たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

鮨の匠が教えるパエリア『その手をにぎりたい』(2)

うちの実家、たまにドリアだグラタンだとサフランでご飯を炊いていた。あれって贅沢なことだったんだな。

「まず、アジから握っていただけますか」
一ノ瀬さんの顔に一瞬、明るい色が浮かんだのがわかった。勉強がものを言った———。まずは及第点。5月の旬のネタを真っ先に口にすることが出来、青子は胸を撫でおろす。
パフォーマンスのような「かつ鮨」の職人に比べ、一ノ瀬さんの動きは小さく、一つ一つが短い。まるで風のようだ。差し出された手のひらに載る、アジの表面は綺麗な銀色だった。「かつ鮨」のように生姜をすったものやあさつきをこんもり載せたりはしない。煮きり醤油をはけで一塗りのみ、と潔い。水に濡れた冷たそうな赤い手のひらから、親指と人差し指でそっとつまみ上げ、口に運ぶ。二日寝かせたという、とろけるような青魚の脂は少しもしつこくなく、するりとネタを胃に走らせる潤滑油のようだ。
「ああ、美味しい。『すし静』さんのおかげで光りもの、克服できたかもしれません」
(中略)光りものは職人の腕の見せ所......。何かの本で読んだのだ。生臭みをとるためには丁寧な仕事が必要だ。鮮度もものを言う。市瀬さんは控えめに見えて、自分の仕事にかなりの自信を持っているのだろう。さらに、値段も安く、初心者が頼むにはもってこいのネタだ。
「ちょっとずつ、この店で、色んな味を覚えたいんです。高いお店だからそうしょっちゅう来られるわけじゃないし、私の舌はまだまだ未熟ですけど......。いろいろ勉強しながら通いたいと思います」
今の思いをそのまま口にする。この店に通うことを決めた時、知ったかぶりはやめることにしたのだ。
(中略)
「次は鰯、お願いします」
今日は完全に光りもので攻めるつもりでした。ややあって彼の手のひらから、直に銀色の輝きを受け取った。
鰯の身には無数の小骨が潜んでいるから、下手な鮨屋で頼むと、口の中を怪我しかねない。でも、このネタは丁寧に細かい骨まで処理してある。冷たい鰯はどこまでも夢のように滑らかで、ほのかに甘くさえある。ひんやりした舌が口の中に入ってくるように快い。冷酒が早くもまわり始めたのだろうか。
(中略)
「鰯は今でこそ食通にも好まれますが、むかしは下魚と呼ばれ、肥料にしたとも言われているんですよ」
(中略)
「魚の脂が染みついているおかげですよ。脂が傷から守ってくれるんです」
(中略)口に運んだ二つ目の鰯は、一層とろけるようだった。
鯖、シロイカ、中トロの鉄火巻き、さより、カッパ巻き、最後はいつものように卵焼きで終わらせた。座るだけで3万円ともなると、高いネタは注文できないし、量も限られる。でも、こまめにつまむガリのおかげで口寂しくはない。心もお腹も、十分に満足だった。充実した食事というのは結局のところ、量や値段ではないのだと思う。
誰と向かいあうか。誰の手から食べるか。
もう「かつ鮨」に通うのはやめよう、と会計を済ませる最中、青子は決めた。最初は鮨の勉強のつもりだったけど、今では「すし静」と比較するためだけに使っている。あの店で働く人にも失礼だと思った。

「すし静」に通い続けるかぎり、鮨を食べ続けるかぎり、ネタから滲み出る脂や栄養が自分という人間を包み、守ってくれる気がした。何があってもあのカウンターに帰ればいい。辛いことがあっても自分だけの領域が存在するのは、本当に心強いことだ。スピードに目がくらんだら、あの店で立ち止まればいいのだ。

ここの餃子は酢だけで食べた方が美味しい、と青子はすぐに気づき、小皿に何の考えもなく醤油を注いでしまったことを、かすかに後悔する。幅の狭いカウンターの隅に置かれた、酢の入ったガラス瓶にすっと手を伸ばす。レモンやすだちがあるとなおのこといいのだが。
こんがりした焼き目に透明の酢をたらすと、表面がしっとりとほとびていく。口に運ぶと、やはり先ほどより味の輪郭がくっきりしているように感じられた。細かく刻んだキャベツの甘みや生姜の辛み、挽肉から溢れる肉汁、生地のパリッとした焼き加減。酸味を通過すると、一つ一つが舌に迫ってくるようだ。誰もがごく当たり前のように醤油味を好むけれど、あれほど個性の強い調味料はない。味を引き立てるというより支配してしまう。強い塩分と旨み成分が、下手をすると素材の持ち味を殺すのだ。
右隣に座る先輩の大島さんが、すぐに身を乗り出した。
「あれ、醤油やラー油つけないの?」
「お酢だけの方が、焼き加減や具の美味しさ、生地のもちもち感がわかる気がして......」
「ははは、まるで『美味しんぼ』の山岡士郎だな。こんな安い店なのに」
(中略)にわかに青子は恥ずかしくなり、慌てて餃子を頬張る。肉汁が勢いよく溢れた。
「おっ、おねえさん、わかってるねえっ。うちの餃子のうまさがわかるなんて、なかなかの食通と見たよ。よし、もう一皿おまけしちゃうよ」
機嫌の良い声に視線を上げると、カウンターの奥から店の主が人なつこそうな丸顔をてかてかと光らせていた。すぐに、奥さんらしく中年女性が餃子の皿を運んできた。お礼を言ったものの、一人では到底食べきれるはずもなく、大島さんにも手伝ってもらうことにする。
(中略)
神田駅にほど近い昼時の中華飯店は、青子達のような外回り中の会社員で賑わっている。ここの生姜を利かせた名物餃子は、にんにくを使っていないため営業マンに大人気なのだ。

素材にはそれぞれ合った調理法があること、旬を逃さないこと、食事を美味しくするにはまず会話が大切なこと。そして、どんな鮨にも等しく醤油味が合うわけではない。白身や烏賊などは、すだちや塩で食べるとその甘みが楽しめること———。

「すし静」資金のために節約を心がけてはいるので、極力自炊するようにはしているが、一人の食事ならばご飯にふりかけに味噌汁、トマトを切ったものでもあれば十分だ。
(中略)
固形ルーを使った、カレーやシチューで十分かもしれないが、やはり、テリトリーにまねき入れるからには価値観を共有してもらいたい。自分という人間の多面性を教えてやれるような、凝った料理を作りたい。

里子が冷酒と一緒に運んできた突き出しは、叩いた甘海老に酒盗をまぶしたものだった。コクのある鰹の塩辛が、海老の澄んだ甘さを存分に引き立てていて、箸が止まらない。ひにゃりとした酒が喉を滑ると、先ほどのショックが嘘のように消えて行く。
(中略)
「じゃあ、まずは墨烏賊からお願いします」
彼の顔にはっきりと満足の色が浮かぶ。二人の視線が共犯者のように絡まった。夏の初め、さっぱりとした味わいだった小さな烏賊は、この季節になると大量の墨を吐く大きな体に成長する。握りの手つきをいつものようにじっと見守った。
やがて差し出された一ノ瀬さんの手のひらには、ぷるりとした墨烏賊が白く光っていた。
「6日寝かせました。すだちと塩で味付けしてあります」
「すし静」のネタはどれも驚くほど長く熟成させている。ネタは新鮮であればいい、と思い込んでいただけに、最初に知った時は驚いた。
3本の指で鮨を受け取る。思わず目を閉じて口に運んだ。
表面に入った繊細な切り込みが舌を心地良く刺激する。すだちの爽やかな酸味と天然塩がひきたてる墨烏賊は、ねっとりと舌をねぶるように濃厚に甘い。ネタが舎利にからみつきいよいよ一体となると、体の芯がびくんと震えた。冷酒を口に含み、しばし余韻を味わった後、ため息まじりにつぶやいた。
「ああ、美味しい。たった2ヶ月で新烏賊の淡白な味がこんなにまったりと甘くなるなんて。この前に来たときはまだ7月だったから......」
澤見さんが愉快でたまらないという風に、つまみの里芋と海老の小鉢を引き寄せた。

「手巻き寿司なんてどうだい。手軽だろう」
「そんなの邪道でしょ? 買ってきたパックのお刺身を使うことになるじゃないですか。澤見さん、おっしゃってたじゃないですか。『仕事』もしていない切り身を舎利にのせただけのものは鮨とは呼べない、あんなのは『刺身鮨』だって」
「おっと、言うねえ」
こちらのやりとりを見守っていた一ノ瀬さんがおもむろに口を開いた。
「それじゃあ、パエリアはどうでしょうね」
意表をついた回答に、青子は目をしばたたかせた。
「よくまかないでやるんです。魚介がたっぷりの炊き込みご飯ですから、誰にでもなじみがあるんじゃないでしょうか。安い食材でも色々とり混ぜれば米に複雑な旨味が出ます。なによりサフランの黄色に魚介が映えて、見栄えがいいですからね。フライパンはお持ちですか」
「あ、もちろん......」
「まず干し貝柱を水につけます。オリーブ油でたまねぎ、にんにく、ピーマン、トマトなどを炒め、あさりなどの貝類、烏賊や海老を加える。最後に米を入れ、透き通るまで火を通す。貝柱のもどし汁とサフランで炊けばできあがりです。
「パエリアかあ。なるほど。うん、それなら出来そう。良さそうだな」
大島さんの前でフライパンの蓋を取り、明るい黄色のご飯が海の香りの湯気を放つ様を想像しただけで、先ほどの憂いが消えて行く。よく冷えたワインを用意しよう。
「そして、最後はレモンをひとしぼり。さわやかさと酸味を足すことで、味にめりはりがつき、一気に美味しくなりますよ」
悪戯っぽい笑顔に胸がきゅんとうずく。ちゃんと覚えているんだ......。青子が柑橘系の酸味でさっぱりとネタを楽しむのが好きなことを。

サフランは近所のスーパーでは見つからなかった。
外回りの最中に偶然通りかかった紀ノ国屋でようやく発見し、千円近い値段におののきながらも、迷わず購入した。
それでも、瓶に入った乾燥した赤いめしべはごくわずかな量で華やかな風味を放ち、見よう見まねで作ったパエリアを鮮やかな黄色に仕上げてくれた。レモンをきゅっとしぼったら、海の香りが一層引き立った。
何度も、うまい、と感嘆の声をあげながら、大島さんはほとんど一人でパエリアを平らげてしまった。美味しそうに食べてくれる無邪気な様子は愛おしかったが、もう少し味わってくれればいいな、と物足りなくもあった。海老や烏賊、ほたてやムール貝。奮発して揃えたら、かなりの金額になってしまった。
でも、料理を作るとはそもそもそういうことかもしれない。食材を運ぶ時から、すでに頭の中に地図を描き出している。自分の料理が相手の口に運ばれる瞬間は、思わず息を殺してしまう。やはり褒めてもらいたいという下心が働くし、給仕の時は細かいところまで気が回り、自身の食欲は消えていく。
(中略)
ユーミンの「ノーサイド」を鼻歌で歌いながら、まな板に転がったままになっている半分のレモンを手に、フライパンの蓋を取り、わずかに残ったパエリアの上にしぼった。こびりついて硬くなったパエリアをしゃもじでこそげ、そのまま口にふくむ。米の一粒一粒に野菜と魚介類のうまみがしみこみ、サフランの風味を強く感じた。昨晩より、さらに美味しくなっている。米が冷えると俄然味わいを増すのは、洋食でも和食でも同じかもしれない。立ったまま、自分のものかどうかわからない、飲み残しのワインも口に含む。
次に「すし静」に行く時に、話すネタが一つ出来た。
———パエリア、上手に出来ました。冷めても美味しいんですね。素敵なレシピをありがとうございます。また何か教えてください。

柚木麻子『その手をにぎりたい』より