たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

偽装魚談義『ナイルパーチの女子会』

今年は出会えてよかったな、と思う日本の小説家が何人もいるのだが、柚木麻子もそのひとり。「ナイルパーチ」を読んだのは2018年だから、厳密に言うと再会。とりあえず、書き続けている人かどうかは精度の高いバロメーターだ。当然か。

SAMも、ダンサーとして残っているのは、単にやめなかったから、と言ってたもんなー。(今、彼の名前が思い出せなくてアムロちゃんのページから探したら、今や還暦を過ぎ、去年「いきいき健康長寿応援大使」なるものに就任したとな...ちょっとは踊りに関係あるのかな。時の流れを感じるわ。いや、何の話よ)

紙パック入りのカフェオレ。そして「かりんとうメロンパン」なる新商品の紙入り菓子パンを取り出した。今朝、近所のコンビニを2軒まわったがともに売り切れで、地下鉄駅構内の店でようやく見付けた貴重な品だ。(中略)人工甘味料、保存料、着色料。自然派志向の母が嫌がりそうな食べ物を、こうして隠れて口にすることにこんな年齢になっても背徳めいた喜びを感じてしまう。これでたったの98円。中高生の頃、クラスメイトの何人かが購買部でこんな菓子パンを買い、お腹を満たしていたっけ。母の手製のお弁当はもちろん有り難かったけれど、栄利子はどぎつい色の大きなパンが無性に羨ましかった。気楽なお菓子でたやすく満たされる同い年のその身体には、呑気でのびのびした内面が広がっているように感じられたのだ。
(中略)
目で追いかけながら、自分の顔ほどもあるメロンパンにかじりつく。ざくりと表面のクッキー生地が壊れ、バターと黒砂糖の風味、メロン味が溢れ出した。確かに、彼女の言う通り、塩気と甘みのバランスは悪くないが、実に安っぽい味がする。それでも、液晶画面に流れる文章と一緒に味わえば、染み渡るように美味しく感じられた。

『かりんとうとメロンパンを一緒にしちゃうっていう発想がアホですよね。コンビニで見つけて、爆笑しました。でも、油っこくてざくっとした、かすかにみたらし風の醤油味がする生地をかみしめれば、トンネルを抜けたように広がる爽やかなメロンの香り。今、やみつきなんですよ。アホな味。アホな値段。こういう「アホ食」で昼飯を済ませてしまうと、色々楽ですよ。人生なめてる感じにやすらぎます。あ、おすすめはしませんけど』

大きなプレートの上に残っている、こんにゃくと鶏レバーのからしマヨネーズあえ、ゴーヤ入りのコールスロー、胡麻とゆかりの玄米おむすび、あおさ入りの卵焼きをひょうひょいと口に運び、自分でもあきれるほどの早さで平らげてしまう。こんなに野菜の多いバランスのとれた食事、久しくしていないし、賢介にも作っていない。改めて主婦失格だと思う。今夜はせめてひじきくらいは煮よう。いや......、想像しただけで面倒だから、ここで何か包んでもらおうか。皿を洗いたくない。翔子は水仕事が何よりも嫌いだ。

賢介の声とパクチーの香りで、暗い思考の沼から引き上げられた。
「なに怖い顔してるんだよ〜。はい。ベトナム風サッポロ一番、汁なし麺!」
ごとり、とテーブルに置かれたどんぶりを見下ろす。白い麺が大好きなパクチーで彩られていた。突き動かされるように、箸を取る。
「今、店でベトナムフェアやってるからさ。流行ってるんだ、スタッフの間でこの食べ方」
「賢ちゃん、ほんと、天才だよ」
均一な味わいの麺はするすると胃に入っていく。ライム、ナンプラー、おろしにんにく、胡麻、トムヤムパウダー、コーン、桜エビ、黒胡麻の分量がいずれも丁度良い。酸味と辛みのバランスが体に染み渡るように美味しく感じる。

統計をとったわけではないが、翔子は夫が遅い晩は大抵、この店のドリアか駅前のコーヒーチェーン店のサンドイッチセットで済ませている。2日前にもそのコーヒーチェーンに行っていて『さすがにここのスープとバジルチキンサンドも飽きたなあ』とぼやいているから、今日はここに来る可能性が高い。

そのパフェは生クリームとアイスクリームが渦を巻いていて、赤いベリーソースがらせん状の模様を描き、下へ下へと続いていた。果物やコーンフレーク、チョコレートにムース。色々な具が詰まった実に混沌としたフルーツパフェだった。夜9時過ぎに30歳の女が口にするものとしては、あまりにも高カロリーで栄養が偏っている。圭子ははしゃぐでも、おののくでもなく、柄の長いスプーンでパフェの一部をゆっくりと突き崩す。あまり美味しそうには見えない。投げやりな仕草で先端をそろりと舐めると、それきり興味を失ったようにスプーンを投げ出した。
「栄利子っておどおど、こちらの機嫌を取るでしょう」
向かいに座ってコーラを飲んでいた翔子は栄利子という名に思わず座り直してしまう。圭子はナフキンを細かく千切り始めた。

赤城直美は食いしん坊らしく楽しげにメニューを眺めている。
「あ、ティラピアがありますね。ナイルパーチは、海外からの引きは強いですが、国内でそこまでの人気はないんですよ。淡白で香りも物足りないらしくて。それよりもナイルパーチに食い荒らされて激減しているこのティラピアが好まれています。ちょっと癖のある味なんですが、スパイスに負けない濃厚な風味があるんですよ。そうそう、私のお薦めはこのバナナのシチューです。バナナといってもフルーツというより、ねっとりしたお芋のような味わいですよ。トマトや豆と煮込んだ、タンザニアでは比較的ポピュラーな料理です。お米料理も豊富ですね」
「へえ。じゃあ、それをお願いしようかな。美味しそう。あと、癖のあるティラピアっていうのも食べてみたいです」
栄利子がそう言うと、へえ、という風に彼女は目を上げ、まじまじとこちらを見た。
「志村さんって勝者マンには珍しいタイプですよね。柔軟性のある方というか......。今日も高級ランチよりも現地で人気の飲食店がいいとおっしゃるから驚きました」
(中略)
翔子は魚の正体なんていちいち知りたくない、美味しければなんでもいいと言っていたけれど、栄利子は今なおどうしてもあの意見には賛成しかねるのだ。
「日本ではナイルパーチやティラピアって、言葉は悪いですが一時期、偽装魚として扱われることが多かったんです。ナイルパーチは白スズキ、ティラピアは鯛......。でも、素材は素材として、それに合った調理をする方が美味しいに決まってますよね。日本人は淡水魚にどうも抵抗があるようで......。コイやフナの印象が強いせいでしょうか。以前、南米のチリからメロという魚が日本に入ってきた時、なかなか売れなかったんです。ムツ系統の魚だったので『銀ムツ』という名前にしたら爆発的に売れた。偽装表示が問題化してからは『メロ』に戻したんですが、その時にはもうメロでもちゃんと売れるようになっていました。日本ではまず味より名前なんです。食を国外にも頼らざるを得ない状況なんですから、消費者も先入観は捨てて、異文化の味に積極的にトライすべきだと思うんですけどね。(中略)」
「ええ、その通りです。私もこちらの食材でわざわざ和食を作ったりするのは好きじゃないです。仲間ですね」

ずらりと並んだ屋台の店先には、肉を載せたどんぶり、春巻き、鶏の様々な部位を甘辛く煮付けた料理などが所狭しと並んでいた。
———この町では包丁なんて必要ない。おうちでご飯を作る習慣もないんだ。こんな風にご飯を買って帰れるお店がいくらでもあるんだ。
なんて身軽で、なんて自由なんだろう。食事の支度に苦労している母やお皿洗いの煩わしさが、別世界の出来事に思えた。常識なんて環境次第でいくらでも変わるんだ、と思うと胸が熱くなった。父にねだって苺飴を買ってもらった。熱い飴をかけた苺は甘酸っぱくて、やわらかくて、舌を火傷してしまったけれど今でも味が蘇るほど美味しかった。

リビングに入ってきた夫は、テーブルに並んだ皿を見るなり、おっと目を丸くした。今夜のメニューはNORIに教えてもらった「手抜きに見えないアクアパッツァ」と「電子レンジで作るボンゴレビアンコ」だ。いずれも翔子でも作れたくらい簡単で見栄えがいい。ただし、コストはかかった。ハーブや香辛料を探し、普段は行かない高級スーパーにも足を運ばねばならなかった。
「すごいじゃん。どういう風の吹き回し?」
「早く食べてみて。コメントちょうだいよ」

『今日の朝ご飯は、柴漬けマヨネーズうどん温玉のせ! 近所の居酒屋で食べたのを真似しました。普段は飲んだ後のシメだけど、朝からつるつるいくのも美味しくて楽ですよ』

刻んだ梅干しと溶き卵を入れたおかゆを、ベッドまで運んでくれた。おかゆはちゃんと生米から炊いたらしく、澄んだ甘みがあった。重湯を一口飲んで、その染み渡るような滋味に、翔子は目の覚める思いがした。面倒だから、安くて美味しいから、洗い物が出なくて楽だから、とファストフードや時短メニューにばかり頼ってきた自分が初めて恥ずかしくなった。ちゃんと手をかけて作った食事はその分、心にまでするすると届くのに。

母が作る薄味の筍ご飯は炊きたてよりも、冷えて風味が増した方が翔子や兄弟の好みだった。筍の皮で包んだ叩いた梅干しは父の好物である。翔子にはただ酸っぱいとしか思えず、生の筍の青臭さも苦手だった。父は味見で終わらせることを決して許さなかった。手を付けたら最後まで、梅を飲み干すことを強要した。躾や家事は母に任せきりだったのに、たまに気まぐれで作る料理に関しては、食べ方から食べ終えるタイミングまで、子供達が怯えるほど、厳しく監視した。父の作る一品料理は炭水化物が多く、舌がしびれるほど味が濃かった。
「駅前のお蕎麦屋さんでまずは腹ごしらえといかない? ガイドブックで見付けた、有名な手打ち蕎麦なんだよ」

風呂から上がると、すでに部屋には夕食のお膳が整っていた。品数が多く、山菜やきのこなどの旬の食材も豊富で、値段を考えれば合格点だと思ったが、翔子はあまり箸を付けなかった。

片手にはインスタントコーヒー。お茶請けは、夫の職場で余った試食用のキャラメルクッキーと林檎。風呂場からは賢介が湯をつかうざぶざぶした音が聞こえてくる。オイルサーディンと梅干しの炊き込みご飯に豚汁におひたし、という翔子にしてはかなり手の込んだ夕食は終わり、もう洗い物も済んでいる。

昼過ぎに母が部屋まで運んでくれたのは玄米ピラフとクリームスープ、ひじきサラダというメニューだった。彩りが良く栄養バランスも優れているのに、一目見るなり胸がつかえた。食べたくない、コンビニで何か買ってくるから、と背を向けた瞬間、母はとうとう爆発した。

ピーク時を過ぎた社員食堂は閑散としていた。白身魚のフライのトマトソースがけ、ごはん、味噌汁、ポテトサラダにひじきの煮物。A定食のチケットを券売機で買うと、トレイを手に、中が見通せる厨房に沿って作られたカウンターから、一つ一つ小鉢や皿を受け取り、窓側の席に腰を落ち着けた。目を見張るほど美味しくもないが、値段の割にはそうまずいとも思えなかった。会社の外に出る必要もなく、適度に作り手の気配りが感じられる、温かい食べ物を口に出来るのは有り難い。これまで、もっと利用してみても良かったのかもしれない。分厚い衣に包まれた白身魚はどうやら銀だらのようだった。
(中略)
白身魚のフライは揚げ直してあるのかやや胃にもたれた。ペットボトルの冷えた飲み物では、油が固まる気がする。栄利子は数カ月ぶりに営業部と同じ階にある給湯室に行くと、でがらしのほうじ茶を淹れ、立ったまま飲み干した。首から下にじんわりと温もりが広がると、ここ数時間分の緊張が解けていくようだ。壁に寄せられたワゴンテーブル上のクリップで留められた芋けんぴの袋が目に入った。ホワイトボードにこう書かれている。
「週末、川越に行ってきました。よろしかったら、みなさんで食べて下さい。ヘルシーかなと思ったんですけど、調べたらすごいカロリー(泣)一人で抱え込むと、ますます太っちゃいそうなんで(笑)真織」

柚木麻子著『ナイルパーチの女子会』より