たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

SAグルメと大人の天ぷら『どうしても生きてる』

今すごく食べたいもの。ミョウガの天ぷら。明石SAで売られている諸々。

「うわ」
フードメニュー越しに、母がまた声を漏らした。いつのまにか、テーブルにはビールの入ったグラスが2つ、置かれている。
「一番高い肉、4千円もするん? 月謝と変わらんやん」
「月謝?」
申し訳程度に乾杯をして、私はビールを一口飲む。苦味のある炭酸の塊が、それまで閉じていた器官をぐいぐい押し拡げるように進んでいく感覚は、入り口が小さなちくわにキュウリを差し込むときに似ているような気がする。
前の夫がよく台所で作っていた、シンプルだけどおいしいつまみ。
(中略)
前菜の盛り合わせと、パスタとピザをそれぞれ頼む。母は結局、メインは肉ではなく魚を選んだ。1杯目のビールがそろそろなくなりそうなので、次は白ワインかな、とぼんやり考える。
(中略)
「おいしい」
夏野菜がふんだんに使われた前菜を口に運びながら、母が言う。「お待たせいたしました」若い店員が、無駄のない動きでパスタをテーブルに置く。底の浅い皿に入っている。決して満腹にはならない量の炭水化物。それで1,200円。

私は、6つに切り分けられているマルゲリータを一切れずつ取り皿に移しながら、「別に元気だよ」といつも通り答えてみる。

生姜焼き定食を2つ頼み、御冷に口をつける。この定食屋にはテレビがあるので、気心の知れた関係だからこそ生まれる沈黙も、なんとなくごまかされる。
(中略)
そして、いつの間にか半分以上食べ終わっていたらしい生姜焼きに手をつけながら、また、テレビ画面を見上げて言った。
「ていうか私、あの司会者めっちゃ嫌いなんだよね」
私は、自分の分の生姜焼き定食の盆を、ず、と鳩尾に引き寄せる。味噌汁も豚肉も白飯も、どれもすっかり冷めてしまっている。

湯葉が好きなその人のために、会社からアクセスのいいところにある、生湯葉のしゃぶしゃぶがおいしい店を探し出し、ずいぶん前に予約していた。
(中略)
自分も生湯葉のしゃぶしゃぶを食べてみたかったけれど、鍋がある場所からは遠かったので諦めた。
長いテーブルの端、向かいには、佳恵が座っていた。牛肉を使ったお寿司や鮪カマトロの生姜煮などはテーブルの真ん中に集まっており、依里子と佳恵の間には余った唐揚げやフライドポテトが流れ着いていた。
佳恵は芋焼酎のお湯割りを飲んでいた。依里子はその日初めて、佳恵が酒に強いことを知った。
「油ものばかりですね」
私たちの目の前、と話すと、佳恵は少し赤くなった顔で依里子の名を呼んだ。

「お待たせしました」
ごと、と、まるでレンガでも置くような音を立ててどんぶりが現れる。卵も、チャーシューも、もやしもキャベツもホウレンソウも、コーンも海苔もねぎも、何もかもが山盛りだ。立ち上る白い湯気が、オーロラのように輝いて見える。

味噌汁をお玉ですくい、ご飯をよそう。

お弁当のおかずも兼ねて作ったほうれん草とベーコンのバター炒めを口に入れたとき、由布子はふと、最も忘れそうなものに思い当たった。
(中略)
お弁当の蓋を開ける。白だしと砂糖を入れて作った甘めの卵焼き、ほうれん草とベーコンのバター炒め、ウィンナー、冷凍食品の揚げシューマイが2つ、プチトマト3つ、のりたまふりかけのかかったご飯。
(中略)
由布子はまず、プチトマトのヘタをつまむ。常温のプチトマトは、表面に裂け目が入っており、熟れた果実のようにやわらかい。

ミョウガ、インゲン、ナス、大葉。由布子は久しぶりに、心の動くままに商品を手に取り、踊るようにスーパーの中を練り歩いた。子どもが嫌いだから長い間食卓に並ぶことはなかったけれど、義久はミョウガの天ぷらが大好物なのだ。せっかくだから、そのほかの、子どもたちには不人気だかえれど自分も義久も好きなものをたくさん揚げよう。エビや豚肉、サツマイモなど、里奈と貴之が主に消費するような材料には手を伸ばさず、財布の中身と相談をしながら、由布子は買い物かごを満たしていく。金曜日、どうせ義久の帰りは遅いのだから、準備する時間はたっぷりある。普段は子どもと義久の帰宅時間が大きくズレることが多いので、そもそも天ぷら自体、かなり久しぶりだ。
いつもならば選ばない、少し高いビールを手に取る。

いつかのもらいのものである蕪の千枚漬けをつまみにしながら、<わかった。今日は天ぷらにするから(久しぶりにミョウガをたくさん買いました)、帰ってくるまで待ってるね。一緒に食べよう>と、義久に返事を送る。

由布子はビールをちびちび飲みながら、キッチンに立った。小麦粉と片栗粉を用意し、ボウルの中で簡単に合わせておく。ミョウガは縦に3等分に切っておき、ナス、インゲン、大葉もそれぞれすぐに衣にくぐらせられるような状態にしておく。トマトを切って冷やしておき、炊飯器のスイッチを押し、味噌汁を準備し、あとは材料を揚げるだけ、という段階まで整えたとき、ラインにメッセージが届いた。

今日、天ぷらにしてよかった。具材を衣にくぐらせながら、由布子は思う。
静かな家の中でも、何かを揚げていれば、賑やかな音が生まれてくれる。
「いただきます」
少し多いかな、なんて言いながら、由布子は山盛りの天ぷらたちに箸を伸ばす。ちょうどいい温度で、ほどよくカリッと揚げることができた。量は多いけれど、白ご飯を控えれば、意外とぺろりといけてしまうかもしれない。
何にせよ、風が吹いているので、早く食べないと冷めてしまう。
(中略)
ナスの天ぷらを天つゆに浸しながら、由布子は会話の種を植える。
「今日もまた新人さんに怒鳴っててね、もう困っちゃうよ。またすぐ辞めたらどうするつもりなんだろう、あの人」
義久の指は、缶ビールのプルトップにかかったまま、動かない。
(中略)
しゃく、と噛み砕くと、口から華へミョウガの独特な風味が抜けていく。うん、上手にできた。

今の部署に義久が異動してから、今日みたいに、お弁当を1つ多く作ってしまったことがある。そのお弁当は、プチトマトが1つと、ご飯が一口、卵焼きがひとかけら減った状態で返ってきた。これなら、全く手つかずの状態で返ってきたほうがよかった。昼食を摂る時間がなかったのだと納得できたほうがよかった。

「あ、あれ作ったでしょ、チャプチェ」
カバンをダイニングテーブルに置きながら、美嘉がくんくんと花を鳴らす。最近ハマっているチャプチェは、買ってきた韓国春雨を茹でて炒めたカット野菜と和えるだけなので簡単だ。ソースの匂いがキッチンに残りやすいのが難点だが。

「うーん」吉川は少し悩むと、炙り明太子を一つ口に入れて、言った。「独身のときは、ふらっと遠出するのが好きだったな」

美嘉は朝ご飯を必ず食べる。特に今日みたいに休日返上で動き回る日は、心を盛り上げるために普段なら控えるような甘いものを食べてもいいことにしているらしい。
ついでに作ってくれたのだろうか、良大のフレンチトーストがテーブルの上に置かれていた。

施設の外に連なる屋台から漂う匂いがトドメとなり、良大の腹も遂に鳴った。実は空腹だったらしい。醤油とバターと油と、とにかく絶対においしいものたちが組み合わさった匂いの誘惑を振り切り、施設内のフードコートへと向かう。
「サービスエリアのご飯って何でこんな全部おいしそうに見えるんだろ」
「な。迷うわー」
水を入れたグラスで席を確保すると、美術館でも巡るように2人でフードコートを1周した。ラーメン、カレー、お好み焼き、たこ焼き、かつ丼、ハンバーガー、期待しているところにど真ん中ストレートを投げてくれるだろう豪腕なメニューの数々に、どうしたってテンションは上がる。
(中略)
まだ11時を回ったぐらいだからか、店内はそこまで混んでおらず、料理もすぐに揃った。良大が選んだカツカレーと、ありなが頼んだ月見うどん。
「いただきます」手を合わせると、唾液がじわりと口内を満たす。
「うめえ」
一口食べて、思わず声が漏れる。脳内の篩の網目は、もうほとんどないも同然だ。
「ちょっと、ザックの、一口ちょうだい」
ありなが割り箸で、ちゃっかりカツを一切れ持って行こうとする。その貪欲さが気持ちいい。
「あ、思ったより衣がちゃんとサクサク。おいしい」
だよな、と、良大は良大で月見うどんに手を伸ばす。小さなテーブルを1つ挟んだ目の前で、ありなが「おあげはダメだからねー」と笑っている。

「お待たせ」
ソフトクリームを片手に戻ってきたありなが、二重顎を揺らして笑っている。建物に入る前から、外で売っている紫いもソフトに目をつけていたらしい。ありなにソフトクリーム、という組み合わせがあまりにもしっくりきすぎていて、良大は駐車場を歩きながら、一見すると変人だと思われるくらいにゲラゲラ笑ってしまう。
だけど、それで別にいいのだ。ここなら、この人となら。
「甘! 超おいしいこれ」
ありなは、一歩進むごとに何の篩にも掛けられていない言葉をぼたぼたと落とす。「いもの味すごっ」一口もらった良大も同じようなものだ。

あるとき、父が、スーパーで弁当を3つ買って帰ってきた日があった。きっとそれまでも何度かそうしてくれていたのだろうが、久しぶりに父と兄とダイニングテーブルで顔を合わせたということもあり、みのりはそのとき、お母さんがいなくなってから初めてのご飯だ、と思った。
弁当はすべて同じものだった。色んなおかずが入っているやつが3つ。みのりはコロッケを一口齧った。冷たくてべちゃべちゃしていて不味かった。
温めよう。
そう思った自分に、みのりはとても驚いた。母がいなくなってから初めて、食べるものを美味しくしよう、という意識が働いた瞬間だった。母は仕事が長引いて時間がないとき、ご飯と味噌汁は家で準備しておき、スーパーでコロッケなどの総菜を買ってきてくれることがあった。そのたび、「ちょっと温めるから待ってて」とおあずけを食らう時間が、みのりは好きだった。その時間で、コロッケは必ず美味しくなって戻ってくる。あつあつで、衣はカリカリで、まるで作りたて、揚げたてのようになって戻ってくるのだ。
弁当を持って立ち上がると、よりよい味わいを獲得するために動き出した身体を支えるふくらはぎや太ももの筋肉が、豊かに伸縮した気がした。
(中略)
湯気を立ち昇らせた弁当をテーブルに持ち帰り、箸を握る。そのとき確かに、みのりの腹がぐうと鳴った。弁当の容器の温かい感触、さっきよりも濃厚な総菜たちの匂いに、涎がじんわりと誘われた。みのりは、身体中の機能がひとつずつ復活し始めたような気がした。
コロッケを一口、齧る。
確かに、温かかった。
だけど、べちゃべちゃして不味いことには変わらなかった。

フライパンに、ラップに包んであった豚肉を放った。解凍時間が少し足りなかったかもしれない、肉にくっついてしまっているラップを離れさせるため、ラップの先端を摘まんだまま、少し振った。

みのりは思い出す。コロッケは、電子レンジではなくその下の棚にあるオーブントースターで温め直せばカリカリと美味しくなることに気づいた日のことを。
料理のレパートリーはすぐに増えていった。今となっては、自炊ができることがとてもありがたい。

朝井リョウ著『どうしても生きてる』より