たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

カウンターの舞妓さん『その手をにぎりたい』(1)

冒頭の超高級寿司店に陣取る中高年男性と若い女性の組み合わせ模様を読んで、京をどりの日、三年坂のカウンターだけの料理店で、年配の男性と舞妓さんの2人連れと隣り合わせたのを思い出した。舞妓さんが、電話を取るために外に出た男性を料理を前にじーーっと静かに待っていた。「旦那」はなかなか戻ってこず、いろんな意味で野暮だなぁと思った。お店の人もイライラしたんではないか。

お運びの少年が差し出した湯のみは、思わず頬がほころぶようなふっくらした味わいの新茶だった。
「さ、なんでも好きなものを頼んでいいよ。今日はね、僕と君だけの送別会だから」

「ヅケって......?」
職人は、ややくぐもった低い声で淡々と応えた。
「江戸前鮨を代表する握りですよ。江戸時代は冷蔵庫なんてありませんでしたから。とれたての鮪は醤油に漬けて、保存性を高めたんです。うちでは湯通ししたものを2日間、醤油に漬けております」
せっかくの鮪を醤油にひたしてしまうなんて、内陸育ちの青子にはもったいない気がする。
職人は、容器から醤油のしたたる切り身をまな板に載せ、光る包丁をすべらせる。外側は白っぽいのに、切り身の断面の中心はどっぷりと赤黒く沈んでいた。職人は左手にネタを取り、おひつから米をすくいとると、まるで舞うような手つきで軽やかに握った。見とれるような鮮やかさで、わずか数秒間の出来事だった。あまりにも動きが素早いものだから、何もないての中から突然、鮨が生まれたように感じられる。作業中も変わらないところを見ると、職人のむっつりした顔つきは怒っているのではなく、生まれ持ったものらしい。(中略)
「ヅケの握りでございます」
職人が手のひらに握りを載せ、こちらにすっと差し出した。大きな手の甲で、鮨はとても小さく見えた。青子は首を傾げて、その一重の目を見つめ返す。
「ほら、職人さんの手のひらから直に受け取ってください」
近藤の言葉に驚いて、鮨と職人を見比べる。お鮨を直に手から手へ———。そんな接客、聞いたこともない。職人がうなずいた。
「一番美味しい状態で食べていただくための工夫なんですよ」
「工夫......」
「うちの舎利はふんわりと握っております。そのため、硬い場所に置くとわずか数秒でネタの重みで舎利が沈んでしまうんです。お客様はお話に夢中になることが多いですが、こうして手から手に受け取れば、自然とすっと口に運ばれますでしょう。握りたてをすぐ召し上がっていただくための当店独自の工夫なんです」
意外なくらい熱心な語り口に引き込まれた。彼の手にちょこんと載った鮪は、光の加減のせいかルビーのような輝きを放っている。青子は神々しいものに触れる気持ちでそっと手を伸ばした。職人の手のひらに、こちらの指の腹がかすかに触れる。思わずぞくっと身震いしてしまうほど冷たい。見れば、指先まで痛々しいほど赤く染まっている。何度も何度も水をくぐり、極限まで冷やされているのだろう。爪はこれ以上ないところで短く切り揃えられ、酢や塩で痛めつけられたのか指紋は非常に薄い。鮨を握るための手———。(中略)
それにしても、人の手から直に耐え物を貰うなんて、何年ぶりか。幼い頃、母の手のひらから受け取った手作りのおやつを思い出す。お焼きに揚げたてのドーナツ、さつまいもの天ぷら、そしてかんぴょうの海苔巻き。人から人に食べ物が渡る光景はなんと穏やかで幸福なのだろう。そこに確かな信頼関係がなければ成り立たない。青子の胸はほんのりと温まる。醤油を探すが見当たらなかった。
「そのままお召し上がりください」
「あ、そうか、ヅケでしたね」
待ってましたと言わんばかりに、近藤が身を乗り出す。
「江戸前の鮨はね、一つ一つに仕事がしてある。ここじゃほとんどのネタに醤油をつける必要はないんだよ」
(中略)
鮨を口に運び、青子は思わず目を閉じる。経験したことのないドラマが口の中で起きている気がした。なんだろう、なんだろう———。ねっとりした質感の冷たいヅケを噛み切るこの心地良さ。酢の風味、硬く炊かれた米のくっきりとした甘み、ひんやりと醤油が芯まで染みこんだ鮪。それらがとろけて一体となり、喉から鼻に風味が抜け、体中に染みこんでいく。
(中略)
とっくに鮨を咀嚼したはずなのに、今なお指先にまで美味がじわじわと浸透していくようだ。青子はほうっと一つため息をつく。鮪を醤油に漬け込んでしまうのはもったいないように思えたが、ヅケにすることで舎利とよくなじむ。鮪の美味しさをこれ以上引き出す調理法はないのかもしれない。くさみはまったくなく、喉をすべる時のみ、かすかに鉄の香りが立ち上った。そう、鮪特有の血の味。当たり前だが、一つの命を取り込んだのだ、と初めて気付く。いかにいい加減な気持ちで食事をしてきたのか、いや、いかにいい加減に生きてきたのかを突きつけられ、ぎくりとする。
生魚を食べる習慣がないばかりではなく、今までそれほど鮪を好きではなかった。鉄っぽい味わいが苦手だった。はっきりと避けるようになったのは、2年前の母の通夜からかもしれない。母の遺影の前だというのに、平気で土地や相続の話で盛り上がり、鮨の出前にはしゃぐ親戚に嫌悪感を覚えた。

老人が大将に呼びかけた。
「塩むすびとお新香をいただこうかな」
「はいよ」
耳を疑って、老人を見つめた。鮨屋でおむすびが頼めるのか———。しばらくして、大将がさっとおむすびを結び、漬け物と一緒に小皿に載せて差し出した。遠目からでも米の一粒一粒がつややかに光っているのがわかる。老人は両手をこすり合わせると、さも美味しそうにかぶりつく。
「鮨職人の腕が一番よくわかるのはね、ただのおむすびだと、僕は思ってるんだよ。もうそんなにたくさんは生の魚を食べられない体だからね」
(中略)
「礼儀知らずだってことはわかってるよ。何年も通い続けてようやくわがままを聞いてもらえるようになったんだ。いや、ただの塩むすびがこれほどうまいとはね。結び方、塩加減、口にいれたときふんわりと米がほどけるこの感覚。いやあ、こたえられないよ」
そう言って彼は大将に笑いかける。大将はやれやれといった顔つきで、それでも口元をほころばせている。青子はうらやましくなった。あの塩むすびは決してお金では買えない。二人が何年もかけて築きあげた信頼関係のあかしなのだ。
(中略)
「残念です。だって、あの......。もう少しすると新子がうまくなる季節なのに......」
真面目な言い方に、カウンターでどっと笑いが起きる。青子は目を見張る。いや、この人は心の底から自分に新子というものを食べさせたがっているのだ。

海苔の巻かれていないふんわりとしたウニの握り、醤油をつけずに山葵だけで食べるネギトロ巻き、柚子風味に味付けしたやりいか......。あの日から、青子は「すし静」で口にした鮨のことばかり考えている。大好物のピザやドリアにまったく興味を引かれなくなった。

高田くんはおまかせを注文し、4人はカウンターに横並びして、同じものを同時に口に運ぶ。ネタはそう悪くない。青子はこの間と比較し、冷静に判断する。しかし、舎利の力が到底およばない。米の質はもちろん、酢飯の味付け、なにより握り方が徹底的に違う。こちらが咀嚼が必要な米の固まりなのに対して、「すし静」のそれはふんわりとほどけるのだ。口に含んだ瞬間、まるで蓮の花が開くように、舎利が小さな風を広げるのだ———。鮨をいちいち醤油に付けなければならないのも、もはやひどく野暮に思えた。職人の指からぽんと口に放り込まれるような「すし静」で味わうやみつきになりそうな贅沢さ、怠惰な歓びといったら......。

色黒の職人は見せびらかすように、ひらひらと華麗な手つきで、鮪を握り始めた。安い値段でそこそこの物が食べられ、現代的な店作り。ここが繁盛するのは当然だろう。誰もが味にうるさくなっている。飽食の時代といわれて久しい。普通の主婦まで「おいしい水」にこだわる昨今だ。
鮪の握りが二つ、付け台の笹の葉の上に並んだ。
この店のウリである、舎利を覆い隠すほどのたっぷりとしたネタ。十分に美味しいけれど、あくまでも青子にとって「たたき台」だ。「かつ鮨」に通っているおかげで、指を使って鮨をつまみ、きっちりと一口で頬張る癖がついた。素材の味わい方やスマートな注文も覚え始めている。
(中略)
家に帰ったら、熱いお茶を淹れ、ガリをつまもう。(中略)
あの手が、あの鮨が恋しくなるとき、青子は「すし静」で買い求めたガリを噛みしめることにしている。常連客らの熱心な希望で販売するようになった自家製のガリは、普通の鮨屋が扱うお菓子のように甘いそれとは別物だ。分厚く切られていて、うっとりするような淡い桜色。噛みしめると甘みと辛みが広がり、体の中がさっぱり洗われる気がする。新緑の季節にとれた新生姜を使って一生分を一度に作り、保存するという。
まさに今は新生姜の季節ではないか。

柚木麻子『その手をにぎりたい』より