たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

竹の子ご飯 山本文緒『紙婚式』

竹の子ご飯と茄子の漬物。いーなーいーなー。

「おはよう。食欲ある?」
エプロン姿の妻が私を振り返って微笑んだ。ギンガムチェックのテーブルクロスに温かいパンの皿、一輪挿しのガーベラ。幸福を感じていいはずの風景なのに、私は不吉な空気を感じた。妻は明るく聞いてくる。
「コーンスープ作ったの。飲むでしょう」

僕は窓際の席に腰を下ろして、モーニングセットを頼んだ。他にも何人かのサラリーマンがモーニングセットを食べていた。
妻が作ってくれた朝食とコーヒーの方が百倍もおいしいのは分かっている。けれど僕はそのぱさついたパンと茹で卵を食べると、やっと少しなごむことができた。
ぼんやりとコーヒーを啜りながら、今頃妻は何をしているのだろうかと思った。

そうして夫は私がしくしく泣いている間に風呂場を掃除して、キッチンの大鍋に熱湯を沸かし、知床ちゃんを放り込んだ。
風呂に入ってビールを飲み、知床ちゃんを食べた夫はすっかり機嫌を直し、私にも食べろと勧めたけれど、どうして私に食べられるだろうか。と思いつつ、私も足を1本食べた。けれど、それはあまりおいしくなかった。そう夫に言うと彼はビールを口に運びながら笑って言った。
「怨念じゃないの」
その晩、私は大きなカニの怪獣に襲われる夢を見てうなされた。

私はキッチンに行き、エプロンを掛け、溜め息をひとつついてから米びつを開けた。今日の献立はデパートで買っておいた冷凍のコロッケとエビフライ。それにほうれん草とベーコンのサラダを作るつもりだ。

夕飯は海のそばのレストランで食べた。私はまったく食欲がなかったけれど、我慢してサラダだけ食べた。

もともと肉や魚はあまり好きではなかったけれど、最近は特にそういうものを口にする気になれなかった。
今や私の食生活は惨憺たるものだ。夫がいない時はだいたいお菓子で済ませてしまう。ポテトチップスやロールケーキやお煎餅が私の主食だ。

その日も私は、虎屋の栗蒸し羊羹を食べながら午後の連続ドラマなど眺めていた。

友人が何人か遊びに来るというので、兄といずみさんは2人で仲良く手作り餃子をこしらえている。キッチンでお揃いのエプロンをして楽しそうに働く彼らを、私はテレビを見るふりをして眺めていた。

「お帰りなさい。お夕飯は?」
「あー、えーと、まだだけど」
「デパートで北海道の名産店やっててね、いくら丼買って来たから」
(中略)
笑いながら俺はお茶を淹れ、テーブルの上にあったいくら丼を食べ始めた。それでもこみ上げてくる笑いが収まらない。

「あっ、竹の子ご飯だ」
その夜、仕事から帰って食卓につくと、大好物の竹の子ご飯が待っていて私は歓声を上げた。
「嬉しい。そろそろ食べたいと思ってたんだ」
「茜は昔から好きだものね」
母は誇らしげに微笑んでエプロンを解いた。私と母はダイニングテーブルに向かい合って座り「いただきます」と声を合わせてから箸を持つ。
新竹の子と貝柱を炊き込んで作る母のそれは絶品で、おかずのかぼちゃのコロッケも白菜の漬物も手作りだ。
(中略)
「秀二さんの分は取ってあるから、遠慮しないでおかわりしていいわよ」
ふと気がついたように母が言う。夢見心地でご飯を頬張っていた私は、いつも聞いているその台詞にしらけて肩をすくめた。

通りかかった店のおばさんに冷酒と天ぷらを頼み、隣の席の親父が広げていたスポーツ新聞を覗き読みし、爪の甘皮を引っかいたりして待っていたが、彼女はずっと黙ったままだった。

彼は無理が感じられるほど明るく笑い、生姜焼きの最後の一切れを口に入れた。

彼女が好きだった茸の天ぷらをつまんでビールを飲み、僕は色々なケースについて考えた。

「光子。寿司買って来た、寿司」
夫が明るい声と共に、廊下をばたばたと歩いて来る音がした。
「お帰りなさい」
「ただいま。築地で寿司買って来たんだ。食おうよ」

私は冷蔵庫の中身を調べつつ、タッパーに作った小さなぬか床を取り出した。本格的な漬物はできないが、実家からぬかを分けてもらってこうしてささやかに野菜を漬けたりしている。夫に知られたらまた鼻で笑われそうで、冷蔵庫の奥の方にしまってあるのだ。
保存容器を開けてこの前漬けた茄子を出してみた。ちょっと切って口に入れてみるといい具合に漬かっていて、我ながらおいしくできたと思った。
(中略)
私はとりあえず残っていたご飯でおじやを作り、自分が持ってきた茄子も添えて母親のところに持って行った。
「光子さんは器用なのね。こんなものをぱっと作れるなんて」
ソファに腰掛け、遠慮がちに私の作ったおじやを口に運びながら彼女は言った。
「そんな。適当ですよ」
「おいしいわ。どうもありがとう。足もだいぶ楽になったし本当に助かりました」
勝手に探して勝手に淹れたお茶を差し出しながら私は頭を掻いた。
(中略)
「光子、自分で漬物作ってるんだって?」
唐突に話がそこへ来て、私は首を傾げた。
「突然なあに?」
「どうして僕には出さないんだよ」
「だって、そういう所帯じみたこと、あなたは嫌いだと思ってたから」
「お袋が、茄子の漬物がすごくおいしかったって言ってたぞ」
私は夫の、泣いた後でまだ赤くなっている両目を見た。

やって来たウェイトレスに私はうどんセットを、夫はメニューも見ずに鰺のたたきセットを注文した。

山本文緒著『紙婚式』より