たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

たらこパスタ『BUTTER』(2)

「カジマナのたらこパスタ」作ってみたいけど、紫蘇がたっかいんだよな。日本の実家ではいやってほど庭に生えてるのに。たらこはHマートにあるかな。

パスタが茹で上がったようだ。
スマホに設定しておいたアラームの音で、里佳はパソコンのデータ原稿から目を上げる。小麦の香りが漂う温かい空気をかき分け、鍋の取っ手をつかむと、流しに置いたざるの上に一息に放った。ステンレスがドラを打ったような音を立ててへこみ、腰のあたりにずんと響く。一瞬、視界が真っ白になるほどの湯気がわっと立ち昇り、コンロ一つしかない深夜のキッチンいっぱいに広がっていく。頬と鼻が蒸気にさらされ、皮膚が潤った。ぴちぴちと息づくように光るパスタをざるから深皿に移し、冷蔵庫を開け、カルピスバターとトレイにパッキングされたたらこ、この季節にしては緑の濃い紫蘇を取り出す。
(中略)
このカルピスバターは、裕福そうな主婦や外国人の客が多い、輸入物を多く扱う神楽坂のスーパーマーケットで一つだけ残っていた。「特撰」と記された茶色と白のパッケージは静謐な佇まいだ。12月も半ばを過ぎクリスマスはもうすぐそこなのに、町からは相変わらずバターが消えたままだが、こうした高級ブランド品はたやすく手に入る。
温かいご飯にバターを載せ、醤油を一滴だけ落とした味わいにやみつきとなった。その上、朝食のパンにもたっぷり塗りつけたため、丸の内の専門店で買った百グラムのエシレバターはほんの数日で使い切ってしまった。年末進行で睡眠時間さえ削る日々が続いていて、買いに行く暇はない。どうしても食欲を抑えられず、手近なもので間に合わせたつもりだったのが、このカルピスバターは煮詰めたミルクのような濃厚さながら後味が非常にさっぱりとしている。いつまでも風味がたなびく旨みのかたまりのようなエシレバターとはまた違った美味しさで、里佳はたちまち気に入った。

彼女がブログで公開するフランス料理や焼き菓子のレシピはどれも里佳にとってはハードルが高く異世界の呪文のようだが、混ぜるだけの、このたらこパスタなら作ってみようと思え、深夜営業のスーパーで食材を買い集めた。このところ里佳はパンにバターを載せ、買ってきたサラダやインスタント味噌汁、カップスープなどを並べるだけで、自炊と呼べるほどのものではないが、キッチンに立つのがおっくうではなくなっている。以前はインスタントラーメンを作るのも面倒だったのに。
トレイから取り出したくすんだピンク色のたらこはぬめりと光り、一瞬、梶井真奈子のおちょぼ口を思わせた。皮をむくこともせず、フォークでぷつりぷつりと突き崩し麺に乱暴にまぶしていく。カルピスバターをナイフで思い切って大きく切り取り、その上に載せた。淡い山吹がやわやわと色づいてと見守った。乳脂肪のまろやかさが海の香りと一緒になって立ち昇り、存分に吸い込んだ。手でちぎった紫蘇をこんもりと盛りつけ、段ボールの上へと運ぶ。たらこのピンクというのはあっけらかんとしていて、バターのとろみと合わさると暢気でさえある。面をフォークで巻き取り、口に運ぶ。
たらこの粒とバターがからんだ麺一本一本が、里佳の舌の上ではしゃぐように跳ねた。塩気は十分に感じられるのに、どこか余裕というか丸みを感じさせる。外ではこんなにたっぷりバターを使った料理は食べられない。バターとは高ければ高いほど品質が良く、使えば使うほど味わいが増すものなのだ。大らかで奥行きのあるたらこバターの味わいは、今日の卑怯な自分に対する苛立ちをどこか遠くに押しやるようだ。
(中略)
疑問を振り払うように、薫り高い面を噛みしめる。紫蘇の爽やかさがますます食欲をくすぐり、おいしい、と声に出した。自分がこの味を作り出したという事実が、いっそうこの瞬間を得がたいものにしている。
たったこれだけのことで、今までにはなかった満ち足りた気持ちが味わえる。食べたいものを自分で作って好きなように食べる。これを豊かさと呼ぶのではないか。これまでは、何が食べたいかさえ、よくわからなかったのに、キッチンに立つようになってからは、ぼんやりとだが欲するものをイメージ出来るようになっている。
(中略)
「魚卵とバターはとっても相性がいいんですよ。プチプチとした、まるでミクロサイズの卵黄の結晶体のようなたらことバターが合わさると、生臭さが消え、えもいわれぬまろやかな味わいのソースになり、炭水化物にからみつき、そのふくよかさや食べ応えをいっそう引き立てます。なにより、春の夕焼けのような甘やかなピンク色がとっても可愛らしいんですよね(中略)。パスタの一本一本にバターとたらこのピンク色がしっとりと絡み、セモリナ粉の香りを最大限に引き立て、胸の奥から優しさがこみ上げてくるような美味しさ。刻んだ紫蘇をふんわりたっぷり載せるのが私流。ピンク色とみずみずしい緑がまるで4月の野原のよう。黒い海苔を散らすのはピンクを殺すようで、あまり好きではありません。(中略)」
(中略)
被害者に思いを馳せてみても、たらこパスタの美味しさは少しも変わらない。里佳はわざとずるずると麺をすする。冷めるとバターは膜となり、たらこ粒とパスタを密着させ、新しい旨みを作り出す。もっとたくさん麺を茹でるべきだったかと後悔しかけた瞬間、段ボールの食卓の上のスマホがスン、と音を立てた。
(中略)
沸騰した湯に塩を加え、パスタを花のように広げる。洗面所の鏡を拭き、新品の歯ブラシを出し、案内を片付けているうちにパスタは茹で上がった。先ほどと同じようにたらことバターをまぶし、紫蘇を盛りつけていると、インターホンが鳴った。
「え、もしかして、料理作ったの?」
(中略)
「うん、ついでに作ったたらこパスタ、よければ食べて。さっき私も同じの食べたとこ。茹でてあえるだけだから簡単簡単」
(中略)
パスタをずるずるとすすりはじめた口元をつい覗き込んでしまう。思えば、誠に何かを作ったのはこれが初めてだった。
「美味しい?」
「うん、もちろん、美味しいよ。さすが」
何やらパスタを巻き取る手つきがどこかぎこちない。それきり無言で咀嚼した。飲んだ後の麺類が大好きなだけに、相好を崩すとばかり思っていたので、里佳はがっかりした。

柚木麻子著『BUTTER』より