たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

日本のフードトラック『ランチのアッコちゃん』

日本だとフードトラックの営業許可はこんなに早く下りるのか。アルコールまで出しているのなんかこっちではまずありえん。

そういえば、大阪の西区は昼どきになると責任元不明のお弁当屋さんが大勢出没してたなー。折り畳みテーブル1個だけ出して売ってるの。万一食中毒になっても後で文句言いにいけないわけで考えてみれば賭けだが、よく利用していた。

山本文緒『絶対泣かない』に似た読後感。生きることを選ぶなら、少しでも空気を攪拌すること。毎日少しずつでも違う方向に。

「いえ、召し上がっていただけたら、こちらも助かります。粗末なもので恐縮ですが」
手渡すと、急に恥ずかしくなってきた。ひじきと肉じゃがと五目豆を、ご飯と一緒になんとなく詰めただけのものだ。全体として暗いトーンのお弁当で、まさに三智子の心情そのものだった。

さっそく部長席に行き、3段目の引き出しにそっとお弁当をしのばせた。
エビフライにメンチカツ、鮭とホタテのミニグラタン、ポテトサラダに蓮根のきんぴら、きのこの混ぜご飯。これほど豪華なお弁当は洋太郎にさえ作ったことがない。

嫌な感じがして、引き返そうとしたその時、スパイスの香りに気がついた。
(カレーだ)
香辛料やチャツネ、よく炒めた玉ねぎ......。複雑に絡み合った香り。自然と目をつぶり、パンプスが濡れるのも構わず、香りのしてくる方向へと進んだ。地下に続く急な階段をそろそろと下りていく。
(中略)
カウンターの中がよく見え、寸胴鍋の中の褐色の液体は、実に香ばしく、濃厚な香りを放っていた。久しぶりに食欲を感じて、唾を飲み込んだ。
「うちはカレーしかやってないんだけど、いい?」
「あ、はい。いただきます」
マスターは、大きな炊飯器を開けると、白い湯気を立てているご飯を皿によそった。カレーをたっぷりとかけると、福神漬けとらっきょうを添え、水とスプーンと一緒にカウンターに皿を置く。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
スプーンを取った。アッコ女史の週の初めの味、と思うと、慄きに似た気持ちが湧いてくる。ひとさじ、カレーとご飯を口に運ぶ。スパイスがピリッと鼻の奥を刺激し、体が急に熱くなる。冷えて固まっていた何かが、ゆっくりと溶けていくのがわかった。
カレーなんてうちでも作れると思っていた。外食はお金の無駄だと思っていた。
(中略)
「うまいだろう!」
マスターは満足そうにうなずいている。
「人に......、誰かに作ってもらうカレーって、いいものですね......」
「ははは。でも、俺の料理はアマチュアなんだ。この店も道楽だしね」
「えっ、信じられない......。こんなに美味しいのに!」
「実は俺、このビルの5階でデザイン事務所をやってるの。カレー作りは趣味。昼間だけの」
「へえ......。よくそんな時間ありますね」
「最近は仕事減ってるしね。朝仕込んでおいて、昼ちょっと抜けるだけだからさ。儲けはないに等しいけど、楽しいもんだよ」
そんな働き方があるんだ、と三智子は思わず店内を見回す。

「あの、昨日はありがとうございました。カレー、美味しかったです。今日は、昨日の味をヒントに、ドライカレー、ピクルス、ヨーグルトサラダ、パイナップルのはちみつミントマリネにしてみました」

コニーさんは、4つ並んだミキサーの一つに苺やオレンジ、マンゴーのスライス、砕いた氷を放り込むと、スイッチを押す。道路工事のような激しい音をさせ、お日様色のジュースが出来上がった。パラフィン紙に包んだラップサンドと一緒にプレートに並ぶ。
「はい、召し上がれ」
(中略)
ジュースを一口飲むと、熱かった喉がひんやりとして心地よい。甘さと酸味で、体が生き返る。薄いパンに、クリームチーズに海老、トマトとアボカドが巻かれていて、さっぱりとした酸味がありがたかった。

「今日のお弁当は和食にしました。冷蔵庫の残りものですけど、厚揚げとインゲンの煮物、玉子焼き、ブリの照り焼きです」
「そ。昨日よりましね」

「(中略)昼食はコインパーキング脇の『いもや』という店で天丼を食べてください。本のおつりで足りるはずです」
(中略)
天丼はボリュームたっぷりで、ご飯につゆがよくしみていた。

「今日のお弁当は、海苔弁です。おかずはさつまいものレモン煮に玉子焼き、しょうが焼きと柴漬けです。昨夜からお昼が楽しみなんです。今日はどんなメニューなのかなって。毎日毎日、黒川部長の宝物を少しずつ分けてもらっているみたいで......」

「ちわーす。松寿司です。特上二人前です。遅くなりまして、申し訳ありません」
作務衣姿の若い男が岡持ちを手にしていた。社長はビールケースを引き寄せる。男はその上に寿司桶を2つ並べ、岡持ちからさらに銀色のポットを取り出して置いた。湯呑み2つ、お絞り、割り箸、パックの醤油、小皿も用意していた。
「まいど、どうもありがとうございました」
扉がゆっくりと閉まった。三智子はびくびくしながら、寿司桶にかけられたラップに太陽が反射し、虹ができるのを見つめていた。
「心配いらんよ。僕のおごりだ。支払いは毎月まとめてやってるから」
三智子が手を伸ばすより早く、社長が銀色のポットからお茶を注いでくれた。慌ててお礼を言い、湯呑みを受け取る。煎茶は熱く、濃い緑色で美味しかった。少し緊張がほぐれ、三智子はラップを静かに剥がした。
「うわあ。綺麗」
ネタが日差しを浴び、宝石のように輝いている。見事に脂ののった中トロ、きらきら光るルビーのようなイクラの軍艦巻き、しゃりを透かしている白身魚、ぷるっと白いイカ......。
寿司なんてずっと食べていない。(中略)そっと社長の方を見ると、目を細めて白身魚の握りを口に運んでいる。意を決して割り箸を割った。中トロを醤油につけると、小皿に脂肪の輪が広がった。脂がとろけ、しゃりにからみつく瞬間を、目を閉じて味わった。
「ははあ、うまそうに食べるねえ、君。若い頃の黒川君によく似てるよ」
社長が楽しげにお茶を啜っている。三智子は恥ずかしくなったが、もはや食欲は止まらない。続いてイカに箸を伸ばす。
(中略)
「僕はね、大学は大阪だったんだ。あの街は、安くて旨い店がたくさんある。よく、ミナミの『自由軒』という洋食屋に食べてに行ったよ。織田作之助の小説にも登場する有名な店さ。こう、カレールーがご飯に混ぜ込んであってね、上に生卵が載っている。それをスプーンで混ぜて食べるんだ。ああいう下卑た食い物が東京には少ないね。つまらん」
上等の中トロをつまみながら、社長はそんなことを言った。
(中略)
東京タワーを見つめ、ゆっくり咀嚼したイクラと玉子は、とろけるように美味しかった。

「梅しらすご飯に、豆腐ハンバーグ、大根きんぴら、ブロッコリーのおかかあえ、にんじんの甘煮です!」
三智子は弾んだ声で叫ぶ。渾身の自信作だ。蓋を開けたら、きっと驚いてくれるはずだ。

カウンターの中に入る。コンロの上の寸胴鍋の蓋を開けると、カレーが湯気を立てていた。ツマミをひねり、ごく弱く火を入れた。厨房は清潔でよく整理されていた。炊飯器、食器、水差しの位置も一目で分かった。福神漬けとらっきょうは、タッパーにたっぷり入っている。
(中略)
棚から皿を出すと、炊飯器の蓋を開け、ご飯をよそう。お玉でカレーをかけ、漬け物を添えた。3つ並べたところで、次の客が入ってきた。
(中略)
三智子は次第に楽しくなるのを感じていた。皆が私の手から食べ物を受け取る。美味しそうに食べる。カレーの神様になったような、誇らしい気持ちが満ちてくる。
(中略)
「あの、すみません。新メニューのドライカレーならできるかもしれません。それでもよろしければ」
田島と同僚の男は顔を見合わせたが、にっこりした。
「へえ、この店、新しいメニューなんて出すんだ」
「面白いね。じゃ、それで」
すぐに水の入ったコップを並べた。2人は腰を下ろし、カウンターの中の三智子を見つめる。カレーを食べている50代の客たちも、興味津々といった様子で、こちらの手元に釘付けだ。
ご飯はまだたっぷりあったはずだ。冷蔵庫を開けると、卵があって、ほっとした。玉ねぎとにんにく、ベーコン、バター、ウスターソースを素早く取り出した。まな板を置き、野菜とベーコンを刻む。わずかにルーがこびりついているカレー鍋を熱し、バターを溶かした。鍋底を菜箸で、がりがりとこそぐようにしながら、玉ねぎ、にんにく、ベーコンに続いてご飯を投入し、炒め合わせる。見る見るうちに、ご飯はカレー色に染まり、食欲をそそる、香ばしいにおいを漂わせ始めた。ソースで味を調整し、一口味見する。
三智子は、2つの皿にカレーご飯を取り分けた。真ん中に窪みを作り、それぞれ生卵を割り落とした。漬け物を添える。
「お待たせしましたっ」
スプーンと一緒にカウンターに皿を載せると、
「うまそうっ」
と田島がうれしそうな声を上げた。50代の客の一人が皿を覗き込んだ。
「美味しそうだな。今度、それを食べてみたい」
三智子は肩をすぼめ、控えめに言った。
「大阪の『自由軒』のメニューを真似たものなんで、オリジナルではないんですが......」
「いや、急場しのぎにしちゃいいアイデアだ」

今日は「黒猫イジワーニャ女王」をモチーフに、「キャラ弁」に挑戦してみたのだ。ご飯の上に載せる海苔を黒猫女王の形にカットし、にんじんの甘煮は数字やクエスチョンマークにくり抜いた。豆腐ハンバーグは、女王の手先のコウモリの形に整えておいた。

寒風吹きつけるこんな季節に公園のベンチでお昼を食べているなんて、この芝公園、いやいや日本中の派遣OLから探しても、自分ただ一人だろう。せっかく上手に作れたスペアリブと大根の煮物も冷えた脂で白く固まり、味がよくわからない。せめて会社を出る前に電子レンジで温めてくるべきだった。
箸を持つ手を止め、振り返って公園裏にそびえる東京タワーを見上げる。

容器の蓋を取るとふんわりした湯気が喉をくすぐった。澄んだスープに大ぶりの人参、じゃがいも、クローブを刺した玉ねぎ、かぶ、セロリ、豚肉のかたまりが沈んでいる。一口飲んで、目を見張った。野菜と肉を煮るだけの簡単な料理である。正直、なんだ、ポトフか、と拍子抜けしていたのだ。しかし、このポトフは、これまで経験したことのない洗練された味がした。喉を滑り落ちていく熱いスープは見た目よりはるかにコクがあるのに、胃に落ちるとハーブの爽やかさが広がり、脂を洗い流してくれる。スプーンの先端にはギザギザが入っていて、具を崩しやすい。野菜はほくほくと甘く、肉はとろけるような柔らかさだ。素材の一つ一つがくっきりと個性を持ち、それでいて調和が取れたふくよかな味わい。これなら商売になる———。
三智子はベンチに腰掛けると、ふうふうと、夢中でポトフを平らげた。体の隅々まで暖かさが行き渡っていくようだった。

「こんな時間に仕事をしていたら、何か温かくて胃の休まるものを食べたいと思うものじゃない? ランチだけじゃなく、夜食の移動販売もするのが東京ポトフ、最大のウリよ」
(中略)
ガス台の上には驚くほど大きな寸胴鍋が2つ。バゲットやおむすびが山盛りになった大皿も目に入る。
(中略)
「肉なし。野菜のみで。太るから炭水化物もいらない。コール入ってテキーラ一気しちゃって胃がキリキリするよ。こないだの、あれ、できる?」
「はい。大根おろし、たっぷりですね。こちらで召し上がりますよね」
大きなタッパーには雪のように輝く大根おろしがぎっしり詰まっている。アッコさんはレンゲですくうと、ポトフの上にたっぷりのせた。ポトフに大根おろし? 三智子は目を奪われながらも、ジュンヤさんから千円札を受け取り、お釣りの400円を差し出した。ポトフは600円、プラス100円でバゲットかおむすびを付けられる。
(中略)
「どこも不景気でさ、送り専用のドライバーも雇えないくらいなんだよ。だから、始発まで時間が潰せる店ってありがたいよ。それに、無茶な飲み方しても、ここのスープで夕方までには体が回復するって評判なんだよ」
お客さんはどんどんやってきた。ホストだけではない。髪を高々と結い上げた夜の蝶たち、黒服らしき男性らが「ポトフ、大根おろし付き」を次々に注文していく。テイクアウトの客が6割、その場で食べる客が4割。
(中略)
「ポトフ、肉抜き、大根おろしで。今日もあれ、用意してもらえたかしら」
「レイカさん、いらっしゃいませ。はい。ブーケガルニですね」
アッコさんはにっこりすると、何やら緑色の束を差し出した。パセリやハーブを麻紐で束ねた緑のブーケは、辺りを爽やかにするような瑞々しい香りを放っている。
「ありがとう。これさえ一緒に煮込めば、自宅でこのお店の味を再現できるんだからホント最高。お客様にいただくバラの花束も嬉しいけど、仕事終わりにはこのポトフが一番」
ブーケガルニに小さな顔をうずめ、レイカさんは心から嬉しそうだ。

「おっ、来てる、来てる。東京ポトフ!」
「やった! ビールだ、ビール」
三智子は、いらっしゃいませえ、と叫び、ラジカセのスイッチを押した。
「ポトフ大盛り。肉多め。おむすび2つ。あとアサヒの瓶ね」
(中略)
林さんはいかにも美味しそうにポトフを平らげ、アッコさんに向かって声をかける。
「ここのポトフは旨いねえ。さすがフランスで修行しただけのことはあるよ」

「日勤、準夜勤、深夜勤。24時間を三等分にした看護師の勤務スケジュールよ。アッコさん、ポトフとおむすび、7セットお願いできる? ICUは急患で満員。皆なかなか持ち場を離れられなくて、飲まず食わずなのよ」
(中略)
「こういう仕事していると、深夜に一人で食事することも少なくないんだけど、最近では出来るだけ温かいものを一緒にとって、よく噛んで食べるようにしているの。こんなポトフはぴったりね。食べることは生きることだもの」

コンビニのサンドイッチのセロファン包装を破りながらも、目はパソコン画面に向けられたまま。あれが夜ご飯———。急に居ても立っても居られなくなり、席を立ち給湯室に向かう。買い置きしてある粉末のコーンスープをマグに入れ、ポットのお湯を注いだ。
「一人の食事の時ほど、よく噛んで、温かいものを一緒にとらないと長生きできないそうですよ。看護師の人の受け売りなんですけど」
清水主任の背中に声をかけ、思い切ってマグをデスクに置いた。


「おねえちゃん。西洋おでん、今日はもうもらえる?」
彼が顎をしゃくった壁のポスターに目をやれば、
「おかげ様で90周年。感謝を込めて毎週金曜日は西洋おでんとおむすび無料サービス」
とある。西洋おでんとは、どうやらポトフのことらしい。
「はい、ただいま! 今届きましたので、すぐにご用意させていただきますね」
奥からひょいと顔を出したのは、白髪のショートヘアが上品な老婦人だ。社長に寄り添うようにして、寸胴鍋に火を入れている。アッコさんはいつの間にかエプロンを身につけていて、カウンター内でトーストをざくっと切り分けながら、三智子に命じた。
「あなたは邪魔だから、今日はそこに大人しく座ってなさい」
戸惑っていると、目の前に湯気の立つ珈琲が差し出された。
「この店はね、大正10年に創業したんだ。彼女は3代目のオーナーだよ」
社長が、客にポトフをよそう老婦人に好もしそうな視線を送っている。
(中略)
一口飲んだ珈琲の豊かなアロマに、思わず目をつぶった。
(中略)
「もちろん、かつての部下にタダ働きをさせるつもりはないよ。妻の築地のコネを使って、無農薬野菜と上質な国産豚を安く手に入れられるよう、ルートを作って提供しているんだ」
また、ポトフの美味しさの秘密が一つわかった———。カウンターにはずらりとポトフが並び、築地の男たちのたくましい横顔を、ふっくらした湯気で包んでいく。

三智子は公園のベンチに腰かけ、今年初めてのコンビニ肉まんにかじり付いていた。
(中略)
「考えたじゃない。営業部全員にホットチョコレートを振る舞うだなんて」
三智子はにっこりした。今朝は誰よりも早く出社し、給湯室でホットチョコレートを作ったのだ。昨日専門店で手に入れたガーナ産高級カカオ1キロを惜し気もなく使った。生クリーム、砂糖、バター、牛乳を鍋に入れて、とろ火にかけ、焦げ付かないよう木べらで丁寧にかき回す。社員食堂で借りてきた保温ポット2つに、完成したホットチョコレートをなみなみと注いだ。
(中略)
「今日はバレンタインです。給湯室に熱々の高級ホットチョコレートをご用意致しました。日頃の感謝を込めて派遣社員全員からのプレゼントです」
(中略)
「カカオが余ったので、派遣社員の分もお鍋に作っておきました。皆様、お忙しいと思いますので、お好きな時にセルフサービスでお召し上がりください。おかわりも自由です。午前中の糖分は仕事がはかどるらしいですよ」
(中略)
ふふん、と笑って、アッコさんは早くも魔法瓶の蓋にホットチョコレートを注いでいる。カカオの香ばしさが辺り一面に漂う。
(中略)
「会社のバレンタインはいいとして、隆一郎君にあげるチョコは忘れてないでしょうね?」
「はい! ゆうべのうちにトリュフを作っておきました。あの、ええと、実はアッコさんの分も作っちゃいました......。不恰好でお恥ずかしいんですが」
照れくさかったけれど、ダウンのポケットからリボンをかけた小箱を取り出した。
(中略)
「ふーん。『友チョコ』ってやつか。いいわよ。貰ってあげても。あなたは私の『友』だものね」

スズキのカルパッチョの表面がどんどん乾いていくせいで、刺身の端っこにぽつんとくっついていたピンクペッパーが一粒ころころと転がり、満島野百合の珊瑚色のマニキュアを施した爪先にぶつかって床に落ちた。合コンの大皿料理にピンクペッパーと放射線状のソースがかけられている率は異様に高い。このジャンルの食文化だけは、90年代からテン年代に至るまで、取り残されたごとくまるで変わらない。
予約がなかなかとれない神泉駅前の創作料理店の個室、と聞いて期待した自分が甘かったのだ。

「あの、申し訳ありません。ご迷惑おかけしたお詫びにスープはいかがですか?」
若い女が湯気の立つ容器を手に、恐る恐るこちらを覗き込んでいる。
「私たち、移動販売でポトフを売ってるんです」
「私、お腹空いた......」
ハマザキが鼻をぐずぐずさせながらつぶやいた。こういうところがなんとも幼い。
「じゃあ、せっかくだ。いただこう」
先生の言葉で、野百合とハマザキは女たちからカップを受け取った。ワゴンを見送ると、3人で石段に並んで腰掛け、無言でポトフを食べた。
熱いスープが身体中に染み渡るようだった。そういえば、先ほどの合コンでほとんど何も口にしていないことを思い出した。男に料理を取り分けることに夢中で味わうことを忘れていた。
ハマザキも野百合と同じで猫舌なのか、食べるのに時間がかかった。

真っ先に胸に蘇るのは、PTA役員の作るおしるこや焼きそばの香り。
(中略)
ひとまず、始発まで線路沿いのマクドナルドで本を片手に時間を潰そう。朝マックなんて何年ぶりだろうか。あの頃は朝からナゲットとチーズバーガーとコーラをぺろりと平らげていた。今はどうだろう。ちゃんと胃は動くだろうか。

彼女のデスクには常にチョコレートや飴や煎餅がたっぷり入ったガラス瓶が置いてあったものだ。ご丁寧に「ご自由にどうぞ れみ」とメモまで貼ってある。あの菓子瓶のせいで、ワンフロアのオフィスの緊張感が著しくそがれたように思う。普段は彼女に眉をひそめる社員らもいそいそと菓子に手を伸ばしているのが、なんとも癪に障った。

「出来ないに決まってるじゃないですかあ。食べるのは大好きだけど、玉子焼きも作れないんですよぉ。食中毒を出すのも怖いし。レトルトをチンしたり、茹でたり、缶詰をあけたりするだけの簡単作業にしてるんですう。人を雇うお金もないですしね。今のところ、調理には、7階のマッサージ屋さんの給湯室を使わせてもらってます。あ、でも食品衛生責任者の講習会にはちゃんといきましたよ!」
子供っぽい彼女のことだから、てっきり美味しくもない手作りの焼きそばだのお好み焼きだのを振るまいたがるかと思っていた。

「社長、おはようございます」
マクドナルドのハンバーガーをかじりながら、オフィス一番の巨体である杉野がぽそりとつぶやいた。ここまで肉汁とポテトの匂いが漂ってくる。
(中略)
出社前にコンビニで購入した、おにぎりとヨーグルトをペットボトルの茶で流し込むと、パソコンを立ち上げる。

玲実は手をよく洗うと、冷蔵庫から枝豆のパックを取り出し、電子レンジに放り込んだ。
(中略)
チン、と音がした。玲実は電子レンジから膨らんだビニール袋を取り出し、あっつ、と顔をしかめて、耳たぶに手をやった。ほかほかとした湯気が辺りを覆う。
そんなつもりで、言ったのではないのに———。玲実は枝豆を紙皿に移すと、再び屋上へと戻っていった。

「ビールを頼む」
雅之はそっけなく言い、デッキチェアに腰を下ろす。火照った頬を風が気持ち良く冷ましてくれた。玲実は嬉しそうに、腰に下げているカップの一つを取ると、腰を屈めてチューブからビールを注いだ。しゅわわわ、という音が耳をくすぐる。小憎らしいことに、液体8割に対して泡は2割。ビールの黄金分割と言ってもいい、完璧なバランスだった。
雅之は受け取ったカップをしげしげと見つめる。ビニールのカップではあるが、よく冷えた泡が唇に心地好い。ほろ苦い黄金色の液体が喉を通り過ぎると、世界が急に彩りを取り戻した。いつになく、心が解き放たれていく。
「おつまみは......、ふうん、これか」
ラミネートされたメニューを眺めるうちに、雅之は枝豆や玉蜀黍、レトルトの煮物やピラフがいずれも東北の個人商店のものであることに気付く。電子レンジで温めれば、すぐに口にできるものばかりだ。
「なるほど、これはビアガーデンに見せかけた復興支援の物産展ということか」

「きゃあきゃあ、うるさいな。この仙台産だだ茶豆っていうのをもらおうか。うまそうだ」
「はい、あ、このきりたんぽもなかなかなんですよ。これも、チンしてきましょうか。お鍋に入れるのがポピュラーですけど、私はトースターでチンしてわさび醤油マヨで食べるのをおすすめしてますっ。お米の甘みが生きるんです」
テーブルの上にあるのは、小さな醤油さし、塩、こしょうの瓶、爪楊枝と紙ナプキンだけである。
「わさびやマヨネーズなんてここにあるのか?」
「あ、そっか......。センターヴィレッジさんの給湯室から借りちゃだめですか。マヨラーの杉野さんあたり、冷蔵庫に隠し持ってそう。そうだ、トースターは1階のカフェにあったはず......。ま、いざとなったらどこかから、借りればいいんですよお。誰かが必ず助けてくれるもんですよお」

柚木麻子著『ランチのアッコちゃん』より