たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ドリアンとトホホ英語『アスクレピオスの愛人』

話し言葉もそうだけど、メールで「女ことば」の「〜わ」を使う奴いるか?昔の小説に突っ込むのも野暮か、と思ったら、これ2012年刊でエボラも出てくるのであった...。

↓あと、医学部をFaculty of medicalとはまず言わん。どこかの英語圏の大学のサイトを参照すれば済むのに、なぜ無理に訳語を作るのだ。ていうか、初期のグーグルやエキサイト翻訳でもこんな変な訳はしなかったはず。まあ、バカ田大学という設定なので、無理にカッコつけた末の物悲しい和製英語、の演出ならそれはそれですごい。

医学部の学生たちは当然のことながら、
「自分たちは違う」
という強い意識を持っていたので、たとえばクラブのバッグには、必ず「FACULTY OF MEDICAL」という文字を入れていた。徹もそのひとりであった。

傍に座る息子のトーストにバターをせわし気に塗る。

予備校生の彼女は、父親と一緒に7時半過ぎには朝食をとる。父親の斎藤裕一は和風の朝食が好みで、白米に味噌汁、梅干し、ジャコ、といったものが欠かせない。継母の結花は反対に洋食しか受けつけなかった。よってお手伝いの桂子は、和食と洋食、ふた通りの朝食をつくる。

「ここはね、どうってことのない場所のようだけど、私たちにとっては大切なところなのよ。戦闘態勢に入るとね、ここに水やスナックがざーっと並べられて、何日間も帰れないことになるわ。事務の女性たちがケーキをつくってふるまってくれたりして、ちょっとしたお祭りみたいな高揚感があるわね」

やがてリンダが、コーヒーを淹れた紙コップを2つ運んできてくれた。進也は自分にあてがわれたデスクでそれを飲む。コーヒーは粉っぽくてあまりうまくはなかった。
「明日からコーヒーは自分で淹れてね。サーバーが廊下にあるわ。お客さんじゃないんだから」

志帆子は慣れた手つきでサラダバーで野菜を盛り、それにチキンソテーの皿、ミネラルウォーターのペットボトルを選んだ。パンはとらない。
(中略)
「今日は私が清算するわ。好きなのを選んで」
志帆子にうながされたが、時差のせいかあまり食欲はない。ポテトサラダに魚のムニエル、ハードタイプの丸パンを選んだ。
「今日は天気がいいから、外に行きましょう」
トレイを持ってテラスに出た。
(中略)
食事は思ったとおりうまくなかった。魚はすっかり冷えていたうえに、ポテトサラダはほとんど味がしない。志帆子もまずそうにチキンをつついていたが、すぐにやめて、今度はサラダを丁寧に食べ始めた。

昼どきになっても志帆子が席を立つことはなく、リンダにサンドウィッチを買ってこさせていた。
「シン、ごめんなさい。明日はウガンダの大臣クラスにレクチャーしなきゃならないのよ。ランチは1人で行ってきて」
と言われたものの、志帆子を残して行くわけにもいかず、結局同じようなパサパサとしたサンドウィッチを買ってきて食べた。

東京からいくつか羊羹の箱を持ってきたのは幸いであった。虎屋の包み紙を見て、
「まあ、大好物です」
と、若く美しい山下夫人が相好を崩した。
(中略)
熊田があいづちをうつと、たまたまカナッペを運んできた彼の夫人が、かすかに揶揄を含んだ口調で言った。

「和食が多くて、日本からいらしたばかりの方にはつまらないでしょうけど......」
山下の妻が言いわけしたが、煮物やちらし寿司の他に、牛肉のワイン煮込もあり、いかにもスイスらしく、さまざまな種類のチーズが大皿に盛られていた。
(中略)
料理も気取ったものはなく、どれもおいしかった。
「材料がなくってまがいものですの」
と山下夫人がしきりに謙遜するちらし寿司も、ハムとグレープフルーツの酸味とよく合っていた。
帰りの運転は妻たちがすることになっているらしく、男たちは次々とワインのグラスを空けていく。志帆子が言っていたとおり、スイスワインは驚くほどレベルが高い。品よくバランスがとれた口あたりは、ブルゴーニュによく似ている......などと進也がつい口をすべらすと、
「村岡先生、ワインにお詳しいのね」
増井というテクニカル・オフィサーの妻が話しかけてきた。
(中略)
こうしている間に、料理の皿は次々と空になっていったが、デザートのチーズをてんでに切り分け、ドライフルーツやクラッカーと一緒に口に頬ばる。こうするとワインはいくらでも進んだ。白が次々と開けられる。
「スイスワインは初めて飲みましたが、とてもおいしいですね。どうして輸出しないんでしょうか。これ、日本人の好きな味ですよね」
進也の質問に、参事官の男が答える。
「量が少ないので、国内でほとんど消費してしまう。だからよそにまわす余裕がないんです」

「私、これから玉ネギ切りながら、あなたのプレゼンテーション聞くわ。さあ、やって」
本当にまな板を取り出した。玉ネギをみじん切りにしながら、志帆子は進也を促す。

志帆子も常連らしく、支配人がやってきて今回はどうしても子羊を食べていってくれと早口のフランス語でまくしたてた。
「そうね、もうそろそろ子羊がおいしい季節ですものね」
ワインは志帆子が決め、スイスの白ではなくボルドーのしっかりした赤を注文した。

「今、佐伯先生のお飲みになったのは、日高見っていって日本でも1、2を争うもんです。うまいのはあたり前かもしれませんね」
(中略)
「ああ、本当においしいわ。料理ともよく合っていいお酒ばっかり」
小原は女将に言って、別の日本酒の瓶を何本か運ばせた。この店では入手困難と言われる越後の「亀の翁(お)」も常備している。志帆子はグラスにそれをなみなみと酌いでもらい、薄く笑うようにして味を確かめる。
「濃くて深い味だわ。私、今、流行りのフルーティな日本酒なんてまるで認めませんよ。日本酒はくどいぐらいにおいしくなけりゃ」

夜は評判のレストランへ行き、2人で健啖ぶりを競い合う。志帆子は決して太っているという体型ではないが、驚くほどよく食べた。日本人が苦手とするジビエにも目がない。ちょうど猟の季節に入った頃だったので、ウサギやキジがメニューにあったが、そういうものを目ざとく見つけて注文した。そしてこれに合うワインを、じっくりとソムリエと相談する志帆子は、いかにも楽しそうだった。
「ロマネ・コンティでも、ペトリウスでも、好きなのを頼みなさい」
ほとんど酒を受けつけない小原は、こんな風に志帆子をけしかけた。
「まさか。こんな店でロマネ・コンティを飲んだら、それこそ天文学的数字になるわ。もっとリーズナブルでおいしい赤はいっぱいあるわよ。ねえ、ムッシュ、そうでしょ」

ねえ、フランス人って、どうして舌の使い方があんなにうまいのかしら......。フォアグラとか、マグレ・ド・キャナールとか、生牡蠣とか、あのトロリとした白アズパラガスの新芽とか、そんなものばかり食べているから、舌があんなに熱く絶妙に動きまわるんだわ。

志帆子はこの店の名物である、濃厚なフカヒレスープを誉めちぎった。
「なんておいしいの。私がいくら和食が好きっていっても、毎日懐石とお鮨じゃ飽きちゃうもの。ああ、おいしい。こんなおいしいフカヒレって、まずジュネーブじゃ食べられないものね」

「この何日か、生肉や生卵を食べたことはありませんか」
「いいえ......どちらもありません」
「夕食は何を食べましたか」
「はい、鶏のから揚げとマカロニサラダ、それからキュウリの漬け物と豆腐の味噌汁です」
「から揚げが生っぽかったということはないですか」
「それはないと思います」

ここはとても美しいだけじゃなくて、食べものが素晴らしいの。ドーデの『風車小屋だより』の世界そのものの美しい丘を歩いたり、野生のフラミンゴを見たり、渓流で泳いだ後は、素朴な南仏料理をいただきます。新鮮なヤギのチーズには、これまたフレッシュなオリーブオイルとオレガノをかけ、茹でた野菜には、アイオリといってニンニク風味のマヨネーズソースを合わせます。
ワインはコート・デュ・ローヌ・ヴィラージュ、そう高級とはされていませんが、こちらの料理とよく合うんです。

車で20分ほど走ったところに小さな修道院があった。4人のポルトガル人のシスターがここで布教活動を続けている。
夕食は自家製のパン、野菜とイモの煮たもの、そして肉がわずかばかり出た。美味い、というものではないが志帆子はひと口も残さず食べる。相手に失礼であるという以上に、食べ物を食べられる時に丁寧に咀嚼しておかないと、次にいつ食べられるかわからないことを身にしみて知っているからだ。
夕食の後、志帆子は乗り換えたパリのシャルル・ド・ゴール空港で、ふと思い立って買ったマカロンの箱を取り出した。青や桃色の美しい菓子は、中年を過ぎたシスターたちをことのほか喜ばせた。
甘いものは女の口をたちまち滑らかにする。たとえシスターでもだ。

夕食はフンジといってトウモロコシの一種を茹でてすりつぶしたものである。

結花は君枝を、昼下がりの青山のレストランに誘った。ここはオーガニックの野菜と、特別に育てた豚肉を食べさせる店だ。が、全く食欲がない。

食通を自任する男が選んだ店だけあって、料理はどれもうまかった。新鮮なぶりの刺身が出たかと思うと、カニを使った熱々のコロッケが運ばれてきたりする。カウンターではなく、4人でテーブル席に座っていたので酒が進んだ。そのうちに店主が秘蔵の一升瓶をかかえてやってきた。
「ちょっとこれ飲んでみてくださいよ。新潟の幻の一本っていわれてるやつだから」

フグ刺の大皿が運ばれ、シャンパンが抜かれたばかりだ。
「なんて美しいの」
志帆子は感嘆の声をあげた。藍染め付けの大皿に、薄く透き通ったフグの刺身が、大きな牡丹をかたどって盛り付けられているのだ。
「食べるの、もったいないわね」
こんな時、誰もが口にする感想を漏らした。しかしその言葉とは裏腹に、すぐに志帆子の箸は伸びた。花芯にあたる部分をためらいなくまっ先に崩していく。
「スイス人に見せたらびっくりすると思うわ。食べ物がまるで芸術品みたいなんですもの」
(中略)
「ああ、なんておいしいのかしら。フグを食べると、冬に日本にいないのが悲しくなるわ。お金の続く限り毎日食べたい。といっても、こんな高級な店に来れるはずはないけれど」

れおなはビールは飲むものの、鮨は食べようとしない。
「ものすごくおいしい中トロだったわ」
「ママ、もう4貫も食べてる」
「当然でしょ。今の季節日本に帰ってくる楽しみは、フグとお鮨なんだから」
「ママ、フグは食べたの?」
「ええ、昨日いただいたわ。同級生の開業医におごってもらっちゃった。その人、お金持ちで食べること大好きだから」

桂子が茶を運んできた。小さな和菓子が添えられていた。

商店街の和菓子屋で、大福ときんつばを買った。徹は洋菓子は食べないが、アンコものは大好物だ。酒を飲まない2人は、和菓子を食べながら、ビデオを見る。時々はゲームもした。

「マギー、これはあなたの大好きなブリュー・フローラのチョコ。保冷剤をぴったり貼りつけておいたけど、この暑さだわ、すぐに冷蔵庫に入れて。それからのこのスイスワインもね」

川に浮いた板の上に、幾つかの屋台が出ている。どぎつい色の砂糖菓子、揚げパン、ジュース、干した魚......板から降りると、地面の屋台では野菜と果物が売られていた。
「ドリアンがあるわ」
志帆子が指さす。茶色の小さなフットボールのような形をしている。
「買っていくの?」
「ちょっと無理ね。マンダリン オリエンタルは、ドリアン持ち込み禁止なの。隠して持ち込もうとしても、あそこのドアボーイはものすごい嗅覚の持ち主でね。マダム、失礼ですが、何かお持ちでは......ときちゃうのよ」
「そんなにおいしいの」
「好き好きね。私はたまらなく好き。どうしようもなく食べたくなる時があるわ。そういう時は買っていって、知り合いの家で切ってもらうことにしていたの」
そして志帆子は歌うように、
「悪魔のにおい、天使の味......」
とぶつやいた。
(中略)
「ドリアンが食べたいわ......」
志帆子がつぶやく。
「実物を見ちゃったら、やっぱり食べたくなっちゃったわ」
「だったら買ってくればいいじゃないの」
れおなはぶっきらぼうに言った。朝早く起きたせいで少し不機嫌になっていたからだ。
「でもホテルへは持ち込めないわ」
「じゃあ我慢するのね、ママ」
「食べたことがない人にはわからないと思うけれど、ドリアンは一度でも口にすると、呪いをかけられるの。一生この味を忘れられないし、ジュネーブやニューヨークの真中を歩いていて、急にドリアンのことを思い出す。すると食べたくて食べたくて、気がおかしくなりそうになってくるのよ」

マンダリン オリエンタルの朝食は、川沿いのテラスで食べる。豪華なビュッフェだ。パンが何種類もあり、どれもおいしい。まさかタイでこれほど美味なクロワッサンが食べられるとは思ってもみなかった。れおなは皿に生ハムとクロワッサンを盛り、冷たいグアバジュースと一緒に咀嚼した。

幾重にもくるまれた紙を取り去ると、ジップロックに入ったドリアンがあらわれた。
「嬉しい。ずっとこれを食べたくて食べたくて、昼間から気もそぞろだったわ」
志帆子は部屋に置かれたフルーツバスケットからナプキンを取り上げた。
「このホテルの素晴らしいところは、毎日このフルーツを取り替えてくれることだわ。特に私の好きなスターフルーツは、たっぷり盛ってくれるの。でもどんな果物だって、ドリアンにかなうはずはないもの」
「食べるんだったら、窓を開けた方がいい。においがこもらないように」
(中略)
男は一緒に持ってきたナイフで、力を込めて果実を切断した。においがあたりにたちこめる。とても果物から発せられるものとは思えないほど、重く動物めいたにおいだ。
「このにおい、小便くさくないか」
小原は顔をしかめた。
「おかしなことを言わないで、さぁ、ひと切食べなさいよ」
志帆子は大きく切った果肉を差し出した。そうしながら自分もひと切頬張る。
「もうちょっと熟れていた方が私は好き......。でもおいしい......」
「志帆子は好きなものを食べる時、本当に幸せそうな顔をするね」
ソファに腰かけた小原は満足そうに微笑んだ。
「残さず食べるんだな。ひと切でも残してこの皿に置いたら大変なことになる。皮と種は持って帰ってやるが......。そういえば、今朝、君の娘とすれ違ったよ。この下で」

志帆子は自分でワインを注ぐ。冷房をきかせているが、外の熱気はどこから忍びよってくるのか、ワインはすぐにぬるくなる。志帆子は冷凍庫の中から氷を取り出し、2個ワイングラスに沈めた。
「随分、乱暴な飲み方をするんだな」
「いいのよ。そんなに高いワインじゃないんだから」

深夜の便で日本に帰るれおなが、最後にもう一度タイ料理を食べたいと言い出した。志帆子は予約も出来ないような、町の小さなレストランに連れ出した。6時を過ぎたばかりだというのに、店は満員であった。やっとのことで2人テーブルを確保し、れおながすっかり気に入ったタイ風カレーや、エビと玉ネギのサラダ、魚のすり身の揚げものなどを注文した。
まずはローカルビューで乾杯した。

神奈川から帰る進也のために、彼が予約してくれたのは渋谷の駅ビルの中にある割烹料理の店だ。博多が本店で、鶏の水炊きがうまいという触れ込みであった。

外に出るのも億劫だからと、志帆子はホテルの中の中華料理を提案してきた。高級なフカヒレ料理も、うまい老酒も、どちらもジュネーブではあまり見かけないもので、それは志帆子の大好物である。
「ああ、おいしい。こんなぶ厚いフカヒレ煮込みが食べられるのは、東京だけかもしれない。落ちぶれた、って言っても、こういうものにお金を遣う人は多いのよね」
「ママ、今日、中華だったら、おめあてのお鮨はいつ食べるの」

下の鮨屋で好物のマグロをたらふくつまんだ志帆子は、飲食のために唇と頬がいきいきと赤くなっている。

「まだ私、何も食べていないのよ。私が朝、しっかり食べるの、れおな、知っているでしょう」
「ルームサービスでも頼んだら」
娘は声も母親に似ていなかった。冷たい声を出そうとしているが、ふだんは甘やかな愛らしい声に違いない。
「もっとも、もうランチメニューになってますけどね」
「それでもいいわ。コーヒーにサンドウィッチ......ううん、ここの特製ハンバーガーというやつにしてみようかしら」
「ママって、いったい、何考えてんのッ」
れおなは志帆子が手にしかけたメニューをばしっとはらう。

林真理子著『アスクレピオスの愛人』