たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

車海老まつり『私のこと、好きだった?』

時代を感じる小説だが、いちばん昔感があったのは「箱根の高級旅館」の宿泊費。「一泊五万円という空おそろしくなるような料金」だと。やっす。
それから四十を超えての初婚セレブ花嫁を取り巻く女性誌のはしゃぎぶりは、映画SATCそのもの。ああいうのもいろんな意味でもう成立しないだろうなーと思う。

美季子は、スターバックスで買ったサンドウイッチを齧りながら、パソコンの前に座っていた。画面に映っているのは、部下のアナウンサーたちのシフト表であった。

「さあ、これを冷やしてもらっといたから飲もうよ」
マスコミの男の例に漏れず、兼一もワインを飲むようになった。この店は持ち込みが出来るそうで、カリフォルニアの赤を持参していた。なかなか手に入らないカルトワインだという。

「もういいわよ、そんなの......、ねえ、このトスカーナ、おいしそう。値段も安いし、これ頼んでみようか」
美季子は気分を変えるために明るい声を上げる。
「とにかくさ、手術はうまくいったんだし、今夜は祝杯ってことで、ガンガン飲もうよ」

「名古屋だったら鰻かしら。ひつまぶしっていうのおいしいらしいわね」
コーヒーをすすりながら、多恵はのんびりとした声を出す。

今飲んでいるのは、美季子の好きなピノ・ノワールのカリフォルニアワインだ。チーズがあったことを思い出し、冷蔵庫の中から出し、切って皿に盛る。そしてチーズを口中に含んだまま、赤ワインの味をころがしていく。

みんなの会計を預っていたのが美季子で、とにかく食事を安くあげるために、途中でパンを買ったり、駅では立ち喰いソバにしたものだ。

昼どきとあってどこのレストランもいっぱいだったが、少し行ってようやくイカ料理の店に入ることが出来た。イカソーメンがついた定食を二人は頼んだ。生ビールを一杯ずつ飲む。
「前に来た時も、これを食べたような気がする」
「そうだったっけ」
「そうだよ。美季子があんまりケチなことをするから俺たちが何か名物を食べさせてくれって頼んだんだよ」
(中略)
「新鮮なイカって透きとおってるんだ」
なんておいしいのと美里は言った。
「イカがこんなにおいしいなんて思わなかった。東京で食べるのとまるで違うわ」
これを食べたら、石川啄木の碑を見に行きましょうよ、私、石川啄木のこと暗くてあんまり好きじゃないけど、あの歌だけは好きだわ。ほら、風車が出てくるあれよ......。

「根岸に江戸料理のお店があるんですが、いっぺん行ってみませんか」
という彼の誘いを受けたものの、どちらのスケジュールも合わず、一ヶ月もたった今日になったのだ。
「はっきり言って、江戸料理っていうのは、そんなにおいしいもんじゃありませんよ」
岡田は小声で言う。
「調味料も限られるし、豆腐料理にしても、今ならもっと気のきいたものがあるはずです。だけど、この素朴な感じもちょっといいもんでしょう」

美季子は寛いだ気分で飲み、食べる。たった今も、鳥の刺身とアスパラガスの天ぷらの皿を頬ばったばかりだ。

日曜日の午後、美季子の元にかなり大きな宅配便の荷物が届いた。発泡スチロールを開け、美季子は大きな声をあげた。
「ウソでしょう。信じられない!」
仕事で大分に行った時、地元の人から、
「時季になったら車海老を送りますよ」
と言われていたのだ。相手が女性だったこともあり、会社ではなく自宅の住所を教えておいた。どうせ三、四匹のことだろうと考えていたからだ。ところがオガクズの中でうごめく車海老は、ざっと二十匹はいるだろう。
(中略)
その時ふと岡田のことが頭にうかんだ。ひとり暮らしの彼のために揚げ立ての車海老を食べさせたいと思ったのだ。それは単なるやさしさというよりも“料理好き”という新たな魅力を加えた自分を見せびらかしたかったのかもしれない。ともあれ、オガクズの中で必死に動く海老を見た時、美季子の中で温かな活力が生まれたのは確かだった。
(中略)
そして美季子は車海老の入った発泡スチロールを抱えて永福町に向かった。
十匹の車海老は天ぷらではなく、すべて刺身となり、冷酒と共に食された。フライになったのは次の日のことだ。これは岡田が揚げてくれ、美季子の希望で白ワインの栓を抜いた。

昼間やってくる家政婦と顔を合わすことはなかったが、朝、家を出る前に簡単なメモを置いておく。
「しゃぶしゃぶをするので、白菜と春菊を少し買っておいてください。肉は私が買って帰ります」
そうすると台所にそれがちゃんと置かれている。ままごとというには、とても贅沢で快適な日々を、美季子は存分に楽しむ。

林真理子著『私のこと、好きだった?』より