たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『南相馬メドレー』と「お父さん、違憲なの?(目に涙)」

「フルハウス」は日本に行ったらぜひ行きたい書店。
前回帰国したときはSNSなどでよく目にしていた大阪の隆祥館書店に足を運んだが、ネット上の情報のイメージと裏腹にあまりに小さなところでびっくりした。でも7冊買ってトランクで持って帰ってきたけどな。

ところで、これは何の害もないことで批判ではないが、同じ作家さんのひとつのエピソードが媒体によって矛盾してるの、何冊も読んでいるとちょっと気になってしまう。
安倍の「お父さん、自衛隊は違憲なの?(目に涙をためて...)」を連想する。

内田樹氏が離婚するときに娘さんに「お父さんについていくのを選んだのは、お母さんについていったらお父さんに会えなくなると思ったから」と言われて賢い子だなと思った、というエピソードに「すごい、マジで娘さん賢い」と感心したのだが、別の本では内田氏自ら娘さんの前で「お母さんを選んだら会えなくなるよー」と嘆いた、と書いてあって、別にいいけど、賢い賢さんの話は...?ていうか娘さんに異常な負担を強いたのでは?と思ってしまった。

南相馬メドレー

南相馬メドレー

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その足で、隣の鹿島区にある菓子店「松月堂」にのし餅を取りに行きました。
前日に、のし餅を売っているかどうかを松月堂に電話をして問い合わせました。
「注文に応じて搗くので、何時に取りに来られますか?」
「じゃあ、12時に」
「何升ですか?」
「え? 升?」
「1升から承っております」
「じゃあ、1升で......」
1升という馴染みのない単位にも面食らいましたが、直前の注文にも拘わらず、客が取りに来る時間に合わせて搗くという心遣いにも驚きました。
デコレーションケーキを入れるような白い紙箱の蓋を開けて、半円状の板蒲鉾のような一升餅が2本入っているのを目にした時も、その形状の意外性に驚き、わたしたちは顔を見合わせて笑いました。
年末年始、わたしたち家族は、新しい場所で、旧いしきたりに触れ、それを我が家に取り入れることを楽しみました。
この地に住む人の暮らしを満たしている感覚を味わってみたい。それを知らなければ、原発事故後もこの地に残っている人々、この地を離れた人々の気持ちに通じることはできないと思うからです。

原発から半径20キロの避難区域のラインからぎりぎりではずれたというお宅で4世代同居しているCさん(60代女性)から聞いた話です。
(中略)
最初のうちは、自宅の冷蔵庫から梅干や漬物を持ってくる避難者もいて、それをみんなで分け合っておかずにしていました。
やがて、全く具のない白いおにぎりを1人1日1個だけという状態になりました。
Cさんは、支援物資として配られたポテトチップスを砕いて、それを混ぜて握り直して孫息子に食べさせたりしていました。

東と共に過ごした16歳から31歳までの15年間は、日本各地の湯治場などに長期滞在して、座卓やこたつで東と向かい合って仕事をしていました。朝夕2食付きの宿が多かったのですが、お櫃のご飯が余ると、東は必ずおにぎりにして、幼少期の思い出を繰り返し語りました。
東は、とても貧しい家庭で育ちました。母親を幼い頃に亡くし、継母が家にやってくるまでの数年間、食事の支度をする大人がいませんでした。
ある晩、東の妹が米を研ぎ、2人は米が炊き上がるのをじっと待っていました。おかずは何もありませんでした。東は、炊き上がったご飯を塩むすびにしようか醤油をかけご飯にしようか迷いに迷い、口の中は唾でいっぱいだったそうです。しかし、いくら待っても湯気が立ち上らない。おかしいなと思って電気釜を調べてみると、なんとコードが抜けていた。東は大声で妹を叱り飛ばし、妹はわっと泣き出し、その泣き顔を見たら、情けなくて情けなくて涙が止まらなくなった、と―――。
おにぎりは本来、愛情や喜びの固まりであるはずなのに、わたしの記憶の中のおにぎりは白く、重く、悲しい。
1つのおにぎりは、どうしたら、いま、苦しんでいる人、悲しんでいる人と、その苦しみと悲しみを分かち合えるか、という問いを含んでいるから重いのだと、わたしは思います。

南相馬の飲食店の特徴は、家族経営が多いということです。
たとえば、原発事故以降不通となっている(2016年7月の避難指示解除に合わせて運行が再開される)JR常磐線の磐城太田駅前にある今野畜産です。地元では、メンチカツ(1枚85円)が有名で行列ができるほどの人気店です。
今野畜産は、原発事故で屋内避難指示が出ている最中、2011年3月20日に営業を再開し、物流が途絶えて食糧難に陥っていた南相馬の人々のためにコロッケやメンチカツや唐揚げを家族で揚げ続けました。
1頭買いで自社精肉しているので、大型スーパーなどよりも新鮮で上等な肉を安価で提供できるという強みを生かして、2年前に千壽という料理屋をオープンしました。
今野さん一家は、朝から夕方前までは精肉店で働き、夕方からは千壽で料理を作っています。睡眠時間をとれるのだろうかと心配になるのですが、いつどちらの店に行っても、厨房からは笑いや冗談が聞こえてくるのです。
オススメは、ステーキ丼です。16歳の息子はいつも「ステーキ丼、大盛りで!」と注文します。会計の時に、「おいしかったです」と言うと、「おいしいでしょう。1カ月に1度、うちの家族で食べて『間違いない、こんなおいしいんだったら、みんな食べるわ』って確認し合うんですよ」と、若旦那は誇らしげに胸を張ります。
今野畜産だけではありません。山田鮮魚店も、屋内退避の中、シャッターを半分だけ上げて営業を続け、寝たきりのお年寄りや障害者を抱えていたために避難できなかった人々を救いました。山田鮮魚店のご主人は交通事故で足が不自由なのに、毎朝、宮城県まで食材を仕入れに行っていたそうです。それでも、「あの時、タダで配らなかったことを後悔している」とおっしゃる。
彼らは、極限状態の中で地域の人々の信頼に応えたのです。

国の重要無形民俗文化財である野間懸が行われる相馬小高神社で参拝をし、浮舟文化会館で豚汁とお弁当を食べました。

わたしと青来有一さんは壊れた堤防に肩を並べて座り、コンビニエンスストアで買ったおにぎりを食べました。
あの目(ママ。日?)の空と海の青さは、あらゆる倫理の行き止まりとして、わたしの胸に今も在ります。

穂高くんは、地元の銘菓「凍天」(ドーナツのような衣の中にヨモギの「凍もち」が入っている揚げ餅菓子)を手土産に持ってきて、しっかりした口調で「見ず知らずの人に家を売るのは嫌なんです」と、小高の家への思いを語りました。

夕飯を食べていると、息子がフォークにミートソースパスタを巻きつけながら首を傾げました。

起床してすぐに茹でた卵と塩を銀紙の中から取り出し、息子と向かい合って食べました。バナナとヨーグルトとプロセスチーズとリーフパイも食べ、駅で買ったほうじ茶を飲みました。
乗換駅の名取まで2人で眠りました。

ショーウインドーから店内を覗いてテイクアウトできそうな店に入り、英語の長い料理はよくわからないから、黒板にチョークで書かれていた「Today's soup」とパンをテイクアウトし、ホテルの部屋で夕食を済ませました。
時差ボケでほとんど眠れないまま朝6時20分に起床し、ホテル1階の朝食ビュッフェ会場に行ってみました。
細長いカウンターテーブルで食後のコーヒーを飲んでいたら、隣の席の東南アジア系の女性に「Where is that coffee?」と訊かれ、思わず「ああ、あっち!」と指差し、赤面しました。
けれど、真向かいでスクランブルエッグとウインナーを食べていたどっしりした感じの黒人の老女が、席を立つ際に「Have a good day!」と笑いかけてくれて、「Have a good day!」と笑い返したら、すっかりうれしくなって、そのまま思い切って散歩に出掛けることにしました。
ホテルを出て右に真っ直ぐ歩けば、ミシガン湖が見え、湖畔には遊歩道がある。
オバマ元大統領の家も近くにあるらしい。

「(中略)お母さん、しばらくしたら戻ってきて、アップルクーヘンをうちから持ってきてくれたんですよ。アップルクーヘンって、知ってる人、いますか? 丸くて、ギザギザのナイフが付いてて、それで切ると、りんごが1個丸ごと入ってるんですよ。外側はバームクーヘンで、中はアップルパイのりんご。食感は外側のバームクーヘン部分はやわらかいんですけど、中のりんごはちょっとシャキシャキしてて、おいしいんですよ。めちゃくちゃ......。
おれたちきょうだい3人でアップルクーヘン分けて食べてたら、お母さんがこう言ったんです。
『朝ごはん、冷蔵庫に卵があったから、目玉焼き作ろうと思ったんですけど、すぐにガスが止まっちゃって、フライパンの上にタマゴ生のまま置いてきちゃった、ハハハ』って、ハハハってお母さん笑ってたんですよ、ハハハって......それが、すごい軽い感じの明るい笑い声で、でもだからこそ気持ち悪いくらい鮮明に記憶に残ってるんです。おれは見てないはずなんだけど、フライパンの上の生卵も......黄色い生卵......」

部屋にスーツケースを置いて1人でフロントに下り、5分ほど歩いたところにあるコンビニでミネラルウォーターとヨーグルトとバナナとチョコレートを購入しました。

柳美里著『南相馬メドレー』より