たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ウニ、トロ、平成の夜明け『その手をにぎりたい』(3)

寿司店でバイトしていたとき、トロのウニのせという鼻血が出そうなにぎりを注文する常連のアメリカ人客がいた。トロやウニが入っていない、売り切れたと言うと(どんな寿司店やねんと思うが、そういう日はたまにあった)この世の終わりのような顔をして嘆かれた。

「覚えていますよ。本木さんは、ウニを美味しそうに食べていた。あそこのウニ、好きなんですよ。海苔を使わずにふんわりと握りで楽しめる......

彼の言葉を聞いているだけで、ここが仕事の場であることを忘れ、口の中がじわりと潤った。夏のウニは一年で一番、粒子が細かく、こってりとしたクリームのように感じられる。そろそろ次の予約を入れなければ。

 

「ああ、美味しい」

よく冷えた黒霧島のロックを一口。青子は小さくため息をつく。

「まずはアワビをいただこうかな」

「はい。肝のソースをつけて召し上がっていただきます」

一ノ瀬さんは身を屈め、アワビの殻に手を伸ばす。

(中略)

「突き出しの冷たい茶碗蒸しでございます」

(中略)

「一ノ瀬さんの手から受け取った。とろりとした緑色の肝ソースが載ったアワビの握りを口に運んだところで、3つ離れた席にいる広瀬の姿に気がついた。

(中略)

「じゃ、ウニを頼みましょうか」

「私も」

一ノ瀬さんの手のひらに載ったぷっくりと膨らんだ、明るい色のウニ。

指でつまんで口に運ぶ。ひんやりしたひとふさ、ひとふさが舌の上でつぶれ、とろけていく。この粒子のきめ細かさといったらどうだろう。濃厚な香りとこってりとした旨みが、ぴんと立ったほの温かい舎利にからみつく。喉を通り過ぎた後も、舌の上にいつまでもふくよかな甘味が残る。こんなに豊かな気持ちになれるなら、少しも高いとは思えない。(中略)

「ここのウニ、好きなんです。下手な店だと、ミョウバンの苦味が残っちゃうでしょう」

「ミョウバン?」

広瀬の目配せを受けて、一ノ瀬さんが控えめに口を挟んだ。

「ウニはとても繊細で、殻から出すとすぐに型崩れしてしまうんです。それを防ぐためにミョウバンにつけます。しかし、それには技術が必要で、ミョウバンの量やつける時間が正しくないと、広瀬様のおっしゃるように苦くなってしまうんです。うちは北海道の信頼できる業者からエゾバフンウニを購入しています。昆布を食べて育っているウニですから、味に甘みと深みがございますでしょう」

「ここのウニはさらに塩水に軽くつけてあるからね。醤油をつける手間がはぶけるし、ウニ本来の味が邪魔されなくていい」

(中略)

「僕はシュノーケリングが趣味でね、よく古宇利島にいくんですよ。とれたてのウニを自分でこじあけて海水で洗って食べるのが好きなんです。こちらのウニはその時のクリアな味わいを思い出させてくれるんです」

(中略)

「わあ、それ食べてみたい」

喉が鳴り、ついついそう口にしてしまう。

(中略)

「ウニ、もう一つお願いしていいですか」

一ノ瀬さんはかすかに顎を引くと、付け場から客に向かって傾斜を描いている白木を横にずらし、箱入りのウニを取り出した。濡れた赤い手の中で、輝く舎利が見る見るうちに、かたちを成していく。

分厚く大きな手のひらから、青子は橙色が鮮やかな宝石をそっと受け取る。口に運ぶと、彼と二人きりの夏の海が、舌の上にゆっくりと広がっていった。

 

マンションの手前で降り、コンビニでスパゲティと卵と粉チーズを買う。生クリームを使わない本場のカルボナーラを作るつもりでいた。この間、広瀬のマンションで彼に作ってもらったレシピだった。

 

「お待たせいたしました。お燗と自家製の塩辛です」

里子が徳利とお猪口、小鉢をさっと並べた。

(中略)

塩辛は上に散らした柚子の皮のおかげで、ふくよかな味わいだ。酒が進みすぎないよう注意を払いながら、店内にゆっくりと視線を移す。

 

「いい秋鯖が入ってるんですよ。本木様のお気に召すと思います」

彼の手の中にちょこんと現れた鯖の握りに、青子はうきうきと手を伸ばす。

銀色の皮は誘うような深い輝きを放っていた。身はほんのりと赤く染まっている。塩気、酸味、じんわりとしみ出す脂。ともに申し分ない。なにより、口にふくむなりほどける、舎利のふんわりとした広がりが何百回味わっても飽きることがない。

「青魚をこんなに好きになるなんて思わなかったなあ。脂にやられて、すぐ気持ちが悪くなって......

「失礼ですが、脂がのり過ぎた鯖さとそういうことはよく起こります。『粉鯖』と呼ばれる類いのものですね。鯖は一年中食べられるものですから、水揚げの場所と時期をよくよく見極めるのが大切なんです」

「おかげで鯖が好きになれました。私の初めてはみんなこのお店です」

鯖の脂でしっとりと濡れた唇を人差し指で触れる。

 

「トロください」

一ノ瀬さんの表情にはっきりと困惑が見えた。そう、鮨職人の一番嫌がる注文方法だった。いきなりこってりとしたネタから頼むやり方を、かつて青子は軽蔑していたものだ。淡白な白身や貝からスタートし、上り詰めるように味わいの濃厚な魚へと向かう手順を、すべてすっ飛ばしてしまおう。

(中略)

彼の手に鮪の頭があった。厳かな調子で彼は言った。

「カマトロを召し上がっていただきます。青森の三厩でとれた上等な鮪です」

青子は思わず喉を鳴らす。大トロのさらに上をいく、鮪の頭からごく少量とれる最上級の霜降り部分。彼の手の中で薄く切り取られる赤みはレースのようにサシが入っていて、上質な牛肉にしか見えない。おそらく今夜、日本でこのカマトロを口にする人間は十人といないだろう。一ノ瀬さんは舎利をさっとつかみとる。カマトロと一緒に素早く握ると、煮きり醤油を一塗りした。彼の手の上に、白い線をいくつも走らせる赤い握りが現れた。青子はそこから目を逸らさずに手を伸ばし、口に運ぶ。

脂に負けないよう山葵はかなり強い。カマトロは舌の熱で、流れ星のような早さでさっと溶けた。ふくよかなコクと海の甘い香り、とろりと脂のからんだ飯粒だけがわずかに舌に残った。そのはかなさに、青子は泣きそうになる。始まったと思ったら、もう終わり。

(中略)

「山葵、強すぎましたか?」

彼の心配そうな顔が滲んでよく見えない。もう取り繕う余裕は残っていなかった。

「いいえ、こんなに美味しいとなんだか悲しくなっちゃって。美味しいものほど、あっという間に終わっちゃうから」

(中略)

「次は中トロを召し上がっていただきます」

有無を言わさない口調でそう言うと、彼はしばらくして手のひらを差し出した。(中略)彼の手の中で、明るい紅色の握りがきらきらと輝いている。

(中略)

中トロはとろけるようだったが、カマトロより大分長く口の中に残った。鮪の旨みと香りが堪能でき、先ほどの悲しみが消えていく。

青子の注文をまったく聞かず、一ノ瀬さんが矢継ぎ早に差し出したのはヅケだった。

攻撃的な気持ちはとっくに失せていた。懐かしい味がする。最初にこの店で味わったのはヅケだった。あの頃の自分は社会のことも食べ物のことも男のことも、何も知らなかった。鮪のさくりと切れる感覚、芯まで醤油が染みこんだ旨さに青子は思わず微笑んだ。

「私、やっぱり、トロよりヅケの方が好きかもしれない。より長く味わえるから。あまりにも口溶けが早いと、淋しくなっちゃうんです。烏賊とか貝とか、そういうのから始めないと、やっぱり落ち着かないものですね」

「そうですね......。今日はこってりしたネタから始めましたから、徐々に淡白なネタにしていきましょうか」

「じゃあ、おまかせで」

自分が生き返っていくのがわかった。トロ、中トロ、ヅケ、鰤、鯛、烏賊......。食べ進めるうちに、次第にかつての気持ちが蘇ってくる。食べることが純粋に楽しくて、一ノ瀬さんの手元を見つめるのに夢中だったあの頃の。

 

一ノ瀬さんが出してくれた玉露が喉をすべり、熱さと苦みを指先にまで行き渡らせる。人が淹れてくれたお茶というのは、改めてとても美味しいものだと思った。正月は父と姉にお茶を淹れてあげようと決めた。

年が明けてすぐの18日、平成がやってきた。

柚木麻子『その手をにぎりたい』より