たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

昭和から平成『笹の舟で海をわたる』

終戦から阪神大震災まで盛りに盛り込んだ『フォレスト・ガンプ』みたいな忙しない話だった。
ラスト2割の駆け足っぷりがザッツ連載小説。
「てんぷら」の表記がゆれているのは原文ママです。

金太郎さんの山もいったわね、帰りに食べた玉こんにゃくがおいしかったじゃないの、あら、玉こんにゃくはべつのところだったかしらね。柊ちゃんがふざけて転んだわね。ビアガーデンで酔っぱらったわねえ、ふーちゃんったら道路で寝ちゃって。もうじきね、もうじき柊ちゃんもモモもきますからね、まだ待っていてね、みんなで銀座ですき焼き食べたのいつかしら、モモはあいかわらず不機嫌だったわね、ねえ、またいきましょうよ、早くよくなって、みんなでごはん食べにいきましょうよ、ね。

戦禍がひどくなるまでは食事は白い米だったし、量も充分にあった。

あの広々とした機能的な台所なら、自分ひとりのために何か作るのも億劫ではないだろう。昔そうしていたみたいに、餃子の皮をこねたり、南瓜をつぶしてお菓子を作ったり、したくなるに違いない。

3日くらいかけて家じゅうを掃除し、おせちを作る。テレビを見ながら蕎麦を食べ、ほんの少し酒を飲んで、しんと静まりかえった家で、遠く響く除夜の鐘を聞きながら眠る。翌朝、仏壇に雑煮とお屠蘇を供え、数少ない年賀状をめくりながらひとりで雑煮を食べる。昼過ぎにはきっと風美子がやってきて、夕方から酒を傾けつつ、前日作ったおせちをつまんで元日は終わる。

紅茶と皿に載ったエクレアを運んできた母親は、左織の向かいに座り、温彦の子どものころのことを途切れがちに話したかと思うと、近所がいかに変わってきたかを唐突に嘆いたりした。

割烹着の女たちが、天麩羅や煮染めを運んでくる。ビールを勧められたが左織は断って、お茶をすすった。
(中略)
割烹着の女たちが鮨桶と徳利を持ってきて、並べていく。風美子はそれにもすぐさま箸を出し、「食べないの」と左織に訊いた。

差し出された紙袋を開けると鯛焼きが入っている。まだほんの少しあたたかい。
「お茶入れますね」
左織は台所に向かった。
(中略)
ちゃぶ台を囲み、鯛焼きを食べ、お茶を飲んだ。

「お夕飯に出せるようなものが、なんにもないわ」あわてて左織は言った。
「コロッケでも買ってくれば」風美子は言う。
「でも、コロッケだけなんてわけにはいかないでしょう」
「コロッケだけでもおれはかまいませんよ」
「即席ラーメンだっていいわ」

10日ほど後のお盆には、温彦といくことになっているのに、いったいなんだろうといぶかりつつも、昼過ぎ、スイスロールを手土産に左織は久我山の家にいった。
(中略)
沸いた湯を急須にいれながら左織は答えた。スイスロールをのせる皿をさがして食器棚をふたたび開け、唐突に、ケーキを切ったり盛ったりするのが途轍もなく嫌になる。全体力を使い果たしそうな重労働に思える。左織は棚の戸を閉め、洋菓子の箱を冷蔵庫にしまった。

通夜をおこなった和室の和机に、鮨桶と、サラダのような料理、芋の天麩羅、白和えと煮豆の小鉢が並んでいる。

左織は買いものの籠の中身を見た。茄子や椎茸、カリフラワー、新聞紙にくるまれてポリ袋に入っているのは肉か魚か。茶色い紙袋の口が開いて、今川焼きがのぞいている。
(中略)
「おやつまで買ってきてくれたの」
「熱いお茶入れて、食べよ。あらあら、どちらの、かなしいの、かなしいねえ」

「だって冷めちゃう。私、食べたら帰る」風美子はさっさとお膳の支度をはじめてしまう。
風美子がちゃぶ台に並べたのは、茄子の炒め物、鶏肉と椎茸のミルク煮、カリフラワーをマヨネーズで和えたものにじゃが芋のスープだった。マヨネーズにはわさびが混ざっていて、ミルク煮は牛乳ではないもっとこくのある味がした。「フリカッセっていうのよ」と風美子は説明するが、左織にははじめて聞く料理名である。風美子はいったいどこでこうしたハイカラな料理を覚えてくるのだろう。

左織の持っていったぼた餅を皿に分ける義母が唐突に、「お彼岸が何か、知らないって言うのよ」と言って笑った。
(中略)
左織は言われるとおり、黄色い箱に手をのばす。義母は昨年からティーバッグを崇拝している。崇拝、というのも妙だが、そんなふうに左織には見える。和菓子にも食事にも紅茶だ。

茹でたキャベツにひき肉を包んで鍋に並べ、くず野菜をまわりに詰めて煮る。じゃが芋を細く切ってからりと揚げる。さつま芋とりんごを重ねてバターで蒸し煮する。学生たちがくるかもしれないと言うと、腹持ちのいいものを作ろうと、風美子は張り切って台所に立った。
「もしこなかったとしても、冷蔵しておいてあたためれば、2日くらい先まで食べられるから」
(中略)
風美子に言われるまま、りんごを切りさつま芋を切って左織は言う。どうして愛想を尽かさないのだろうとそれとなく伝えているのだが、風美子には伝わらず、
「あら、私、家で料理なんかしないもの」と大口を開けて笑う。「コンビーフを切ってさ、卵つけて焼いたりね、缶の鮭をマヨネーズで和えたりね。そんなものでも出されれば、うちの人はよろこんでお酒のアテにしているもの。そんなかんたんなものしか出さないの、うちでは」
「ここではこんなにいろいろ作ってくれてるのに」
「そうだよ、だから私、こっちの家のほうがずっとくわしい。うちの台所なんて、どこに何があるかわからない」
(中略)
「温彦さんを悪く言うようで悪いけど、あのきょうだい、ろくなもの食べて育ってないわけよ。母親がなんにもできやしないんだもん。だから何出したって平気。それにしてもさ、男ってのはあわれよね」器用に巻いたキャベツを鍋に詰めながら風美子は言い、低く笑う。「出されたもの黙って食べて。母親や妻が犬のえさみたいなものしか出さなくたって、何もわからずそれ食べるんだもんね。(中略)」

手ぶらでは申し訳ないと思ったのか、幾人かの学生は、郷里の酒や菓子、家から送ってきたという野菜、百々子にと駄菓子や人形を持ってきたのだが、それらがその余韻そのもののように部屋のあちこちに点在している。

いつもは早く寝なさいと叱る母親も、この日ばかりはぬか漬けを切ったり酒を注ぎ足したり、左織たちの会話に加わったりしてたのしそうにしていた。
(中略)
出来合いの惣菜を詰めたおせち料理を食べ、お屠蘇を飲む。だれも話さない。これ何? これ何? とくり返し訊く百々子の細い声だけが、食卓に響く。
(中略)
「嫌みったらしい、こんなもの。幾つもあったってしかたないでしょうに」
お重を開け、中身がおせちだと知るや、義母はそれを捨てようとする。左織はあわてて止め、
「持って帰ります。せっかくですから、食べもの捨てると罰が当たりますから」と、義母から奪うようにお重を取り返した。
(中略)
風美子のおせちは、左織の母のものよりずっと垢抜けていて、色合いも華やかだった。花形の蓮根は薄いピンクに色づけされ、黒豆はつやつやとしわひとつなく、左織が見たこともない野菜が使われていた。学生たちはそんな見た目をまったく味わうことなく、うまいうまいとあっという間に平らげる。百々子にお年玉をくれる学生もいた。郷里から持ってきた土産物を、ちゃぶ台だけでは足りず部屋じゅうに広げて、好き勝手に食べはじめる。左織ははじめてからし蓮根を食べ、牛の舌を食べ、あのなつかしいイナゴの佃煮に再会する。

幾度かきている男の子で、愛知県の出身だと今日知った。ういろうという菓子も、左織ははじめて食べたのだった。

日暮れのころにひととおり家財は家におさまり、手伝いのねぎらいに鮨をとろうと温彦が言い出した。
「引っ越しは蕎麦と決まってるんじゃないですか」
「馬鹿、よけいなこと言うな。鮨なんて滅多に食えないんだから」
左織は学生たちのやりとりをほほえましく聞きながら、番号案内に電話をして近くの鮨店を調べ、温彦の指示するとおりに注文をする。
(中略)
温彦と学生たちがビールを飲みはじめ、左織と風美子は台所に立った。風美子は買ってきたトンカツやポテトサラダ、焼売やきんぴらごぼうを何皿かに分けて見栄えよく並べていく。
(中略)
「今日は早く帰ったほうがいいんじゃない、お鮨がくるから、それ食べたら、飲まないで帰ったほうがいいわよ」ぬか床から取り出した野菜を切りながら左織は言った。

「時間が空いたから、ちょっと寄ったの。渡したいものもあるんだ。百々子、元気か、はい、チョコボール」
砂場で遊んでいた百々子に風美子がチョコレートを渡すと、近くにいた子どもたちがいっせいに寄ってくる。

熱海で降りて、駅前から続く商店街で蕎麦を食べ、土産物屋をひやかしながら海にいき、子どもたちを海で遊ばせた。

夕食は部屋に運ばれてきた。食前酒、先付け、お凌ぎ、お椀と次々料理が運びこまれる。焼き物が出たところでようやく一段落ついた。潤司は運ばれてくる料理にろくに箸もつけず、酒ばかり飲んでいる。
「これ、ねえさん、どうぞ。春らしくてきれいだなあ。にいさん、鯵も鯛も好きだったろう」と先付けを左織に、向こう付けの皿を温彦に押しつけ、「旅はいいね、海はいい」と、くどいくらいくり返す。

炊き合わせの鉢が運ばれてきて、お食事の用意をしますと言って仲居が去ると、
「ああ、おれは飲んでいるときがいちばんたのしいよ」

風美子が頼んだワインは温彦の月給の半分以上の値段だった。飲みつけないワインを、値段を思い出しがんばってもみたが、しかし左織は何杯も飲めなかった。左織同様、風美子も2杯ほどしか飲まず、大半を残すことになった。栓をしてもらって持って帰りましょうと左織は小声で言ったが、「そんなみっともないことできるわけない」と風美子は一蹴した。

2階の和室に用意された会食も、席に着いたのは温彦一家、潤司夫婦と、僧侶だけだった。僧侶は居心地悪そうにビールを1杯飲み、天ぷらをいくつかつまむと、そそくさと帰っていった。

食事は自分たちで部屋に運び、その班だけで食べることになっていた。最初は、じゃが芋といっしょに炊いた、少量の米も出た。学校がはじまることにはそれもなくなり、具のない味噌汁とひじきの煮物、大根の葉の煮たものや南瓜が、小鳥のえさほど出てくるだけになった。

学校が終わって、何人かで紙芝居を見にいったり、自分の家やだれかの家にいき、おやつを食べながらのらくろや少女倶楽部を読み、夕暮れに手をふって別れ、家族とともに食卓を囲み、学校であったことを夢中で話しながらおなかが痛くなるまで食べ、食後に熱いお茶と大福を食べ、母親に本を読んでもらいながら眠る、たった数カ月前までの生活が、夢だったように思えた。

夕食のための茸をとりにいったとか、栗拾いをしたなどと書くと、先生から書きなおすよう指示が出た。食べものがないのかと心配させると言うのである。

母が渡してくれたお手玉に煎り大豆が入っているのは気づいていた。当時、そうする親は多かった。

「だって逆らったもっといじめられるから。いろんなもの食べた。絵の具がいちばんおいしかった。甘くて」
左織は驚いて風美子を見る。風美子は目を細めて豆電球を見ている。左織も飢えて、薬も食べたし野の草も食べた、ツツジの蜜はご馳走だった。でも、絵の具までは食べなかった。

「あけびの実をくれたことがあったんだよ。すれ違うときに、はいこれ、あげるって。自分だって、同じくらいおなかが空いていただろうに。それで私、泣いちゃったんだ。(略)」
(中略)
あけびの実の味は覚えている。甘さに飢えていたあのころ、口に含むと寒気がするほどおいしかった。それを自分で食べずに、だれかにあげたことも信じられない。

火葬場にいき、食堂を兼ねた待合室で、松花堂弁当を食べた。潤司は料理に箸はつけず、冷や酒を頼み、ひとり席を離れ、窓の外を見ている。

おなかはそんなに空いていないとだれもが言ったけれど、食卓につくとみんなちゃんと鮨を食べはじめる。潤司だけが飲んでいて、カッパ巻きを2つ3つ、口に入れただけだった。
(中略)
「ふーちゃん、痛い! なあいにこれ! へんな味」
百々子の声で我に返る。
「あっ、ごめん、わさびとるの忘れた」
ぼんやりと百々子に視線を移す左織に、
「潤司が食べないから、まぐろを百々子にあげたんだけど、わさびとるの忘れて」
風美子は言いながら、台所に向かう。栓を抜いたジュースを百々子に飲ませている。
さっきは起きて、鮨を食べはじめた柊平は、米粒を頰につけたまま天井を向いて寝ている。

テーブルを挟んで向き合い、正座をして、祈りの言葉をとなえ、食事をはじめる。アルミニウムの皿に、芋がらの煮たものや野菜の切れ端や炊いたおからが少し入っている。祈り終えると子どもたちは無言で、その少ない量をものすごい勢いで食べた。急いで食べるとよけいおなかが減ると先生は言ったけれど、急いで食べれば一瞬でも満腹感が得られるのだった。錯覚であるにせよ。

かつてのようにけんか腰で議論することもなく、みんな、手料理よりもカップヌードルのほうを喜んだ。そのうち左織は頼まれないかぎり、何人きてもわざわざ料理することなく、買いだめをしておいた菓子や安価なインスタント麺を用意するようになった。

チン、とタイマーが鳴る。左織はおそるおそるドアを開け、ラップで包んだハンバーガーを取り出し、皿に載せる。
前年、銀座にあたらしくできたハンバーガー店の商品を、わざわざ行列に並んで風美子が買ってきてくれたのである。容器ごとレンジにかけられるかわからず、左織は中身を取り出してラップしてあたためたのだった。
(中略)
ハンバーガーはレンジに入れる前よりもぺしゃんこになった。あたためすぎてまだ熱いハンバーガーに息を吹き掛け、齧る。チーズが濃厚で、ケチャップ味が強い。たしかにパン屋で売っているパンとは違うが、並んでまで買うものなのか、左織にはわからない。それでもこの寒いなか、わざわざ買ってきてくれた風美子には、「おいしい、新しい味ね」と、感心して言った。
「そうだよ、これを食べてれば私たちも脚がうーんと長くなって、金髪になるらしいから」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
「あーあ、ポテトはくちゃっとしちゃった。その場で食べると、もっとおいしいんだけど」
細長く切ってあるポテトは、たしかにしなしなしていたが、食べたこともない味がする。
(中略)
銀座の表通りにハンバーガー店が開店したのを、左織はテレビのニュースで見た。歩行者天国になっている銀座通りは、なつかしいと思うこともできないくらい変わっているように左織には見えた。ハンバーガーを半分ほど食べると、酸っぱい味が口に広がった。パンを持ち上げてみると、薄切りの変色したキュウリが入っている。ピクルスだよ、と風美子がおもしろそうに笑う。
「なんでもかんたんな時代になったわよね」
その酸っぱいものを取り出して、左織は言う。カップラーメンにハンバーガー。左織は買ったことはないが、あたためるだけでいいというカレーのルーや、麻婆豆腐やミートソースの素まで最近は売っている。
(中略)
ハンバーガーを食べ終えても満腹感が得られず、冷めはじめているポテトに手をのばして左織は訊く。

すでに風呂に入り、寝間着に着替えた柊平と百々子は、食卓についてぶどうを食べている。温彦はまだ食事ははじめず、煮物や和え物の入った小鉢をつまみにビールを飲んでいる。

女王は潤司の返答も聞かないまま、カウンターにいくつか皿を並べる。山菜と油揚げの煮たもの、厚揚げと大根を煮たもの、焼き鳥が数本。

風美子から流行の紅茶キノコをもらったらしく、朝はそれを牛乳に入れて飲むだけで、食事はいらないと言う。幾度注意しても残すし、朝は食べない。中身を捨てているのかもしれないが、弁当箱はとりあえず空になっている。
昼ごはんは素麺にして、茄子と紫蘇、玉ねぎの天ぷらを用意した。この暑いなか汗をかいて揚げたのに、百々子は素麺をほんの少しすすっただけで席を立った。

食卓の、皿のラップをはがし、残った天ぷらをつまむ。もう油を吸ってしんなりとしていて、おいしいとも思えない。風美子なら太りにくい素材でもっとおいしいものを作る。

風美子は日本茶を扱う商店に生まれ、家族のほかに従業員やお手伝いが大勢住みこんでいるような大きな家で、茶を煎じるにおいに囲まれて育ったらしい。母親が料理の得意な人で、根菜を煮たものや魚の煮付けはもちろん、ライスカレーやシチューもずいぶんおいしかた。けれど戦争で風美子はすべてを失う。

大学のそばにある喫茶店で向き合い、ショートケーキを食べながら、百々子はいつもより饒舌に風美子の話の感動した点について話す。
「おかあさんとふーちゃんって、子どものころから知り合いなんだよね?」
アイスティーのストローから口を離し、百々子が訊いたとき、これはチャンスだと左織は思い、食べかけのケーキをそのままにテーブルに身を乗り出す。
(中略)
左織はケーキの残りをあわてて口に押しこみ、アイスコーヒーを飲み、急いで会計をすませる。

「ねえ、帰りにハンバーガー食べていこうよ、新しく発売されたのがあってさ、すんごくおいしいんだって」
「買って帰る?」
「お店で食べたほうがぜったいおいしいよ」
(中略)
ガラス張りで、往来から食べている姿の見える店内で、やはり左織はハンバーガーにかぶりつく気になれず、コーヒーだけ頼み、向かいの席でおいしい、おいしいと連発する柊平を眺める。もう少しで母親の背丈に追いつきそうではあるが、頰にソースをつけてハンバーガーを食べる柊平は、左織からすればまだまだ赤ちゃんのように見える。

年越し蕎麦の夕食は残さず食べたし、ピンク・レディーやキャンディーズを真似て踊る柊平を、温彦といっしょに笑って見ていた。
それぞれの湯飲みと、みかんを入れた器をソファテーブルに置く。眠りかけていた柊平が寝たままみかんに手をのばす。
「食べるならちゃんと起きなさい」
へーい、と聞こえる返事をして柊平は上半身を起こし、あぐらをかいてみかんを食べはじめる。

参道には露店が並んでいた。いかを焼くにおいや焼き鳥の甘辛いたれのにおいが混じり合って漂っている。りんご飴が食べたいと柊平が言い、左織が小銭を渡すと、柊平と百々子は競うように屋台まで走っていく。
(中略)
「たこ焼き食べていい?」柊平が言い、
「さっき甘いもの食ってたろう」呆れたように温彦が笑う。
「ひとつ買ってみんなで食べようよ。百々ちゃんも食べるでしょ」
「私、いらない」
たこ焼きなんて最後に食べたのはいつのことだろう。ソースの味を思い出すと口のなかに唾がたまり、「おかあさん、食べたい」左織は言って500円札を柊平に渡した。
柊平が買ってきたたこ焼きを囲み、それぞれに爪楊枝にさして口に入れる。食べないと言っていた百々子も、においの誘惑に負けたのか結局ひとつ口に入れる。4人で口から煙を吐き出しながら、熱い、おいしい、と口々に言い合い、笑う。列はじりじりと進む。
最前箱の前にたどり着くのに30分ほどかかった。

大根やじゃが芋といった野菜で風美子が料理をしているあいだ、左織はおせちの残りを盛りなおし、吸い物のための出汁をとる。並んで台所にいると、昔に戻ったみたいだった。順繰りに台所にやってきては、ふーちゃん泊まっていくの? と訊いたり、ふーちゃんグラタン作ってよ、とまとわりついていた子どもたちは、風美子がまだ帰らないと知るや落ち着いたらしく、温彦といっしょにテレビを見ている。
(中略)
「あ、沸騰しちゃってる」
風美子に言われて左織はあわてて火を弱め、鰹節を入れて火を消す。浮かんだ鰹節がゆらゆらと沈んでいく。風美子は隣のガスコンロで、皮をむいて薄く切ったじゃが芋を、常備してあったコンビーフと炒めている。
(中略)
炒めたじゃが芋に牛乳を流し込み、しばらく煮ている。
(中略)
風美子は笑いながらフライパンの中身を耐熱皿に移す。買い置きしてあったスライスチーズをのせ、トースターに入れて風美子は言う。
(中略)
「おかあさーん、あのさ、お餅焼いていい? きなこ餅食べたいんだけど」
台所に柊平が入ってきて左織は口をつぐむ。
「だめよ、もうじきごはんだもの。ふーちゃんがあんたのお願いを聞いてグラタン作ってくれたんだから。おなか空かせて待ってなさい」

前菜の盛り合わせがきて、麻婆豆腐や海老の炒めたものがきて、百々子と柊平が食べたいと言った餃子や春巻きが運ばれてくる。
(中略)
皿が下げられ、大皿に盛られた炒飯が運ばれてくる。さっきまでわくわくと、必要もないのにまわし合っていた円卓が、滑稽なくらい馬鹿でかく見えた。その真ん中にぽつんと炒飯が置いてあるのがまた、なさけなくなるほど馬鹿馬鹿しく見えた。
(中略)
だれも炒飯を取り分けないので、
「お取り分けしてきましょうか」お店の人がそう言いにくる。
取り分けられた小皿がそれぞれの前に置かれると、「ま、風美子さんも忙しいだろうから」温彦が取りなすように言うが、場の空気は戻らない。

「百々子からも手紙きてたよ。今出す。あとこれ、ケーキ。お茶いれて食べよ」
(中略)
「おいしいね、このケーキ」いちごとクリームの挟まったパイ生地を、苦労して切り分けながら左織は言う。

家族がいないときくらい手抜きをしようと風美子が言いだし、吉祥寺に焼き肉を食べにいった。

オーブンレンジに入れておいたミートローフを切り分けていると、おお、でかくなったな、覚えてなんかいないよな? 美少年じゃないか、何年生だ、これを読め、名著だからと、にぎやかな声がなだれ込んでくる。

生の春巻きやサラダが運ばれてくる。欧米人のアベックが入ってきて席に着く。窓の外はどんどん暗くなっていく。
料理が次々と運ばれてくる。
(中略)
こんな何もかも知らない場所はいやだ、食べつけない料理ももう口にしたくない。早口の英語もそのほかの言語も聞きたくない、あの静かな食卓でお茶を飲みたい。ほとんどテーブルに突っ伏して泣きたいような気持ちなのだが、左織はなんとかこらえ、話しかけられれば笑顔でうなずき、取り分けられた名も知らぬ料理を口に運ぶ。

「百々子はしっかりしてるよ。楽しそうだし、ほんと、よかったよね。それにしてもあの日本食レストラン。生姜焼きも焼きそばも、みんな照り焼きの甘ったるい味」風美子は笑う。

起きても何もする気がしないが、なんとか気張って起き上がり、身支度を整えて温彦の朝食を作る。といっても、ごはんを炊いて味噌汁を作り、海苔と漬け物と納豆を用意するだけだ。

空腹が耐えがたくなると左織はようやく立ち上がり、めまいが起きないようそっと歩き、朝炊いたごはんでかんたんな昼食にする。卵をかけたり、ときには味噌汁をかけたりといった、以前には考えられなかった食事を掻きこむように食べる。

柊平はミックスグリル定食を頼み、食欲はなかったが左織は親子丼を頼もうとし、親子と口にするのがなぜかいやで、カレーライスを頼んだ。

左織は渡されたビールのグラスに口をつけることもできずに、鮨や天ぷらを食べはじめる寺内と久子を交互に見、何気なく話に加わっている風美子を見る。

駅に着くころには、疲れよりも空腹を感じた。駅まで続く商店街には飲食店が多くあり、揚げものや出汁やごま油の匂いが漂っていて、空腹が痛みに思えるほどだ。
「ふーちゃん、私ラーメンが食べたい」左織は言った。左織はラーメン屋に入ったことがない。若い人ならまだしも、いい年の女がひとりでカウンターに座って麺などすすれないと思っていた。しかも、ラーメン屋は必ずガラスばりで、外から見えるようになっている。けれど今は、あたたかいラーメンが無性に食べたかった。
「めずらしいね、ラーメン屋なんて入ったことないんじゃない」
「ふーちゃん、おいしそうな店の目当てをつけてちょうだい」
赤いカウンター席だけのラーメン屋に、風美子は入っていく。ビールと餃子、ラーメンを注文する。コップに注がれたビールを飲み干すと、自分ではないみたいな気がした。

力が抜けたような感覚のまま、コーヒーメーカーをセットし、冷蔵庫から野菜を出し、パンをトースターに入れ、フライパンに卵を落とす。何もかもが変わってしまう。

風美子の買ってきた、プリンとケーキの一緒になったようなイタリア菓子を皿に取り分けながら、左織は「お金なんかどうだっていいわ」

「まあ、悪くないんじゃない」レストランに座った風美子は、メインの豚肉を切り分けながら言う。
「想像していたよりかなりおいしいかも。でも太るんじゃない?」百々子が言い、
「たまには料理もするんだろう?」柊平が言う。
(中略)
「ママ、グミ食べていい?」
「グミなんかお菓子じゃん。絵未里、ちゃんととはんを食べなさい。おっきくなれないよ」百々子ではなく風美子が注意している。
「じゃ、ふーちゃん、帰りにアイス食べてもいい?」
「ぼくもぼくもアイス」

角田光代著『笹の舟で海をわたる』より