たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

トレンディドラマ時代『彼女の嫌いな彼女』

20年近く前に一度読んだらしいのだが、途中から物語の顛末をこまごまと思い出しだ。冴木の最後の台詞まで覚えていた。
こんなのほほんとした女性誌小説にも巻末に「差別的ととられかねない表現が...」のディスクレーマーがつけられているのはいくら人権更新国の日本でもノロノロながら前に進んでいることが感じられる。

「悪いけどさ、何か食べるものある?」
「え......」
「腹へってんだ。朝におにぎり1個食べたきりでさ」
「何にもないよ」
「がっくり」
(中略)
肩にかけたタオルで髪を拭きながら、冷蔵庫から2本目の缶ビールを取り出した。
「おっ、うまそうな匂い」
司はまるで子供のように目を輝かせて、テーブルの前に座り、ピザの箱からひときれ口に放りこんだ。
「千絵は食べないの?」
「夕ご飯を食べたし、寝る前にそんなカロリーの高いの食べたら太るでしょ」
司はピザを頬張りながら、千絵の姿をじっくりと眺めた。
(中略)
「だったら、今度、食事に連れてってよ」
すかさず言った。
「いいよ」
「ほんと? じゃあこの間、西麻布に素敵なレストランを見つけたの。会社の女の子と一緒に行ったんだけど、パスタがおいしいし、値段も大して高くないの。そこにどう?」
司はピザのチーズの糸を長く引っ張っている。
(中略)
「俺、ロールキャベツがいいな。千絵の作ったのおいしいだろ。あれ食いたいな、うん、すごく食いたい」
司はまるで子供のようにはしゃいだ声を上げた。それは少し芝居がかっていた。司はいつもこんな調子だった。分が悪くなると、得意の演技と饒舌で相手を煙に巻いてしまうのだ。
「おだてたって、ダメよ」
「本当だってば。どこの洋食屋に出しても通るって。明日、作ってくれよ。俺、7時ごろには帰ってこられると思うんだ。ああ食いたい。考え出したら、死ぬほど食いたくなってきた」
(中略)
「わかった、明日、作っておく」
司は満足そうに笑って、最後のピザを口の中に押し込んだ。
(中略)
料理を作るのは久しぶりだった。なんだかんだ言いながらも、やっぱり楽しい。キャベツや挽き肉を選ぶことにさえ、気持ちが弾んだ。
アパートに戻ると、着替えるのももどかしく千絵はキッチンに立った。7時には司がやってくる。すぐテーブルに用意できるよう急がなければならない。ロールキャベツは煮込みに時間がかかる。
大ぶりのキャベツは瑞々しかった。葉を破ることのないよう、芯に慎重に包丁を入れると、吸い込まれるようにさくりと気持ちいい音がした。湯がいて、葉を1枚1枚丁寧にはずし、味付けしてこねた挽き肉をくるんでゆく。それを今度はキャセロールでゆっくりと煮込む。
そのほかにもアスパラのサラダを作るつもりだった。それからバゲットと白ワイン。グラスも用意しなくてはならない。時間までにすることはたくさんあった。
(中略)
「もうすぐできるよ。司はコンソメよりトマト味のほうが好きだからそれにしたの。それも缶詰のトマトじゃなくて、本物のトマトで煮込んでるから本格的よ。あと30分くらいで出来上がるから」
(中略)
千絵は鍋を元に戻した。そして、捨ててしまえなかった自分の情けなさにうんざりしながら、形が崩れないよう丁寧にタッパーに詰めてゆく。サラダは器ごとラップをし、ワインと一緒に冷蔵庫の中に入れ、グラスやミート皿を食器棚に戻した。使った鍋や包丁はきれいに洗い、キッチンを何もなかったかのようにスッキリさせた。
そして、コンビニに夕食の惣菜を買いに出掛けた。

メニューを広げ、それぞれに好きなものを注文した。瑞子はビールで、美和子はワインだ。いまさら何にしようかと相談することもない。相手の好みはわかっている。それだけ長い付き合いということだ。
メインのスペアリブを食べながら、お互いの近況を報告しあった。
(中略)
瑞子は食べ終えたスペアリブの骨をお皿の片隅に寄せた。

「それよりか、何か食べるものはないかな。腹、へってるんだけど」
瑞子はあっさりと答えた。
「冷凍のピザならあるけど、食べたかったら自分でチンしてね。私、お風呂に入るから」

「近くに、懐石風フランス料理の店があるんです。そこにしようと思うんですけど、冴木さん、好き嫌いは?」
「いいや、何でもOKだよ。一人暮らしが長いから、何でも食べられる特技が身についてしまった」
「よかった」
ふたりは席を立ち、レストランに向かった。
料理のコースの注文は千絵がしたが、ワインは冴木が選んだ。ソムリエに、たじろぐことなく接している冴木を見て、千絵はますますうっとりした。
(中略)
「この鱸、おいしいね。やっぱり魚介類は日本がいちばんだなあ」

「おなか、すいてるんでしょう」
「ああ、まあな」
「この間作ったロールキャベツが冷凍してあるの。それでいい?」
「もっちろん」
千絵はタッパーごとレンジにかけた。それからタマゴと牛乳をボウルに入れ、パンを浸してフレンチトーストを焼いた。朝ご飯に近いが、司の好物だからだ。それに、今からご飯を炊いていたら時間がかかってしょうがない。
料理が調ったころには、司はいつもの位置に座ってすっかりくつろいでいた。
テーブルの上に料理を並べ、千絵は向かい側に座った。
「何か飲む?」
「うん」
「そうだ、ワインがあるんだった。ちょっと冷えすぎかもしれないけど」
すぐにグラスとワインを用意した。
「司の口に合えばいいけど」

ふたりはビル街の地下の和食屋に入った。
それぞれに定食を頼み、ビールを注文した。
「もっとちゃんとした場所に誘うべきなのに、すみません」
恐縮したように冴木が言う。
「ううん、こういうところすごく好きよ。健康にもやっぱり和食はいちばんだもの」
慰めなどではなく、瑞子は言った。実際、最近ではソースものから醤油ものに好みがすっかり変わっていた。
食事が運ばれてきて、それぞれに箸を手にした。
「おいしい」
秋刀魚に程よい脂が乗っている。

7杯目の水割りだろうか。その前にビールを大ジョッキで2杯あけている。酔っているのは自分でもわかった。
恭子がピスタチオを口の中に放りこみながら、ため息をついた。

料理が運ばれてきた。マリネがおいしい。ワインもさっぱりしている。ガーリックトーストの香ばしさが食欲を増進させる。エビだ、カニだ、ブイヤベースだ。
(中略)
冴木がメインの平目のムニエルを食べながら尋ねた。

たぶん、ワインが効いてきたのだろう。鴨のローストもとてもおいしい。

唯川恵著『彼女の嫌いな彼女』より