たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

林真理子『秋の森の奇跡』

この小説で「気ぶっせい」という言葉を学んだ。転んでもただでは起きぬ。

裕子が店長を務める輸入家具店の近くに、新しく紅茶専門店が出来た。試しに買ってみたブレックファーストブレンドに熱湯を注いだばかりだ。夫の康彦も、10歳になる七実も紅茶よりもコーヒーを好む。朝が早い2人は、慌ただしくコーヒーを流し込むとトーストを齧り家を出ていく。夫と娘を送り出した後、ゆっくりと紅茶を飲み、新聞に目を通す。これは、裕子にとってささやかな幸福のひとときである。店は11時開店だから、10時までに出社すればよい。体重が気になるというものの、トーストにバターを塗り、その上に紀ノ国屋インターナショナルで買ったママレードをさらにのせる。これは裕子の少女時代からの習慣だ。紅茶はコーヒーと違い、ゆっくりと飲むものだ。そろそろ洗面所に行って化粧をしなくてはならないが、もう少し紅茶を味わっていよう...。

プラチナ通りにある、京野菜を使った中華の店で遅いランチをとりながら圭子がさめた言い方をする。

夕食にはカレーをつくり、温めればよいだけにしてある。昨年までは週に3回、夕方だけのパートタイムの女性を頼んでいたのであるが、今は簡単なことなら七実がしてくれるようになった。仕事柄早く帰宅することの多い康彦は昔から料理がそう嫌いではない。得意とまではいかないが、億劫がらずに頼んだことはしてくれるので、今までどれほど助かったことだろう。今夜もおそらく、冷蔵庫の中の野菜を使い、カレーの他にもう一品サラダをつくってくれるに違いない。

白金の店からタクシーで青山のピーコックに行き、そこですぐに食べられるものを幾つか買った。銀ダラのカス漬けにふかすだけのシューマイ、そして白菜漬けに煮豆といったものである。
精肉売場の前を通った時、裕子の胸はかすかに痛んだ。
製薬会社に勤めていた父は、母と兄を連れてしばらくスイスに駐在していたことがある。裕子が生まれる前のことだ。そこで母が憶えた料理のひとつに、牛肉をパイ皮でつつんで焼いたものがある。クリスマスや自分たちの誕生日に、母がよくつくってくれた。自分たちが独立し、父が亡くなり、家のオーブンからあの艶々とキツネ色に輝いた塊が取り出されることはもうない。

前菜が次々と運ばれてきた。
「全然気取らない店だから」
と伊藤は言い、何皿か頼んで3人でシェアすることにした。空豆のサラダ、生ハム、タコのマリネといったものを、伊藤は手際よく皿にとり分けてくれた。片手でスプーンとフォークをさばくというのはなかなか出来ないことである。

まずはビールで乾杯し、その後、伊藤の勧める冷酒を口にした。青竹に入ったそれは、かすかに竹のにおいがする。食事の前に飲むので甘く濃厚な酒であるが、口あたりは実にさわやかだった。
(中略)
前菜がひととおり出た後、夏らしくおつくりは鱧であった。氷の上に盛られたそれは、美しい鹿の子模様を見せている。ひと昔前までは関西でしか食べられなかった鱧だが、最近は東京でも出すところが多い。鱧は裕子の大好物であった。といっても、スーパーで買う鱧はあまりにも味けなく、こうした店でなければ口にしない。
「とってもおいしいわ」
日本酒はいつのまにか、辛口のさっぱりしたものに替えられていた。喉ごしにさしつかえないぐらいの冷たさだ。
「僕は関西ですからね、やっぱり夏は鱧ですよ。他の魚じゃ食べた気がしない」
(中略)
そこへ、備前の中皿に盛られた鮎が運ばれてきた。焼けめのこげ茶と塩の白とが食欲を誘う。
「やっと解禁になりました。四万十川のものですから最高でんな」
こちらははっきりと関西弁を喋る主人が言った。
「さあ、かぶりつきましょう」
「ええ、いただきます」
「気取って骨抜きなんかしないでくださいよ。こういうのは豪快に食べて、跡を綺麗にすればいいんですから」
鮎も鱧と並んで裕子の好物である。こちらもたまに和食の店で食べるぐらいであるが、小さな鮎だったら頭からかりりと齧る。今日の鮎は養殖のものとは面がまえから違っていた。それにかなりの大きさなので、裕子は腹から箸を入れた。伊藤の言うとおり、身を大きくほぐしていったが、皮も腹わたもすべて食べた。残った骨は皿の片隅の笹の葉の下に隠した。
「やあ、裕子さんって、なんて綺麗に魚を食べるんだ」
(中略)
裕子は西瓜が出た時にちらりと時計を見た。9時15分。こういう店はゆっくりと料理を出すので、あっという間に時間がたってしまった。

「10時には帰ってくると思うわ。悪いけどカレーを食べさせてやって」
「またカレーかよ」

こあがりに、2人分の席が用意してあった。
「まずはビール、と言いたいところだけれど、僕にはウーロン茶。こちらにはビールでいいかな」
「ええ、いただきます」
伊藤はウーロン茶だけで、白焼きや酢のもの、お新香といったちまちましたものを口にする。
「この店、昨年突然出来て、あまりのうまさに口コミで人気になっているんですよ」
いつのまにかカウンターは人で埋まっていた。鰻は白焼きを口にしただけだが脂がのっていて大層おいしい。
「本当。最後にいただく鰻丼が楽しみだわ」
(中略)
やがて飴色に光る蒲焼きが、黒い漆の重箱に盛られて運ばれてきた。まるで計算されたように美しいこげ目がついている。口に入れた。鰻はあまり食べない裕子であるが、それがとびきりうまいものだとわかる。ふっくらと炊かれた熱い白米も最高だ。
「なんておいしいのかしら」

ひと筋の光が射し込んだような気がした。
駅前の果物屋で、二十世紀梨と栗を少し買って実家へ向かった。十五夜には少し早いけれども、今夜は2人だけでお月見をするつもりだ。裕子が幼い頃、母はそういう行事をとても大切にしてくれていた。七夕にはみなで笹を飾り、十五夜には母のつくってくれた団子を食べた。あの頃は自分のうちで、いとも簡単に母親たちは月見団子をつくってくれたものだ。

夕食は2人で出前の鮨をとることにしている。古くからの住宅街であるこのあたりは、案外いい鮨屋がある。先代からのつき合いなのであるが、最近は、ひとり暮らしで出前をとることもないと典子が淋しがっていた。もう少ししたら、電話をかけてみよう。今夜は自分がおごって、特上を頼むつもりだ。そのくらいしか母を喜ばせることが出来ないが、今は仕方ない。
「お鮨の電話かける前に、紅茶でも淹れようか」
そして栗を鍋にかけておこう。栗は茹でたてよりも、冷めかけて汁がしみ込んだ頃がおいしい。デザートに、ほっくりと甘い栗が食べられるはずだった。
(中略)
「お母さん、オレンジペコがよかったっけ。それともダージリンだっけ...」
「どっちでもいいけれど、ミルクを入れてね。年をとったら何も入れないで飲むの、なんだかきつくなってきたの」
「わかったわ。ミルク入れるわ、たっぷりね」

イタリアンといっても、ファミリーレストランとそう大差はない。裕子はメニューの写真を見ただけでもまずそうなボンゴレと、ミニサラダを頼んだ。真一はビールとピザをオーダーする。ビールくらい飲まないとやりきれない気分なのだろうと、裕子は大目に見ることにした。

「夕食、どうした」
「2人で、丸木屋にそばを食いに行ったよ。もっとも七実は親子丼だけどな」

野鳥をあまり食べたくないと言ったところ、小日向のレストランを提案してきたのだ。
―――ウズラは好きですか。あれも一応野鳥ですよね。ウズラのパイ包み焼きがとびきりうまい店です。秋が深くなりました。うまい赤ワインと共にいかがですか―――
このメールには逆らえない力が潜んでいるようであった。「野鳥」「赤ワイン」という単語は、思わぬ強さで裕子の心をとらえた。
―――ウズラ、かわいそうですけどおいしそうですね。ぜひ行ってみたいです―――

「この店は、ちょっと時代遅れかと思うような、昔風のフレンチを出しますよ。ソースもどっしりしていますけど、これが赤ワインによく合うんだなあ...」

その後、裕子はデパートの地下のデリカテッセンで夕食を買って家に帰った。マカロニグラタンは有名レストランのものだけあって、オーブントースターで温めると大層おいしくなった。出来合いのサラダでは気がひけたので、それにトマトとハムを加える。さらに昨日の残りの茄子に煮びたしを添えた。

「いいの、いいの、お昼は出前のピザでも食べさせとくけど、それでもいいわよね」

地下の食料品売場で、すぐに食べられそうなものをあれこれ選んだ。有名な日本料理店の出店があり、そこにうまそうなものがいろいろ並んでいるが、値段が高いのでいつもは素通りしていた。そこで鯖の味噌煮を3つと、小芋の炊いたものを買う。
(中略)
そして少し行列に並んだ後、話題のロールケーキを手に入れた。

食い道楽の彼女が、その夜選んだのは、六本木のスッポン料理店だ。たった4組しか客をとらないその店は、スッポン鍋の前に、小ぶりの美しい鮨を出す。それを肴に2人は冷酒を飲み始めた。
(中略)
そこへぐつぐつ煮え立つ鍋が運ばれてきた。まるで昔の少年雑誌の挿絵から抜け出してきたような、白衣を着た美青年が、スープをよそってくれる。
ブツ切りになったスッポンが、また泡を立てていた。
(中略)
「女2人が食べるのには、スッポンが最高よね。おいしく食べながら美しく!」
「安けりゃもっといいんだけど...」
「何言ってんのよ。安いスッポンなんか食べる価値ないわよ。ここは霞ケ浦から最高のスッポンを仕入れてるのよ。他の産地のものとは全然違うわよ」
(中略)
そこへさっきの青年がやってきて、雑炊にしますかと問うた。
「お願いね。ここの地獄みたいに熱々の雑炊食べるとね、なんかやたら元気が出てくるのよ」

「喉渇いたわね。伊勢丹の上でクリームソーダを飲みましょう。アイスクリームだっていいのよ」

「ビールをいただいていいかしら」
「どうぞ。僕はおつき合い出来ませんが」
2人でつき出しの小鉢や板わさ、卵焼きといったものを分け合って食べる。もう2組いた客は食事を終えて立ち上がった。新井はウーロン茶を飲みながら、
「本当においしそうだなァ」
と羨ましがった。

トーストに蜂蜜を塗りながら、ゆっくりと典子はひとりごとのように言う。

ビールで乾杯した。といってもぎこちない雰囲気は消えるわけではなかった。この店はしゃぶしゃぶが有名らしいが、どちらもそれについて言い出すことなく、中ほどの値段の懐石を頼んだほどだ。

「夕食をお願いします。豚肉を買ってありますので、しょうが焼きにしてください。それから湯豆腐も」

「裕子さんは臓物が好きですか」
「あんまり食べたことがないけれど...」
「ここはお上品なフレンチじゃなくて、パリの下町で食べるような、ちょっと下品なフレンチらしいんです。ここのオーナーが店を出す時、どこがパリの下町にいちばん近いんだろうっていろいろ見た結果、ここになったそうですよ。ちょっと歩くと川があって、ごちゃごしているところが、そっくりだって」
(中略)
メインの料理を裕子は鴨、新井は臓物の煮込みと決め、オーナーが勧めるチリのワインを頼んだ。うんと下品に、じゃぶじゃぶ飲めるワインという注文に、苦笑いしながらオーナーが決めてくれたものだ。

「今、駅前でタコ焼きを買ってきたのよ。熱いうちに食べましょうよ。どうせ病院のご飯なんておいしくないもんね。ほら、熱いお茶も買ってきたのよ」
「ああ、おいしそう。ありがとう」
典子はふたつ続けてほおばり、そして言った。
「こんなに親切にしていただいてすいません。娘がもっと早く来てくれたら、こんなにご迷惑おかけしませんのに」

林真理子著『秋の森の奇跡』より