たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

神様のいる食卓 坂直子『空が微笑むから』

京都教会牧師夫人、坂直子さんのメモワール。彼女は3年前に召天されている。縁あって本書を手に取った。教えとして印象に残ったのはヨンス牧師の口癖、「クリスチャンは日曜と水曜に教会に行くもの」。確かに日曜の礼拝を守るだけでは、霊の乾きが出てくる。水曜の祈祷会に時間を捧げようと決めた。

練炭をずらすタイミングをしくじった釜の飯は、底のほうが焦げている。冷めて
硬くなった飯を自分でよそい、おかずが置いたままになっている小さな膳の前で
、彼は片ひざを立て、食事を始めた。温め直した汁を彼の膳に置いてやると、母
は床に置いた大きなまな板の前に戻り、蒸した豚足の肉を大きな包丁で再び削ぎ
始めた。

先輩は、ヨンスの身の回りの細かいことにまで、実によく世話を焼いてくれた。
ヨンスの食事は、安東の田舎から持ってきた米を練炭で炊き、コチュジャン(唐
辛子味噌)を塗って食べるだけの粗末なものだった。
「ヨンス、いるか?」
田舎からキムチが送られてくると、先輩は、必ずヨンスに食べさせるのだった。
切れるような冷たい水を張ったたらいで洗濯していたヨンスは、真っ赤になった
手に「はぁはぁ」と息を吹きかけながら、先輩を迎えた。
「今日はスンドゥブチゲだ。魚の缶詰入れて、美味くして食べよう」
キムチに魚の缶詰、豆腐に野菜。ヨンスが何日も食べられるように、彼はわざと
たくさん作るのだ。
「先輩、今日のセーターきれいですね」
「ヨンスは、こういうの好きか」
「色もいいし、着やすそうに見えます」
「そうか、ちょっと着てみるか?」
「えっ?」
セーターをさっと脱いで、ヨンスに手渡す。
「おぉ、似合う、似合う。俺よりお前のほうが似合うみたいだ。やるよ」

学生時代、教会に導いてくれた姉妹を思い出す。
遊びで終電を逃した私が電話すると、巣鴨駅まで寒い中迎えに来てくれた。彼女の家までの道、彼女が自分の着けていたマフラーを外して私の首に巻いてくれた。そのチェックの青いマフラーの暖かかったこと。それはそのまま私のものになった。
なのに... 私は神様に背を向け、彼女とも離れてしまった。
今、私はクリスチャンである。あの夜から10年、場所は海外。時間も距離も遠く離れて、私はやっと救われた。きっとずっと祈ってくれていた彼女に一番知らせたいけれど、連絡先も何も知らない。どこかで神様が伝えてくださるだろうけど。

夜遅くに到着した私たちを、義父母と姉弟たちが温かく迎えてくれた。大きな膳の上には、ところ狭しと料理が並べられていた。魚料理に肉料理、色とりどりの野菜や数種類のキムチ、見たこともない料理が、数多く並べられてあった。辛い韓国料理だけでは大変だろうからと、日本人の私のために、ポテトサラダも準備されていた。どれほどの時間と思いを込めて準備されたか、その温かいもてなしに胸が熱くなった。

とりあえず、ここ西海岸の韓国焼肉屋では絶対ポテトサラダが出てくるんだけど。。。あれは韓国料理じゃなかったのか。。。

プログラムが終わると、どこからともなく男性たちがさっと来て、手際よく会堂を立食パーティの会場に作り替えた。どこにこんな素敵な食器があったのかと思うほど、綺麗なガラス食器にフルーツポンチが準備され、チキンの唐揚げやサンドイッチ、ばら寿司やケーキがすべて手作りで、ズラッとテーブルに並んだ。食前の祈りの後、ワッと一斉に子どもたちがテーブルに群がる。大人たちは微笑みながら、後ろから子どもたちの食欲を見守るのだった。パーティが終わった後、かなり疲れていた私は、ほとんど何もできなかったが、会場の整備から洗い物まで、みんなが協力してすっかり片づけてくれた。Y牧師が、教会始まって以来の素晴らしいクリスマスだったと言ってくださった。

ある日の夕食のこと、食卓にはご飯と味噌汁、いただいたキムチとししゃもが並んでいた。それを見てヨンスは「僕たちは裕福だね。こんなご馳走が食べられるなんて」と言った。思わず私は「今日の材料費は百円よ!」と笑いながら言った。すると彼はさらりと「ご馳走だと思って食べるほうが幸せだろう」と言うのだった。ししゃもがメインディッシュの食卓を、無理矢理でもオーバーでもなく、心からご馳走だと言ってくれる彼が誇らしかった。静かで豊かな幸せのひとときだった。
彼はなぜか、雨の日にスルメをあぶって食べるのが好きだった。そして決まってこう言うのだ。
「感謝だな。外はあんなに雨が降っているのに、屋根があって、ここはこんなに平和だ」

坂直子著『空が微笑むから がんとヨンスと神様と』より

イエスさまは食事するのが大好きなお方だ。彼が敵の前でそなえてくれる食卓に日々感謝して。

カニだ、肉だ、膜の張ったミルクだ<キライ 林真理子『断崖、その冬の』

食べることが好きな人なんだろうな。

「ちょっと」本を読む人、特に女性なら、一度は林真理子を読みまくる期間があるのではないだろうか。といっても、流行モンが書かれているだけに廃れるのも早く、描かれた女性も古くさく、これからはどうか分からない。御母堂のことを書かれた『本を読む女』や、「花子とアン」で知られるようになった『白蓮れんれん』なんかは少しは生きながらえるかもしれない。『葡萄が目にしみる』のラストとか共感したけどな。

とはいえ、私がいちばん面白いと思うのは「トレンディ」ギンギンの『星に願いを』。興味深い風俗小説。その魅力は、山田詠美による文庫版のあとがきで言い尽くされている。

エッセイは一時期文春、アンアンのを読んでいたけど、それらの雑誌卒業とともに縁が切れた。ときおり書籍化されているのを見るけど、だいぶ筆力は落ちている様子。

最近は、直接知り合いでもない事件の被害者を中傷したりして曾野綾子的ネオリベに走っていて、なかなか残念なことである。

「北燈亭」は、大正五年の創業という街でいちばんの老舗だ。昔繊維景気でこの街が沸いた頃は、芸者も入り窓から三味線の音が絶えなかったという。現在は高級割烹料理店として蟹が有名である。地元の者に言わせると、
「テレビのグルメ旅番組に出るようになってから、値段ばかり高くなった」
ということであるが、妙子はやはり蟹は北燈亭だと主張する。近くの港で水揚げされた蟹のうち、いちばんいいものは築地にいき、それ以下の二級品、三級品が街の店に出まわるという。ところが北燈亭だけは昔からの顔役であるのと金を惜しまないゆえに、築地と同レベルの蟹が運ばれてくるそうだ。
「だから高くても仕方ないのよ」
という妙子は、この年齢で働いている女がそうであるようにうまいものに目がない。毎年蟹の季節を待ちこがれているのだ。

この店では、蟹は黒い漆の高坏に盛られてくる。みずみずしい笹の葉を添えられ、越前蟹は優美な姿を横たえている。まるで盆景のように、すべてが過不足ない美しさだ。妙子にとっても「初蟹」だという。二人の女はしばらく箸をとらず、その黒と緑と赤の配色に見入っていた。仲居が声をかける。
「よかったら身をほぐしましょうか」
「違うのよ。見惚れてたのよ。今日は幾らとられるかなあっていう恐怖もあるし」
妙子が女を笑わせた。
「それに私は土地の者だから、蟹を食べるのは慣れてるわよ。もっとも私が子どもの頃は、蟹はしょっちゅう夕ごはんに茹でてくれるものだったけどね」
「え、お客さんの頃でそうですか。まだお若いんですもの、子ども時分は、もう高くなってたはずですよ」
「この店の人って、蟹ばっかりじゃなくて口もうまいんだから。それより冷酒、もう一本持ってきて」

(中略)
「西田さん、まずはこっちの方から片づけようよ。これはね『北光峰』の大吟醸でやるとたまらないよ」
妙子は高坏と一緒に運ばれてきた蟹味噌に手を伸ばした。綺麗にほぐしたそれは、切子のガラス鉢に盛られている。口にふくむと海胆のような甘みが舌に広がる。続いて蟹の方にも手を伸ばす。まだ少し早いのではないかと仲居は案じていたが、華奢な足をぽきりと折ると、中からよく締まった白い身が現れた。かすかに黄味をおびて濡れているそれを笛を吹くように口にくわえ、強く吸い出す。味噌よりもはるかに淡い甘みだ。
蟹を食べる人がそうであるように、二人の女はしばらく無言でしゃぶり続けた。この街の人たちは、蟹を食べる時に金属のスプーンを使ったりしない。唇と舌をうまく使えばいいのだ。もっと上級者になると、ハサミを使うことも邪道だという。まず前歯で殻をバリッと割り、舌で身のありかを確かめる。そうして唇をせり出すようにして、汁ごと吸い出すのだ……。
そんなことを教えてくれた男がいたが、もうあれきり会うことない。枝美子が、蟹から口を離すと、殻の赤と白の境いめあたりに、ピンク色の口紅がかすかについているのが見えた。自分はその男の肌にも、こんな風に、口紅を残したことがあるかもしれないとふと思った。
「ああ、おいしいわぁ……」
骨のような空の足を積み上げて妙子はうなった。
「今年は寮があんまりよくないなんて聞いてたけど、たいした蟹だったわよね」
「やっぱり、ここの蟹は高いだけあるわよねぇ……」
仲居が熱いおしぼりを替えに入ってきた。
「西田さん、この後お食事はどういたしますか。蟹鮨になさる方もいますし、蟹雑炊もあります。もちろん白いごはんもありますけど、西田さん、私はやっぱり蟹雑炊がおすすめだわ」
(中略)
もし自分がテレビに出ないようなことになると、あの色紙は即座にはずされるのであろうか。
そんなことを考えながら、枝美子はちりれんげを手にとり、蟹雑炊をすすった。妙子もそうだが、枝美子も食べるのが早い。取材に行った時など、とにかく食べられるものを大急ぎで腹の中に入れるという習慣がついているのだ。それに長い廊下を運んでくる間に、雑炊はちょうどほどよい熱さになっていて、吹いてさます必要はなかった。

何という馬鹿なことを考えたのだろうかと、枝美子はソファから立ち上がった。キッチンに向かう。寒いところからやってくる裕紀のために、コーヒーを淹れなければという余裕がやっと生まれてきていた。豆の缶に手を伸ばしかけたのだが、思い直して冷蔵庫を開ける。昨日、近くのスーパーに行ったばかりなので、大型の牛乳パックが封を切らないままで置いてあった。コーヒーよりもココアの方がいい。寒い夜に、女が二人しちめんどうくさい話をするのだ。コーヒーはすぐに冷めてしまう。それよりも、舌を火傷させるほどのココアは、人の心をどれほどなごませることだろう。戸棚を開けると、香辛料の奥に、ココアの缶は確かにあった。いつもそうだ。昨年の冬に買ったココアの缶が、使いきらずに残っている。だから次の冬の最初に、枝美子は少々風味の抜けたココアを飲むことになる。だが、ソーメンや、苺用のコンデンスミルクのように、たいていのものは季節の終わりに使いきることが出来ずに残るものだ。
(中略)
そして枝美子は牛乳を鍋に入れ、しばらく火にかけた。沸騰する直前まで温め、いったん火を止める。そして裕紀が現れたらもう一度吹きこぼれるほどに熱くする。その方が、冷たい牛乳を最初から温めるよりずっと早いだろう。
(中略)
「ちょっと待っててね。いまココアをつくるわ」
「あ、私、ココアはいいです。喉がエゴエゴしちゃって、昔から好きじゃないんです。それよりも日本茶をください」
「わかったわ」
レンジの前に立つと、わずかの間に牛乳はすっかり冷めていて、鍋の表面に白い膜をつくっていた。明日の朝、これにきっと砂糖を入れて飲むことになるだろうと思った瞬間、枝美子の手が勝手に動き、鍋の中身を流しにぶちまけていた。睡たげな甘いにおいが鼻をついた。

 

「コーヒーをお願いします」
ついでにモーニングサービスのトーストも付けて、といったら野田はやはり腹を立てるだろうか。目の前の野田はしきりに煙草を吸い始めた。確か最近禁煙に成功していたはずだが、そんなことは信じられないほど、次から次へとマイルドセブンに火をつける。まるで自分の怒りや苦悩を共有しようとしない枝美子に対するあてつけのようだ。この男の前で、焼きたてのトーストをがりりと噛み、ゆで玉子の殻をむいたらどれほど気分がいいことだろう。

 

「ところで何を食べますか」
メニューを広げる。
「ここってフライドチキンやピザが、なかなかいけるのよ。この後、何か食べに行ってもいいんだけど、このあたりは閉まるのが早いのよ。だからこの店で何か食べた方がいいと思うわ」


結婚披露宴も出来る、このあたりでは一流といわれている中華レストランだ。ランチも高い値段で、枝美子たちもそうしょっちゅう訪れているわけではない。しかし、ちょっと贅沢をしたかったり、込み入った話をする時はこの店は大層便利である。顔が知られたアナウンサーたちに気を遣って、個室に入れてくれたりするのだ。
エビのチリソース煮と、豚の角煮といったランチのメニューを選び、取り分けて食べた。真美は奇妙な箸の使い方をする。箸のあいだに中指を入れることなしに、ぎこちなくものをつまむのだ。番組の中で、時々ものを食べることがあるので、枝美子はそれとなく注意したことがある。
(中略)
真美は力を込めて、豚の角煮を切断し、それを自分の皿に運ぶ。夏から秋にかけてずうっと続けていたダイエットは、この雪の中、どうやらやる気を失っているらしい。自分で小さな櫃から飯をよそった。
(中略)
ここでデザートの杏仁豆腐が運ばれてきたので、真美は話を中断した。コンパクトを取り出すこともなく、口紅の具合を直した。親指の先で、半ば開けた唇をなぞっていく。いかにも女だけの寛いだ様子だ。
こんな風にして、北陽放送始まって以来のセクハラ事件は語られるのだと枝美子は思った。自分のように意識し、努力した気楽さとはまるで違う。真美にとっては、豚肉を食べる間に喋る程度のことなのだ。

毎日旅館の料理だけでは飽きる。すき焼を食べさせてくれと言ったのは男の方だ。
枝美子はスーパーに寄り、少々迷いながら牛肉を一キロと野菜を買った。ざっと部屋を片づけ、卓上コンロの用意をしようとしている時にチャイムが鳴った。

男の箸遣いは、真美よりも危なっかしいぐらいだ。長い菜箸だとするりとネギが逃げてしまう。それなのに男は自分で鍋を差配しようとする。だし汁に醤油と砂糖を加え、それを煮立てていくやり方は関東のものだ。
(中略)
腹立たしげに肉を鍋に散らしていく。上等な霜ふり肉だ。魚が美味いこの街では、どうしても肉はないがしろにされる。だからわざわざ遠くの大きなスーパーへ行って買った肉だ。
「この"上"のすき焼肉を一キロ」
と告げた時の店員の表情をまだ憶えている。若者と中年とのちょうど中間といった年齢の彼は、枝美子が誰だかすぐに気づいたようだ。一キロという数字に、彼は話しかけるきっかけをつくろうとする。
「パーティーか何かですか」
「ええ、そうなの。だから一キロね」
(中略)
ショッピングカートに肉の包みを入れると、四方から人々がそれを見ているような気さえした。男を部屋に入れるのも大変な気苦労があるが、大量の牛肉を運び入れるのもそれ相応の緊張感があったのだ。
「もうそろそろ、いいんじゃないかな」
男は菜箸で肉をつまみ上げ、それを枝美子の皿に入れた。
「オレは玉子使うの嫌だけど、あんたは好きなんだろ。テーブルの上に出てるよ」
男は思いのほか饒舌であった。大学の合宿所でとんでもない料理をつくった話をしては枝美子を笑わせる。
- なにしろ食い盛りのガキばっかりだぜ。合宿所の夕飯だけじゃとても足りないんだ。だから金を出し合って電気コンロ買ったんだ。お湯を沸かして、カップラーメンつくってるぐらいはよかったけど、お好み焼きやろうなんて言い出した馬鹿がいる。


男のために一昨日鍋を用意した。白身の魚の上に、どっさりと大根おろしを入れるこの地方の名物だ。しかし男は、こんな食事では食べた気がしないと不満そうに言う。
「肉を喰わせてくれよ、肉を。こんな白っぽい鍋はさ、六十過ぎてから喰うことにするよ」
今日は休みでもあるし、男のために少し凝った料理をつくらなくてはならないだろう。
猪鍋にしてみようかと枝美子は考える。この街にやってきた最初の冬、普通の食肉店に猪が下がっているのを見て、息が止まるのではないかと思うほど驚いたものだ。が、このあたりでは冬になると、ごく普通に食べるものだという。味噌仕立ての鍋にして何回か食べたが、独特の臭みも慣れるとなかなか旨い。やみつきになる、というほどでもなかったが、冬になると一度は食べてみようかと思い出す味だ。今晩男にあれを出してみよう。案外珍しがって喜んで食べるかもしれない。が、それならばいつも行くスーパーではなく、古い通りの食肉店に行かなくてはならないだろう。


「ここは魚がうまい替わりに、肉がいまひとつなんだよなあ。このあいだステーキを食べたら、味も焼き方もひどかったぜ」
「ここから歩いてすぐのところにいい焼肉屋さんがあるわ。韓国人が経営していてとってもおいしいの。あそこならあなたも満足すると思うけど」
「わかったよ。あんたのベロを信じるよ」
(中略)
大雪のせいか、焼肉屋は客がまばらだった。枝美子の顔を見た店員は、窓際の席へ案内してくれる。二重ガラスのこちら側はほかほかと暖いが、外の灰色はさらに濃くなるばかりだ。雪が結晶となって恨めし気に、二、三階ガラスにへばりついた。
男はビールの中瓶と、特上ロース、特上カルビをそれぞれ三人前ずつ注文した。
「そんなに食べきれるかしら」
「たぶんオレがひとりで食うよ」
「すごいわ……」
「そんな、たいしたことないよ。野球選手なんて、黙ってりゃひとり十人前ぐらいぺろりと食べるさ」
「本当」
「本当さあ。チームの奴らと焼肉を喰う時なんか、それこそ店員がひとりつきっきりで肉を運んでくれる」
「他の人たちもそうなの」
「そりゃあ、そうだ。オレたち、食うことにそりゃあ金を遣うよ。これが商売だからね」
(中略)
赤い花のようなかたちに盛られ、肉が運ばれてきた。枝美子はそのひと切れを箸でつまみ、網の上に載せた。
「さあ、秀才さん、召し上がれ」

枝美子は、女から無言で渡されたサンドウィッチを頬張る。パンの間からの冷気が歯に浸みた。最近になって枝美子が知ったことがある。それは世の中に、プロ野球ファンが実に多いこと、そして彼らの間で、志村が結構知られいていることであった。

林真理子『断崖、その冬の』より

私を支える言葉 吉田修一『悪人』

カレッジの日本映画講義で取り上げられたので、仕方なく電書で買って読む。
この手の映画化前提みたいなクラスタの作品を読むのは時間のムダである。

一点、物語とはそれつつ挿入されいているオッサンのモノローグが、昔、飲み会でクライアントから聞かされた話とすごく似ていてビックリした。このリアルさは作者にも同様の経験があるのだろうか。気持ちは私にもよく分かる。

… 男にとっては、そういう見え透いたお世辞でも、心のどっかにずっと残っとることがあるとですよ。もっと言えば、その一言のおかげで自信持っておられるとですよ。こんな昔話すると、気持ち悪く思われるかもしれんけど、大学生のころ、テニスサークルの先輩やった女性に、「林くんって、真っすぐに人のこと見るよね。だからかな、一緒にいるとなんか自分が見透かされてるような感じがする」って言われたことがあるんですよ。なんてことない言葉なんやけど、不思議なもんで、それがその後、自分の拠り所みたいになってるんですよね。

ちなみにクライアント版は「サークルの女の子に『○○君って、他の人と違う』って言われたんや」という地味〜な自慢だった。ほんとにその一言を大事に大事にしてるんだって分かった。

立ち上がって、「ねぇ、どこ行く?」と佳乃が尋ねると、「鉄鍋餃子は?」と、こういうとき滅多に意見を言わない眞子が言った。
「あ、餃子食べたいかも」
すぐに沙里が賛成して、同意を求めるような目を佳乃に向けてくる。

中州の鉄鍋餃子に入ってからも、増尾談義は続いた。テーブルには手羽煮やポテトサラダ、そしてメインの餃子が並び、3人とも生ビールを飲みながら、眞子は彼氏のできた佳乃を素直に羨ましがり、沙里は嫉妬半分、浮気されないようにと忠告していた。

最後に1人前だけ注文した餃子を、佳乃たちはあっという間に平らげた。すでに4人前を完食していたので、1人平均13個を食べたことになる。

伝票に書かれた金額をきちんと3等分すると、佳乃は2人にその金額を告げた。餃子が1人前470円、ポテトサラダが520円で、手羽先、いわし明太などに生ビールを加えて、合計7100円だった。1人、2366円。その数字を読み上げると、沙里と眞子が財布から1円も過不足なく自分の分をテーブルに出す。

沸騰しそうな鍋の火を消し、魚の血で汚れたまな板を水につけた。
風呂から出た祐一がすぐに食べられるように、ブリの刺身を盛りつけ、夕方のうちに揚げておいたすり身と一緒に食卓に並べた。炊飯器を開けると、米もふっくら炊きあがっており、肌寒い台所に濃い湯気が立つ。
勝治が病に臥す前は、朝3合、夕方5合の米を毎日炊いた。男2人の胃袋を満たすのに、この15年、ずっと米を研いでいたような気さえする。
子供のころから、祐一はよくごはんを食べた。沢庵一切れ与えれば、それで軽々と茶碗一杯のごはんを食べるほど、炊きたての米が好きだった。

「祐一はもうメシ食うたとか?」
時間をかけて寝返りを打った勝治が、這うように布団を出て、房枝が運んできた夕食の盆へ近づいていく。
「ブリの刺身、食べるなら持ってくるよ」
野菜の煮物とおかゆだけの食事に、勝治がため息をついたので、房枝は慌ててそう言った。

風呂上がりの祐一が椅子にあぐらをかいて、ごはんを搔き込んでいた。よほど腹が減っていたのか、みそ汁もつがずに、ブリの刺身一切れに対して、ごはんをささっと二、三口、搔き込む。
「大根のみそ汁があるとよ」
房江は声をかけながら、ひっくり返して置かれたままだったお椀に、みそ汁をついでやった。
渡せばすぐに手にとって、熱いながらも音を立てて旨そうに啜る。
「ばあちゃんも一緒に行ったほうがいいやろか?」
房枝は椅子に座ると、顎に米粒を一つつけた祐一に尋ねた。
「来んでいいよ。五階のナースステーションに連れてけばいいとやろ?」
九州特有の甘い刺身醤油に、祐一がねりわさびをといていく。

祐一はぶたまんの次にケーキを買ってきた。来るたびに何か食べ物を買ってきて、狭い個室で一緒に食べた。徐々に慣れてきた美保も、祐一が来ればまずシャワーでなく、冷たい紅茶か、珈琲を出してやるようになっていた。
祐一が手作りの弁当を持ってきたのは、たしか五回目か、六回目、休日の午後だったと思う。
またいつものように何か持ってきたのだろうと、差し出された紙袋を受け取ると、中にスヌーピーの絵柄がついた二段重ねの弁当箱が入っている。
「弁当?」
思わず声を上げた美保の前で、祐一が照れくさそうに蓋を開ける。
一段目には卵焼き、ソーセージ、鶏の唐揚げとポテトサラダが入っていた。下の段を開けると、びっしりと詰まったごはんに、丁寧に色分けされたふりかけがかけてあった。
弁当箱を渡されたとき、一瞬、祐一には彼女がいて、その彼女が祐一のために作った弁当を、自分に持ってきたのではないかと思った。しかし、「これ、どうしたと?」と美保が尋ねると、照れくさそうに俯いた祐一が、「あんまり、旨うないかもしれんとよ」と呟く。
「……まさか清水くんが作ったわけじゃないよね?」
思わず尋ねた美保の手に、祐一が割り箸を割って持たせてくれる。
「唐揚げとかは、昨日の晩、ばあちゃんが揚げた残りやけど……」
美保は呆然と祐一を見つめた。テストの結果を待つ子供のように、祐一は美保が食べるのを待っている。
祐一が祖父母と三人暮らしだということは、すでに聞いていた。客の素性などなるべく知りたくないと思っていたので、もちろんそれ以上は訊かなかった。
「ほんとに、これ、自分で作ったの?」
美保はふんわりと焼かれた卵焼きを箸でつまんだ。口に入れると、ほのかな甘さが広がる。
「俺、砂糖が入っとる卵焼きが好きやけん」
言い訳するような祐一に、「私も甘い卵焼きが好き」と美保は答えた。「そのポテトサラダも旨かよ」
春の公演にいるわけではなかった。そこは窓もなく、ティッシュ箱の積まれた、ファッションヘルスの個室だった。
その日から、祐一は店に来るたびに手作りの弁当を持ってきた。
美保のほうでもシフトを訊かれれば素直に教え、「九時ぐらいが一番おなかが減るかな」などと、知らず知らずのうちに、祐一の弁当を当てにするようになっていた。
「誰かに習ったわけじゃなかけど、いつの間にか作れるようになっとった。ばあちゃんが魚を下ろすのを眺めとるのも好きやったし、ただ、後片付けは面倒やけど……」
祐一は派手なネグリジェ姿で弁当を食べる美保を眺めながら、そんな話をした。
実際、祐一の弁当は美味しくて、「この前のヒジキ、また作ってきてよ」などと、美保がリクエストすることも多かった。

茄子が安かったので漬物にでもしようと十本も買ってきたが、考えてみれば茄子の漬物を祐一があまり好きでないことを、今になって思い出し、後悔していた。
千円くらいで済むだろうと思っていたところ、総額で1630円になった。30円はまけてくれたが、それでも来週まで郵便局に下ろしにいかなくていいと思っていた財布の中身が心細くなっている。

房枝は椅子に座ったまま、ガスレンジに手を伸ばし、あらかぶの煮付けを温め直した。
「おじゃましまーす」
明るい一二三の声が聞こえてきたのはそのときで、房枝は立ち上がると、「あら、一二三くんと一緒やったとね?」と声を返しながら廊下へ出た。
さっさと靴を脱いだ一二三が、祐一を押しのけるように上がってきて、「おばさん、なんか旨そうな匂いやねえぇ」と台所を覗き込んでくる。
「何も食べとらんと? すぐ用意してやるけん、祐一おt一緒に食べんね」
房枝の言葉に、一二三が嬉しそうに、「食べる、食べる」と何度も頷く。

キャベツが半玉、バラ豚肉が少しある。これらを炒めて、あとはうどんでも作ろうと決めて扉を閉めた。

「しかし、来年三十になる双子の姉妹が、こうやって美味しそうにうどんなんか啜っとって、いいわけ?」
とろろ昆布を麺に絡めながらそう呟いた珠代に、光代は七味をふりかけながら、「ちょっと茹で過ぎたかもしれんよ」と注意した。

佳男は座卓から目を逸らすと、来々軒に電話をかけて野菜ラーメンを二杯注文した。相手はいつもの親父だったが、「あ!石橋さん? はいはい、すぐに持っていくけん」と、対応はひどくぎこちなかった。

土曜日、朝食を済ませると、祐一はどこへ行くとも告げずに出かけた。どうせまたドライブにでも出かけ、夕食には戻ってくるのだろうと思っていた清水房枝は、祐一が好きな肉団子を作って待っていたのだが、祐一は戻って来ず、仕方なく一人で少し甘すぎた肉団子を食べた。

三万円を財布に入れて、光代はレジで温かいお茶を二本とおにぎりを三つ買った。

「そこって、イカ料理だけ?」
何かを吹っ切ったように祐一が明るい声で尋ねてくる。光代は、「ううん」と驚きながらも頷き、「最初が刺身で、脚はから揚げとか、天ぷらにしてくれて……」と説明した。

そのとき、とつぜん襖が開いて、割烹着姿のおばさんが、大きな皿を抱えて入ってくる。
「すいませんねぇ、お待たせして」
おばさんが重そうな皿をテーブルに置く。皿にはイカの活き造りが盛られている。
「そこの醤油、使うて下さいね」
白い皿には色鮮やかな海藻が盛られ、見事なイカが丸一匹のっている。イカの身は透明で、下に敷かれた海藻まで透かして見える。まるで金属のような銀色の目が、焦点を失って虚空を見つめている。まるで自分だけでも、この皿から逃れようと、何本もの脚だけが生々しくのた打っている。
「脚やら残ったところは、あとで天ぷらかから揚げにしますけんね」
おばさんはそれだけ言うと、テーブルをポンと叩いて立ち上がった。
そのまま姿を消すかと思えば、ふと振り返り、「あら、まだ飲み物ば訊いとらんやったねぇ」と愛嬌のある笑みを浮かべる。
「ビールか何か持ってきましょか?」

年越しそばもおせち料理も初詣でもなく、三が日が過ぎようとしている。博多の大学生が犯人ではないと知らされて以来、台所にも立たなくなってしまった妻、里子のために、石橋佳男は駅前のほか弁で幕の内弁当を二つ買ってきた。
湯を沸かして茶を入れて、里子の前に出してやると、力のない指先で箸を割りながら、「弁当屋は正月でも開いとるっちゃねぇ」と呟く。
「結構、客おったぞ」
里子は一瞬何か言葉を返そうとしたが、それも面倒なようで、人参の煮物に箸を突き刺した。

もちろん最初は、ぎこちなかったですよ。でもやっぱり親子やけん、会って話せばどこかで繋がるとですよ。あのとき、二人で食べたうどんの味は今でもはっきり覚えてますよ。祐一があんまりいっぱい七味をかけるもんやけん、驚いて理由ば訊いたら、「ばあちゃんの味付けがいつも薄かけん、七味も、カラシも、マヨネーズもケチャップも山ほど使う」って。その話を聞いたとき、なぜか、ああ、祐一はあの家で大切にされてるんだなぁって安心して。

吉田修一「悪人」

みそ汁と魚 吉本ばなな『TUGUMI』

えーと、この本、私が懐かしのセンター試験を受けたとき、現代文で出題されてえらい話題になりました。 「既読の人が多く不公平では」というヘンな意見が噴出したのです。私は受験当日に初めて読んだひとりです。ばななさんが流行っていることは新聞の書籍広告でよーく知っていましたが。 まあ、「マークシートで答える現代文」というそもそもヘンな出題で、既読未読はあまり関係ないと思いました。 ストーリーを知ってたらサマライズの設問でちょっと時間的にトクというくらい? (ちなみに私は漢文セクションを全部誤答しました。幸い足切りされず大学合格できましたが) 今更異国の地で読み返す気になったのは他でもない、密林でセールしてたからです。

「帰ったら、みんなでケーキ食べましょうね」
と丸いメガネをかけたやさしい横顔で陽子ちゃんは笑った。
「あ、私ね、つぐみに取られるより前にどうしても、どうしてもアップルパイを自分のものにしたい。あいつ、アップルパイが好きだから」
情ないが、その時はかなり必死に私は言ったと思う。
「じゃあ、こっちの箱にはアップルパイしか入ってないから、こっちはつぐみに見せないようにしましょう」
と陽子ちゃんはもう一度笑った。

「みそ汁と魚しかないけど、ごはん食べる?」
「そりゃいいね」
と言って父はいすをガタガタ出してすわり、上着をぬいだ。私はなべを火にかけ、皿をレンジに入れた。夜中の台所に活気が灯る。TVが静かに響く。ふいに父が、
「まりあ、せんべい食うか」
と言った。
「なに?」
と私が振り向くと、彼はカバンからごそごそと大切そうに紙に包んだ2枚のせんべいを出してテーブルの上に置いた。
「1枚はお母さんの分だからな」
「どうしたの、それ、それっぽっち」
びっくりして私はたずねた。
「いや、今日の昼、お客が持って来たんだよ。食ったらあんまりうまいんでさあ、君たちの分、もらってきたんだよ。本当に、それ、うまいんだ」
父は照れもせず説明した。
「家でこっそり犬を飼ってる男の子みたいって言われなかった?」
と私は笑った。
大の男がたった2枚のせんべいをカバンにこっそり忍ばせて家に帰ってきたのだ。
「東京というところは野菜はだめ、魚もまずいでしょうがないが、実はせんべいだけはよそに誇れるおいしさなんだぞ」
父は私のよそったごはんとみそ汁をもくもくと食べながら言った。
レンジから魚を取り出して父の前に置くと、「どれ」と言って私はテーブルにつき、せんべいを手に取った。初めてせんべいを手にする外人のような気分だった。食べてみると、しょう油のこげた濃い味がしてとてもおいしかった。そう告げると父は満足そうにうなずいた。

奥でやはりおにぎりを食べかけていた陽子ちゃんが、ちゃぶ台の上に私が前使っていた湯のみを出してお茶を注ぎ、
「お茶だよ」と差し出し明るいまなざしでにっこり笑った。
「まりあちゃんもおにぎり食べる?」
「バカめ、すぐに立派な晩めしなんだぜ。めしが入んなくなるだろ」
と部屋のすみっこの壁にもたれ、足を投げ出して雑誌をめくっていたつぐみが顔も上げずに言った。
「それもそうね、まりあちゃん、夜、ケーキ持ってくるから待っててね」
陽子ちゃんが言った。
「ずっとあそこでバイトしてるんだね」
「そうなの。あ、ケーキの種類も少し増えたよ。新しいの持ってきてあげるね」
「うれしい」

政子おばさんが作る朝ごはんのかもし出す全体の雰囲気、朝、市場で買った新しい海のものが必ず入っているテーブルの丸ごとを心に焼きつけるような切なさで、にぎやかに食べた。

吉本ばなな『TUGUMI』

砂漠で朝食を アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』

松本清張ばりに面白いユニークなサスペンス。発表当時はメリー・ウェストマコットという別のペンネームで出されたほど、誰も殺されず、誰も探偵のマネゴトをしない。で けれども日常にひそむ秘密、真実が、時には一番コワーイのである。人生に満足しきっている奥様ジョーン、娘のところに旅行し夫の元に戻る帰り、汽車が動かずひとり何もない砂漠でいく日も過ごすことになる。そこで彼女は自分の来し方をそれまで気づかなかった、あるいは気づかないふりをしていたプリズムを通して眺めるという緊迫のときを過ごすのであった…。

彼はマドモアゼル(婦人客を彼は一様にこう呼ぶらしかった)が無事に快適な旅行をなさるようにと挨拶し、出発の用意がととのうと大仰に一礼して、昼食用のサンドイッチが入っている小さな紙箱を手渡した。

ジョーンはレーンコートを羽織って車の外に出ると、紙箱を開いて、あたりを少し歩きまわりながら、サンドイッチを食べ食べ、二人の男がスコップで泥を掘ったり、ジャッキを投げ合ったり、用意してきた板を車輪の下にあてがったりする様子を見物していた。

朝食はコーヒーにミルク(缶入り)、卵の目玉焼、固い、小さなトースト幾枚か、ジャム、それにあやしげなスモモを煮たものだった。
食欲はかなりあった。食べているとインド人がまたやってきて、昼食は何時にしようかと訊ねた。ジョーンはともかくずっと後でいいといって、一時半ということに話を決めた。

昼食はオムレツ(火にかけ過ぎたのか、ふうわりといい具合にできているとは義理にもいえなかった)、卵のカレー炒り、缶詰の鮭、ベークドビーンズ、それに缶詰の桃。
いささか胸にもたれる食事を終えると、ジョーンは自室にもどってベッドに横になった。そして、四、五十分ほど眠って目を覚ますと、お茶の時間まで『ダイサート夫人回想録』を読んで過ごした。
紅茶(缶入りのミルクを添えて)を飲み、ビスケットを少しつまんでからしばらくその辺を歩き、帰って回想録を読みあげた。夕食はオムレツに鮭のカレー煮と米、卵焼き、ベークドビーンズ、缶詰のあんず。食後、推理小説を読みはじめ、床につく前にそれも読んでしまった。

ある午後レスリーは、パンにバタの塊、手作りのジャム、普段使いの茶碗や土瓶をみんないっしょくたにゴタゴタとお盆に載せて、お茶を振舞ってくれた。

昼食は、オムレツのまわりに豆をこってり盛った一皿と米をあしらった鮭の煮こみ、それに缶詰のあんずだった。食欲はあまりなかった。炎天下をほっつき歩いたせいで、暑気当りの気味なのだとすれば、一眠りしたら気分が’すっきりするかもしれない。 

「夕食、じき。とてもうまい夕食、奥さま」

インド人の言葉に、そう、それはありがたいわと返事をしたのだが、どうやらその予告は単に儀礼的なものだったらしく、献立は缶詰のスモモが桃に変わっただけでいっこう変わりばえがしなかった。うまいまずいはとにかくとして、三度三度ほとんど同じ献立というのはどうかと思われた。

家の中に入ると、レスリーは息子たちに手伝わせてお茶の用意をした。やがてお盆の上にパンとバタ、手作りのジャム、普段用の厚手の茶碗をごたごたとのせて、笑いさざめきながら運んできた。

… ご注文のスペイン風ラグーにはずいぶん骨を折りました。手のかかる料理でございますし。本にあるような献立はあたくしの好みじゃないんですが」
「あれは上出来でしたよ」

さあ、起きて、朝食をとろう。けさはポーチド・エッグにしてもらったら、少しは気分が変わるかも知れない。コツコツと固いオムレツにも飽き飽きした……。
こう思って食堂に行ったのだが、インド人はポーチド・エッグなどてんで試みる気がないらしかった。
「卵を湯にいれて煮る?それ、茹卵」
いいえ、茹卵とは違うのよ、とジョーンは説明した。宿泊所の茹卵はいつも茹ですぎだということを経験によって知っていたこともあって、ポーチド・エッグなるものを何とか科学的に説明しようとしたのだが、インド人はろくに耳にいれずに、頭を振った。
「卵を湯にいれる ― すぐくずれる。わたし、奥さまに上等目玉焼、あげる」
というわけで、食卓にのぼったのは白味が焦げ、黄味は白っぽく固まった、目玉焼で、オムレツの方がまだましなくらいだった。

それなのに彼女は砂漠のど真ん中のこんな白漆喰の牢獄で、薄のろのインド人、頭の弱いアラブ少年、明けても暮れても缶詰の鮭にベークドビーンズ、固茹での卵という食事を平然と食卓に並べるコックと、そんな連中を相手にむなしく日を送っているのだ。

思えば幸せな6週間であった。ワトキンズやミルズに会い、ハーグレーブ・テイラーとも一夕を楽しくすごした。ほんの2、3人の友人とのゆきき、日曜には多くの丘を渉猟して楽しい半日を送った。メイドたちがうまい食事を作ってくれ、それを好きなだけゆっくり食べた。ソーダ・サイフォンに本を立てかけて読みながら、食後、仕事をすることもあった。それからしばらくパイプをくゆらした。その上、話相手がほしくなれば、幻のレスリーを椅子に坐らせた。

アガサ・クリスティー 中村妙子訳『春にして君を離れ』

邦訳版はやっぱりタイトルがステキよね。(ただ、同じシーンの繰り返しで表記がゆれまくってるのが分かる。そのへん校正かけてないんだろうか)

英語の確かさに定評のあるクリスティー。ぜひ原書でも。

メシ作りの耐えられない軽さ 神谷美恵子『神谷美恵子日記』

この本が電子化されていたのはちょっと意外で嬉しかった。偉人の日記を読むと、「人生ってあれこれ詰め込めるものだな」と思う...。とにかく凡人よりも生きてる時間が濃い。彼女は意志の医師である。

で、千葉敦子氏が『ななめ読み日記』で「(彼女に)弁当づくりをさせた夫を許せない」と怒っていたとおり、自分がやりたい書き物や医療の仕事と果てしないおさんどんの板挟みに苦しんだ日々が綴られている。めっちゃ今日的で、日本の家族のあり方は何も変わっていない。だいたいなんで医師で文学者がつまらぬ家事に時間を費やさなけりゃならんのだ。ものすごい損失。

朝阪神ビルの下でコーヒーを、昼ナンバの中華料理やでワンタンとブタマンと、すべてこの世の名残と言った気持で味わった。

昼食にまぐろのさしみ、きゅうりとかにの三杯酢。酒粕汁、父上午後入浴、ひるね。私は又食料の買物。

Rのたんじょう日。月足らずの律が十四才になるとは何という有難いことであろう。しかし何一つ祝らしいことをしてやれぬほど今日は忙しかった。お赤飯をたき、カツレツ、ケーキ、アイスクリームなどを夜の食事にまに合わせた。

子供の日とてプディングをつくりトンカツをつくる。

神谷美恵子『神谷美恵子日記』より

千葉氏は『ななめ読み日記』を書くのに犬養道子『マーチン街日記』のスタイルから着想を得たという。『マーチン街日記』は私が今のところ最も好きな日記文学。ボストンの歴史学徒としての生活記は何度読み返しても飽きない。 

コンビニのサンドイッチが懐かしい 五十嵐貴久『年下の男の子』

例の黒服の男が食前酒を運んできた。すぐ後ろから、作務衣のような服を着た若い男が前菜をテーブルに並べてくれた。
「左から、タケノコと湯葉のポワレ、壬生菜と鮎の煮浸し、空豆とゴルゴンゾーラチーズとフォアグラのパテ、一番右が浅蜊のソテー、ガーリックソース蒸しでございます」
ではごゆっくり、と二人が下がっていった。グラスを手元に引き寄せた児島くんが、飲む前に、と両手を膝に当てた。

まさか、と笑ったところで、黒服の男がスープの皿を下げ、代わりに白い紙に包まれた上品そうな料理を出してきた。器用な手つきで紙を破ると、テーブルの上に湯気がたった。
「サーモンの奉書包み焼き、エンドウ豆のムース添えでございます。香りをお楽しみくださいませ」
優雅な笑みを浮かべて去っていくその後ろ姿を見ていると、なぜかおかしくなってきた。

児島くんは気配りもよく、わたしのグラスが空くと何か飲みますか、とすぐに聞いてきた。わたしも決してアルコールに強いわけではないのだが、気がつけばメインの鴨肉のローストが出るまでの間に、食前酒に加えワインを3杯も飲んでいた。あんまり気を遣わないでくださいと言ったが、そんなつもりはないんですよ、とちょっと悲しそうな顔になった。

メインを食べ終えると、チーズとデザートが出てきた。その辺りは完全にフレンチのスタイルだった。
デザートは胡麻のアイスクリームと小さなイチゴのミルフィーユで、両方ともとてもおいしかった。児島くんはコーヒー、わたしはストレートの紅茶を飲みながら、しばらく話した。

店はちょうど昼時で混んでいたけれど、運よくカウンターに二つだけ席が空いていた。わたしたちは二人並んでランチを取ることにした。彼が頼んだのは生姜焼き定食のご飯大盛りで、わたしは刺し身御膳という比較的あっさりしたものにした。
生姜焼き定食を食べている間、彼は無言だった。前に一緒に食事をした時もそうだったが、とにかく彼は食べるのが異常に速い。

鶴亀食堂は、もしかしたら戦前から、いや、まさかとは思うが明治時代からあったのではないかと思えるような内装の店だった。店番はそれこそ大正生まれと思われるお婆さんで、どうやら厨房で食事を作っているのはその旦那様のようだ。
とはいえ、8卓ほど4人掛けのテーブル席があったが、そのうち6卓が埋まっていた。はやっていないというわけではないらしい。
そこでわたしたちは焼き魚定食を食べた。何だか食べてばかりでホームドラマのようだが、とにかくお腹が空いていたことは確かだったのだ。
ビールでも飲めばと勧めたが、しばらく迷っていたけれど、やっぱり車で来てるんで、と児島くんは普通にお茶を飲んでいた。

それぞれの家にご挨拶に行った帰りに寄ったコンビニで買ってきたサンドイッチをオレンジジュースで流し込みながら考えた。

博多ラーメン“天海”というその店は、もともと界隈では有名だったらしいけれど、最近になって休日の昼にやってる大型情報番組で特集されたことから、その人気に火がついたそうだ。
「あんまり、しかつめらしいお店だと嫌だな… ほら、お喋り厳禁とか、スープは全部飲み干せとか、店の方が指示するみたいな」
「そんなことないと思いますけど。少なくとも、店に行ったうちの連中はそんなこと言ってませんでしたね」
そんなことを話している間にも、わたしたちの後ろに4人連れのサラリーマンが並んだ。前の方からはメニューが回ってきた。店に入る前に注文を決めておけ、ということらしい。
「どうする?」
迷うほどラーメンの種類はなかった。いわゆるトンコツラーメンに、トッピングの類がいろいろあって、それで値段が違うだけの簡単なメニューだった。
「よくわかんないっすけど、とりあえずオススメって書いてありますからね」と児島くんがメニューの一番上を指した。「このオリジナル白湯トンコツラーメンってのにしますよ」
「じゃ、あたしもそうしようかな」
「オレは大盛りで」
そこだけは譲れない、というように児島くんが言った。

部長が連れていってくれたのは、最近女性向けの情報誌などでも話題になっているエクリュというオーガニック食材を扱ったフレンチレストランだった。よくこんなところを知ってますねと感心すると、趣味なんだよという答えが返ってきた。
「新しい店を見つけたり、行ってみるのが好きなんだな。だから、逆にあんまり馴染みの店とかはないんだよ。すぐ新しい方へ新しい方へと行っちゃうから」
そういうものなのか。わたしたちが席に着くと、当店特製の無農薬栽培の小麦粉で造られたパンでございますと言って、清潔そうな白いシャツを着た男の子が皿に2種類のパンを載せてくれた。
メニューを決めるのはそれからだそうだ。雑誌で読んだんだけど、と部長が“季節野菜の鮮やかメニュー”というのをご推奨してくれたので、わたしもそれにならうことにした。

そしてわたしの引っ越しについて部長が言い出したのは、メインディッシュの“鳩のカリカリオーブン焼き・ソテーした京野菜を添えて”が出てきた時だった。

「ところで、飯、食ってないっすよね。何にしますか」
わたしたちは同時にメニューを開いた。さて、何を食べようか。しばらく相談した結果、トマトのサラダと魚介類のフリッター、それからキノコのパスタと生ハムのピザを頼むことにした。
それで足りるのと聞くと、そんなに腹減ってないんで、という答えが返ってきた。児島くんにしては珍しいことだ。
テーブルに備え付けになっている細長いパンをぽりぽり齧りながら、わたしたちはしばらく会社の話をした。

何も食べていなかったのを思い出して、マンションへ戻る途中コンビニへ寄ってサンドイッチを買った。哀しいディナーだけれど、食欲がそれほどあるわけではない。今夜はこれで済ませることにしよう。

立っていたウエイターが近づいてきて、ビールでよろしいですか、と尋ねた。エンカレンという地ビールを頼むと、入れ替わるようにして簡単なつまみのようなものが出てきた。日本料理でいうところの突き出しだ。
「カロシで取れたエンドウ豆のソテーでございます」
男が説明する前に、児島くんがフォークで突き刺して、口の中に入れた。あれ、と不思議そうな顔になった。
「マジ、うまいすね」

朝食といってもたいしたものではない。トーストと目玉焼き、冷蔵庫に入っていた野菜で作った簡単なサラダ、そしてコーヒー、それだけだ。

黙ったまま、わたしたちはフォークで目玉焼きをつつき、トーストにバターを塗って、それを食べた。何を話せばいいのだろう。

ジョアンナは飲み物がメインの普通の喫茶店だ。食べ物の類がそれほど多いわけではない。わたしはメニューを開き、クラブハウスサンドイッチとアイスティーを頼んだ。

そんなわけで、児島くんの誕生日祝いは池袋のファミリーレストランで行われることになった。唯一、救いといえば、8月10日の午後11時に店に入ることができたということぐらいだろう。下手をすれば日付が変わった11日にずれ込んでしまう可能性だってあったのだ。
それでも児島くんは喜んでくれて、和風ハンバーグ御膳と共に、誕生日だからという理由でザッハトルテとイタリアンジェラートの2つのデザートを食べて、御満悦ではあったのだが。

食事はどれも素晴らしかった。前菜としてエンドウ豆をムース状にしたサラダ、その後にフォアグラと雑穀を併せた和テイストのソテー、薄く切ったアワビをトリュフソースで食べるカルパッチョとコースが続き、口直しとしてフランボワーズのシャーベットが出てきた。メインは肉と魚の両方、あるいはどちらかを選べるということだったが、わたしも児島くんもそこまでのコースにボリュームがあったため、ひと品だけにすることにした。
わたしは高知から直送されたという舌ビラメのムニエル、彼はクリスマス限定という飛騨牛のステーキを選んだ。少しずつシェアして食べたが、舌ビラめのシンプルではあるけれど濃厚でクリーミーな味わい、更に素材の味を活かしきるため塩と粒胡椒だけで味付けをしたステーキは、どちらも完璧としか表現の仕様がなかった。
最後にグラッパを勧められて少しだけ飲むと、香草の香りがとても心地よかった。まるで高原で食事をしているような気がした。
最後にシェフ帽をかぶったフランス人の女性が出てきて、私たちの目の前でクレープを作ってくれた。ブランデーを合わせてフランベすると、フライパンの中で美しい青い炎が踊った。
わたしはストレートの紅茶、彼はコーヒーをオーダーし、そのクレープを食べた。コースを締めくくるにふさわしい甘みと酸味の調和が取れたデザートだった。

部長に連れていかれたのは、会社からそれほど離れていない場所にあるバーだった。バーといっても、軽食の類はもちろんある。
部長は黒ビールを、わたしはファジーネーブルをオーダーしてから、食べる物をいくつか注文した。真鯛のカルパッチョとか、シーザーサラダとか、木の実の盛り合わせとか、そんなふうにあまり重くないものだ。

少し遅いランチになってしまったけれど、仕方がない。わたしはビルの外に出て、近くのコンビニで買ったサンドイッチと野菜ジュースで昼食を済ませることにした。

五十嵐貴久「年下の男の子」より

Kindleの日替わりセールで買ったのですが、やっぱり現代小説を読むのは時間のムダだなァ...と思わされたことでした。Kindleでなければ出会えなかった良作はほとんどマンガです。なぜならKindle以前はほとんどマンガを読まなかったからです。