たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

最終回『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(24)

もう20年前だが、ドイツは、ペットボトル大国から出かけていくと、大都市でさえ手軽に買える飲み物が全然売られていなくてちょっと困った。もちろん、わかっていれば対策できることなので、今もエコ先進国であってほしい。

二度とも仕事で、ヴィスバーデン、デュッセルドルフ、ケルンと西ドイツの劇場に出演したのだが、合理的なドイツ人は、外国からきた芸能人に下宿の世話をしてくれ、無駄なお金をつかわせないように取りはからってくれる。(中略)
私がはじめに下宿した家は肉屋さんだった。肉屋さんが家の一室を貸したというのではなく、一階はそうとう大きな肉屋で、二階はアパートふうになっている肉屋兼下宿屋さんだった。
下宿第一日目の朝、太ったマダムが部屋にきて「何をたべるか」ときいているらしい。「卵とパン」と英語でいったが、パンはわかったが卵が通じない。仕方がないから指で丸いかっこうをしたら、「シンケ、シンケ」ときくので、めんどうだから「ヤーヤー」と答えておいたら、ソーセージが出てきた。
それからは毎朝ソーセージで、ことわりたくても、どうせ通じないと思えばめんどうなので、出されるままに朝から大形のソーセージをたべるはめとなった。相手は肉屋なのだから、店のものを喜んでたべるよい下宿人と思っていたことだろう。
店には、生肉のほかに、今日まで見たこともないようないろいろな種類の腸詰が、ところせましとならべてあった。ホットドッグにつかう細いソーセージはフランクフルトといい、ハンブルグふうというのは、長さは同じぐらいで、直径が五センチほどある太いソーセージだ。
このような柔かいソーセージは、中火でゆでて、ゆでたてにからしをつけて食べるのが一番おいしいたべ方で、バタや油でいためてはクドクなり、味もおちる。
(中略)
燻製になっているソーセージにも、いろいろ種類はあったが、サラミのようにかたく燻製にしたものより、半なまの燻製がおいしかった。シュヴァイン・ヴルストの端を切りおとし、サジでソーセージの中をすくい出して、黒パンにすりつけてたべる味は忘れられない。
半なまの燻製だから、みはうすい桃色で、あぶらみの白とまざって霜ふりだ。口あたりもやわらかい。押麦の入った黒パンはボソボソしているから、この柔かいあぶらみの多いソーセージをこってり塗ってたべれば、よくあうのだ。
ビールをのみながらこのオープンサンドをもう一度たべてみたいものだ。
そうそう、それときゅうりの酢づけ。
ピクルスも、小さいきゅうりの甘く漬けたのではなく、大きいきゅうりがあっさりと辛口につけてあり、かじるとガリガリかたい、家庭で作ったピクルスだ。お皿に品よく小口に切って盛ってあるなどというのではなく、一本ゴロッとのってるのを先の方からかじるのだ。
じゃがいも料理もいろいろあるが、よく食卓にのったのは、ゆでさましのじゃがいもをナイフでそぐようにうすく切り、玉ねぎのうす切りといっしょに、たっぷりのラードか油で、表面が狐色になるまでいため、塩コショーをした、フランス式にいえばリヨネーズふうのじゃがいも料理だった。これは中がやわらかく外側はこんがりやけていて、とてもおいしく、毎日たべてもあきなかった。

ドイツ人の一番よくたべるものでは、ザウエル・クラウツ、それにオクセン・シュヴァイン・ズッペというスープだ。
前のはアルザス料理としてパリのレストランのメニューにものっているし、またパリのおかず屋さんにはかならずザウエル・クラウツ用のすっぱいキャベツが売られていた。
(中略)
出来上ったちょっとすっぱい、油でつやの出た、柔かいキャベツの湯気の立っているのに、ソーセージやハムや豚肉のいためたのをのせて、しばらくあたため、皿に大盛りにのせていただくのが、ザウエル・クラウツという料理だ。
オクセン・シュヴァイン・ズッペというスープは、オクステイル(牛のしっぽ)をよく煮出し、ポタージュにしたこげ茶色のドロッとしたスープで、こってりしているが、味が濃いのであまり油っこい感じが残らず、あきのこない家庭的なスープだ。
この他にも、グリンピースを煮て大まかにつぶし、スープでドロドロにのばし、中にソーセージやベーコンのいためたのをのせて出す豆のスープも、非常にドイツ的な料理だ。
豚の胸肉や骨つきの足を煮こんだ料理もドイツ的とおもうが、要するにドイツ料理というものは、しゃれた小いきさは全然ないが、たっぷりした重量感と、田園ふうな味がまた食欲をそそるといえるだろう。

イタリアでは、めん類は前菜として、肉料理や魚料理の前にたべるのだから、大した食欲だ。それも、ほんのちょっとなどというものではなく、大皿に山盛りたっぷりよそったのに、チーズの粉をいっぱいふりかけてたべる。
一般的に一番よくたべられるのはスパゲティで、それもトマトソースやミートソースなどかけず、かためにゆでた白いのに、バタとチーズをまぜあわせてたべる。くるくるっとフォークの先にまきつけて、手ぎわよく、まるでうのみにしているように、ツルリ、ツルリとたべる様子は、日本人がおそばをたべているのによく似ていた。
日本ではうどんを煮たらすぐ食べなくてはのびるというが、イタリアのスパゲティも同じで、ゆで上った熱いところを、すぐ食べなくては、おいしくない。

名古屋のきしめんによく似たのにイタリアのラザーニがある。きしめんは花がつおをふりかけ、うすいだし汁であっさりたべたり、みそで煮こんでたべるが、このラザーニは、チーズ、バタ、トマトソースであえて、こってりしたグラタンにしてたべ、もとは似ていても、たべ方がずいぶん違ってしまう。
コンソメのスープに入れる細いヴェルミセルは、そうめんそのものだから、私はパリにいたころ、日本の方が訪ねてくると、ヴェルミセルで日本的な冷やむぎを作ったものだが、日本のそうめんだと思って食べるひとが多かった。
(中略)
ヨーロッパの諸国では食べないいかやたこもたべるし、スカンビという芝えびの揚げものは天ぷらと変らないし、リゾットというのはごはん料理で、お米もなかなかおいしいのがとれる。しかし、私たちの食欲では及びもつかぬ食欲を持った国民だから、すべてこってりした味だ。

イタリア人の前菜は、必ずしもめん類だけとはいい切れない。やはり、スープの場合もあるし、サラダ的な野菜や、ハムなどの場合もあり、またピツァ・パイの場合もある。
このピツァ・パイは、日本のイタリア料理店でもボツボツ出しているが、アメリカでも、またパリでも、ピツァ・ハウスと名乗り、ピツァを売りものにしているイタリア料理店がある。丸いお盆のようにひらたいパイの上に、トマト、ピーマン、マッシュルームなどの小ぶりに切ったのをのせ、油づけのちょっとすっぱいアンチョビー(ひしこいわしのカンづめ)を飾って、チーズの粉をかぶせるようにたっぷりふりかけて、天火でこんがり焼いたピツァ・パイは、とてもおいしい。
焼きたてを食べなくては駄目で、丸いのを六つか八つ切りにし、チーズがトロッととけてくるのを、たらさないように口でうけ、手づかみでたべる。
スープにももちろん、いろいろな種類はあるが、有名なのは「ミネストローネ」だ。玉ねぎ、人参、セロリの小さく切ったのに、いんげん豆などを入れて、ごとごと煮こんだ、ちょっとにごったスープだ。これにたっぷりのチーズ粉をふってたべると、そうとう胃にこたえるから、これも私たちにとっては、夜食むきであって、前菜としては荷が重い。
パリの劇場やナイトクラブで働いていたころは、夜食として、よく近所のレストランにこのミネストローネを食べに行ったものだった。
さて、私たちは、このスープなり、スパゲティまたはラザーニのようなめん類をたべたらもうお腹はいっぱいになり、後がつづかない。大皿のスパゲティを大いに楽しんでたべたあと、ゴッテリした肉料理が出てくるとギョッとしてしまって、ひとくち手をつけたら、もうもてあましてしまうのが常だ。だからといって、値段の安いめん類だけたべて止めたら、なんというケチな日本人かと、給仕にけいべつされるにきまっているから、そこが辛いところで、がまんして、めん類のほかに一皿たのむ。
オッソ・ブコなどという骨付き肉の煮こみや、エスカロピーノなどという犢のうす切りをトマトソースで煮こんだり、シャンピニオンと共にホワイトソースで煮こんだ料理など、しゃれた料理とはいえないが、なにか家庭的な匂いがして、おいしい料理だ。
パンもなかなかおいしいし、キャンティとよばれるこもかぶりの瓶に入ったブドー酒も、値段は安い上に口あたりがよい。チーズだって、パリのものにひけはとらない上に、安い。

私はつき合いのよい性質なので、一日二回山もりのスパゲティにチーズをたっぷりふりかけて食べたあげく、ケチな日本人とあなどられないため、愛国心を出して肉までたべたから、たった三週間のあいだに、二貫目も太ってしまったわけだ。

石井好子著『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』より