小菅の食事が結構美味しいらしい、というのは佐藤優氏の話からもうかがえた。確かに麦が混ざってるとも書いてあった。ヘルスィー。ちなみに私の小学校の給食も麦ご飯だったよ。何の問題もなかったよ。
「もうすぐクリスマス。1年で一番街が華やぐこの季節が、私は大好きです。今年ははりきって栗やお米を詰めた七面鳥を焼いてみようと思います。お教室で習ったレシピ通りに。こってりとしたはちみつ入りのグレイビーソースも添えて。クリスマスケーキの予約も始まりますね。どこのものにしようか迷ってしまいます。(中略)」
ガラスケースに入ったファミリーパックの焼き菓子詰め合わせは、お楽しみ会でクラスメイトと分け合ったものだ。棚にずらりと並んだ「サンヨー」の緑色の缶詰が気になった。缶入りの果物なんて久しぶりに見た。中学生の頃、風邪をひくと、母が仕事に行く前に桃缶を冷蔵庫に入れておいてくれたっけ———。冷蔵庫を自由に使える環境にあるかはわからないが、つるりとしたのどごしの良い桃ならば、梶井もそれなりに楽しんでくれる気がした。栗まんじゅう、フルーツ寒天、麩菓子、カステラの餡サンド......。耳慣れないブランドの渋い袋入り和菓子が並ぶ中、森永製菓のクッキー箱の群が一番明快できらめいている。マリー、ムーンライト、チョイス。(中略)
「桃の缶詰と森永のチョイスを差し入れたいのですが......」
チョイスの黄色い箱にだけ、バターの写真が入っていたのだ。麦焼酎のお湯割り、きんぴら、枝豆、ほっけ、湯豆腐。出会った頃はビールと唐揚げだったのに、確かに健康に留意するようになったな、とおかしく思う。里佳もそうビールは好きではないので、熱燗とコーンバターと焼き明太子を頼んだ。とっくりとお猪口と一緒に運ばれてきたお通しに箸をつけ、ぐんにゃりしたものを薄気味悪そうにつまみ上げる。
「相変わらず、なんだかよくわからない突き出しですね。貝? こんにゃく?」
いつもこの店で一口だけ出される、甘辛い煮物は何度通っても正体がよくわからない。美味しいわけでもまずいわけでもない店だが、いつ来ても客が少ないところがもってこいだった。
「実は今日、東京拘置所で初めて差し入れっていうのをしてみたんですよ。クッキーと缶詰。相手は女性なんですけど、この季節にケーキやチキンが食べられないなんて物足りないでしょうから」
(中略)
「いやいや、小菅ってけっこう飯がうまいらしいぞ。三食とも調理師免許を持っている受刑者が作るんだよな。その旨さに惹かれて、わざと犯罪に手を染めて舞い戻ってる輩がいるって聞くくらいだし」
「え、そうなんですか? クサイ飯とかよく言うじゃないですか」
「それはたぶん、白米至上主義の時代の認識だよ。拘置所の米には何割か麦が混ざっているんだ。昔はそれを嫌がる人間が多かったんじゃないかな。今はむしろ、麦だのひえだのあわだのが健康食として再評価されているだろ。たぶん、俺達なんかより、ぜんぜんいいもん食ってるはずだよ」せっかくの席が沈んだものになりそうで、里佳は日本酒をあおる。じゅうじゅうと音をたてながら運ばれてきたコーンバターの鉄板を見つめるうちに唇が動いた。
(中略)
コーンバターは熱いうちは香ばしかったが、どうやらマーガリンを使っているようで、冷めるとえぐみが喉に残った。「(中略)この間は桃缶とクッキーの差し入れをどうもありがとうございました。森永のクッキーの中では私はチョイスが一番好きです。一般的にはムーンライトが人気ですが、ムーンライトもマリーもマーガリンを使っていますからね。そろそろクリスマスですね。私は一昨年、『ウエスト』のクリスマスケーキを注文しようとしていたんです。残念ながら食べることは叶いませんでしたが。よく出来たバタークリームは本当に美味しいものですが、最近では残念ながらほとんど見ることがなくなりました。あなた、代わりに召し上がってみてはいかが?(中略)」
無人の部屋の中央に置かれた長いテーブルに、有名店のクリスマスケーキが端から端までずらりと並んだ光景は壮観だった。
「資料用の写真はとったし、もう食べても大丈夫。あとで商品企画室の連中が試食しにくるから、全部食べられたら困るけど、一切れくらいなら問題ないです」
そう笑って示された、4号のバタークリームケーキは、周囲の苺やひいらぎや砂糖菓子に彩られたにぎやかなケーキ類とは一線を画していた。真っ白な表面にリースとろうそくの形のクリームが絞ってある他は、炎に見立てた3枚のクッキーと、ピスタチオやくるみなどのナッツが数粒飾られているだけだ。雪景色のようななめらかさだが、目には見えないものの、上質な動物性脂肪の粒子が内側からみっちりと深く輝いているのが分かる。本当はこうしている今も空にまたたいているはずの、真昼の星々のようだと思う。
「今時、苺もサンタもプレートもなし、バタークリームとスポンジだけで勝負なんて、かえって迫力があるよなあ。ウエストさんはいつも赤字覚悟で素材にはお金をかけているからなあ」
「へえ......。リーフパイくらいしか知らないけれど」
会社の休憩室に置いてあった白い箱の木の葉の形のパイ菓子。男だらけの職場なのに、あっという間に空になった。里佳は出遅れてしまい、1枚も食べられなかった。
(中略)
亮介さんが慣れた手つきでケーキにナイフを入れ、紙皿に取り分け、プラスチックのフォークとともに差し出した。里佳はお礼を述べ、早速ケーキをくずしにかかる。ずしりとした手応えを感じた。白と明るい黄色の切り口がたおやかで、それだけで頬がほころぶ。
「私、実はバタークリームって初めてなんです」
直前まで冷やしてあったせいか、バタークリームにはこりっとした硬さが残っていた。舌の熱で溶けていく甘いバターはじゅうっと広がり、身体中の旨みを感じる細胞を浮き上がらせるようだ。ふわふわした甘酸っぱいショートケーキでは、きっともう満足できないだろう。目を閉じ、舌に記憶を焼き付ける。
(中略)
舌の上にはケーキの味が十分に残っていた。里佳ははやる気持ちを抑え、バターの油分でまだ潤っている唇を開いた。
「中心にキャンドルが揺れるリースをかたどったシンプルなデザイン。クリームの繊細な絞りが彫刻のようです。炎に見立てたクッキーとナッツ以外、装飾はありません。お菓子のことはよくわかりませんが、普通お菓子には塩気のないバターを使うんですよね。でも、ウエストのバタークリームは、有塩タイプのバターを使っているせいで、ほのかな塩味がします。それがケーキ全体の甘さを引き締め、まろやかさの奥行きを広げているような気がします。スポンジ生地はどっしりと食べ応えがあって、卵と粉の香りは高く、舌にざらついて主張する。クリスマスケーキといえばショートケーキタイプしか食べたことはありませんが、ふわふわと頼りない生クリームや自己主張の激しい甘酸っぱい苺は、むしろスポンジの香りや歯ごたえを殺すものだと思いました。バターを食べると『落ちる』という感じがすると以前おっしゃっていましたが、あのケーキはなんていうか......」『東京拘置所では毎年元旦にはお雑煮と紅白まんじゅう、おせちの入った重箱が特別に支給されます。予算によって内容は微妙に変わってくるのでしょうが、今年はおそらく揚げ物、煮しめ、豚の角煮、焼き魚、海老の煮物、数の子、羊羹、伊達巻き、紅白かまぼこ、栗きんとん、黒豆、果物らしいです。そしてこの日だけは麦飯ではなく百パーセントの銀シャリです。(中略)』
柚木麻子著『BUTTER』より