10年ぶりに読み返した本書、具体的な信仰の手本、奇跡の証としてとても良かったのでnoteにメモした。
青春編も4年前に読み返している。
「何かうまいものはないかなあ」
見つけ出した蜂蜜をコップに垂らし、それに水をいれて、ごくごくとのどを鳴らして飲んだ後、彼は照れたように言った。駅の食堂でカレーライスを食べ、2人は汽車に乗った。
「何せなあ、朝起きても、お早うでもない。ぶすっとして口もきかん。飯になっても呼んでもくれん。わしは豆腐が好きなんじゃが、めったに買って来んのじゃ」
老人の言うには、そのお嫁さんは、自分の夫や子供たちには、自分から「おかわり」と声をかけるが、老人が茶碗を出すと、じろっと顔を見て、ぐいと引ったくるというのである。彼は、自分で持って来たトーキビをぽつぽつと口に入れながら、
「丈夫そうになりましたねえ」
と、あらためてわたしの顔を見た。
(中略)
テーブルをへだてて、わたしはトーキビを食べていた。うす暗くなって来た部屋に、わたしは電気をつけて、夕食の支度をするために台所に立った。炊飯器にスイッチを入れ、煮付の用意をして部屋に戻ったが、三千子はまだ凝然と鏡の中の自分を見つめている。
竹内牧師は、わたしの長い療養生活を見ておられるので、ポンプを汲もうとすると、すぐ台所に飛んで来て水を汲み上げてくださったり、2人が枕を並べて臥ていると、
「困りましたねえ」
と言って、自転車で家まで飛んで帰られ、奥さまの作られたちらしずしなどを、夕食に持って来てくださったりした。結婚第1回目の正月を迎えたわたしは、三浦と向い合って雑煮を祝った。餅は三浦の妹が、暮について持って来てくれたものである。この妹は、今に至るまで毎年餅をついて届けてくれている。後に三浦はこう歌っている。
持ちをもらひ漬物をもらひ年を越す共に体の弱き夫婦にて
雑煮は、わたしが37年育った実家とはちがった作り方だった。実家では、鶏肉と、油揚、ゴボウ、菜を少々ぐらいしか入れないが、三浦の家では、鶏肉、凍り豆腐、ゴボウ、里芋、三つ葉等々、内容が豊富である。わたしは三浦に教えられながら、三浦家の方式の雑煮を作った。雑煮を食べている三浦を眺めながら、わたしはしあわせだった。
わたしは去年の正月のことを思いだしていたのだ。三浦は、ベッドにいるわたしを、わが家に見舞って、聖書を読んでくれた。そして讃美歌をうたい、共に祈った。その後、母の作ってくれたあべかわ餅を食べながら、わたしは言ったのだ。
「来年のお正月も来てくださるでしょうね」
彼は箸をとめて、首を横にふった。来年はもう来てくれないのかと驚くわたしに、彼は言ったのだ。
「来年の正月は、2人でこの家に年賀に来ましょう」三浦のために、卵をゆでたり、チーズやバターをそろえたり、三浦の好きなさつま芋を買ってゆでたり、とにかく2日分の食糧を用意して、わたしはまるで、長旅にでも出るような決意で、家を出た。三浦も丹前姿のままで出て来て、さすがに淋しそうだった。
教会員が遅くまで事務室で奉仕している時には、うどんなどを作って出す。
6月1日の朝、松田亘弘さんがスシを持って来てくださった。子供さんの運動会のためのスシであった。
わたしは結婚以来、三浦の弁当には心を使った。お菜入れに、いろいろなお菜を詰め合わせ、塩辛などを小さなビニール袋に詰め、黄色いリボンで結んで、片隅に入れる。すると三浦は、弁当箱の中に、わたし宛の紙きれを入れてくれる。
「綾子、今日のお弁当もおいしかったよ。いかの塩辛の黄色いリボンが美しかった。ありがとう」「小母さん」
と言って、彼らはぞろぞろと入って来る。アイスキャンデー、パン、駄菓子、飴などを思い思いに買いながら、彼らは30分ほど店で遊んで行く。その夜も、彼は自分の買いたいものを、菓子ケースの上に並べた、アイスキャンデー、キビダンゴ、カリント等々。言葉をかけようにも、彼の態度はひどく拒否的だった。その少年は、包みを持って帰りかけたが、何を思ったか、包みの中のアイスキャンデーを取り出して、店の中で食べ始めた。
三浦綾子著『この土の器をも ‐道ありき 第2部 結婚編』