ピッチが出てくる2000年刊の直木賞受賞作。20代のはじめに一度は読んだらしいのだが、何も覚えていなかった。今はプーの心境がとても面白い。最後の1篇「あいあるあした」は昨今提唱や実践が増えたように感じるゆるい家族、コミュニティ、コモンの形が描かれていてとてもいい。
がんばれ、がんばれ。日々寝床を獲得し、おいしいものが食べられる程度には稼げ。私ものれんを掲げ続けよう。
笑わせようと思って言ったのに、男の子は困ったような気弱な笑みを浮かべ、タピオカミルクが苺シャーベットのどちらのようにしようか相談していた女の子2人は、気まずそうにうつむいてしまった。
視界がぐらつき吐き気がこみあげ、食べてきたエビドリアを戻さないように我慢しつつ、へろへろになって自分の家まで運転して帰ると、珍しく母親が帰ってきていた。
「俺も買い物。かあちゃんに夕飯作ってやろうと思ってさー。すげー高い霜降り肉とケーキ買っちゃった」
「いいなー、ルンちゃんも食べたいなー」「今日うちに来いよ。この前言ってたステーキ焼いてやるから」
「わーい、じゃあ終わったらすぐ行くね」
今まで中良さげに喋っていた羊羹屋のおばちゃんが、冷たい目をして離れていくのが見えた。勤務中に彼氏とピッチで話したり、時々栗甘納豆をつまみ食いしていた私は、勤務態度について注意されるのかと思っていたので、その話で少しほっとした。
険悪な雰囲気でそれぞれメインの魚を口に入れていると、明日香が何か思いついた顔をした。
腕時計をしてこなかったので時間が分からない。トイレに立ったついでにコーヒーをいれ直し、レジの所にある時計を見たら夜の7時になるところだった。
昼寝のサラリーマンは姿を消し、学生っぽい客が増えてきた。そろそろ家に帰ろうか、ブッダの続きを読んでしまおうか、コーヒーをすすりながら考える。その辺のファーストフードでハンバーガーを食べてから、私はまた漫画喫茶に向かった。
(中略)
コーヒーをいれ「めぞん一刻」全巻をテーブルの上に置いて順番に読んでいった。途中1度居眠りをし、2度トイレに行き、3度コーヒーをお代わりした。手に持ったコンビニの袋を「買ってきた」とだけ言ってこちらに差し出す。冷えた缶ビールが2本とみぞれアイスが2個入っていた。
(中略)
この前ビールを飲んで頭が痛くなったので、みぞれの方を貰うことにした。
(中略)
ビールを開けて缶のままおいしそうに飲む。1本目を一気飲みしてしまうと、2本目を開けて口をつけた。私はみぞれをしゃくしゃくスプーンでつつきながら、こいつアルコール依存気味なのかなと思った。あっという間に2本目も空にすると、彼は「さて」と言って立ち上がった。「ビール、もう少し飲みたいかも」
「買ってきますとも」
私は財布を持って部屋を出た。近所のコンビニまでたったと小走りに行く。こんなことが嬉しいなんて馬鹿みたいだと思いながらも顔がにやけてしまった。ビールを4本とつまみを買って帰ると、チビケンがテレビを元の位置に戻しているところだった。食欲もなかったが、チビケンが買ってきてくれる冷やし中華やアイスクリームを少しだけ食べて、何とか生きながらえていた。
たまに早い時間に帰ってきたからと多めにご飯を炊いても、息子はわざわざコンビニ弁当を買ってきて自分の部屋で食べるのだ。父親と顔をあわせたくない気持ちは分かるが、たまには炊きたてのご飯を食べたいとは思わないのだろうか。
(中略)
「2人とも外食だって」
「大丈夫なのかな?」
素朴に、心配そうに聞かれて、私は野菜を炒める手を止めた。冷蔵庫の扉の前にかがみ込み、缶ビールを取り出そうとしている夫に、今の台詞をそのまま返してみたくなったがやめておいた。
(中略)
子供のいない食卓にはとっくに慣れていた。NHKの天気予報と7時のニュース。酒屋でもらったグラスに注いたビールの泡と根生姜につける八丁味噌の匂い。コーヒーをいれてパンを焼く。卵を焼いてレタスを千切る。結婚してから21年、夫の朝食のために私も平日は朝5時半に起きている。
2人でにへーっと笑って、私はキッチンへ立ち弁当箱にご飯を詰めた。この歳になってまた弁当を毎日作るようになるとは思わなかった。私は昨日の晩に作っておいた煮物や朝イチで揚げた一口カツをみっつの弁当箱に詰める。ひとつは夫で、ひとつは私、もうひとつは私の母親のものだ。
母が作っておいてくれた味噌汁をよそって、私と母は並んでソファに座り、弁当を広げた。
自転車で十分の駅までの道のり、お昼は何を食べようか考えた。朝、娘が珍しくご飯を食べたのでおにぎりが作れなかった。駅のホームで立ち食いそばでも食べようか。
(中略)
駅に着いたらもう電車が来る時間だったので、慌てて駅前のパン屋で焼きそばパンを1個買い、最低区間の切符を買ってホームを駆け上がり、やって来た下り電車に飛び乗った。車内はがらがらに空いていて、私は日が当たっている窓際の席に腰を下ろした。ぽかぽかと暖かい。車窓を流れる街並みを眺めながら焼きそばパンを食べる。水筒に入れてきたお茶を飲み、網棚に置き去りにされていた新聞を見つけてざっと読んだ。わざと音をたてて買ってきた惣菜を並べたり漬け物を切ったりしたのに、夫は何も感じてはいないようだった。できましたよ、と声をかけると、夫は、テーブルにやってきて座った。自分から口を開くのが癪で私は黙って食事をした。
今日は私の誕生日なので、普段は頼まないコース料理の皿とワインの瓶がテーブルの上に並んでいる。付き合いはじめて7年、軽い言い争いをしたことはあったが、こんな気まずい雰囲気になったのは初めてだった。店員がやって来て、パスタを半分近く残してしまった私に下げてもいいかと尋ねた。私は食べ残してしまったことを謝った。
「食欲ないじゃない」
そう不機嫌でもなさそうな口調で、朝丘君は言った。
「そんなことないよ。メインとデザートに備えようと思って」
「去年は全部食べてたぞ」
(中略)
そうだとも言えず、私は黙って仔牛肉を口に入れた。いつものように隙のないスーツ姿で、自分でいれてきたコーヒーをデスクで啜っていた。同じ紙コップに入ったカフェオレが私のデスクの端にも載っている。会議前に彼が私に飲み物を買っておいてくれるのは、私の準備したペーパーが合格点の時だ。
20歳になっていない人も多かったが、みんな平気でビールを飲んでいた。私も本当は飲める口だったのだが、父親に20歳になるまでは絶対外でアルコールを飲んではいけないと厳禁されていたので、おとなしくジュースを飲んでいた。その時色鮮やかな着色料いっぱいのオレンジジュースを飲んでいたのが彼と私の2人きりだったので、居心地の悪さから彼の隣の席に移動して少し話をした。
昼休みに会社のそばのデパートで予約してあったケーキを受け取ったのだが、その時間にはすっかりドライアイスも溶けてしまい、ぬるくなったケーキは形崩れをしていた。
それでも朝丘君は喜んでくれた。学生時代は誕生日とクリスマスには甘党の彼のために私はケーキを焼いた。社会人になってからはさすがにケーキなどのんびり焼いていられなくなって、こうして買って行くことが習慣になっている。朝丘君はお腹を空かせてやって来るであろう私のために、カレーを煮込んでくれていた。普段彼は料理をしないが、私がケーキを持ってくる日だけ、お礼なのかお返しなのかカレーを作る。私たちはすりおろした林檎が入った辛くないカレーを食べ、ウーロン茶を飲み、ケーキを切り分けて食べた。ラジオからクリスマスソングが次から次へと流れ続け、私はどうでもいいことを沢山喋って笑った。朝丘君も笑っていた。笑わせておいて、なんでこの人笑っているんだろうと矛盾したことを頭の隅で考える。生姜を入れたホットレモンを作りながら、心理学専攻の学生らしいことを男の子は言った。
その晩、社用でしか使わないような変に気取ったしゃぶしゃぶ屋で、河合はいきなりそう切り出した。煮立った鍋に野菜を入れようとしていた私は菜箸を置く。
(中略)
感情のこもっていない声で彼は言い、牛肉を鍋の中で泳がせる。拾いあげて食べるその口元を見ながら、こんな人でも家庭に帰れば優しいのかなと思った。
(中略)
笑ったらふいに食欲が出てきて、私は肉を箸でつまんだ。
「クリスマスだけは女房が無理してケーキを焼くんだよ。それを4等分するんだけど、俺は甘いのは苦手だからちょっとつついてあとは子供にやるわけだ。で、子供2人はそれを半分に分けるんだけど、毎年どっちが大きかったってごねて喧嘩になるんだ」
「幸せそうでいいですね」
微笑ましくて言うと、ボスは咳払いをする。
「そういう話じゃない。で、去年もがたがた騒ぐから女房が解決策を考え出した。何だと思う?」
(中略)
最後にうどんを食べながら、私はもう一度仕事はちゃんとやるように厳重注意を受けた。「腹減った。賄い何すか?」
「人の話を聞けよ。マーボー作ってあるから食え。昨日の煮込みも残ってるから片づけていいぞ」
(中略)
ぼろぼろになった提灯の電源を入れて店に戻ると、カウンターの端で太久郎がどんぶり飯の上に盛ったマーボー豆腐をかっこんでいた。子供のように痩せているのに信じられない量を食う。若さのせいなのか貧乏のせいなのか、その両方なのか。夏でもビールは頼まず、熱燗2本とつまみを少しとり、2時間ほどぼんやり過ごして帰ってゆく。俺にとっては理想的な客だ。
「腹減ってないか? メシ余ってるぞ」
「ううん。八百政さんに焼肉食べさせてもらったから」メニューもわざと工夫せず、その日に仕入れた刺身と何の変哲もない焼き物で、酒も流行りの大吟醸など意地でも置かず、日本酒も焼酎もビールも1銘柄だけだ。けれどそんな店こそ必要とされているはずだ。いや、俺は必要としてきた。
最近はそういう客が増えたので「手相観セット」という生ビールと軽いつまみが2点ついたものを勝手に出すことにしはじめた。
淀橋は焼きあがった手羽先を太久郎から受け取りながら俺の顔を面白そうに覗き込む。
なんで朝帰りで罪悪感のかけらもない女にコーヒーをいれてやんなきゃならないのかムカつきつつも、俺は彼女のために砂糖とミルクまで入れてやった。マグカップを受け取り、彼女は「ありがとう」と微笑む。
(中略)
「おなか空いたなあ。なんか作っていい?」
彼女は俺を無視し、冷蔵庫から野菜やら卵やらを取り出した。この女は案外器用に料理を作るのだ。店ではやらないが、時々うちの包丁を研いだりする。飲食店の経験でもあるのだろうか。
(中略)
冷や飯を鍋に豪快に入れ、すみ江はちらりとこちらを見た。
(中略)
質問には答えず、彼女は溶いた卵を菜箸を伝わせて器用に鍋に流し入れた。
(中略)
そこで、できあがった卵雑炊を彼女が鍋ごと炬燵の上に持ってきた。布巾の上に鍋を置き、小鉢をふたつ出してきてしゃもじでよそってこちらに差し出す。
「......うまそうだな」
「でしょう。二日酔いには卵雑炊だよ」
「お前、人の話聞いてんのか」
「聞いてるよ。ねえ、働かないでただ生きてるだけでも税金ってかかるの?」
見当はずれなことを聞かれて、俺はれんげを持つ手を止めた。
「国民年金と健康保険くらいは払わないといけないんじゃないか」
「ふうん」
「払ってないのか」
「払えるわけないじゃん」
絶句したあと、そりゃそうだよなと思った。
「健康保険証も持ってないってことか」
「ないよ」
(中略)
俺たちは黙ったまま雑炊を食べた。全部平らげると、彼女は鍋と食器を流しに運ぶ。髪を揃え終えると、俺は紅茶をいれ、娘が持ってきたプリンを向かい合って食べた。外見がごついせいかそうは見えないらしいが本当は甘党の俺のために、娘はいつも手土産に買ってきてくれるのだ。今日のプリンは春らしく苺とクリームがデコレーションされていた。甘い物くらいコンビニでいくらでも買えばいいのだが、我慢して我慢して、その末に食べる娘の買ったプリンは天国の味がした。
(中略)
プリンを食べ終えると、娘と俺は一緒にアパートを出た。電車に乗って都心へ出る。夕飯は何が食べたいかと聞いたら「お寿司か焼肉」という子供らしい返事がかえってきた。それともわざと子供ぶっているのだろうか。香川という名の風呂帰りのじいさんがお茶と最中を出してくれ、腹が減っていた俺は最中をみっつヤケクソで一気喰いした。
「香川さんはワシが店やってた頃からの常連さんなんや」
淀橋が言うのを聞きながら、俺は最中をお茶で流し込む。娘に焼き鳥とおにぎりと味噌汁を出してやり、迷った末に俺は太久郎の携帯に電話をして、香川さんの家の場所を説明し、すみ江がいたら連れてくるように頼んだ。
山本文緒著『プラナリア』より