たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

林屋!『野ばら』

昨今の宝塚のあれやこれやに触れて思い出したので再読し、なんだか感動してしまった。ダラダラと飴をしゃぶるような快楽を味わえるサービス満載の一級レジャー小説。斜陽を前にした桜の木の下のシーンなんて「細雪」だし...。
自分のメモによると実に17年ぶりに読んだらしい。信じられない。すごくいろんな場面を覚えていた。当時、日常的に宝塚線に乗り、京都へもしょっちゅう行っていたので、舞台をイメージしやすかったこともあるだろう。不倫相手のおっさんの「シャツの趣味が萌から見て微妙」というのが直接的な言葉を使わずに書き込んである2か所など「林屋!」と声をかけたくなる。京都のゴハンも実に美味しそうなのがこの小説家の矜持。

ところで京都に行くたび、花見小路を車が爆走するのをいかがなものかと思っていた。この小説の発表から20年以上たち事情は随分変わっただろうけど、こういうセレブがいる限り、地下道でも作らない限り、自動車進入禁止にはできないんだね。個人的には、こんど日本に行ったら宝塚ホテルを再訪したいなーと思った。

半蔵門のダイヤモンドホテルといえば、古くて地味なホテル、といった印象であったのだが、しばらく来ない間にリニューアルしていたらしい。いたるところに金をかけ、都会の洗練された隠れ家のようになった。コーヒーハウスも大層贅沢なつくりになり、インテリアも凝っている。高いけれども紅茶も大層おいしい。新井萌は紅茶党であったが、外でおいしい紅茶を飲むことをほぼあきらめていた。カフェや喫茶店はもちろん、どこのホテルのコーヒーラウンジもコーヒーと比べて紅茶はおざなりになっている。千円近くとるラウンジで、ポットにティーバッグを放り込んで平気で持ってくるのだ。
けれどもここの紅茶はいい葉を選び、丁寧に淹れてある。紅茶がこんなにおいしいのならばケーキもきっとかなりの水準のはずだけれども、少々苛立っている萌は、とても注文する気にはなれない。

「ねえ、その後のお食事はどうなってるの」
「『クランツ』の石山さんが、中国飯店の上海蟹にしようか、それともどこかイタリアンを予約しようかだって」
「そうねえ、久しぶりにイタリアンがいいかも。関西ってイタリアンは悲惨なんだもの」

小言を口にしながらも、娘のために手間をかけた朝食をつくってくれる。普段ひとり暮らしでは、ろくなものを食べていないだろうと言って、出てくるものは"旅館ごはん"と千花が呼ぶ和食だ。
丁寧にだしをとった味噌汁にだし巻き玉子、煮物に焼き魚といったものに、佃煮、海苔が食べきれないほど並べられる。佃煮、海苔の類いは、開業医の父親のところにきたものだ。
人にはあまり言ったことがないけれど、洋酒やビール、茶や佃煮などは、店で買うものではないと母の悠子も千花も思っている。それらはちょっとした貢ぎ物として、父の診察室の片隅に堆く積まれるものなのだ。
(中略)
「急に失くなっちゃって、このあいだ初めてお茶っ葉を買ったのよ」
と悠子がおかしそうに言う。けれども食後、これまた医者の貰い物の定番であるメロンを、大ぶりに切って置いた。

もう既にテーブルの上には、大きな重箱が三つ重ねられていた。サングラスをしたまま梨香は後輩たちに言う。
「これ、手の空いた時に食べて高杉さんが持ってきてくださったの」
「ありがとうございます」
高杉というのは、美容整形医の妻ではない。ファンクラブのひとりで、今日の梨香の、「お弁当をつくらせていただく」当番なのである。
出番の多いトップはたいていの場合、公演の前に食べ物を口にしない。だから豪華な弁当は、下級生たちに下げ渡されることになっている。外に食べ物を買いに行く余裕などない研究生たちにとって、これは本当に有難い。
最初はやや抵抗があったものの、気がつくと下がってきた弁当や菓子、果物をすごい早さで咀嚼する自分がいた。時々はずれることもあるが、弁当はたいていおいしい。憧れのスターに食べてもらおうと、徹夜して何十人分もの弁当をつくってくるのだ。手巻き寿司にひと口カツ、煮物、だし巻き玉子などが彩りよく並べられていた。
すっかり化粧を終えた千花は、夏帆と一緒に寿司を食べ始めた。かなり凝っていて、中にキャビアが入っていた。

二人の男はしばらくしゃれ合った後、運ばれてきた刺身に手を伸ばした。
インテリアだけ凝って、味はそこいらの居酒屋並みの和食屋が増えていく中、この店は有名料亭で修行を積んだ主人が包丁を握っていた。
ここの自慢料理はトロの氷盛りで、かき氷の鉢の上に、トロが紅白の脂肪の網を見せている。トロによほど自信がなければ、これは出せないだろう。
「こりゃうまいな」
この店は初めてだという森下が、感嘆の声をあげた。その声でかなりの食道楽だとわかる。

「(中略)ママがね、おかずを三品並べようもんならガミガミ言うのよ。考えても欲しいわ、あの綺麗な顔をした男が、高いタラコをどうしてこんなに無造作に切って出すんだって、本気で怒るんだから......」

「夏山先生が、ロマネ・コンティを飲む会をするんですって。といっても、全部ロマネで通すととんでもないことになるから、ロマネは二本ぐらいで、後はラ・ターシュかマルゴーにするらしいけど、とにかくすっごいものが出るらしいわよ」
(中略)
やがてこれまら夏山とっておきのシャトー・ディケムが出てディナーは終わった。
その前によく熟したチーズと、三種類のデザートを人々は口にしていた。
「本当にいっぱい食べちゃったわ。チカ、もうお腹がパンパンに張ってる......」

東銀座の方へ向かって、歌舞伎座横の文明堂に入った。ちょうど芝居の真最中で、客はほとんどいなかった。
萌はミルクティーを頼み、三ツ岡はコーヒーとカステラのセットを頼んだ。萌は彼から「問題外」と言い渡されたような気がする。多少気のある女の前で、男は甘いものなど絶対に食べない。(中略)
「三ツ岡さんって、甘いもの、お好きなんですか」
やや皮肉を込めて問うてみた。
「好きだねぇ......。前は、そんなでもなかったけど、この頃年のせいか、午後になると甘いものが欲しくってたまらない。羊かんでも、饅頭でも、ケーキでもむしゃむしゃやるね」
(中略)
やがてカステラが運ばれてきた。これをフォークでちまちま食べる三ツ岡の姿など、見たくないと思った。が、彼は三切れに切り、大きく頬ばる。三十秒ほどで食べてしまった。
「三ツ岡さんって、食べるの、早いんですね」

彼のロールスロイスは、京都の狭い路地をぎくしゃくと走っていく。そして止まったところは一軒の町屋である。
「あんたら、どこに連れてこと悩んだけど、若い人らに懐石もなあ......。あんなもんはほんまに若い人がおいしいかって言ったら、違うような気がするわ。ここは京都一、いや日本一うまい肉を食べさせるとこやからな」
(中略)
「ここのステーキは不思議なステーキやで。こげ目っていうものが、まるっきりあらへん。ぬるい温度で肉の旨味を閉じ込めるっちゅうことをしてはる。ふつうだったらまずくなるはずやけど、どういうわけかごっつううまいんや。いったいどういうわけやろと、いつも考えとるんやけど......」
(中略)
やがてワインとバカラのグラスが三つ置かれた。年代もののペトリュスである。町中の小さなステーキ屋の奥から、まるで手品のように高価なワインが出てきたのだ。
「ここは結構いいワイン出してくれるんやけど、デキャンタもテイスティングもなしという、滅法愛想のないとこでなあ......」
「仕方ありませんよ。全部ひとりでやっているんですから」
やがて白い布をかぶせたトレイが運ばれてきた。布をとると大きな肉の塊が、白と赤のマーブル模様の切り口を見せている。
「ヒレもありますけど、今日はやっぱりサーロインでしょうなあ」
「じゃ、それにしよ」
「お嬢さん方、焼き加減は......」
「私、ミディアム・レア......」
言いかけた萌を、亀岡が制した。
「そんなん言わんと、この大将にまかせとき。そりゃあうまく焼いてくれるわ」
三つに切られた肉が鉄板の上に置かれた。ジュウジュウと音をたてるわけでもない。ただ置いた、という感じである。その間に三人はワインを飲み始めた。
「ペトリュス、大好き」
千花がペロッと舌で、唇についたしずくをなめた。
(中略)
二人がそんな軽口を叩いているうちに、温野菜をのせた大皿が並べられ、その上にシェフは焼き上がったステーキをのせる。萌はこんな不思議なステーキを食べたことがなかった。焼き目というものがまるでない。熱によって赤黒く変色した肉塊だ。ひとくち口に入れる。
「おいしいわ」
先に言葉を発したのは千花だ。
「肉のジュースが、しっかり中に閉じ込められてて、それがブチュッと出てくるの。うんと焼いたステーキよりも、お肉がどこまでもやわらかいっていう感じ......」
「そうやろ、そうやろ」
亀岡は頷く。気に入った答案を目にする教師のようだ。
「ここは肉を焼く常識と全部反対のことをしとる。だけどこんなにうまい。誰かちゃんと研究せえへんかと思うけど、ここの大将は変わり者やさかい、テレビにも雑誌にもいっさい出えへんのや」
「勘弁してくださいよ。年寄りがひとりコツコツやってる店ですよ。マスコミなんか出たらえらいことになりますわ」
その後量は少ないけれども、ドレッシングが凝ったサラダが出、メロン、コーヒーという順で食事が終わった。
店を出ると、どこかで内部を見張っていたかのように、ロールスロイスがするすると近づいてきた。
(中略)
「お食事、どこへ行かはったん」
「『桃山』でステーキ食べてきた」
「いやあ、『桃山』やて。あんな高いとこ、私よう行かへんわァ」
「よう言うわ。あんただったら、どこ行きたい、あそこで食べたい、ってねだれば、みんな大喜びや」
「この不景気で、そないなお客はん、いてはりまへん。あ、社長さん、焼酎でよろしおすか」
「そうや、ここでワイン飲んだら、いくらふんだくられるかわからん」

三ツ岡が案内してくれたのは、北白川の通りにあるおばんざい料理の店だった。
「昨日はすごいご馳走を食べたそうだから、今日はこんなところでいいでしょう」
カウンターの上の大鉢に、何品かの料理が並んでいるが、それ以外にもいろいろと注文することが出来る。まず萌は大鉢から蛸と海老芋の煮つけ、三ツ岡は刺身と白和えを頼み、ビールで乾杯した。
(中略)
しかしそのために二人の会話は少なくなり、最後の松茸御飯を萌は黙って咀嚼したぐらいだ。

「(中略)あのさ、花見小路にものすごくおいしい店が出来たらしいよ。『喜蝶』の花板が独立して店持ったんだって」
子どもの時から一流の店の味を知っている彼は、食べものにとてもうるさい。一食でもまずいものにあたると、すぐに不機嫌になる。歌舞伎座や南座の楽屋を訪ねる時、千花はどれほど差し入れの品に心を砕いたことだろう。鮨だったら青山の紀ノ国屋スーパーの中に入っている「すし萬」。ここの大阪鮨は値段が倍ぐらいするが味がまるで違う。あなご鮨が路之介の好物なので大箱を持っていく。サンドウィッチならば、帝国ホテルの売店のものと決めていた。
それ以外にも、自分でせっせと菓子を焼いた。高校を中退して宝塚に入った千花は、他の同級生たちのように料理教室へ通った経験がない。だから本を見ての独学であったが、これが案外うまくいった。特にクルミとバナナの入ったパウンドケーキは、売り物にしてもいいぐらいだと食べた人は必ず言う。路之介もこれが気に入っていて、そんな細い体のどこに入るのだろうという勢いで、三切れ、四切れすぐ口に入れる。
けれどもそんな差し入れが出来るのも、自分が東京にいる時のことだ。宝塚にいて公演中ならば、手づくりのものはつくれないし、小遣いをねだる母もいない。

八時になった。千花は空腹のああり、ルームサービスを頼むことにした。この後どこかで食べるにしても、軽いサンドウィッチぐらいは支障ないだろう。運ばれてきたサンドウィッチをゆっくりと食べ、時間をかけて口紅を直した。テレビでは「ニュースステーション」が始まろうとしていた。

稽古場にある団員専用の「スミレ・キッチン」で、千花は甘めのカレーを食べていた。真向かいに座って「トリの唐揚げ」を食べているのは、今度のバウホール公演で主役をつとめる、男役の立風あまんである。

二人で和光のティールームに座っている。ここはよく萌が母と一緒に入るところだ。とても紅茶一杯とは思えない値段だが仕方ない。銀座といえばここしか知らないのだ。ケーキを勧めたけれども、映美は注文しなかった。ダイエット中と笑ったが、たぶん値段を見たからだろう。萌に払わせるのを気にしているのだ。本当によい子だと萌はますます映美が好きになる。

二人はいかにも父娘らしい会話をかわしながら、ビールを飲み干す。映美も父に似て、かなりいけるクチらしい。
前菜の盛り合わせの後、おつくりはフグであった。ほんの少量、美しい青磁の小皿に盛られている。
「私、これって初フグよ」
「よし、よし、学生らしい生活をおくってるみたいだな」

そんな他愛ないことを喋っているうちに、塗りの折敷の上に向付が置かれた。白磁の小鉢の中に入っているのは、伊勢海老の湯引きである。彩りにほんの少しキャビアがまかれている。
「僕はもうちょっとビールを飲むけど、君はどうする? ワインも置いてあるけど」
「日本酒をいただきます」
この店では小さなワイングラスに日本酒を注ぐ。「菊姫」が、ほんの少し黄色味を帯びて見える。

「シャンパンを抜いて。今日はこの人の誕生日パーティーだから」
「ほう、そりゃ、そりゃ」
隣りに座っていた初老の男が、それを聞いたからには声を発してもいいだろうといわんばかりに頷いた。
彼の前には、伊勢海老らしい刺身の皿が置かれている。
(中略)
「シャンパンは、ヴーヴ・クリコと、ドン・ペリニヨンしか置いておりませんが、どちらにしましょうか」
「クリコにして。ドンペリって、なんかオヤジっぽいじゃん」
路之介は千花の方を向き、ねえと笑いかけた。

デザートの菓子は、ふかしてたの薯蕷饅頭とプリンであった。染付の皿に盛られ、かすかに震えるプリンは黄色がとても濃い。
「和食のお店で、プリンが出るなんて珍しいわ」
「このお店の名物だよ。昔のやり方でつくってるんだそうだ」
三ツ岡は皿を萌の前に置いた。
「よかったら、僕の分も食べないか」
「三ツ岡さん、プリン嫌いなの」
「うーん、何て言えばいいのかなあ。プリンは大のおとなが、嬉々として食べるもんじゃないっていう気がするんだ。人前で食べるのは、ちょっと引いてしまうね」

差し入れの「しろたえ」のシュークリームや「千疋屋」のフルーツゼリーは、それこそ山のようにテーブルの上に置かれている。「キハチ」のクッキーを、ばりばり齧りながらメールを打ち続ける団員もいるし、ゲームに夢中になっている団員もいる。

後半まで千花の出番はない。化粧台前に座って、千花は「ウエスト」のクッキーをがりりと噛んだ。ありきたりだ、との声もあるが、千花はこの店の癖のない味が好きだ。幼い頃から、よくおやつに食べていたせいもある。

映美は前菜の仔豚のハムに半熟玉子をからめながら言った。
(中略)
「そんなこと、誰が言ったの」
驚きのあまり、息が荒くなった萌の前に、ウェイターが仔羊のソースをからめたラビオリの皿を置いていった。

最近の金持ちの例に漏れず、白石は大変なワイン好きである。中年までは下戸だったのが、ある日突然飲めるようになったのだ。
「それも高いワインほど、ぐいぐいいけるから困るで」
と笑う。今もぼんに頼んで、店の奥からとっておきを何本か出させたばかりである。
「よう、ラトゥールの九〇年なんかあったなあ。ぼんの好みやろ、さすがやな」
「おおきに。そら、白石はんみたいな人にお出しするんどすから、九〇年のラトゥールぐらい揃えておきまへんとなア」

二人で会場につくられた飲食のコーナーへ行き、カナッペをつまんだ。こうしたパーティーの定石どおり、料理は簡単なものばかりであるが、シャンパンとワインはかなり張り込んだ銘柄だ。

夏らしく前菜は茄子とキャビアを使った小さなサラダだ。やや神経質に茄子のマリネをナイフで切りながら、拓也が尋ねた。

ワインを四人で三本空け、長い食事が終わった。この店は絵里奈の父親の名前で予約してもらったため、彼女が誰だかわかっていたのだろう。店長がサービスで食後酒を何種類か運んできた。中に北イタリアの修道院でつくっているというリンゴの酒があった。
「ちょっと香りがきついですが、ぜひおためしください」
小さなアンティックのグラスで二杯ずつ飲んだら、みんなすっかり酔いがまわってしまった。

それを聞いたとたん、自分がとても空腹なことに千花は気づいた。午後すぐの新幹線の中で、サンドウィッチをつまんだだけだ。
路之介は慣れた様子で、店の奥にある小座敷に上がっていった。既に二人分の箸やコップが用意されている。
「はい、ビール。アサヒでしたわね」
(中略)
「おかみさん、熱燗頂戴」
やはりさっきの女は、妻だったのだ。鱧の皿を持ってきた女に、路之介はそう声をかけた。
「そうよね。今日みたいな日は熱燗よね」

ファンから差し入れられたシュークリームを食べながら女性雑誌をぱらぱらとめくっていた。この雑誌もまたファンからの差し入れである。

最近萌が気に入っているのは、一ノ橋に近いイタリアンレストランだ。地下に下りていくと、大きなワインセラーがあり、その陰にテーブルが置かれている。ここは上階の客たちには気づかれない席で、化粧を落とした女優が、女友だちとにぎやかにパスタを食べたりしていることもある。
(中略)
何を食べてもうまいが、特別に注文すると、焼き野菜たっぷりの皿や、豆の入ったリゾットをつくってくれる。つき合うようになってわかったことであるが、意外にも三ツ岡は大層肉が好きで、特に仔羊には目がない。この店の仔羊は香りが濃くてよいと、骨をしゃぶるようにして食べる。
(中略)
前菜のガスパッチョも半分も飲めず、すぐに皿を下げさせた。

ちょっと座ろうよと、千花はソファに誘った。その際シャンパングラスとチョコレートを持ってくることは忘れない。パーティーのために、洋服やバッグと同じロゴマークが入ったチョコレートが、ピラミッド型に積まれていたのだ。
(中略)
千花はチョコレートを口の中に入れた。ここで何か死者を悼む言葉を口にすることは、いかにも嘘っぽい感じがした。なにしろ一度も会ったことのない女なのだ。
けれどもこげ茶色のチョコひとかけらを口にしたとたん、苦く重々しいものが胸にこみあげてきた。
(中略)
二人は黙ってシャンパンとチョコレートをかわるがわる口にほうり込んだ。

「(中略)コーヒー淹れるけど飲む?」
「ありがとう」
二人分のコーヒーを淹れ、小皿には麹町にある老舗のクッキーを盛った。新井の祖父母の家は昔からこの店の会員になっている。由緒ある家だけが入会出来、会員になるとこの店のクッキーを買えるというシステムだ。ここの繊細なクッキーは萌の大好物で、それを知っている祖母が定期的に送ってくれているのである。
特に萌が目がないのが、薄緑色をしたチップだ。舌にのせると静かに溶けていく。このクッキーには紅茶が合うのだが、わざわざ湯を沸かすのはめんどうくさい。コーヒーメーカーはセットさえしておけばいいのでずっと簡単だ。
桂子は萌の差し出したコーヒーに、のろのろと砂糖とミルクを入れる。

寒気はまだ続き、心は別のところにあるのに、千花はいつもの習慣で冷蔵庫を開ける。牛乳に粉末を混ぜる手順も、手が勝手に動いていく。この粉末は、キナコに昆布の粉を混ぜた母の悠子のお手製だ。肌と健康にいいと聞いて、自分でつくり宅配便で送ってくる。
(中略)
あまりおいしくもないドリンクを飲み、次は先輩から勧められたサプリメントを四粒飲んだ。その後はインスタントコーヒーにミルクを入れ、昨日買ってきたあまり甘くない菓子パンを食べた。
そして自分がきちんと咀嚼していることに、千花はとても満足している。
「ほらね、私はあんまり傷ついていないのよ」

「ねえ、高級割烹店で食事っていうのもオジさんっぽいから、いっそのことイタリアンにしようよ」
「えー、京都に来てまでイタリアンかぁ」
謙一郎はあきらかに不満気な顔をした。
「あのね、京野菜を使ったイタリアンなの、水菜のサラダとか出てね。すっごくおいしかったの憶えてる」
幸い席が空いていて、タクシーで向かった。祇園町北側のこのあたりは、飲み屋街といってもビルが多く、京都の風情は薄い。レストランは、小さなビルの地下にあった。まずは京茄子とキャビアを冷菜仕立てにしたものが出され、二人は白いワインで乾杯した。
(中略)
彼の饒舌を封じ込めるかのように、松茸を使ったパスタが運ばれてきた。バターと松茸のにおいが混ざり合って、なんともいえぬこうばしさだ。
「これ、めちゃうま」
謙一郎は盛大にフォークに巻きつけ口に運んだが、全く音をたてない食べ方をした。

「本当にバッカみたい......」
思わず声に出して言い、隣りでパンを齧っていた女が、目を大きく見開いて萌の方を見た。

林真理子著『野ばら』より