コルドンブルーで作り方を教えている「一番高級なおいしいアイスクリーム」は向田邦子のエッセイに描かれた昭和の一般家庭での作り方と同じやぞ。材料も今よりはるかにいいだろうし、そりゃ美味しいにきまってる。
一番高級なおいしいアイスクリームの作り方は、実際すごい労力のいる仕事なのだ。
むかし、私がこどもだったころ、アイスクリームの機械が売られていた。小さい桶のようなものの真中に取手のついた筒が入っている、その桶のなかに荒塩を一杯きかせた氷のブッカキを入れ、筒状のいれものにはクリームを入れて、ガラガラガラガラ取手をまわすのだ。「こんどはお姉さんの番」「次は私」などと、こどもどうし、何十回かずつまわしたものだ。「できた、できた」とよろこんで食べたあのアイスクリームの作り方を、コルドン・ブルーで教わるとは思わなかった。
「なんて原始的なんだろう」とあきれていたら、その出来上りは出来上りではなく、そのアイスクリームのなかに、干し果物のこまかく切ったのを入れてまぜたあと、こんどは銅でできた筒のなかにギュウギュウつめこんで密封してから氷のなかに入れ、またグルグルガラガラ氷と塩のなかで冷やすのだ。
(中略)
そのアイスクリームは、かたいのにもかかわらず、口に入れると実にきめのこまかい、とろっと舌にとける、いままで食べたこともないほどのおいしさに驚いた。
二度にわたって氷でかためたのだから、その上に生クリームや干した色とりどりのものを飾っても、なかなかとけない。手数がかかっているだけに、この豪華なアイスクリームはアメリカの街角で売られているものとはぜんぜん格がちがう、シャンデリアの輝く広間の正式ディナーにふさわしいアイスクリームだった。しかし、いくら食いしん坊の私でも、髪の毛をふりみだし、汗をかいて、てのひらに豆をつくってまでそのアイスクリームを作り、そしてたべる気にはちょっとなれない。
どんなお弁当かなと隣席の四人の方をなにげなく見ていたら、駅売りのふつうの弁当だった。鳥栖駅をすぎた後だったので、かしわ弁当にしたらよかったのにとおせっかいなことを考えたが、それほど私は鳥栖のかしわ弁当ファンなのだ。
それはさておき、お弁当を開いた隣席の高校生のたべっぷりは、なんとも見事なものだった。あまり多くもなく、あまりおいしそうでもないおかずの少しを口に入れては、お箸いっぱいに盛りあげたご飯を、パッと口のなかにほうりこんで、モリモリたべる。
若いひとのたべ方はなんと気持のよいものだろうと感心してながめていたら、そのうちの一人が、ごそごそとカバンの中からフタのあいたカンづめをとり出した。他の三人にもすすめ、自分もお弁当の横に———のりのつくだ煮だか、とうがらしの甘辛煮だか———なにやら黒いものをとりわけた。
二人の高校生はおかずが足りなくなっていたから、これ幸いとおすそ分けにあずかっていたが、もう一人は食べ終っておかずだけ少々残していた。
父は大食いでくいしん坊だけれど、たべものをしみじみじと味わうほうではない。日本料理独特の小ぶりにしゃれた味を吟味したつき出しなど、あまり好きではない。大ぶりにたっぷりと、胃のなかに充実感をあたえるものでないと満足しないらしく、シチューなども、とけそうに煮えた大きなじゃがいもが入っていなければ、ご機嫌がわるい。
母と私は、じゃがいもは入れず、シチューの汁がうす茶色に澄んで、それでいて野菜がトロッと煮えているのを好むが、父と弟たちは、むしろブラウンソースを流しこんだ、そして、じゃがいもの煮てとけたとろとろもまじっている、どろっとしたシチューが好きだ。
うどんにしたって、うす味の関西ふうは好まず、なべ焼きの、しょう油も濃く、てんぷらやおとし卵のはいった、しつこ目なのがすきだ。
スパゲティを作るときだって、いつも私は考えてしまう。私としては、スパゲティがゆであがったら、すばやく深皿にとりあげて、バタをまぜあわせ、その上にミートソースをかけチーズの粉をふり、各自でまぜあわせながら食べてほしいのだが、父や上の弟は、それよりも、ミートソースのなかにスパゲティをいれていためた、味の濃いスパゲティをよろこぶからだ。
(中略)
山女魚の味などわからぬ人も多いのに、父や山女魚は好物だし、フグやスッポンも好きだし、フランスで最高の料理といわれるフワグラなど、人によっては賞味できない人もあるがキャビアとともに父の好物である。
(中略)
お酒を飲むのに甘いものも好きで、おはぎなどはその上にお砂糖をかけてたべる。糖尿の気があるので母に叱られるくせに、母がいないと、甘いものをたべてしまう。
「石やきいもオー」
と売りにくる声がきこえると、ちょっと照れたような顔をして、
「買っておいでよ」
という。
石焼き芋を半分に切って、バタをのせ、スプーンですくってたべれば、スイートポテトよりおいしいから、その点はみとめてあげるが、ドライヴをしていても露店の「アイスクリン」というのを買いたがる。物心のつかぬ前に父母に死に別れた父は、おばあさんの手一つで育てられ、貧しかった。だから、食べものの好き嫌いがないのかもしれない。
久留米に行ったとき、父の仕事をしている青年が、屋台のラーメン屋さんの横を通ったとき、
「先生はここを通ると、車をとめさせて、私たちといっしょに、よくラーメンを召上るんですよ」
といった。
「昔はアメ湯というのを売っていたのだそうです。先生はアメ湯の屋台はないのかねっていわれるので、ずいぶんさがしましたけど、今はありませんね。アメ湯の話からこどものころのお話や、亡くなったおばあさんの思い出話をされたので、私どもも目がしらがあつくなりました」
父は状況してから下宿住いで、友だちと自炊をしていたらしい。
「大きななべに野菜や肉を入れたみそ汁を作っておいて、前日のが残るとそれにまた足しては食べるんだ、だんだん味が濃くなっておいしかったよ」
などと思い出話をすると、衛生家の母は、
「まあいやだ」
と顔をしかめる。
とろろ昆布にこったときは、三度三度とろろ昆布のおつゆを二、三カ月たべつづけたし、苺ジャムにこったときは、
「もう好い加減にやめなさい」
と母にいわれて泣いた。
夫の朝食はパンにバタにコーヒー、その横で姉はおみおつけにタクアンでご飯をたべていた。この主人がまた食い道楽で、自分で買い出しにゆくのを趣味とし、おいしい料理をつくって一人でしみじみと味わって食べたりしている。
その義兄が三年前にパリのユネスコに勤めることになって、家族もパリゆきときまったとき、姉は大あわてで、三年分の味噌のカンづめを買って、船便でフランスへ送った。
前年パリへ行ったとき、姉夫婦のアパートに滞在したら、あんなおいしいフランスパンがあるのに、相変らず姉は椅子の上にちょんと坐り、カンづめのおみそ汁でご飯をたべていたのには恐れいった。
石井好子著『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』より