こういう小説に「文庫小説」なる呼称があるのを初めて知った。考えてみれば30年以上に流行ったコバルトとかもいきなり文庫でのみ発表される形式だったね。
日本の場合、言ってはなんだが二軍以下と思われるタイトルでも装丁にはお金がかけられていてオリジナルのイラストや同じフォトストックでも作者のクレジットがあるようなのを使っているのがすごくいい。こっちのペーパーバックはCanvaかPPTで素人が作ったかのような表紙のものが大量にあってもう目に入るな、という気になるので。
この小説はとてもよかった。「優しい味」と言い過ぎだが、日本語だと他に言いようがないのかな。フーコーの愛の定義「相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計」を連想させた。
私も週数時間だけどレストランで働く幸せに恵まれているので、訪れる人のことをもっとよく「見よう」と思ったよ。常夜灯ほどじゃないけど、ここは私たちのhomeだ、と言って通ってくれる人たちが少なからずいるので。
だいぶ経ってから戻ってきた大家さんは、すっかり冷え切ったようで「ココアでも飲みましょうか」と、熱くて甘いココアを作ってくれた。この部屋は停電もしていなければ、ガスも使えるようだ。
「そしたら、ぼんやり明かりが 点いた店があったの。 嬉しくなって、誘われるように入ったんだよ。あの時のコキールグラタン、 美味かったなぁ」
「コキールグラタン?」
「そう。ちゃんとした洋食屋だったんだ。帆立の殻に入ったグラタンだよ。まさか夜中にそんな料理食べられると思わないじゃない。グラタン、カミさんの得意料理だったんだよねぇ。何だかあの夜は夢を見ているような感じだったなぁ」
(中略)
金田さんは戸棚の奥をあさると、「僕の非常食」と言って、甘納豆を一袋くれた。
(中略)
甘納豆なんて何年ぶりだろう。子供の頃、おばあちゃんがよく食べていたのを思い出す。何だか金田さんとの暮らしは温かい。「主菜のお勧めは何ですか」
「今夜は牛ホホ肉の赤ワイン煮、鴨モモ肉のコンフィ、バスク風の魚介の煮込みをご用意しております」
お肉。お肉が食べたい。とにかく疲れた体に栄養を与えたい。
「牛ホホ肉の赤ワイン煮をお願いします」
頭の中はお肉でいっぱいだったが、ふと、こんな注文でよかったろうかと我に返った。一品料理でいいのか、前菜やサラダも頼むべきなのか。とっさにカウンターの奥の女性を見ると、彼女の前にもスープ皿が置かれているだけで、グラスの中はお水のようだった。
「どうぞ、お好きなものだけご注文なさってください」
サービスの女性はにこっと笑うと、カウンター越しに「シェフ、ブッフ・ブルギニヨンお願いします」と声を掛けた。料理人は顔を上げて 頷き、すぐに調理に取りかかった。
「ここでは、肩の力を抜いてお料理を楽しんでいただきたいんです。お飲み物はお水でいいですか? 温かいのが良ければ白湯もご用意できますよ」
(中略)
彼女はにっこり笑うと、「今度はぜひ魚介の煮込みを召し上がってみて下さい。当店のシェフはフランスのバスク地方で修業をしていたんです。つまりシェフの得意料理なんです」と、さりげなくアピールして厨房に向かった。
(中略)
まさか真夜中に牛ホホ肉の赤ワイン煮を食べることになるとは考えもしなかった。
しかし、この店に入ったとたん感じた、あらゆる美味しさが濃縮されたような香りに抗うことなどできただろうか。真夜中にコキールグラタンを注文した金田さんの気持ちがよくわかった。何よりも私は、ここ数日ロクなものを食べていないのだ。
赤ワインとフォンドヴォー、牛肉の旨みが溶け出した芳醇な香りが皿から立ち上っている。ダウンライトを浴びて輝く黒に近い赤褐色のソースは、まるでビロードのように滑らかだ。一緒に煮込まれたのはマッシュルームと小タマネギ。横にはたっぷりのジャガイモのピュレが添えられている。ナイフを入れた瞬間、肉のあまりのやわらかさに驚いた。口に入れるとほろほろとほぐれる。
「......美味しい」
ため息が出た。添えられたジャガイモもこれまで食べたことのないくらい滑らかで、口の中ですぐに溶けてしまった。
「美味しいです! すごく美味しい」
こんな稚拙な感想しか出てこないのが情けないが、一人で美味しさを嚙みしめるのがもったいない気がして、サービスの女性と厨房のシェフ、それぞれに向かって何度も言ってしまった。
(中略)
シェフはむっつりと押し黙っている。この二人の関係が面白くて、私は「美味しい」と何度も繰り返しながら牛ホホ肉を頰張った。
お肉を食べ終えた時、こんがり焼けた丸いパン、ブールが差し出された。
「シェフがどうぞって」
女性は皿を置くと、にっこり笑ってカウンターを離れた。シェフはそ知らぬ顔で仕込みを続けている。けれど、私の皿にたっぷりと残ったソースに気づいていたのだ。
「ありがとうございます!」
ブールの中はしっとりとしていて、ソースがよくしみ込んだ。パンの甘みと濃厚なソースがまた違う美味しさをもたらしてくれ、余すことなくきれいにソースを食べきることができた。今夜だけで何度美味しいと感激しただろうか。昼過ぎに起き出した私は、書いそびれていた日用品の買い出しがて蕎麦屋で鴨南蛮をすすり、夕方には帰宅して、帰ってきた金田さんに先日訪れた「キッチン常夜灯」のことを報告した。
「アルザスの白にしました」
グラスに注がれる淡く黄色がかったワインを眺めるだけで、特別な空間にいるような錯覚に陥った。さっきまで暗い部屋で必死に目を閉じていたというのに。
それからすぐにシェフが大きな皿を運んできた。
「お待たせいたしました。上から時計回りに、ジャンボンブラン、ピスタチオ入りの豚モモ肉のソーセージ、スモークした鴨のハム、ココットの中は豚肉のリエットです。バゲットと一緒にどうぞ」
薄紅色のバラの花を盛り合わせたような皿を見たとたん、先ほどまでの気持ちがうそのように高揚してきた。
それにこれなら、ゆっくりとここで時間を過ごすことができそうだ。
小さい頃からおやつに魚肉ソーセージを与えられていた私にとって、大人になって覚えた肉の加工品、シャルキュトリーは、子供の頃の常識を覆す贅沢なおつまみだ。大皿に盛り合わされたこれらを独り占めできるのも大人なればこそ。
(中略)
華やかな香りに反してキリッとした飲み口のワインと、ハムの塩気がよく合った。
弾力のある嚙みごたえは、子供の頃に食べたソーセージと当然ながらまったく違う。嚙みしめるたびに旨みが広がり、それをワインで洗い流すように飲み込むと、さらに違った美味しさに脳が痺れた。さっきまでの言いようのない不安を押しやるように、私はワインを飲み、シャルキュトリーを嚙みしめた。
「お客様、ナイスチョイスです。ウチのシェフのシャルキュトリー類、なかなか人気なんですよ。さぁさ、リエットも食べてみて下さい」
堤さんに促され、大事にとっておいたリエットをすくい、薄くカットされたバゲットにのせた。バゲットも軽く焼いてあり、カリッとした食感と滑らかな味わいが口の中に広がった。
「美味しい!」
「でしょう! リエットやパテは特にシェフが得意としているんです。今度はぜひパテ・ド・カンパーニュも食べてみて下さいね!」ふわりといい香りが漂ってきた。バターとタマネギの甘い香りだ。
何が出てくるのだろう。私はシェフの動きを目で追った。
シェフがオーブンを開け、さらに広がった香ばしい香りに頰が緩む。
「何を求めるかは人それぞれですから。私は料理がしたいから料理しかしない。生き方も仕事も、自分の身の丈に合ったものにしようと思っています」
シェフが私の前に皿を置いた。
「でも、ひたむきに仕事と向き合っていれば、いつかは与えられた仕事に相応しくなれるかもしれない。どうとらえるかは、やはり人それぞれです」
シェフはそれだけ言うと、厨房の奥へと戻ってしまった。
「ジャガイモのグラタン、とっても美味しいのよ。私が支配人にされて悩んでいる時に黙って作ってきたの。賄いも食べないから心配してくれたんでしょうね。熱いうちに召し上がれ」
グラタンといってもチーズもベシャメルソースもなかった。スライスされたジャガイモがこんがりと色づいていて、香ばしい香りがする。フォークを入れるとジャガイモの下にはクタクタになったタマネギと細く刻んだベーコンが隠れていた。タマネギはすっかりトロトロになっている。
「シンプルでしょう。クリームを加えて、もっとこってりさせてもいいけど、私はこれが好きなの。たいていお肉料理の付け合わせにされちゃうお料理だけど、シェフったら大皿にたっぷり作ってきて、全部食べろって。これがメインなのよ。ようは脇役でいるか主役になるかハッキリしろってことだと思うのよね」
(中略)
シェフのグラタンは美味しかった。表面のジャガイモは焦げ目の香ばしさとしんなりした食感が楽しく、タマネギとベーコンの旨みを吸ってホクホクとしていた。クリームを使っていないからしつこくなく、優しい味わいが体にじんわりと 沁み込んでいく。「ビールといつものね。えっとスナギモ!」
まるで焼き鳥屋のような注文に、私は目を丸くした。
しかしシェフは毅然と答えた。
「砂肝のコンフィのサラダですね。かしこまりました」
堤さんが二人の前にビールを置く。当然ジョッキではなく、細長いお洒落なグラスだった。「砂肝のコンフィのサラダ、お待たせしました」
シェフは料理名を強調させながらカウンターにサラダを置いた。
しかし抵抗も虚しく、オヤジは「おっ、スナギモ、待ってました」と、ノリはまったく変わらない。さっそくサラダをつつきながら、大声でシェフに追加注文をする。
「あとは酸っぱいキャベツと、ぶっといソーセージね。マスタードたっぷりでよろしく」 「シュークルートですね。ソーセージのほか、一緒に煮込んだ豚バラ肉もお出しします」夕方から飲みかけだったエナジードリンクに手を伸ばし、生ぬるい残りを飲み干した。すっかり炭酸が抜けて甘ったるいだけの液体になっているが、疲れた体にはその甘みこそが甘露だった。ああ、なんという背徳感。
帰りに「キッチン常夜灯」で熱々の煮込み料理でも食べたい気分だが、今日はまっすぐ帰宅すると決めていた。
給料日まであと二日。今夜は先日買い込んだカップラーメンをすするのだ。永倉さんはブツブツ文句を言いながら、冷蔵庫からハンバーグのパテを二枚取り出し、乱暴にグリルに置いた。両面を焼いてからオーブンに入れるのが「シリウス」のマニュアルだ。
私は冷凍庫からハーフボイルのパスタを取り出し、ボイルマシーンに入れてタイマーをおした。その間に先に提供したいサラダに取りかかる。
すっかり閉店準備を進めていたため、いつもはスライスしてスタンバイしてあるトマトがない。ウォークインの冷蔵庫まで走り、トマトを一個持ってくる。注文は、よりによってトッピングの具材が多くて面倒なニース風サラダだ。
永倉さんは冷凍のチキンライスをドリア皿に空け、電子レンジにかけた。
「ファミリーグリル・シリウス」の一番人気のドリアは、セントラルキッチンで美味しく炊いたチキンライスと、同じくセントラルキッチンでじっくり煮込んだベシャメルソースを各店舗で組み合わせ、レシピ通りのトッピングを施してこんがりと焼くというシンプルな工程のメニューだ。ニース風サラダ、フライドポテト、カキフライ、スパゲッティボロネーゼ、シーフードドリア、デミグラスハンバーグ、トマトとチーズのハンバーグ、 苺 サンデー、ホットコーヒーがふたつとアイスロイヤルミルクティーがひとつ。
カウンターにはスープ皿とスマートフォン。彼女は時々画面を見ながら、ゆっくりとスープをかきまぜている。
いつもよりも彼女に近いせいか、ふわりとコクのある香りが漂ってきた。美味しそうな香りに胃袋が刺激され、忘れかけていた空腹感を思い出す。
(中略)
「いつも奥にいらっしゃるお客さんのお料理は何ですか?」
「ガルビュール。フランス南西部、ベアルン地方の郷土料理で、お野菜がたっぷりの優しいスープです」
「ベアルン地方?」
「スペインとの国境に近いですね。シェフのスペシャリテのひとつなの。よろしければみもざちゃんもいかがですか」
初めて来た時、シェフはバスク地方で修業したと聞いた。野菜たっぷりのスープならお腹にも溜まりそうだし、給料日前のお財布にも優しいに違いない。
「私にもお願いします」
スープの女性がこちらを見て、わずかに微笑んだ気がした。少しだけクセのある複雑な香り。淡い褐色のスープには細かく刻まれた野菜と白インゲン豆がたっぷり沈んでいる。上に飾られた刻みパセリも 瑞々しい。けれど、先ほど感じた独特の香りがわからない。
「いい匂い。これ、何の香りですか」
「うふふ。まずは召し上がれ」
私はスープをすくって口に入れた。香りの次はセロリやニンニク、香味野菜の風味が押し寄せる。スプーンで皿に沈む野菜をかき回すと、縮緬キャベツ、ニンジン、タマネギ、白インゲン豆がゆるりと踊り、野菜に混じるように細かいお肉が見えた。
「ええと、これは……」
「ガルビュールは生ハムのお出汁が効いたスープなんですよ」
言われてみれば、この深みのある味わいは生ハムだ。よく知っているはずなのに、スープに結びつかなかった。厨房に大きな生ハムの原木が置かれているのを何度も目にしていたではないか。
「生ハムの骨と刻んだ生ハムからいい旨みが出るんです。本当はキントア豚というバスクの黒豚の生ハムで作りたいそうですけど、ウチではとてもとても」
堤さんが残念そうに言うと、厨房のシェフがむっつりと睨んだ。キントア豚がどれほどのものか知らないが、このガルビュールも十分美味しい。
細かいお肉は生ハムのほかに豚のバラ肉を刻んだものも入っているらしい。生ハムの旨み、豚の脂と野菜の甘みが溶け出し、程よい塩味のなんとも優しい味わいのスープだ。
「これだけ具材があればお腹も一杯になりますし、体の隅々まで栄養が行きわたる感じがします。元気が出ました」ランチメニューのシーフードドリアとサラダのセットを頼み、食後にコーヒーを付けた。
泉さんが、「大変お待たせしました」と緊張しながら、私のテーブルにシーフードドリアのセットを運んできた。
ドリアは湯気が上がるほど熱々だった。オーブンから出されてすぐに運んできたのだろう。
(中略)
私はスプーンを手に取った。ベシャメルソースの下のチキンライスも、トッピングの海老や帆立もしっかり火が通り、久しぶりに食べたけれど素直に 美味しいと思った。ソースもコクがありクリーミー、チキンライスもトマトの酸味がほどよく効いていて、ベシャメルソースと完璧な相性だ。けっこうウチの料理も美味しかったんだ。
「これ、作ったのは永倉さん?」
「は、はい」
「美味しいって、シェフに伝えておいて」
「シ、シェフ?」
「お客さんがそう言っていたって言えばいいから。あ、私が来たことは内緒でね」私は勧められるまま、堤さんが用意してくれたホットビールを飲んだ。
ホットといっても熱々ではなく、ほんのりと温かい程度なのが心地よい。黒ビールを温めて蜂蜜 で甘みを加えているようだ。かすかに感じるスパイスはシナモンだろうか。ホットワインはよく見かけるが、温かい黒ビールを飲んだのは初めてだった。
「こんな日はスープはいかがです。温まりますよ」
(中略)
「どうぞ」
静かなシェフの声とともに、目の前に皿が置かれた。ほっこりと甘いクリーミーな香り。土の色のポタージュだ。上には粗挽きの黒胡椒が散らされ、受け皿には薄く切ったバゲットが添えられていた。
スプーンで軽く混ぜると濃厚なスープが絡みつく。たまらず口に運ぶと甘い風味が鼻に抜けた。美味しい。そして濃いのに優しい。
「栗のポタージュです。クリームも加えていますが、ナッツならではのコクと甘みが美味しいでしょう」
(中略)
「ちょっぴり加えたポルト酒とナツメグもいいのよね。こんな寒い日は濃厚なスープで体の芯から温まるのが一番なの」
(中略)
「毎晩、シェフは彼女のためにスープを用意しているんですか」
「スープは一皿で体を満たし、心を温めてくれる料理です」
「そう。それにバリエーションも豊富だし、色々な具材を使えば栄養もたっぷり。実はね、そのお客さん、ここに連れてきたはいいけど、何も口にしなかったのよ。食べることに 無頓着。そのくせいつまでもガタガタ震えていてね、見ていられなかったの」
そんな彼女を見かねて、シェフはその日用意していたスープを出したそうだ。
(中略)
「ああ、今夜は栗のポタージュなんですね。美味しそう。シェフ、私にもお願いします」
「かしこまりました」
シェフは小さく頷いて、すぐに調理に取りかかった。
堤さんは熱いミルクティーを淹れ、彼女と私の前に置いてくれた。
(中略)
奈々子さんは私に「冷めちゃいますよ」とスープの続きを促しながら、「私、シェフの作るスープが大好きなの」と語りはじめた。片手をスマートフォンの上に置き、時々画面を確認する。
「優しい味でしょう。単純じゃないの。いろんな具材が溶け込んで、体に栄養が行きわたる感じがする。きっとね、手間ひまの他にシェフの食べた人を元気にしたいっていう気持ちも込められていると思うの」
「そうかもしれません」
「前に教えてもらったの。栗のスープは、栗とタマネギをじっくり炒めるんですって。でも、その前に栗の渋皮を剝くのが大変なのよ」
(中略)
シェフは静かに奈々子さんの前にスープ皿を置いた。
「……美味しい」
スプーンでスープをすすった奈々子さんがため息のように言うと、シェフの表情がわずかに緩んだ。
奈々子さんはゆっくりとスプーンでスープをかき回している。濃厚なスープにまったりと渦が描かれ、それが少しずつ消えていくのを私はぼんやりと眺めていた。「(中略)心細くて死にそうだった。あの時、理由も聞かずにシェフはコンソメスープを出してくれたんですよね。覚えていますか、澄んだスープにカウンターのダウンライトが映ってゆらゆら揺れていて、とってもきれいだった……」
「忘れませんよ」
シェフは答えた。堤さんが連れて来た女性に、シェフもきっと困惑したにちがいない。でも、何とか彼女を温めたいと思ってスープを出したのだ。
「美味しかったです。冷え切った体の隅々まで行きわたる温かさにホッとして、どうしてこんなに透明なのに複雑な美味しさがあるんだろうって驚いて……。夫のことしか考えられなくなっていた意識が、ふっとほぐれたんです。一口すすったスープで、びっくりするくらい気持ちが楽になったの」
「コンソメは、見た目はシンプルですけど、実際は香味野菜や牛肉、ワインをじっくり煮込んで、純粋な旨みだけを濾しています」「気分よく飲んでいたら、すっかり終電逃しちまったよ。ちいっと朝まで、シェフの美味い漬物とタマネギの煮っころがしでいさせてくれねぇかな」
「はいはい、ピクルスと小タマネギのグラッセですね」
(中略)
「冬野菜のピクルスです。クミンとカルダモンの風味をお楽しみください」
シェフもカウンターにピクルスの盛り合わせを置いた。
色とりどりの野菜がダウンライトに艶やかに輝いている。パプリカにヤングコーン、カリフラワーにキュウリ。とても美味しそうだ。埒が明かないので、私は自分でストッカーから取り出したリブロースに塩と黒胡椒を振ってグリルに置いた。
(中略)
「もういいから、他のオーダーはきちんと仕上げてください」
私は慎重に肉を焼き、細心の注意を払って付け合わせの野菜を盛りつけた。皿の縁の指紋や跳ねたソースをきれいに拭き上げ、先ほどのテーブルに向かった。「今夜は野菜のポタージュです」
私の視線に気づき、奈々子さんが教えてくれた。きっと優しい味わいのスープだろう。今夜の私の心を鎮めるにはぴったりかもしれない。いや、けれど収まりきらない攻撃的な気分は、肉料理を求めている。シェフの前にはローズピンクの大きな塊が置かれていて、シェフは右へ左へと包丁の角度を変えながら深く切り込んでいた。一分の迷いもない動きは何ともいえず美しい。
「シリウス」で成形されたハンバーグのパテや、一枚ずつ切り分けられてパッキングされたリブロースばかり見ていると、それらが本来動物だったということを意識しなくなる。
しかし、ここではブロックで仕入れた肉の骨や脂肪を外し、料理をイメージしながら切り分け、さらにお客さんに美味しく調理して提供しているのだ。料理人として生き物へのリスペクトも込めた、なんと素晴らしいことなのだろう。「シェフ、仕込みはもういいんですか」
「ええ。お客様からのリクエストで仔羊のキャレを多めに仕入れたんです。あ、キャレとは背肉です。皮や脂を外し、背骨を切り離し、あばら骨の一本一本の間に包丁を入れる。その仕事に没頭する時、頭の中がとてもクリアになります」
(中略)
「どうです。せっかくなので新鮮な仔羊でも召し上がりますか」
シェフは私に顔を向けた。
「あっ、じゃあ、仔羊をお願いします! あと、スープも」
奈々子さんのスープは、刻まれた野菜がたっぷりで何とも美味しそうだったのだ。
「今夜のスープは農夫風ポタージュです。仔羊はおまかせでよろしいですか」「ちゃんとした食材を仕入れても、注文が入らなければもったいない。こういう予約は、シェフが腕を振るう絶好の機会でもあるの。ありがたいことなのよ」
「じゃあ、今夜の私、新鮮な仔羊が食べられてラッキーでしたね」
「そう、ラッキー」
こんがりとした香りが漂ってきて、私たちは厨房へ視線を向けた。
シェフは小鍋からスープを器に移すと、オーブンで焼いたバゲットを上に載せて、私の前に運んできた。
「お待たせしました。農夫風ポタージュです」
「いただきます!」
スープには、ほぼ同じサイズに細かく刻まれた野菜がたっぷりと沈んでいた。タマネギ、ニンジン、セロリ、キャベツ、ジャガイモ、グリーンピース。それぞれの野菜の色の違いが楽しい。上に置かれたバゲットには、すりおろしたチーズがたっぷりと載せられ、上の部分は溶けて焦げ目がついていた。
私は野菜の甘い香りと、チーズの香ばしい香りを思う存分堪能した。
それからわざとバゲットを野菜の下に沈めた。カリカリもいいが、ふやけてすっかりスープを吸ったバゲットも絶対に美味しいはずだ。野菜はやわらかく煮えていて、ジャガイモさえも口の中でホクッととろけた。何という優しい味わい。
私は昼間の出来事など忘れ、スープに夢中になっていた。
(中略)
スープの最後のひと匙を口に入れた頃、再びいい香りが漂ってきた。香ばしさと肉の脂の甘い香り。きっと私の仔羊だ。
(中略)
シェフは両手で私の前に大きな皿を置いた。
「仔羊のロースト、ソースはバルサミコです」
仔羊など食べるのは何年ぶりだろう。
(中略)
突き出した骨のたおやかな曲線にうっとりし、ほどよく火の入った鮮やかな桃色の肉の断面にほれぼれした。
「ソースは肉に触れないよう添えています。お好みでどうぞ。せっかく新鮮なアニョーですから」
素材の味を堪能してほしいということだろう。その瞬間、たっぷりとしたソースに浸った、永倉さんの焦げたステーキが頭に浮かび、慌てて振り払う。
「お、いい匂い」
堤さんに案内されて入ってきた男性客が、さっそくカウンターに手をついて鼻をうごめかせた。
「うふふ。 矢口 さん、今夜は仔羊が入っていますよ。いかがですか?」
(中略)
私は仔羊肉にナイフを入れた。ナイフを押し返すしなやかな弾力に驚く。
まずはソースをつけずに口に入れた。程よい塩気とハーブの香りが鼻に抜ける。周りの脂がカリッと香ばしく、次にじゅわあっと、肉の旨みが口いっぱいに広がった。思ったよりもラム肉独特の癖を感じないのは、やはり鮮度がいいからなのだろうか。
気づけば、涎を垂らさんばかりの顔で矢口さんがこちらを見ていた。
「シェフ、俺も。俺も仔羊ね」カウンターの奥には奈々子さんがいて、二人掛けテーブルでは、会社帰りらしき二人の女性がチョコレートをつまみながら食後のコーヒーを飲んでいた。
店内に漂う芳醇なコーヒーの香りに刺激され、私もたまらなくコーヒーが飲みたくなった。
(中略)
「堤さん、私、すっごくコーヒーが飲みたいんです」
そっと後ろのテーブルを示すと、堤さんは大きく頷いた。
「コーヒーって、つい香りにつられちゃうわよね。 淹れましょうか。この前、見つけた自家焙煎の喫茶店の豆がなかなかいいのよ」
(中略)
「今度、カフェインレスのコーヒーも探してみるわね。あ、そうだわ、みもざちゃん。今夜はリンゴのパイが焼けているわよ。サックリしたパイに、シェフ特製の焼きリンゴを載せているの。胡桃 のアイスを添えて、食べ応えもバッチリ。いかがですか?」
なんという美味しそうなデザートだろう。いつでも堤さんやシェフは、私がその時に食べたいと思うものを提案してくれる。
(中略)
「シェフはね、実はリンゴが大好きなの。知っている? バスク地方ってリンゴが有名なのよ」
そこで堤さんは両手を組み合わせ、目をキラキラと輝かせた。
「美味しいのよう、シェフの焼きリンゴ。バターとリキュールの風味がしっかり効いていてね、リンゴはトロットロ。皮ごと焼いた甘酸っぱいリンゴを、パイの上のカスタードがガッシリ受け止めているの。ほら、シードルというとブルターニュやノルマンディーを思い浮かべるけど、実はバスクのシードルも美味しいの。シェフの修業先だからね」
堤さんはまるでリンゴのパイを目の前にしたかのようにうっとりと語った。きっと堤さんもこのデザートが大好物なのだ。ここまで語られては、注文せずにはいられない。
(中略)
しばらくすると、甘酸っぱい香りが店内に漂いはじめた。期待に胸を膨らませた時、カランカランとドアベルが鳴った。続いて 賑やかな女性の話し声。すぐさま堤さんが玄関のほうへと向かった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました!」
その声に、わずかにシェフが身を竦ませた気がした。
「来ましたね」
シェフは呟きながら、私の前にリンゴのパイを置いた。皿に添えられた手がわずかに震えていた。
(中略)
想像したアップルパイとは大きくかけ離れていた。皿の上には、こんがり、しっとりと焼けた焼きリンゴがそのままひとつ。わずかに焦げた果皮と、融けてカラメル状になった砂糖が香ばしい香りを放っている。くり貫いた芯の中にはたっぷりとバターも仕込まれているようだ。その下に、カスタードクリームで接着されるようにパイ生地の土台がある。横にはたっぷりの胡桃のアイス。わずかにシナモンの混じったリンゴの甘酸っぱい香りもして、いくつもの美味しそうな香りに私はすっかり圧倒されていた。
感激に緩みっぱなしの私の顔に、シェフの頰もわずかに緩んだ気がした。
「どうぞ、熱いうちに」
「はい!」
ナイフでリンゴからパイまでを一気に切り分けた。とろりとした果肉、まったりと濃厚そうなバニラビーンズたっぷりのカスタード。パイもサクサクだ。大きく口を開けて頬張ったとたん、片手で頬を押さえて思わず呻いた。「今夜はどんなお料理をいただけるのかしら。ねぇ、でもさっきから甘酸っぱくていい匂いがするの。これは何?」
「リンゴのパイです。よろしければデザートに同じものをご用意しますよ」
「まぁ、素敵。そうだわ。乾杯はシードルにしましょうか。千花ちゃん、ある?」
「ご用意いたします」
堤さんが三人のグラスに金色に透き通るお酒を注ぐと、彼女たちは「乾杯!」と声を揃えた。
堤さんとシェフも一緒になってカウンターの内側で拍手をしている。
(中略)
堤さんは準備していたアミューズブーシュをカウンターに並べ、シェフは次の料理に取りかかっている。
(中略)
「お待たせいたしました。まずはスパイスとハーブを効かせた仔羊肉のソーセージです」
シェフがカウンターに皿を置いた。
「ああ、そう言えば、最初にここで食べたものもソーセージだったなぁ。もしかして、シェフ、覚えていたの? まさかねぇ」
「覚えていますよ」
(中略)
「そう! そのソーセージがびっくりするくらい美味しかったの。もちろんソーセージのくせにずいぶん高かったけどね」
彼女の周りが笑いに包まれた。いつもそうだ。終電後にやってくる彼女はいつも楽しい話題を披露し、同僚と一緒に笑っている。
「それからは度々足を運んでくださいましたね。とくに何かお仕事で問題がある時に。お肉料理を注文されて、ワインもたくさんお召し上がりでした」オーブンからニンニクとハーブの香りが漂ってきた。
「そろそろです」
シェフは厨房の奥へ向かい、女性客たちは期待に瞳を輝かせる。
(中略)
「お待たせいたしました。仔羊のペルシヤード、香草パン粉焼きです」
私はシェフの声に、つい顔を上げた。
木下さんの歓声が上がった。
「あっ、これ大好きなの! 懐かしいわぁ、やっぱり大きなクレームをひとつ処理した後にシェフが出してくれたのよねぇ。羊肉の焼けた脂の香ばしさと香草パン粉のサクサク感がたまらないの!」
ねぇ、食べてみて、と、友人たちの皿にも取り分けると、自分もすぐにナイフを握ってザクザクと刃を入れた。軽快な音が私にまで届き、思わずごくりと喉が鳴った。
「そうそう、このパセリとニンニクの風味がお肉の味を引き立てるのよ。シェフのお肉料理を食べると元気が出るのよね。疲れた体に美味しさが染みわたっていくの。そうすると、もっと欲が出るわけ。もっと頑張って、また美味しいお料理を食べよう。もっと、もっと頑張って、あれとこれを食べようって」私はさっそくワインを口に含んだ。華やかな香りの、しっかりとした味わいだった。きっと彼女たちの仔羊料理に合うワインなのだろう。
テーブル席の男性たちは、「いい匂いがするなぁ」と、木下さんたちと同じ香草パン粉焼きを注文した。彼らも今夜はビールではなく、堤さんがワインを注いでいる。
その間にもシェフは次のお料理を仕上げていた。
「仔羊フィレ肉とフォアグラのパイ包み焼きです」
「これ、私、一番好き! 初めて食べた時、思わずおかわりって言っちゃったのよね」
「仔羊モモ肉のロースト、白インゲン豆の煮込みとご一緒にどうぞ」
「ああ、これ。嫌な上司が不祥事を起こして、子会社に出向になったの。その時に食べたわぁ! 勝利の味って感じなのよ。ちょっとシェフ、本当に私が絶賛したお料理、全部出してくれるつもり?」「お祝いですから」
シェフは静かに微笑んだ。
(中略)
「あっ、シェフ、今度は会社の仲間とお祝いしたいの。ええと、金曜日の遅い時間にお願い。次もお肉がいいわ。そうだ、豚がいいわね。前に作ってくれた豚足のパン粉焼き、あれ、とても 美味しかったもの。あとはシャルキュトリーを盛り合わせて、メインもいくつかお願いできる? 楽しみにしているわね」
「シェフ、聞いていました? 次はコションですよ」「ワインが残っていますね」
「あ」
コーヒーとリンゴのパイを食べ終えた私に、木下さんのおめでたい話は、ワインのつまみとしては少し重かった。
しばらくして、シェフがそっと私の前に小皿を置いた。
「ロックフォールとオッソー・イラティ、どちらも羊の乳から作られるチーズです。こちらも先ほどのお客様にお出しするつもりでしたが、出しそびれてしまいました。堤もこちらに合うワインを選んだはずです」
仔羊ちゃんたちの希望は、めったにないような肉料理ばかりの組み合わせだった。チーズを挟むとしたらデザートの前だが、彼女たちはさっさとコーヒーを注文してしまったのだ。
「世界三大ブルーチーズのひとつと、羊の牧畜が盛んなピレネー山脈のあるバスク地方を代表するチーズ、お祝いの席にはふさわしいと思っていたのですけど」小さな中華食堂。私は店の隅っこで父親が作った餃子や野菜炒めを食べ、二階の自宅へ上がって、夜中まで両親の帰りを待っていた。
それよりも、その横にいるシェフだ。大きな手で力強くおにぎりを握っている。先ほど感じた匂いは、お米の炊けた匂いだったのだ。そして、しっかりと出汁を取った味噌汁の香り。
(中略)
入ってきたのは高齢の男性だ。迷いもなくカウンターの真ん中に座ると、シェフは、すっと大きなお椀に入った味噌汁と、握りたてのおにぎりが載った皿を置いた。
続いてまたカランカラン。
「おはよう、シェフ、千花ちゃん。今朝は冷え込んでいるわよ~」
「早く温かいお味噌汁、飲みたいわぁ。ねぇ、今日の具材は何?」
次々とお客さんが入ってきて、店内は一気に満席となった。今では堤さんもカウンターの中でシェフを手伝って、味噌汁をお椀によそっている。
(中略)
「うまい! 朝はシェフの味噌汁が一番。これがなきゃ始まらないよ。握り飯も塩加減が最高なんだよ」
さっきまで久能さんがいた席に座った小柄な老人が目を細めて味噌汁をすすっていた。テーブルでは毛糸の帽子をすっぽりかぶった、やはり年配の女性二人組が両手で大切そうにお椀を包み持っている。
「ああ〜、温まる。冬の朝一番はきついからねぇ」
「そうそう、始発を待つ駅のホームの寒いこと! この店はまるで天国だよ」
おにぎりを頰張り、ほっこりとした老人たちの顔を眺めるシェフの顔も優しげに見えた。ふと私の視線に気づき、にこっと笑った。
「みもざさんもお味噌汁、いかがですか。今朝はカボチャと油揚げです」
「いただきます」
「みもざちゃん、おにぎりも食べるわよね。シェフの結び加減がいいのよ。何せ、お米はシェフの故郷、米どころ新潟のブランド米。お塩はミネラル豊富でまろやかなゲランドの天日塩。毎日でも飽きないって評判なんだから」
「日本人ですからね」
炊き立てのご飯から立ち上る湯気で、眼鏡を曇らせながらシェフが言う。
(中略)
目の前に置かれた大きなお椀からは優しい湯気がほっこりと立ち上り、ひと口飲んでみると、くっきりとした出汁の中に煮溶けたカボチャの甘みが加わって、じんわりと胃の腑に沁み渡る。
そしてシェフのおにぎりだ。もっちりとした炊き立てのお米の甘さを、まろやかなお塩がさらに引き立てて嚙むほどに甘みが増していく。
「美味しい……」
思わず声を漏らすと、シェフが頷いた。
「一日の始まりですから」「どうせいつも朝ごはんも食べていないでしょう。これ、飲んでから行きなよ。くたびれた顔しているから」
手渡されたのは、フリーズドライの即席味噌汁 だった。たいてい金田さんはお弁当を持っていく。今日のお昼のお供だったに違いない。
(中略)
私はお湯を沸かして、インスタントの味噌汁をありがたくいただいた。具材は揚げ茄子。金田さんがくれた勇気をゆっくりと体に取り込み、いつもよりも混雑する電車で浅草へと向かった。「いえ、違うんです。おかげ様で首尾よく行って、祝杯を上げたい気分なんです。だからお誘いしたんですよ。上手くいったのは、お味噌汁のおかげです。それに、知っていますか。『キッチン常夜灯』、あそこ、朝になると、炊き立てご飯の塩むすびとお味噌汁を出すんです。シェフ、真夜中に寸胴鍋いっぱいに出汁をとるんですよ。早朝から働く人たちがそれを楽しみに集まってきて驚きました」
「……温かい蜂蜜入りのワインでも作りましょうか。のんびりしていくといいわ」
「ありがとうございます」
私の不眠を知っている堤さんは、気持ちを鎮めるハーブティーや、カフェインレスのコーヒーなど、色々と気を遣ってくれている。以前、作ってくれた蜂蜜入りのホットワインがとても美味しくて、その夜は眠れそうだと話したのを覚えていてくれたのだ。「アンドゥイエットです」
監物さんは検分するようにじっくり料理を眺めている。
こんがりと焼き色のついた太いソーセージ。マッシュポテトとサラダ、マスタードが添えられている。脂の焦げる香りがたまらない。
「……うん。うまそうだ。お嬢さん、一緒にいかがですか」
城崎シェフの表情がほっと緩み、すぐに取り皿を用意した。
監物さんは太いソーセージを半分に切り分けると、ポテトやサラダを添えて私の前に置いてくれた。
「せっかく注文したのに、半分でいいんですか?」
(中略)
「お嬢さん、アンドゥイエットは初めて?」
「はい」
「ケイ、説明して」
監物さんに促され、シェフは従順に従った。
「豚の腸に豚肉や内臓類を詰めたソーセージです。内臓といっても、丁寧に処理をして臭みなどはありませんので、安心してお召し上がりください。独特の食感がお楽しみいただけます」
「内臓のソーセージ……」
「フランスには、内臓から血液まで余すことなく使う料理があるんだ。そういう料理が好きな客もわりと多い。内臓はどこを使った」
「胃と小腸、肉は喉肉です」
「まぁ、食べてみてよ、お嬢さん」
私は恐る恐る切り分けて口に運んだ。
断面はかなり粗挽きのソーセージといったところで、口に入れるとしっかりとした食感がある。溶け出した脂が熱でカリッと焼けていて、口いっぱいに旨みが広がった。
監物さんも頷いた。
「うん。悪くない。店によっては詰め物も腸の形がわかるくらいのアンドゥイエットもあるけど、ケイのはかなり細かくしてあって食べやすい。まぁ、それも好み次第だ」
「初めて食べました。美味しいですね」
(中略)
「前にね、肝臓をやっちまったんだよ。やっと退院してここに来たら、ケイの奴、フォアグラを出してきた。さすがにきつかった。知っています? 同物同治っていう薬膳の考え方。体の悪い部分を動物の内臓の同じ部分で補おうって考えらしいんですけどね、病み上がりに出す料理ではない」
(中略)
「ピペラードです」
「お前さんが修業したバスクの料理だな」
グラタン皿のような器の中は、真ん中にポーチドエッグを落として生ハムをたっぷりと載せた野菜の煮込みのような料理だった。
監物さんがさっそく私の分も取り分けてくれた。
ラタトゥイユのような野菜のトマト煮込みの豪華版といったところか。半熟卵がとろりと蕩けて、トマトの酸味と絡み合う。大ぶりのパプリカは甘みがあって、たっぷりの野菜と生ハムのバランスが絶妙だ。
「上の赤い粉はピマン・デスペレットというエスペレット村原産の赤唐辛子で、味を引き締めてくれます。バスク地方はフランスとスペインにまたがっていて、この地方の料理には、大航海時代に新大陸、つまりメキシコのあたりからもたらされたトマトや唐辛子を含むピーマン類がよく使われます」
「美味いな。こういうのがいいんだ。私のような古い料理人は、教科書通りのフレンチしか作れなかった。郷土料理っていうのか、その場所、その場所の美味い料理を食べられるのも、こういう店の良さだよな」
長月天音著『キッチン常夜灯』より