アメリカ人は山の上でも下でもトレイルミックスが好きだが、私はあれを食べたいと思わないんだよいな。なんかナッツを消化すること自体が疲労する。
汗をかいたときはスパムむすびがものすごく美味しいと思う。
二人の前にはせんべいの袋やチョコレートの箱が広げられている。おばさんが大きな口をあけて、海苔のついたせんべいにかぶりついた。
(中略)
「やあ、お疲れ様」
おじさんが片手を上げて迎えてくれた。よかったらお一つ、とチョコレートの箱を差し出してくれる。昔ながらのミルクチョコだ。いただきます、と受け取ってそのまま口に放りこむと、次いで、どこから来たんだい? と訊ねられた。午前8時。遅番の日の起床時間だ。上高地でおにぎりを1つ食べたけど、2度目の朝食にしよう。
「今日はうまい漬物を持ってきているんだが、よかったら槍沢ロッヂまで一緒に歩いて、昼食を一緒にどうかね」
本郷さんが私に言いながら、ちらりと木村さんを見た。木村さんにはああ言ったけど、漬物は口実で、初心者の木村さんに一人で付き添うのに疲れたのではないだろうか。へたりこんだ木村さんを挟んで、お疲れ様でした、と言い合い、本郷さんの出してくれたビニルシートに、一緒に昼食を広げた。
「あら、サンドウィッチ」
木村さんが言った。本郷さんと木村さんのはホテルで作ってもらったおにぎりだ。
「山の昼食はいつもこれなんです」
フランスパンにチーズと生ハムを挟んだ、父の好物だ。山へ行くときは母がいつもこれを私たちに持たせてくれた。一人暮らしを始めて、山の昼食を自分で準備するようになってからも、私はいつもこれを作っている。
「パンに合うかどうか解らないが、よかったらこれも」
本郷さんが小さな紙パックをシートの真ん中に置いた。きゅうりの浅漬けだろうか。
「いただきます」
手でつまんで口に入れる。少し塩気の強い漬物は普通に家で食べるとしょっぱいのだろうけど、歩き続けた体にはちょうどいい。おいしいです、と伝えると、本郷さんは山へ行く前は必ずこれを漬けるのだと嬉しそうに笑った。
「みんな、こんなふうに山を楽しんでいるのよね」
木村さんがしみじみと言った。個包装されたアーモンドチョコレートを木村さんと本郷さんに渡す。
「シナノキンバイが好きなのかい?」
本郷さんがチョコレートを口に放り込んでから言った。
(中略)
「娘と大和は、羨ましい。......そうだ、木村さん。アミノ酸を飲んでみませんか」
木村さんは顔だけ上げた。
「話題のサプリメントをご主人よりも先に試して、効果を教えてあげるのもいいんじゃないですか?」
本郷さんはそう言うと、ポケットから私があげたアミノ酸の錠剤の袋を出し、口に放りこんで、水を含んだ。
「レモン味だ。口の中がすっきりして、これだけでも悪くない」
本郷さんの様子を見ながら、木村さんもアミノ酸を口に入れた。水を飲む。
「ラムネみたいだわ」
2人とも、ひとまず味は合格点だったようだ。私も飲んでおく。とろけるようなウニを頬張りながら、向かいに座る姉を見る。
「あんた譲りなのかな」
姉がぽつりとつぶやいた。
「へっ? 何が?」
「七花もウニが大好きなの。旦那もわたしも苦手なのに。小学生のくせしてお寿司屋さん連れていくとまっ先に注文するんだから」
おそらく回転しない寿司屋だろう。あ、そう、と笑い返すと、ウニの入ったガラスの小鉢を、どうぞ、と差し出された。ありがたくいただく。
「......そういや、絹江おばさんもウニ好きじゃなかったっけ?」
その名を出すか。絹江おばさんは父の姉だ。ひたすら厚かましい人で、祖父母が亡くなったあとも実家である我が家を訪れ、冷蔵庫の中にあるものを当たり前のように食べていた。姉もわたしも何度被害にあったことか。確かに、近所の人から土産にもらったウニの瓶詰を勝手に持って帰り、母があきれていたことがある。
(中略)
カニクリームコロッケが運ばれてきた。まさに、助け舟。揚げたてなのを承知で思い切りかぶりつき、熱っつつ......、と声を上げながらグラスのビールを呷る。
「ったく、しょうがないな」
姉はあきれたようにビールを注いでくれた。瓶が空になったけど、追加はしない。明日の登山に備えて2人で1本、と最初に姉に釘を刺されている。おにぎり2個入りのバッグが2つ入ったビニル袋をそれぞれが受け取り、ホテルの名前が書かれたバンに乗り込んだ。
(中略)
登山口までは約15分。その間に、朝食用のおにぎりを食べておかなければならない。かぶりつくと、ひと口目から昆布の歯ごたえを十分に感じた。姉はペットボトルを仕舞うと、今度は個包装されたチョコレートを取り出して、わたしにも2つくれた。アーモンドチョコはきらいじゃないけれど、せっかく水を飲んだのに、また喉がかわいてしまう。
姉はリュックを降ろし、休憩を取り始めた。先ほどと同じチョコレートを今度はすぐにくれる。わたしもスナック菓子をリュックから出し、姉に差し出した。
「へえ、これ、ピザ味なんてあったんだ。さすが、おやつ大臣」
1つ食べて、姉が笑う。家族旅行のおやつを選ぶのはわたしの役割だった。テレビは居間に1台だけ。姉妹でほぼ同じ番組を見ているというのに、姉のアンテナにはお菓子のCMはあまり引っ掛からなかったようだ。
○○のイチゴ味にしようよ。これって期間限定なんだって。そんなふうに、わたしが提案すると、よく解んないから希美が選んでいいよ、と姉は楽しい役割をすべてわたしに委ねてくれたのだ。
旅先でお菓子を出すごとに、これは新発売のだよ、などとわたしがいちいち講釈をたれるものだから、家族はわたしを「おやつ大臣」と呼んだ。姉はリュックからガスストーブとコッヘルを取り出して、湯をわかし始めた。紙コップを2つ並べ、スティック状のインスタントコーヒーをいれる。
あっと言う間に温かい空気が漂ってきた。
(中略)
ほら、とコーヒーを差し出される。最初から砂糖とミルクが混ざっているタイプで、甘ったるいコーヒーの香りだけでもホッとひと息つきたくなる。一口飲むと、わたしの体はこんなに冷えていたのか、と気付かされるほど、暖かさが端々までしみ込んでいった。
「おいしい。そうだ、チョコレート。懐かしいのが復刻してたんだよね」
リュックから板チョコを取り出し、半分に割って姉に渡す。姉はひと口かじって、洟をすすった。まさか、泣いてる?おかわり自由のごはんと味噌汁。おかずは焼き魚と筑前煮。普通の旅館と変わらない、バランスのとれた献立だ。
「もっときれいにお魚食べたら?」
箸を置いた七花が言った。日直か、とつっ込まれる七花の皿はきれいに片づいていた。毎日一緒に食事をとっているのに、外出先で大人用のメニューを全部食べきる姿を見ると、大きくなったのだな、という思いが込み上げてくる。七花にもこの景色を見せてやりたかった。
山だけではない。ガラス小鉢いっぱいに入ったウニも、七花がいれば喜んで食べていたに違いない、と熱々のごはんにたっぷりのせたウニを口いっぱいに頬張る姿を想像したし、海が見える露天風呂につかりながら、七花なら泳ぐかもしれないな、と広い湯船を見渡しもした。食事は毎食、栄養バランスのとれたメニューを並べている。たまに、食欲がないと言われたときは、嫌な顔をせずに、お茶漬けやうどんなどを手早く用意した。栄養士の資格を持つ私の得意分野だ。
(中略)
栄養士として勤務していた県立病院の近くにある、かつ丼が安くておいしいと評判の食堂で夫と相席になったのがきっかけだ。ママ、七花のために甘口してるんだったら、今度から中辛にして。
カレーひとつとっても、きちんと自己主張する七花は、子どもだから、とこちらが気を遣うことを嫌う。岩場の端を陣取り、リュックからガスストーブとコッヘルを取り出して、お湯を沸かす。なんかすごい、と七花はコッヘルを覗き込むように湯が沸く様子を眺めている。理科の実験のような気分なのだろうか。
紙コップと個包装されたインスタントコーヒー、七花用のココアを平らな岩の上に並べていると、七花が、「やらせて」とカップにコーヒーをいれ始めた。手ぶらになり、妹を見る。
「おやつって、それ?」
つい言ってしまった。おやつ大臣の妹は旅行の際、新発売や期間限定のお菓子をいつも用意していたのに、リュックから取り出したのはビニル袋に入ったパンだったからだ。しかも、コッペパンだかフランスパンだか、味のついてなさそうなものだ。
「そうよ、フランスパン」
妹が澄ました顔で答える。
「ええ? パン? 七花、グミ持ってきてるから、そっちを食べようかな」
「そんなの出さなくてもいいって。とっておきのものがあるんだから」
妹はそう言ってリュックに片手を突っ込むと、ジャジャーン、と言いながら、板チョコを取り出した。
「ただのチョコじゃん」
七花の反応は厳しい。
「それだけじゃないって、ほら、ほら、ほら、ほら」
小さな瓶が並ぶ。トリュフバター、ラズベリーマスタード、がちょうのパテ、豚のリエット。生まれてこの方、一度も食べたことのないものばかりだ。
「市販のお菓子もいいけどね、利尻山を登ったあとで思いついたことがあるの」
雨に打たれて冷え切った体で飲んだ、山での温かいコーヒーやチョコレートなどのお菓子は、たった数百円の品でも、その10倍も、100倍も、価値があるように思えたらしい。山に登ると付加価値が生じる。ならば、山で贅沢品をとれば、それはこの世の最上級の贅沢になるのではないか、と。
「でもね、ケチケチした生活してるから、何が贅沢品なのかもよくわかんなかったのよ。そうしたらちょうど、友だちが海外旅行のお土産にトリュフバターをくれたの。トリュフだよ、まさにこれぞ贅沢品。何に塗ろうかな、って考えて、思い出したことがあるんだ」
テレビのトーク番組で、パリコレモデルを経験した女優が、パリコレモデルを経験した女優が、パリコレモデルのあいだではフランスパンに板チョコを挟んで食べるのが流行っている、と言っていたらしい。
「フランスパン、ちゃんとデパ地下で買ってきたんだよ。せっかくだから、他にも何か合いそうなものがないかなって探して、これだけ揃えてみました! 好きなのを挟んでどうぞ」
瓶に1本ずつアイスクリーム用の木のさじが添えられた。フランスパンにはスライド状に切れ目も入っている。
「のんちゃん、すごいよ」
七花がきらきらとした目で妹を見ている。結婚をしていない、定職についてない、という大人たちのぼやきが七花の耳に入ってしまったからだろうが、七花は妹を見下すまではいかないものの、大人として尊敬するような態度をとったことはない。年の離れたいとこ、といった、子ども目線で接していたのに。
「遠慮しないで、なっちゃん。先週、翻訳のお給料が入ったところだから、わたしの、お、ご、り」
子ども目線で接しているのは、妹も同じか。
紙コップに湯を注いで並べる。一度訪れたことがある場所なのに、どこか知らない外国を訪れたような気分になれるのは、おやつ大臣の用意した非日常的なおやつのおかげだろうか。『不思議の国のアリス』のお茶会のようだ。
「七花はチョコからにしようかな」
七花が板チョコを割って、パンに挟んでかじる。頷きながら飲み込んで、今度は豚のリエットの瓶に手を伸ばした。妹はがちょうのパテを塗っている。私はトリュフバターを試してみることにした。
香りがよく、パンに濃厚なポルチーニ茸のスープをしみ込ませたような味がする。
「がちょうって、こんな味だったんだ」
「豚もおいしいよ」
妹も七花も声を上げながらかぶりついている。そんな声など一瞬で吸い込んでしまいそうなほど、眼下に広がる雪渓は大きい。ここを歩いてきたのか、と見入ってしまう。雪の白、空の青、山の緑。原色の絵の具を水で薄めずにカンバスに塗り付けたような、夏のコントラストが美しい。
同じ景色を七花も見ている。
「こんなすごいおやつを用意してくれてるのなら、コーヒーもちゃんとしたのを持ってくればよかったかな」
「ドリップ式コーヒーか、いいねえ。いっそ、お茶をたててみるのはどうだろう」
「お茶なんて習ったことあったっけ?」
(中略)
20センチ近くあったフランスパンも、全種類を試し終わると、あと3センチ、一口分しか残っていない。ここは皆、一番のお気に入りに手を伸ばすところだ。私と妹はがちょうのパテを選んだ。
「お姉ちゃん、頭の中に浮かんでるのはあひるだよ」
「失礼ね、あんたと一緒にしないで」
そっけなく答えてみたが、自信はない。七花は豚のリエットの瓶をとった。
「なっちゃん、半分以上、それで食べてるけど、気に入った?」
妹が訊ねる。
「うん。これが一番。多分、パパも好きだろうな」
七花はこちらを見ずに、たっぷりとリエットを挟み込んだ最後の一口を頬張って、雪渓を見下ろした。この景色を父親に見せてあげたいと思っているのだろうか。
湊かなえ著『山女日記』より