たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

アメちゃん 山本文緒『あなたには帰る家がある』

20年ぶりに改訂版を再読。とても良かった。
自宅外での食べ物の気軽なやりとりがしにくくなって、「アメちゃんコミュニケーション」は簡単ではなくなってしまいましたねえ...。
教会の屋外礼拝に行ったら、そうはいってもリフレッシュメントはあるんだけど、コーヒーポットのレバーを引くのも、お砂糖の袋を取るのも、手袋をはめた担当者にやってもらうスタイルになっていた...。大変やで。

「朗はどっちを食べたんだい?」
「パーン」
「じゃあ、お父さんはご飯だ」
「どうして?」
「朗が食べなかったから、ご飯が余ってるんだろう?」
そう言いながら、彼はテレビの前の長男の隣に腰を下ろした。
「慎吾。食べる時は台所のテーブルで食べなさいと言っただろう?」
長男は答えない。牛乳とコーンフレークの入った皿を抱え、テレビを見ながらスプーンを口に運んでいる。

きんぴらごぼうに夫が少ししか箸を付けないので、彼はきんぴらが嫌いなのだと考えていたら、ある日「君の作るきんぴら、辛いよ」と夫がぽつりと漏らした。そういうことは最初に言ってくれればいいのにと思った。作ってもあまり食べてくれないメニューが他にもいろいろある。知り合ったばかりの頃、僕は食べ物にはうるさくないから何でもいいよと言ってたのに嘘つきね、と真弓は思う。
(中略)
「私には向いてないのよ」
そう呟きながら、真弓はスーパーで買ってきた酢の物のパックを開けた。小鉢に移し換えて冷蔵庫に入れようとした時、娘の麗奈が声を上げた。

彼は曖昧に頷いて箸を持った。出来合いのトンカツに、たぶん切って売っているのだろうと千切りキャベツ。酢の物も漬物もきっとスーパーで買ったものだろうと秀明は思った。けれど彼は文句を言ったりしない。

「お茶飲むでしょう? お腹は空いてるの?」
「何か食べるものあるの?」
「秀明さんが持って来たケンタッキーのチキンがあるけど」
「あ、それちょうだい」
母親は急須とフライドチキンの箱を持ってリビングに戻って来た。真弓の向かいに腰掛けると、湯飲みに番茶を注ぐ。チキンを見て麗奈が「あー」と声を上げた。
「この子、夕飯に何か食べた?」
「ご飯をちょっとと冷凍のグラタンを半分ぐらいかしら」
「それはどうもすみません」
「どういたしまして」
(中略)
真弓はチキンを小さく千切り、娘の口に入れてやった。冷ました番茶を少し飲ませると、ネジが切れたようにあっけなく娘は眠りに落ちた。

そこで助手席の真弓が話しかけてくる。
「うん」
「のど飴と梅キャンディーとどっちがいい?」
真弓はいつもバッグに飴玉やらチョコレートやらを入れている。それが可愛いと思った時もあったなと秀明は思った。
真弓の顔をちらりと見ると、掌にキャンディーをのせてにこにこ笑っている。秀明は溜め息をついた。嫌いではない。この女を俺はまだ好きなんだろうなと彼は思った。
「梅の方下さい」
「はい、口開けて」
包み紙を開けて、真弓が彼の口に飴を放り込んだ。甘酸っぱい味が食欲を刺激する。

「あれー、佐藤さん、最近お弁当じゃないんですねー」
出前のかつ丼の蓋を開けたところで、森永祐子がすっとんきょうな声を出した。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ」
パチンと箸を割って、秀明は力なく言う。
「奥さん、ご病気ですか? それとも実家に帰っちゃったとか?」
興味津々という感じで聞いてくる祐子に、同じくかつ丼を前にした竹田課長が文句を言った。
「昼飯ひとつできゃんきゃん言うな。さぼってないで掃除でもして来い」

支部長は手に持ったケーキの箱を上げてみせた。
「頂き物なんだけど食べない?」
(中略)
お先にと言ってやよいが消えてしまうと、真弓はケーキの箱を開ける支部長に言った。
「お茶を淹れてきましょうか」
「あら、ありがとう。ついでにお皿とフォークもいいかしら」
(中略)
「待ち合わせって、ご主人とお食事でもするの?」
ショートケーキを口に運びながら、支部長が聞いてくる。

真弓は空になった華奢なグラスを見つめた。今飲んだカクテルは1杯1,000円する。1,000円といったら夫の昼食代だ。それをもう真弓は3杯飲んでいた。目の前に置かれた生ハムもチーズも、カクテル以上の値段だ。

その日の茄子田家の夕餉は、鯖の味噌煮だった。古い台所に置いた大きな丸いテーブルの上には、焼き豚、ひじきや漬物、残り物らしいサラダ、煮豆、海苔などが所狭し置いてある。小さい方の息子の前にだけ、魚の代わりにハンバーグが置いてあった。
具が沢山入った味噌汁を啜りながら、秀明は実家の食事を思い出していた。母親は特に料理上手というわけではなかったが、とにかく細かいものをいろいろ作った。洋風和風おかまいなしに、あるものを全部テーブルに並べて食べるのだ。
(中略)
「さ、お茶にしましょうか。佐藤さんがクッキー持って来て下さったのよ。みんなで食べましょう」
(中略)
せめてもの救いは、茄子田家で食べさせてもらったおいしい鯖の味噌煮だった。

「そうですね。安いのに旨いですよね、このツクネなんか」
「そうだろう? ほら、祐子ちゃん。どんどん食べたいもの頼んでいいよ」
「ええ。でも、もうおなか一杯です」
(中略)
ひとりになった秀明は、不気味な味がするツクネを齧りながら、今度生まれてくる時は絶対女に生まれようと思った。

「おやつ食べる? ゼリー作ったわよ」

「ほっとしたら、お腹が空いちゃったわ。ね、真弓さん、ご飯食べない?」
ステーキのいい匂いが、隣のテーブルから流れてきえちた。支部長は悪戯っぽく隣に視線をやった。
「ええと、でも……」
ここで夕飯など食べたら、いくらかかるか分からない。

茄子田は学生や買い物帰りの主婦達の嬌声を気にかける様子もなく、にこにこ笑ってウェイトレスにプリン・アラモードを頼んだ。
「プリン、ですか?」
(中略)
やけくそな気持ちになって真弓もプリンを頼む。

課長はひとりでどんどんお酒を空ける。板前が何か握りましょうかと声をかけてきた。
「うん、握って握って。俺、嫌いなものないからね。森永は? 光りものは駄目?」

「あきらー、おやつ食べるかい?」
下から祖母の声が聞こえた。朗は仕方なく「はーい」と返事をする。祖母が出してくれるおやつは、いつも饅頭や羊羹だ。朗は和菓子も祖母も苦手だった。
下りて行くと、案の定テーブルの上にきんつばと日本茶が待っていた。
(中略)
「さあ、どうかねえ。もうひとつ食べるかい?」
「いらない」
「かりんとうもあるよ」
「いらない。お母さんがきっと何か買ってきてくれるから」
朗の言葉に、祖母の顔から笑みが消えた。
「まったく、あんたのお母さんはちゃらちゃら遊んでばっかりで。ケーキ買ってくれば済むと思ってるんだから」
朗がそれに答えないでいると、祖母はさすがに文句を引っ込めた。

昼休み、茄子田太郎は職員室の机で、弁当の蓋を開けた。
結婚してから10年、妻は仕事に行く彼に欠かさず弁当を持たせてくれている。料理上手な妻の作る弁当は、いつでも工夫が見られ、茄子田の好物ばかり入っていた。
しかしその日、彼は弁当箱の蓋を開けたまま、箸も持たず腕組みをしていた。
やはり、おかしい。
茄子田はそう思った。少し前から何か変だなと思っていたが、今日は決定的だった。
綾子は決して食事に関しては手を抜くようなことはしなかった。それが、どうしたことだ。彼はじっとアルミの大きな弁当箱を見下ろした。
今日の弁当のおかずは、茄子田の嫌いな冷凍食品のハンバーグだった。そして昨夜の残り物の煮物も入っている。
何ヵ月か前から、弁当に同じおかずが続いたり、冷凍食品らしい物が入るようになっていたのは気が付いていた。

真弓は帆立のマリネを口に入れて、じっと茄子田の顔を見た。
(中略)
パンにバターを塗っていた茄子田が顔を上げる。
(中略)
そう言って、バターを塗りたくったロールパンを、茄子田はゆっくり齧った。その唇を見て、真弓はフォークを持ったまま硬直してしまった。

先程綾子が卵酒を作ってくれた。それを飲んだら、日本酒の熱燗を飲みたくなってしまったのだ。
(中略)
慎吾は唇を尖らせ、つまみのイカの燻製に手を出す。
(中略)
「ねえ、お母さん最近変だと思わない?」
猪口の酒をくっと飲み干して慎吾が言う。
「お前もそう思うか?」
「うん。最近、お弁当に冷凍食品が入ってるんだよね」
「そうか。そう言えば、この前は水加減を間違えたとかで、えらく固いご飯が出てきたもんんだ」

「私、このスペシャル・トロピカル・パフェというの食べてもいいですか?」
席に座ったとたん、祐子が聞いてきた。
「いいけど……この寒いのにパフェ?」
「若いから平気です」
あっそ、と真弓は思う。
(中略)
真弓はコーヒーを頼む。パフェはコーヒーの3倍の値段だった。
(中略)
そこでパフェとコーヒーが届く。祐子は頂きますも言わず、スプーンを手にして食べ始めた。
(中略)
ぱくぱくパフェを食べながら、祐子は冷たく返事をする。

買い物を済ませた後、ドライブに出た。冬の海でさざえの壺焼きを食べた。

秀明は冷蔵庫を開けてみた。あいかわらずガラガラな冷蔵庫だ。冷凍庫を開けてみると、肉まんを見つけた。秀明はそれをひとつ取り出すと、ラップでくるんで電子レンジに入れた。
キッチンの椅子に腰を下ろし、秀明は肉まんがぐるぐる回るのをぼんやり見ながら、新婚の頃を思い出した。
(中略)
そうだ、あのミルク粥はおいしかった。どうやって作るのだろう?
電子レンジで温めた肉まんは、手で持てないほど熱かった。秀明は自分でお茶をいれ、肉まんが少し冷めるのを待って食べた。
(中略)
肉まんひとつでは、腹はいっぱいにならなかった。ミルク粥を作ってみよう。秀明はそう思って立ち上がった。

「どうしたの?」
真弓は思わず彼に聞いた。秀明の笑顔を見たのは久しぶりだった。
「別に。昼飯まだだろう? ミルク粥作ったんだけど食う?」
「え、ええ?」
「そんなに驚くことかよ。でも、作り方分かんなくて適当だから、あんまりうまくないよ」
そう言いながらも、秀明は茶碗にお粥をよそっている。真弓は首を傾げながら、買ってきた物を冷蔵庫に入れた。
(中略)
久しぶりに、真弓達は親子3人で食卓を囲んだ。秀明の作ったミルク粥は、確かにおいしくはなかった。
「これ、出汁かコンソメ入れたの?」
「あ、そういうの入れないといけないの?」
真弓の問いに、秀明は聞き返す。
「そうねえ、塩こしょうだけじゃちょっとね」
「ふうん。じゃあ次は入れてみる」

山本文緒著『あなたには帰る家がある』より