たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

寒空の安アイス『夜の谷を行く』

田中美津著『この星は、私の星じゃない』を呼んで、永田洋子氏のことを知りたくなり、たどり着いたもののひとつがこのアダプテーション小説だった。
巻末の弁護士・大谷恭子氏の解説にもあるが、判決主文の「女性特有の執拗さ...」の破壊力が強すぎる。
これは腹立つね。何様。

朝作った野菜鍋に餅を足して夕食にすることにして、冷凍庫にある餅の数を確認した。正月に買った切り餅は、あと数個を残すだけになった。

啓子は逃げるようにジムを出て、駅前のスーパーで安売りをしていた鮭の切り身パックと大根を買っただけで、アパートに帰って来た。

啓子は、急ぎ図書館で新刊本を2冊借りてから、和菓子屋に戻った。ショーケースが桃の花で飾られ、雛あられや桜餅が並んでいるのを見て、桃の節句が近いことを知る。雛祭りには縁も興味もないが、道明寺を4個買って、手土産とした。
(中略)
啓子は忘れていた和菓子の包みを差し出した。
「これ、道明寺。和ちゃん、好きでしょう?」
「じゃ、先にお茶でも飲む? 染めるのなら、時間かかるからさ」
(中略)
「3人でお蕎麦取ったのよ。2人ともお腹が空いているっていうから。佳絵も、せめて洗ってから出掛ければいいのに」
和子がぶつぶつと文句を垂れた。ヤカンをガスにかけてから、丼を洗い始める。
(中略)
煎茶が入ったので、啓子は菓子の包みを解いた。「お雛祭りか」と、和子が桜の葉を剥がして、道明寺を指で摘まんで口に運んだ。啓子は葉ごと口に入れる。

「お昼、何食べる?」
わざと明るい声で尋ねると、何の躊躇もなく答える。
「中村屋のカレーにしよう」
「中村屋でいいの? もっといいレストランとか行かなくていいの?」
「いいよ。俺がパクられる前に、啓子とカレー食ったの、覚えている?」
(中略)
「こんなデパートの食堂みたいなところでいいの? せっかく40年ぶりに会ったんだから、上のレストランに行った方がよくない?」
「いいよ。俺は中村屋のカレーが食べたかったんだ」久間は嬉しそうに店内を見回してから、啓子の顔を見た。「ご馳走になってもいいかい?」
「もちろん、いいわよ。ビールとサラダとカレーでいいの? 学生みたいなご飯ね」
啓子は、運ばれて来たビールを注ぎ、久間と乾杯した。
(中略)
久間がカレーを食べ始める。「やっぱ辛いね」と言って、啓子の顔を見て笑った。

「お腹空いたね。何か食べる?」
久間が何も言わずに頷いたので、冷蔵庫の中にあった総菜の残りと、鮭缶で遅い夕食を食べた。焼酎があったので、お湯割りにして乾杯する。

速く1人分の総菜を買って帰り、アパートに籠もりたくてたまらない。
半額になったサラダや炒飯のパックを手に取って籠に放り込む。ついで酒売り場にも寄って、焼酎のボトルを籠に入れた。
(中略)
レジを通り、作荷台でレジ袋に買った物を詰めていると、すぐ後ろの作荷台に管理人の老人がいた。不器用そうな手付きで、日本酒や煮魚のパックをレジ袋に詰めている。

「いいわよ。悪いけど、来る時にお鮨でも買って来てくれる? 後でお金払うから」
「もう買った。ちらし寿司にしたわ」
和子が打てば響くように答えた。ちょうどちらしが食べたかったから、好みの似た姉妹なのだろう。
「ありがとう。じゃ、お吸い物でも作って待ってるわ。何もないけどいい?」
「おかずも何か買って行くから、要らないよ」
それでも、豆腐と三葉の吸い物と、トマトサラダを作って待っていると、和子は30分後に到着した。
(中略)
啓子がグラスに注いだ発泡酒の泡を見つめながら、和子が言った。ようやく話が嚙み合って、2人は乾杯の真似ごとをした。
グラスに口を付けた和子は、「冷たいわ」と言って、胸をさするような仕種をしたが、久しぶりに人と食事をしているせいか、啓子には美味しく感じられた。「うまい」と呟き、笑みを漏らす。
(中略)
ちらし寿司を食べ始めた。
啓子は、ふたつの椀に澄まし汁をよそって三葉を散らし、テーブルに運んだ。
啓子もちらし寿司を口に運んだ。商店街の鮨屋の物らしく、美味しかった。
(中略)
「これ、よかったら食べて」
トマトサラダを勧めたが、和子は見向きもせず、自分の買ってきた総菜だけに箸を付けている。

啓子は、途中、自販機で買った缶コーヒーを差し出した。バッグから、クッキーの袋も出す。
「これ、食べて。ここで食べてても構わないんでしょう?」
「もちろん、誰かが店番していればいいのよ。長話していたねって言われたら、お得意さんだからお喋りしていた、と言えばいいの」
(中略)
啓子は冷たくなった缶コーヒーを飲んだ。人工的な甘みに咽せそうになる。

小屋の建設から戻って来た男たちが、テントの外で昼飯代わりの汁粉を食べていた。
(中略)
やがて、啓子は見張りを解かれて、やっと昼飯の汁粉にありついた。
箸で数粒の小豆を掬った時、永田がせかせかと横にやって来た。

藤川が、啓子の手にどさりと野菜の袋を握らせた。中に入っているのは、ジャガイモ、にんじん、キュウリ、ズッキーニ、春キャベツだ。
「重いかもしれないけど、食べてみて」
「ありがとう。ずいぶん話したわね」

「悪いけど、百円貸して。あたし、自分の財布を持って来なかったの」
「いいですよ。何買うんですか」
「アイスクリーム食べたいの」
この寒さの中、冷たく甘いものが食べたいのは、妊娠しているせいだろう。普段は諦めているのに、里に下りて来たら急に、体が欲し始めた。
「あそこで売ってるんじゃないかな」
近藤が、県道沿いにある駄菓子屋を指差す。ガラス戸越しに、森永の白いアイスクリームケースが見えた。
「俺も食いたい。俺のも買って来てくれますか」
近藤が小銭を数枚、掌に落としてくれた。
啓子は、カップに入ったバニラアイスクリームをふたつ買った。店番の老婆が白く薄い紙袋に入れて、丁寧に端を畳んでくれる。
(中略)
「外で食べようよ」
啓子が誘うと、今度も頷いて外に出た。2人で雪の積もった林の中に分け入り、もどかしくアイスクリームの蓋を取った。中身を掬おうとするが、アイスは寒さで固く凍っている。啓子は木の匙で、虚しく表面を削った。早く口に入れたくて焦れったい。
(中略)
啓子は頷きながら、アイスクリームの表面を直接舐めた。舌の温度で次第に溶けていく。甘みが口中に広がって叫びだしたいほど旨かった。あまりにも安易に幸福感が得られたため、その安易さに呆れながら、夢中で食べた。
「機会の私物化って言われるかもね」
近藤と目を合わせて言う。
「機会の私物化か。うまいこと言いますね。組織の買い物中だからですか?」
(中略)
近藤はあっという間にアイスクリームを食べてしまい、名残惜しそうに匙を舐めた。頬がこけた顔に生気が戻ってきていた。
近藤はアイスのカップと匙を雑木林の上に投げ捨てた。

風呂を沸かしてから、まず発泡酒の缶を開けた。途端に空腹を感じたので、藤川に貰ったキュウリを洗って、味噌を付けて食べてみた。新鮮で旨かった。
生で食べると意外といい、と言われたズッキーニも、同じようにして食べてみた。ねっとりしていて、こちらの方が好みだった。

「仲がいいわけじゃなかったけど、彼は運転ができるので、一緒に沼田に買い物に行かされたことがあるの。スキムミルクとか砂糖とか買いにね。スキムミルクはお湯で溶いて皆で飲んだ。金子さんも、栄養付けるために飲みたがっていたわね。砂糖は必需品で、料理の最中にこっそり舐めたりもしたっけ。そしたら、そのお使いの帰りに、急にアイスクリームが食べたくなってね。近藤君のお金で森永のカップアイス買ったの。沼田の帰りに、いわゆる駄菓子屋さんがあって、そこにアイスクリームを売ってたのね。アイスくださいって言うと、ケースの底の方からカチカチに凍ったアイスクリームをふたつ出してくれて、この寒いのにって驚いてた。内緒で2人で食べたのよ。あれは美味しかった。あたし、妊娠してたから、冷たくて甘い物が食べたくて仕方がなかったのよ。砂糖もしょっちゅう目を盗んでは舐めていた。ばれなくてよかった。ばれてたら、買い物になんか行かせて貰えない」

スーパーのフードコートで、遅い昼飯を摂っている啓子の携帯が鳴った。発信者が和子と知って、タンメンを食べていた啓子は箸を置き、不承不承、電話に出たのだった。
(中略)
和子が紙袋から、小さなケーキの箱を取り出した。その箱をちらりと見て、和子に訊ねた。
「新茶を買って来たから、これ飲んでみない? それとも、紅茶かコーヒーの方がいい?」
(中略)
ざっと眺めた後、啓子は湯気を上げているヤカンの火を止めて、茶を淹れた。間髪を入れずに、和子が言う。
「チーズケーキと合わないんじゃない」
今頃何を言っているのか。啓子は憮然とした。
「さっき聞いたのに、何も答えないから淹れちゃったよ。何を持って来てくれたのかも知らないし。あなた、自分で好きなお茶、淹れなさいよ」

真っ先にアイスクリームを買うつもりだったが、そのコンビニにあるのは、コールドストーンや、ハーゲンダッツなどの高級なアイスクリームばかりだった。
仕方なしにハーゲンダッツのバニラアイスを買い、家に着くまで我慢できずに、児童公園で蓋を取った。
プラスチックの匙で、固いアイスクリームの表面をほじくっているうちに、なぜか涙が出そうになった。こんな濃厚な味より、あの時、近藤と食べたアイスの方が、遥かに美味しかったと思う。

2人で蕎麦を啜った後、代金は無理やり啓子が払った。

桐野夏生著『夜の谷を行く』より