たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

「毒親」前史『ドールハウス』

立て続けにチックリットを読んだあとではかなりドキッとするintenseな行間、粘液感(主人公は、相手の体臭や口の中の状態をエグく気にする。自分もちょいちょい口をすすぐ。手をこまめに洗う)。
さすがにこの父母はマンガすぎるのではないかと思う私は、親ガチャ、親族ガチャ大当たりなのだろう。
と、著者本人による解説兼あとがきを読んで考えた。

「おいしい」
理加子はベッドで味噌汁を飲んで思わず声に出した。
「あらあ、うれしいなあ。おいしい、って言ってくれる患者さん、なかなかいないのよ」
(中略)
「おいしいです」
プラスチック製の味噌汁の椀を片手に持ったまま、理加子はもう一度、藤村さんに言った。
油揚げとわかめの味噌汁はすっかり冷めていたが、舌の上をたしかにわかめのぬめりが滑ったし、油揚げはたしかにざらついてジュッと味噌の風味を絞り出した。
久しぶりの普通食であった。
虫垂炎の手術をし、何日か前から入院していた。手術後は粥がつづき、やっと噛みごたえのあるものを口にしたのだ。
「そりゃ、よかった。ごはんがおいしいならけっこうなこった」

味噌汁といんげんのごまあえと薄い味の切り身4分の1の昼食を、理加子はごはんつぶ一つ残さず食べた。
おいしい昼食だった。

ごく幼いころ、理加子が父親の盆に手を伸ばした。父親の盆は母親と理加子の盆より品数が多かった。彼は晩酌をするので酒の肴がのっていた。あれは塩辛だったのかからすみだったのか、理加子が初めて見る食べ物で、好奇心がつい反射的に理加子の手を父親の盆の上の皿へと伸ばさせた。
(中略)
「あ、りんごは残しといて。あたし食べるからね」
「わかった」
姉のカップで茶を飲み、弟は明瞭な声で言う。

ベンチから立ち上がって理加子は母親にりんごの入った袋を渡した。
「これ、部屋に置いてくるの忘れてしまったの。持ったまま庭に来てしまったわ。よかったら食べてね。りんごは消化にいいから」

「病院の食事はまずくてたまらない。なにかうまいものを持ってきたか」
「りんごを持ってきました」
洗面台から顔だけをふりむかせる。
「そこにある皿にのせてくれ」
「はい」
理加子はサイドテーブルの下から小さなアルミ皿を出そうとした。
「それじゃない。△△さんの結婚式の引き出物に出た皿だ。すすきの絵の入った皿だ」
「すみません」
理加子は父親の指定した皿をサイドテーブルに置いてからりんごをむきはじめた。
ナイフを持つ手が緊張する。父親は理加子がりんごの皮を厚くむきすぎないか見張っているのだ。
「昨日は役所の××さん夫妻が来て柿をむいていったが、あそこの奥さんは柿の皮もまんぞくにむけなかった。品のない育ちかたをしているのだ。口紅も塗っているし、もしかしたら陰でよくないことをしているのかもしれない」
理加子はりんごの皮を、途中で切れてしまわないようできるだけ長くむこうと決めてむいていた。そんな機械的な作業をしているとよけいなことを考えずにすむ。
「はい、むけました」
△△さんの結婚式の引き出物に出されたすすきの絵の入った皿にりんごをのせて父親に渡す。
「まずいっ」
父親はりんごを吐き出した。
理加子は床に散ったりんごをぞうきんで拭いた。
「なんというりんごだ、これは。ゴールデンデリシャスじゃないな。なんというりんごだ。なんというりんごなんだ」
「さあ、わかいrません。もらいものなんです」

「ビールと、子牛のローストと、海の幸のサラダと、しめじのスパゲッティ」
江木はメニューを読み上げ、読み終えるとメニューを閉じ、テーブルの端に置いた。

「寒いの? 暖房、強くしようか」
美枝は立ち上がって暖房器具のスイッチをいじった。
「日本酒があるから飲む? 一杯飲むとあたたかくなるよ」
美枝は電子レンジで日本酒を燗し、理加子の前に置いた。
「あたしも飲もうっと」
美枝は日本酒を飲んだ。

江木は運ばれてきたコーヒーに口をつける。理加子もクリームなしのココアを飲んだ。ココアがやわらかに胸にひろがり、こんなふうに男性とふたりだけで喫茶店に入るのは何年ぶりだろうかと考えた。

【カツ丼って食べたことがある?】
【あるよ、そりゃ。ないの?】
【ええ】
カツ丼を理加子は食べたことがなかった。学食にはカツ丼はなく、カツ丼のあるような店に大学の帰りに入ることが、理加子の生活には欠落していた。
【一度食べてみたいな】
理加子が言うと、
【ばかじゃないの、あんた】
江木はぶっきらぼうに言った。
【カツ丼くらい食べろよ】
命令形で言われると、理加子はごく素直に明日はカツ丼を食べてみようと思う。

店員が盆にケーキをのせて運んでいる。
「ケーキでも食べたら?」
「ううん。いらない」
「ダイエットしてるの?」
「してる、というほどでもないけれど、あまりお菓子を食べないように、ってくらいはしてる」

「ハンガリアン・シチュー、だって。大屋敷さん腹へってない? これ、ごちそうするよ。お礼に」
江木はメニューを指し、指してすぐに店員を呼んだ。
クレヨンで書いたような文字で「ハンガリアン・シチュー——ハンガリーの田舎風の煮込みです」と、たしかにメニューにはあった。
江木と待ち合わせた時刻は7時半である。理加子も夕食を食べていなかった。ハンガリアン・シチューを理加子も注文した。
(中略)
シチューが運ばれてくる。よく煮込んだ肉とじゃがいも。パセリが香辛料としてふんだんに使われている。大きく切ったセロリがさくさくと口当たりよく油っこさを消していた。
「おいしいわ。前からこれを注文してみればよかったわね」
「なら、よかったけどさ」
江木は一口、シチューを食べただけでスプーンを置いている。
「しまったなあ。俺、パセリとセロリがダメなんだよな」
「............」
キリコの絵の光景がまた浮かんだ。
「じゃ、セロリだけもらってあげる」
すぐに光景は消え、理加子は自分が一瞬何を思い浮かべたのか記憶がなく、江木のほうへ自分の皿を近寄せた。
「ほんと。じゃ、おことばに甘えて」
江木は器用にセロリだけをフォークで選別し、それを理加子の皿に入れた。パセリのかたまりも入れた。
「かわりにじゃがいもをあげるわ。いやじゃない?」
「じゃがいもはだいじょうぶ」
(中略)
むしゃむしゃと江木はシチューを食べた。豪快に食べる姿は気持ちがよかった。
「もっと仲よくなったらそいつらに会いに行こうな。そしたら大屋敷さん、メロンを食べるんだぜ。メロンを食べかけて半分残す。そしてそれを俺が食う」
(中略)
「じゃあ、まず、今日、メロンを食おう」
江木は席を立った。
「これからメロンを買いに行こう。コンビニに売ってるだろ」
「ええ。じゃあ、メロンはわたしがおごるわ」
(中略)
「マスクメロンはないよ。アンデスメロンってのしかない」
「メロンはメロンよ。それでいいじゃない。小さいからふたり分向きだし」
1個680円のアンデスメロンを江木は買い、くだものナイフを理加子は買った。
(中略)
バイクで走っていると高速道路を屋根に利用した小さな公園があった。そこで江木と理加子はメロンを食べることにした。
「ちょうど水飲み台があるわ。ここで切りましょう」
薄暗い中で手を洗い、ポリエチレンの袋を裂き、理加子はメロンを切った。
「はい」
種の部分をナイフですくい取り、立ったまま、メロンを食べた。ごうごうと上を走る車の音が鳴った。

「病院食はまずい。うどんを作ってくるように」
「ええ」
(中略)
理加子は食堂でコンロを借り、薄い味のうどんを作った。病室に戻り、父親が「指定する」陶器の丼に入れたうどんを盆にのせてサイドテーブルに置く。
父親は寝転んだかっこうのままうどんを食べた。
「食べさせましょうか」
「それぐらいはできる」
「はい」
うどんを食べては、休み、休んではうどんを食べる。

「めし食おう。1千万円の前祝に」
「応募しただけよ。まず当たらないわ」
「わかんねえよ、そんなこと」
KAWASAKI-ZXR400が振動した。
「ピザでいいか」
風に江木の声が吹かれてくる。
「ええ」
(中略)
ピザとビールとサラダをてきとうに電話で注文する。
「もっといいのをごちそうしたかったんだけどさ、大屋敷さんと部屋でビデオ見たかったから」
「うん。わたしも見たい」
(中略)
カテリーナに扮するテーラーが窓ガラスを割ったところでピザ屋が来たため、ビデオを停止した。
「ビデオ見てるとふしぎとこういう食い物がうまいんだよな。大屋敷さん、食って食って」
「うん。その前に手洗う。できれば顔も洗いたい」

「ねえ、おなかすかない?」
「すいたよ。だから、チーズトースト作ってんの」
「あたしの分も?」
「そう」
「よかった」
(中略)
「ま、もうちょっと涼しくなるまで待とうか」
「そうね」
「熱いコーヒーが心底うまいなあと思うようになるところまではだらだらしてよう」
「そうだね」
美枝は小林とコーヒーをすすった。彼女は彼とだらしないかっこうでコーヒーをすする時間がもっとも好きだった。
(中略)
小林はぱさぱさとチーズトーストの破片を床にこぼした。美枝は足でそれらを寄せ集めた。

「葛菓子を持ってきてくれたか」
「はい」
「六角形のガラスの皿に、うす紫のほうに、入れなさい」
「はい」
理加子は父親に指示されたとおりの容器に葛を盛った。
「退院したら」
父親は葛を食べながら言う。

9月21日。理加子はスープを飲んだ。
「よかったわ。スープが飲めるようになって」
藤村さんが理加子に言った。
(中略)
「点滴よりずっといいでしょう。食べ物は口から食べるほうが」
理加子は図書館内で倒れ、この病院に運ばれたのだ。
9月4日から理加子は何も食べられず、水かミルクだけを飲んでいた。一度サンドイッチを食べたが全部吐いてしまった。

運動会のころにいつも食べた緑いろのみかんの香りが理加子の鼻先を抜けた。

姫野カオルコ著『ドールハウス』より