たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

実家もバターにのりかえた『BUTTER』(1)

いったんバターに変えると元には戻れない。子どもの頃から毎朝のようにマーガリンを食べていたし、母が料理に使うのはマーガリンだったし、給食に出るのもマーガリンだったが、ヨーロッパ人の義兄がマーガリンを食べない派だったのを機に、実家もバターしか買わなくなった。
関西のいかりスーパーにプラスチックパックで切り売りされていた真っ白なバターが懐かしい。

中年女性がホットプレートで肉を焼き、小さく切り分けながら、甲高い声で試食をすすめている。パックされた豚肉の一つをなんとなく、手に取った。こんな風に生の食材を直近で見るのはいつ以来だろう。甘やかな桃色の肉と白く輝く脂身がせめぎあい、冷たく濡れていた。

新築らしい木の香りに混ざって、部屋の奥からふんわりと甘やかなだしやチーズの焦げる匂いが漂ってくる。

伶子がデザインも違えば焼き方も違う様々な大皿を次々に並べ、夕食が始まった。
こくのあるアンチョビソースとたっぷりの蒸した冬野菜のバーニャカウダ、塩漬けした豚をゆでて薄く切ったもの、長ネギの豆乳グラタン、土鍋で炊いた牡蠣の炊き込みご飯にお味噌汁。いずれも旬の食材の持つ力に溢れ、味付けはあっさりとしているが奥行きある滋味を感じた。牡蠣は妊娠しやすくなるんだっけ、と海の香りと醤油味が香ばしいご飯を口に運びながら、ちらりと伶子を盗み見る。いつになく里佳の食欲が旺盛になったのは、味はもちろんのこと、亮介さんの食べっぷりがほれぼれするようだったせいもある。
「おかわりいい? この豚肉、とっても、やわらかいなあ。お店出せるんじゃないの?」
と目を糸のようにして感嘆しながら、空になった皿を差し出す。伶子はいかにも誇らしそうに料理を取り分けている。

グラタンのとろけるようなネギが途端に苦く感じられ、話を変えた。
「味なんてよくわからないよー。私、子供みたいな舌だし。コンビニ弁当やファミレスのカレーで十分満足しちゃう」(中略)
夜間は極力食べないようにしている。接待でごちそうが出ても野菜と汁物から手をつけることは忘れない。日に二度は通う会社前のコンビニではヨーグルトやサラダ、はるさめヌードルなどを選ぶように心がけている。

母が帰るまでに掃除と洗濯を済ませ、ご飯を炊き、汁物を作る。8時過ぎに帰宅した母が成城石井やピーコックで買ってくる惣菜がメインとなって、遅い夕食が始まる。手のこんだ家庭料理もない代わりに、父が居た時のようなぴりぴりした空気もない。ファミレスで落ち合って食べる夜も多かった。

彼女の料理の腕前に母娘は驚かされ、感嘆したものだ。お茶漬けやパスタといったシンプルな料理にさえ、柚子の皮や塩レモンをひそませるなど、センスと工夫が行きとどき、ゆっくり時間をかけて食べ続けたいような味わいだった。(中略)料理自慢のお手伝いさんと過ごす時間が多かった彼女にとって、家庭の味とは、美しい切り口のテリーヌや完璧なカロリー計算に基づいた小鉢がたくさん並ぶ食卓である。

「そうそう、この間、会社の同僚が奥さんと子供つれて、うちに遊びに来たんだけど、怜ちゃんの作ったシュウマイに感動しちゃってさ。そしたら、怜ちゃん、作り方とか蒸し器の種類とか、めちゃめちゃよくしゃべるから驚いたよ」
(中略)
デザートは手作りだという栗の渋皮煮と、甘酒と米粉のシフォンケーキ、しょうがの効いたチャイだった。ふんわりと柔らかいだけではなく、豊かなコシと弾力のあるケーキ生地を里佳が褒めると、伶子がさも悔しそうに眉を下げた。
「クリスマスが近いし、本当はどっしりしたバタークリームのプッシュドノエルみたいなものにしたかったんだけどねえ。ねえ、亮ちゃん。さっき里佳に探してもらったけど、やっぱりまだこの町にバター無いみたいなんだ。当分はパウンドケーキやジェノワーズは焼けそうにないな。菜種油で焼くシフォンしか作れなさそう」
「いや、これ、もっちもちで、うまいよ。バター不足はまだまだ続くと思うよ。去年の夏は猛暑続きだったから、たくさんの乳牛が乳房炎にかかったのが原因だっていわれているけど、今年は品薄を見越して緊急輸入したくらいなのにな。(中略)」

伶子が持たせてくれたラップに包まれた牡蠣ご飯のおにぎりとシフォンケーキを携え、そのまま会社を目指す。

里佳は本日の朝食、コンビニのレジ袋からおにぎりを取り出し、セロファンを剥がした。電子レンジでチンしてもらったばかりのでほの温かい。いつものように出社前にバラエティ豊かなおにぎりが並ぶ棚を物色していたら、先週の伶子のもてなしが恋しくなり、普段は食べない「たきこみご飯」につい手を伸ばしてしまった。
(中略)
おにぎりは伶子の手作りとは似ても似つかない香りもコクもない飯粒だった。舌先には確かに温度を感じているのに、喉から落ちるなり、ひんやりしたものが広がっていく。ペットボトルの緑茶でざぶざぶと流し込み、歯の裏に入り込んだ米を舌をとがらせて取り払う。

「あ、ええと、野菜ジュースと栄養ドリンクと、マーガリンですかね。梶井さんのように、まめまめしく料理をするようなそんなタイプではないので......。(中略)」

「バター醤油ご飯を作りなさい」
一瞬、なんのことかわからず、咄嗟に、は、と小さく声が出た。
「炊きたてのご飯をバターと醤油でいただくものです。料理をしないあなたにもそれくらいは作れるでしょう。バターの素晴らしさが一番よくわかる食べ方よ」
(中略)
「バターはエシレというブランドの有塩タイプを使いなさい。丸の内に専門店があるから、そこで手に取って、よく見て買うといいわ。バター不足の今、海外の高級バターを試すいい機会よ。美味しいバターを食べると、私、なにかこう、落ちる感じがするの」
(中略)
「バターは冷蔵庫から出したて、冷たいままよ。本当に美味しいバターは、冷たいまま硬いまま、その歯ごたえや香りを味わうべきなの。ご飯の熱ですぐに溶けるから、絶対に溶ける前に口に運ぶのよ。冷たいバターと温かいご飯。まずはその違いを楽しむ。そして、あなたの口の中で、その二つが溶けて、混じり合い、それは黄金色の泉になるわ。ええ、見えなくても黄金だとわかる、そんな味なのよ。バターの絡まったお米の一粒一粒がはっきりとその存在を主張して、まるで炒めたような香ばしさがふっと喉から鼻に抜ける。濃いミルクの甘さが舌にからみついていく......」

「(中略)それにあれはビーフシチューじゃない。フランス料理のブフ・ブルギニョンよ。法廷でも何度も訂正したはずです。あなた達は食に対してあまりにも無知であきれかえります。(中略)」

まるで雑貨店かアクセサリーショップのような外観のエシレバター専門店で、ほんの百グラムの塊なのに千円近いバターを購入した。たかが食材にこんなに金をかけたことなどない。商品に張られたラベルも青い紙袋も、食品のそれではないように愛くるしくロマンティックだった。

蓋を開けると、湯気の向こうでつやつやと米が光っていた。炊きたての白米の澄んだ輝きに、思わず見とれてしまう。茶碗がないので、炊飯器にセットで付いていたしゃもじでカフェオレボウルに乱暴に盛りつける。梶井に言われた通り、冷蔵庫から冷たいバターを取り出し、包み紙を剥がし、そのなめらかな山吹色をしばらく見つめた。この先に待っているものは、まだ里佳の知らない領域なのだ。ハンバーグに添えられたバターライスは知っていても、バター醤油ご飯は知らない。もちろん、高級バターで温かいご飯を食べたという経験もない。
バターをひとかけらご飯に載せる。ついつい溜まりがちなコンビニの弁当に添えられた醤油の小袋から、ほんの一滴を落とす。指示通り、バターが溶けないうちにご飯と一緒に口に運んだ。
里佳の喉の奥から不思議な風が漏れた。冷たいバターがまず口の天井にひやりとぶつかったのだ。炊きたてのご飯とのコントラストは質感、温度ともにくっきりとしていた。冷たいバターが歯に触れる。柔らかく、歯の付け根にまでしんとしみいるようなそんな噛み心地である。やがて、彼女の言った通り、溶けたバターが飯粒の間からあふれ出した。それは黄金色としか表現しようのない味わいだった。黄金色に輝く、信じられないコクのある、かすかに香ばしい豊かな波がご飯に絡みつき、里佳の身体を彼方へと押し流していく。
確かに落ちていく、そんな感じがする。里佳はまじまじと食べかけのバター醤油ご飯を見つめる。濃い乳の香りがする長いため息が一つ出た。
伶子の料理は今でも味わいが隅々まで蘇るくらい美味しかった。くたびれた身体を抱きしめるような香りと滋味。旬の食材は確かに明日への活力を授けてくれた。しかし、これはもっと舌先から搦め捕りながら、知らない場所へと連れて行くような、力強くあくどいような旨さだった。
気付くと、いつの間にか一合分の米が胃に収まっていた。まだ食べたりない。むしろ、バターとご飯を受け入れる度に、味蕾が新しい才能を開花させ、もっともっととねだっているようだ。
梶井真奈子の愛するバター。男達から奪った金で得た美食の象徴。それは、「ちびくろ・さんぼ」の虎が溶けて一つになったような明るい黄金色の味をしていた。
里佳は立ち上がった。
伶子ももっと食べろといっていたのだし、自分は十分過ぎるほど痩せている。たまに自分を甘やかすくらい、誰にもとがめられるいわれはない。(中略)
まだ熱い釜を流しに置くと、里佳は勢いよく蛇口をひねる。水がざあざあと釜を冷やした。もう一合、いや二合、米を炊こう。ちょっと食べ過ぎだろうか。多ければ冷凍しておけばいい。

柚木麻子著『BUTTER』より