たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『肩ごしの恋人』のパスタ

たぶん10年ぶりの再読。最後に女性が男性ゲイに夢中になるところだけ記憶していた。
当時もいやそれナイから、と思ったんだろうな。
『メゾン・ド・ヒミコ』をゲイ友人たちが口を揃えて「あれ絶対ナイから」と言っていた時期に読んだのかもしれない。

直木賞受賞作だが、残念ながらすでに時の試練に耐えてない。
未成年への性加害を犯罪だと思っていないのが何より無理。

食事の描写はやや林真理子みがあるかも。

メゾン・ド・ヒミコ

メゾン・ド・ヒミコ

  • オダギリジョー
Amazon

萌はオードブルの魚介のテリーヌにフォークを突き立てた。
(中略)
ケーキカットが始まった。小さなシュークリームを重ね合わせたクロカンブッシュだ。
(中略)
スピーチが始まった。すでに前の2回をしているので今回は勘弁してもらい、萌はゆっくり食事を楽しんでいた。さすがに魚介類が自慢のレストランだけあって、鮑がとろけそうに柔らかくておいしい。
(中略)
料理がちょうど肉に変わったところだった。魚もいいけれどやっぱり肉、という貧乏性のところがある日本人には欠かせないメニューだ。フィレステーキにきれいな色の赤ワインソースがかかっている。

「カレーパンのこと覚えてる?」
唐突に萌が言った。
「え?」
「中学の時、私、すごく好きだった。そうしたら、るり子もはまって、毎日カレーパンばっかり食べ始めたじゃない。
いつも制服のブラウスに黄色いシミが飛んでるの。時々、食べてないのに私のブラウスにもついてた。迷惑したわ。指は油でぎとぎとだし、吐く息はカレー臭いし、それでも3ヵ月間、あんたは毎日食べ続けた。見てる方が気持ち悪くなった」
「それでどうしたの?」
「そしてピタッとやめたの。やめたら見向きもしなくなった。で、その次はプッチンプリンを3ヵ月、毎日食べた。その次は都こんぶを3ヵ月」
「だから?」
「そのどれも私の好物だったのに、今は3つとも食べられない」

「と、いうわけで結局、しちゃったの」
と言うと、萌はバジリコのパスタをフォークに絡めて口の中に押し込んだ。

「この海鮮サラダ、おいしいね」
それを受けて、るり子が瞬く間に表情を変え、得意そうにほほ笑んだ。
「そうでしょう。この店のイチオシなの。こんなにウニとかイクラとかたっぷり使ったサラダってなかなかないのよね。たいていが、イカとかタコとか安そうな材料で誤魔化されちゃう。この店に来た時、絶対にこのサラダだけははずさないの。あ、今日は特別に海老抜きだけど」
るり子はもう萌とやりあったことなど忘れたように、サラダの蘊蓄を述べた。
(中略)
それから3人で牛の脳味噌を食べた。これもるり子のお薦め料理だ。白くて柔らかくて、ねっとした舌触りで、クセはない。想像したよりずっと美味だ。
ウニとかイクラもそうだが、生きものの内臓というのはひどくグロテスクで猥雑な食べ物だ。その上美味ときている。

「私はね、うーんと、そうだなぁ、揚出豆腐にきんぴらと銀鱈の塩焼き。あ、空豆ある?」
「ありますよ」
「じゃ、それも。茹で過ぎないでね」
それからメニューを崇に手渡した。
「君も食べたいもの、好きに言うといいわ」
崇は鶏の唐揚げとクリームコロッケとサイコロステーキを注文した。いかにもファーストフードで育った世代だなと思う。とは言っても、自分も崇ぐらいの年の頃は、誰が何と言ってもマックのフライドポテトだった。
(中略)
料理が運ばれてきた。熱々の揚出豆腐で舌が火傷しそうになる。同じように、アチアチ言いながら、崇も鶏の唐揚げを食べている。
(中略)
「冷酒、天狗舞、2合でね」
梅ハイを崇は気持ちよさそうに飲み、サイコロステーキをまとめて3個、口の中に放り込んだ。

夕食はすき焼きにした。その材料の買出しにマーケットに一緒に行こうと崇を誘ったのは、もちろんるり子だ。
(中略)
るり子に言われる通り、牛肉や白滝をカゴの中に放り込みながら、昨夜、萌の会社のバイトで知り合って、一緒に飲みにいき、電車がなくなったので泊めてもらった、と崇は言った。
(中略)
すき焼きの間中、萌はビールばかり飲んでいた。るり子はかいがいしく肉や豆腐を崇の器に取ってやった。

何を食べたい?
と聞かれた時、もちろん「吉兆のウニと鮑のゼリー寄せ」と答えることもある。けれど「吉野家の牛丼」と言うこともある。

「朝ご飯、食べるでしょう」
「うん」
キッチンに入って用意を始める。トーストにオムレツ、サラダ、そしてコーヒー。どこかのホテルのセット朝食のようなものだ。それらをトレイに乗せて居間に戻った。

「そうだけど、死ぬまで働き蟻っていうのは、あんまりだわ」
言いながら、ぷるんとした包子を口に運ぶ。口の中で熱々のスープが広がり、火傷しそうになる。

るり子はウェイターに、マーブルシフォンのケーキと、ミルクティーをオーダーした。
(中略)
せめて、久しぶりに食べるシフォンケーキを楽しもうと、るり子は運ばれてきたそれにフォークを伸ばした。
(中略)
やっぱりおいしい。ここのシフォンケーキは天下一品だ。
(中略)
エリがコーヒーを飲み干した。
「さてと、言いたいことは言ったし、ケーキも食べたし、帰ります。ここ、ごちそうになっていいですよね。指定したの、そっちだし」
「いいわよ」

「私も、おなかすいちゃったわ」
ふたりは、冷蔵庫や棚の扉を片っ端から開けている。
戸棚の中にカップ焼きそばと食パンを見つけたらしく、ふたりは湯を沸かすやら、トースターにセットするやら、楽しそうに騒いでいる。
「萌、コーヒー、飲む?」
「うん」
「じゃあ、入れてあげる」
萌はようやくソファから起き上がった。
テーブルを3人で囲んで、顔を合わせた。焼きそばを食べながら崇は満足そうにげっぷをした。

だからもちろん、朝食は崇が作った。昼食はコンビニに買い出しに出掛けた。夕食は焼肉を食べることになった。駅前でるり子の、いや、信之のキャッシュカードでお金を下ろした。久しぶりのカルビと石焼きビビンバは、ものすごくおいしかった。

「そこ、昼飯、出る?」
文ちゃんがにっこりと笑った。
「もちろん。チャーシューが最高においしいの」
「やる」
崇は言った。

部屋に戻ると、萌と崇がコーヒーを飲んでいた。もちろん、崇がいれたコーヒーだ。
「私も飲みたい、ミルクのいっぱい入ったの」
労働提供係になった崇が、しぶしぶキッチンに立つ。

お腹もちょっと空いてきた。おいしいパスタが食べたい。それもこってえりしたチーズクリームソースの。
ふと、信之とランチしようかと思い立った。
(中略)
結婚前、何度かそうやって信之の会社の近くでランチデートをした。さすがに会社の人に見られるのはまずいからと、ちょっと離れた場所にあるイタリアンレストランを利用した。店の造りも洒落ていて、ディナーは高いが、ランチタイムは驚くほど安い。その店のチーズクリームソースのパスタが抜群においしかった。
あれが食べたい。そう思ったら、我慢できなくなった。
(中略)
「今日の夕食は何?」
「パスタだよ」
るり子は思わず振り向いた。
「まさか、チーズクリームソースじゃないでしょうね」
「当たり。むちゃくちゃこってりのゴルゴンゾーラ」
(中略)
「先に食べちゃおうよ。私、おなかすいた」
結局、昼ご飯は食べるタイミングを逃していた。崇が時計に目を向けた。
「もう少し待とうよ。パスタ、2回に分けて茹でるの面倒だしさ」
「だったら私、ワイン飲んじゃうからね」
るり子は冷蔵庫から、ボトルを持ってきた。よく冷えた白だ。

いつも感嘆するのは、店の選び方だ。決して高級な店ではないのだが、洒落ていて、落ち着いていて、何よりおいしい。寛げるティールームや、古びた洋食屋や、住宅街にひっそりとある中華屋や、清潔な寿司屋や、外国人がいっぱいの怪しい焼肉屋やら、有機野菜のお惣菜が自慢の居酒屋やら、ソースが信じられないくらいおいしいイタリアンやら、老夫婦がやっているビストロやら、といった具合に、肩肘はらず楽しめる店を探し出してくる天才だった。

柿崎は、天せいろを、萌はとろろ蕎麦を注文した。運ばれてくる間に、熱燗と卵焼きと鴨肉の燻製も頼んだ。最近、萌は熱燗が好きになった。冷たいのも悪くはないが、身体にしみてゆくような酔い心地はやはり熱燗ならではだと思う。
(中略)
蕎麦が運ばれてきた。かつおだしの匂いがふわりと鼻をつく。

「じゃあ、私もここで一緒に食べるわ。マックでも買ってくる?」
「うん、そうして」
「スープもつけるわよね」

ふたりはファミリーレストランに入り、本日のランチを注文した。メインのポークピカタは、結構、柔らかくておいしい。
「話があるって言ってなかった?」
尋ねると、るり子がカップスープを口に運びながら、あっさりと言った。
「私、別れることにしたから」

オープンカフェで、舌がやけそうな熱いカプチーノを飲んだ。けれどももちろん、そんなことで腹立たしさが収まるわけではなかった。

「何か飲む?」
「じゃあミルクティ。温かいのがいいな」
「そんなのあるわけないじゃない、ビールにしときなさい」

仕事を終えて家に帰ると、ご飯を作る元気はなく、それは崇も同じで、仕方なく崇と一緒に出て来た。
「柿崎さんのこと、どうするの?」
隣で崇が“大盛り汁だく生玉子つき”の牛丼をかきこみながら尋ねた。
(中略)
「すみません、味噌汁おかわり」
萌はその崇の食欲につい見惚れてしまう。
胃腸は丈夫な方で、学生の頃はラーメン炒飯セットなんてものも平気で食べていた。それがいつのまにか、ラーメンのスープを半分も飲めなくなった。ちょっと油の強い炒飯だと、後で気持ち悪くなってしまう時もある。
(中略)
萌は牛丼を口に運んだ。冷めると、あまりおいしくない。味噌汁で喉に流し込んだ。

部屋に帰ると、崇はすでに戻っていて、夕飯を作っていた。
「おかえり、今夜はビーフストロガノフだよ。それにハーブサラダ」
呑気にキッチンから声を掛けてくる。
「僕、最近思うんだ。これなら主夫として十分生きてゆけるって」

テーブルの上には、お好み焼きの用意がされてある。ホットプレートと溶いた粉と刻んだ野菜と豚バラ肉。るり子はいない。今夜もリョウに会いに文ちゃんの店に行っている。
「それより、食べようよ」

「崇くんの作ってくれたご飯、おいしかった。パスタなんか最高だった。それももう、食べられないんだ」

唯川恵著『肩ごしの恋人』