろうか。

エコバッグを車の助手席に積み込んだところで、まーくんからメールが入った。
<ステーキ食べたいから今日のメシはビッグボーイでいい?>
ひかりはエコバッグから覗くステーキ肉のパックをまじまじと見つめた。白いトレーに載った、汁の染みだした赤身の肉。30%引きのシールが貼られているだけあってところどころ黒っぽく変色し、まったく食欲をそそらない。これ放り捨てちゃおうかな、という考えが頭をよぎる。
こんなときたえちゃんなら、<ちょうどステーキ肉買ったんだ! 家で食べようよ?>とか返すんだろうか。ひかりは、家で食事の支度をしなくていいなら、なんだってうれしい。それが吉野家の牛丼でもなんでもオッケーだ。ひかりは<わーい。ステーキステーキぃ〜>と打ち返して、この3割引のステーキ肉は冷凍することにした。こういう流れで冷凍庫にぶち込んだ肉をちゃんと解凍して調理したことは、過去一度もないけど。

夜8時のビッグボーイの店内、メニューに目を走らせながらまーくんは言った。
「ハンバーグとステーキ、両方食べたい」
(中略)
「ぴかりはねぇ、チキン竜田揚げのさっぱりみぞれ煮定食にする」
「ヘルシーですなぁ」

たえちゃんが予約を入れた広東料理の店は、住宅街にひっそり佇んでいた。地元の人にはあまり知られていないけれど、実は知る人ぞ知る名店だという。わざわざ遠方から通う常連もいるらしかった。
ランチで1600円は、たしかにこのあたりの相場からすると高い。それだけに内容も豪勢で、アヒルのスープ、空心菜のニンニク炒め、ピータン豆腐、特製のネギタレをつけて食べる蒸し鶏、餃子、酢豚、海鮮粥......どれも味付けが優しく、滋味が体に染み込んでくるようだった。
「なんか油が全身に行き渡る感じ〜」
たえちゃんはとろけそうな顔で、まさに快感に悶えるように言った。
美味しいもののためなら、千里をも越えるたえちゃん。高校時代は、同じ学食でたいして美味しくもないカレーうどんを食べていたはずなのに。放課後ファストフードで、新商品のバーガーに小遣いをつぎ込んでいたろうに。

「うちのお母さんだって、新婚のころはダシも取れなかったって言ってたよ?」
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「たえちゃん、ダシの取り方わかる? どうやって取ってる?」
「え〜、お湯沸かして、かつお節ひとつかみ......ちょっと煮立たせて放り出す、とか? あとはダシパックとか、面倒くさいときは顆粒ダシ使うし。適当だよ」
その"適当"ができなくて困ってるんだけどな、とひかりは思う。改めて、この同い年の先輩に羨望の眼差しを向けていると、たえちゃんはマンゴープリンをスプーンで口に運びながら、突然切り出した。

お米が炊きあがったら少し蒸らしてからしゃもじでかき混ぜる。一気に6合炊き、ピカピカの白米の状態で、タッパーに小分けして冷凍保存し、セツさんの1週間分のごはんのストック作りは完了だ。
(中略)
家の掃除が済んだところで、昼休憩だ。
台所を使わせてもらって前田さんがお蕎麦を茹で、厚焼き玉子を作り、みんなでいただく。
「いやぁ〜、こんなにきれいになってぇ〜ありがとうね、ありがとうね」
いままでどこに隠れていたのだろう、セツさんは姿を見せると、みんなで食べるのがこのサービスのいちばんお楽しみなんだと、悲しくなるくらいにこにこして言った。
前田さんの作ったざる蕎麦を前に、セツさんはほとんど「ナンマイダー」の勢いで拝み、頭を垂れ、ありがたそうに食べた。厚焼き玉子はお菓子みたいに甘い。けれどたっぷりの砂糖のおかげで、午前中の疲れがとれるようだった。
(中略)
結局家に戻ったら4時近くになっていて、そこからひかりにとって最大の関門である、夕飯作りがはじまった。
まずは味噌汁から。セツさんの体のことを考えて、ダシはかつお節から取ることにしている。のっけからハードルが高いが、前田さんは「簡単簡単」、あっけらかんと言った。
「小鍋にこんくらい水張るでしょ、火にかけて沸騰してきたところでかつお節ひとつかみ入れて、すぐ火止めちゃうの。それで2分くらいかな、黄金色に見えるくらい色が出たら、ざるで漉して、一丁あがり。あとは切った具を煮立たせたら、火を止めて味噌を適量溶かして完成。ネギを入れるときは必ず最後ね。味噌入れてからは絶対にぐつぐつやんないで。風味飛んじゃうから。さ、じゃあ次はじゃがいも剥いてもらおっかな」
ピーラーを渡されたひかりは、たどたどしくじゃがいもに刃をあてる。面取りをして水にさらし、水を張った鍋に入れる。
「なに作るんですか?」
「肉じゃがよね。言わずもがな! アハハ!」
前田さんは、いろいろ試した末に編み出したという、秘伝の作り方を伝授してくれた。
「ちなみに肉じゃがを作るときは、同じ材料で翌日はカレーにするのも忘れずにね。肉じゃがとカレーは具がほとんど一緒だから」
「へぇ〜スゴい!」
「そうね、肉じゃがよりまずはカレーを作ることね。いまやってるように、にんじんとじゃがいもと玉ねぎを切って、お鍋でぐつぐつ煮るの。コンソメでも入れりゃ最高よ! 煮込めてきたらカレールウを溶き入れてさらに数分煮ればオッケー。多めに作れば3日はもつわよ。しかも1日目より3日目の方が美味しかったりするんだから」
肉じゃがが煮えたら、じゃがいもに火が通りすぎないうちに今度は冷ます。蓋を取って涼しいところに置くと、ぐっと味がしみるのだ。
「セツさんはけっこうお肉好きなのよ」
ということで今晩のメインのおかず、もやしと豚バラの蒸し焼きを作ることに。簡単だけど美味しいおかずとして、前田さんはこのレシピをひかりに推奨した。
水洗いしたもやしをフライパンにざっとあけ、程よいサイズに切った豚バラ肉を、もやしの上に1枚1枚広げて敷き詰めていく。火を点けて、レモン汁をざぁーっとまわしかけて、蓋をして数分待てば、ヘルシーな一品がもう出来上がっていた。
「ハンバーグとか、わざわざ手のかかるもんなんて、作んなくてもいいのよ。どうせ男の人は、料理にどれだけの手間かかってるのかなんて、考えやしないんだしね。だったら断然こっちよ。これにポン酢つけて食べたらほんと美味しいんだから〜。あたし本気で、ポン酢作ってる業者には感謝してる!」と前田さん。

今日教わったとおり、まずは洗濯機を回す。その間に流しをきれいにし———もちろんあのシャンパンタワー方式で!———野菜を切ってコンソメを入れて煮込む。
(中略)
カレールウを入れて弱火でさらに煮込み、野菜が煮崩れないうちに火を止めて冷ます。

たまに前田さんが来てくれて、美味しいおかずの作りおきを、冷蔵庫にたっぷり入れていってくれる。夫が妻の手料理に喜ぶように、ひかりは前田さんが作ってくれたおかずに狂喜した。前田さんは必ず作り方のメモを付けておいてくれるけれど、上手に再現できたことはまだ一度もない。

「今日は暇だったからキッシュ焼いてみた!」と言うと、「キッシュってなに?」
「まーくんはぴかりのこと好き?」
「うぅーん、そうだね」

「ごめんごめん、ねえお腹すいてない? ごはん食べた?」
「もう食ったよ」
「なに食べたの?」
「グラタン」
「あ、お母さんの手作りの?」
「そうだよ」
「美味しかった?」
「普通」

裕司は再び電車に乗ってなんとなく新宿で降りると、頭を冷やすために駅構内にあるコーヒーショップに入った。思えば朝からなにも食べていない。彼はホットドッグとコーヒーを頼んで、ガラス張りのカウンター席に腰を下ろした。

エスカレーターでレストランフロアへ行き、つばめグリルを見つけるや彼は駆け込んだ。ビーフシチューがたっぷりからんだハンブルグステーキを頬張り、白いご飯を食べ、水を流し込んで一息つく。胃にものを入れると気持ちがちょっと落ち着いて、食後にコーヒーなんか頼んでしばし呆けてしまう。買い物疲れである。

それどころか風呂上がりに、「きみはビール飲める?」と訊かれ、「もちろん」とこたえるや、石井は晩酌をつき合ってくれと言う。テーブルにはスーパーの惣菜コーナーで買った冷たいおかずが、透明のトレーに盛られたまま並ぶ。テレビの前で二人横に並んで、バラエティ番組を観た。
缶ビールが4本、焼酎の水割りが3杯、コンビニで買ったらしきチリ産のワインをだらだら飲み、12時を回るころ布団に入った。

店の人とも顔見知りらしく、ワインを楽しそうに飲んでいる。メニューを片手におすすめをいくつか挙げ、
「ブイヤベースが美味しいんですよ、ここ。一緒に食べません? いつも一人だからなかなか注文できなくて」
ミツコは前菜をあれこれ注文した。

プラスチック製のコーヒーカップにインスタントの粉とお湯を注ぎ、スティックシュガーとコーヒーフレッシュとマドラーを添えて出す。

二人はエスカレーターで3階までのぼると、ビストロカフェに入った。あや子はおしぼりで手を拭いながらやっと人心地ついたとばかりの表情だ。ユリはメニューを見るなり「ごはん食べない?」と、ズワイ蟹のトマトクリームのタリアテッレを注文した。
「タリアテッレってなぁに?」
「パスタよ」
「......そう」
あや子も同じものを頼んだ。
お腹が空いていたのか、あや子はあっという間に食事を終えると、口角をナプキンで拭い、改めてユリに向き直った。

山内マリコ著『かわいい結婚』より