たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ラ・ボエーム!『イヤシノウタ』

氏が次々に出している小説以外の本を見ていて、いろんなスピリチュアリストにがっぷりはまっていて節操ないなーと思っていた。「宇宙マッサージ」とか「引き寄せ」のヒトを手放しで絶賛しているのに白けていた。数のわりに特に印象に残っているものもない(言うてもそれだけ何冊も読んでいるのだ)。
が、たまたま時間つぶしで寄った図書館の日本語書架で見つけたこの本は生活にもとづくスピリチュアルな気付きにあふれ、とてもよかった。「インフルエンサー」の固有名詞が出てこないのが後の対談本とは違う。出半分までしか読めなかったので帰ってから電書を買った。奇跡の出会い。
ちなみに巻末収録の父娘対談に出てくる吉本隆明の発言は6割くらい同意できなかった。社会予想も外れてたし。

ところでこれ ↓ 私もいつも思っていることなのだが、悪の権化みたいなハイプロファイルな人々が意外と早死にしないのは不思議だ。プXチンとか、マXクとか、トラXプとか、ネタXヤフとか、目に見えない呪いだけでなくSNSの誹謗中傷を一身に受けて相当なストレスだろうに、あのレベルの人間だとある種のレセプターが機能していないのだろうか。

だれかが自分のことを熱心に憎んでいて、ことあるごとに思い出しては妬みをつのらせていたら、それが届くのは当然のことだ。非科学的でもなんでもないし、被害妄想でもない。そういうセンサーは人間にごく普通に備わっているし、鈍ければボディブローで効いてきて長く続いたら命取りになることもあるだろう。

赤ワインと、こってりしたチーズをちょっとだけつまむのが大好きだ。
酔っぱらわない程度なのが大切だ。チーズもお腹いっぱい食べてはもちろんいけない。
(中略)
全く関係ないけれど、アークヒルズのとなりのANAのホテルの3階のシャンパンバーでは、とんでもない高いシャンパンをグラスで飲めるのですばらしい。昔からそうだった。今でこそそういうお店は増えたが、昔はほんとうに貴重なことだった。
でも私にとっては残念なことに、そこのチーズは5人くらいいてちょうどいいくらい、ごはんに例えるなら丼ものくらいあり、ふたりで行ったらチーズで満腹になる。

仕事が終わるとよくそのオカマのママはカルボナーラの大盛りを食べていた。
スタイルを保つために一日一食しか食べない人だったから、それは大事な食事だ。
彼のお店の近くにあった「ラ・ボエーム」というお店に入ると、彼はいつも生き生きとした声で「カルボ、大盛りで!」と言った。そして大盛りのカルボナーラを、あっというまに、ほとんどしゃべらずにきれいに食べてしまうのだった。
あんなにおいしそうなカルボナーラを、私は一生見ることがないと思う。
あんたも食べなさいよ、と言われて、カルボナーラを頼んだこともあったし、確かに深夜の高カロリーのカルボナーラは禁断のおいしさだったけれど、きっと私は、一日なにも食べずに働いてお客さんとしゃべってへとへとになってお店を上がったときに彼の食べていたあのパスタの、ものすごい深い味わいを一生知ることはない、そんな気がする。

家族でおいしい点心を食べながら、たくさん来たお悔やみメールにこつこつと返事を書いていた。なにかが終わった打ち上げのような変な気持ちだった。

「うまいな、こういううまいコーヒー、久しぶりに飲んだな」
その声は私の家のリビングを染めるように美しく響いた。
私は嬉しかった。
もしかしてカフェをやっている人は、自分のいれたコーヒーをああいうふうに飲んでほしいのではないだろうか。その人の体の中に自分のいれたコーヒーの香りが入っていく速度まで気持ちがいいような、そんな飲み方。今ここで仕事が終わったから熱いコーヒーを飲む。迷いのない速度だった。

やがてちょっとお腹が減って、スープや 海苔 やおせんべいやチーズをつまんだりもする。

バールではバリスタたちがやはり颯爽ともはやエスプレッソマシンの一部になったかのように 完璧 なコーヒーを 淹 れまくっている。みんな長居はしない。さっと飲んで、ぱっと出かけていく。まるで給油するかのようにコーヒーを飲む。甘いパンをかじる。

それから一杯飲みに行った。もう今日はおしまい、生ビール、揚げたてのウニコロッケ。焼きおにぎり。十時間のプチ断食のあとなので、なにもかもが生まれ変わったみたいにおいしく感じられた。お店の人とちょっとしゃべって、夜道をてくてく帰る。

いったいなにをしていたっけ? と思ったとき、いちばんに思い出したのは、子どもがほしがったのでできたばかりの 流行りのポップコーンの店の行列に並んで、警備のおじさんとおしゃべりして、なんと六千円もポップコーンを買ったことだ。
いろいろな人に配ったりおみやげに持っていったりしながら、しばらくポップコーンばかり食べていた。
まだ生前のとても小さいうちに住んでいて、置くところがないから階段にポップコーンを置いていた。
そのポップコーンがなぜだか異様に重くて、必死で人ごみの中かついで歩いた。  そしてその足でネパールカレーの店に行き、家族でカレーを食べた。
(中略)
台湾のプール際をぺたぺたと歩いたことも、食堂で透明な柑橘のゼリーを鍋から山盛り食べたことも。そして重いポップコーンをかついで子どもと手をつないで歩いたことも。

朝起きて自分の家の庭に 生っているトマトを取ってきて、よく洗って、きらきらした水滴がついているたくさんのトマトを見ながら、好きな音楽をかけて、自分でドレッシングを作る。そしてよく切れる包丁でトマトを切って、バジルを和えて、サラダにしてドレッシングをかけて食べる。
その時間の流れみたいなもの。

コールドプレスのジューサーは家族の健康のために買ったので、私自身はふつうのミキサーでつぶしたドロドロの野菜でもいっこうにかまわない派。
だけど、きゅうりやブロッコリーを入れたときに出てくるほんとうに美しい薄緑の透明な雫の一滴を見たら、あの中につまっている野菜の精を感じたら、野菜に対する恋心がいっそうに狂おしく募るばかりになった。
世界を良くするためだけに存在しているとしか思えないほどのおいしさと美しさだからだ。

(引用者注:吉本隆明の言)彼の詩をよく読むと、 鯛焼きを買ってくるくだりがあるんですね。きっと、鯛焼きを 懐 に入れて家へ帰ってふかし直して、二人でご飯代わりに食べたりしていたんでしょう。

吉本ばなな著『イヤシノウタ』より