たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

新潟の絶品『BUTTER』(10)

あまり知られていないうまそうすぎる新潟土産のコーナー。

さっき駅構内の専門店で一緒に頬張った、熱々のおむすびの匂いが残っている。伶子の具はしゃけ、里佳はすじこだった。我ながらあきれるくらい、簡単に食欲は蘇っていた。

土産物の袋を覗き込み、バターの箱を開けるなり、あーあ、と小さくつぶやく。銀色の紙に包まれたその長方形は手の形に沿ってぐんにゃりとたわみ、クリーム状になった中身が今にも溢れ出しそうだ。すぐに冷蔵庫に入れるべきだが、一度溶けたバターを冷やし固めると著しく味が落ちると、なにかで読んだ。せっかくの佐渡バターなのだから、ベストな状態で口にしたい。冷蔵庫の扉を開ける。篠井さんのようにケーキが焼ければ一箱などたやすく使いきれるだろうが、ここにはオーブンはもちろん、小麦粉や卵もない。ご飯も麺もパンも買い置きがなかった。食材といえば、芽の出た大きなじゃがいもが野菜室に二つ転がっているだけである。自分で買ったものではない。そうそう、同僚の誰かが、確か実家で作ったものだったか、取材先のお土産だったか、新聞紙にくるんで配り歩いていたっけ。
里佳はじゃがいもをざるに入れ、流しに置く。水の冷たさに思わず全身を震わせた。包丁を取り出し、ぎくりとするほど毒々しい芽をえぐり出す。雪平鍋にいもをごろりと転がし、水を注ぐと火にかけた。しばらくして、ほんのりとでんぷん質の香りがする白い湯気が、乾いた部屋を潤した。先ほどまでの寂寥感が和らぎ、里佳はぐらぐら揺れる湯の中でどっしりと居座っている二つのじゃがいもを、ただ見下ろしていた。
(中略)時折、じゃがいもに菜箸を突き刺し、茹で具合を確認した。何度目かになって、なんの抵抗もなくすっと通るようになった。ざるに鍋をあけると、ステンレスが大きな音をたててへこみ、もうもうとした湯気が辺りに立ち込める。茹で上がったじゃがいもを皿に載せ、バターと醤油差しと一緒にテーブルに運ぶ。皮がはじけ、白く柔らかそうな中身がほこほこと屈託なく輝いている。
銀紙にまとわりつく。ほとんど無抵抗の柔らかいバターを大きくひとすくい、皮の切れ目に落とし込んだ。それはたちまち黄金色に滲み、きらきらと光る粒子の塊に非情なほど瞬く間に飲み込まれていった。醤油を数滴落とし、里佳はいただきます、とつぶやき、フォークを突き刺した。バターをたっぷり吸った熱いじゃがいもが口の中で潰れ、湯気が鼻の奥まで届いた。ぽってりと重たいのにさらさらした舌触りのクリームになって、熱と共に舌の上に広がっていく。
バターは比較的あっさりとした味わいだが、新潟で口にしたすべての乳製品に共通する温かみとコクがあった。醤油が溶け合うとじゃがいもの甘みと食べ応えが一気に引き立ち、フォークを持つ手が止まらなくなった。
気づけば、ほとんど一箱近くのバターと二つのじゃがいもを平らげていた。満腹感でそのままごろりと身体を倒す。自分で自分をなだめられたことが、誇らしい。息を吐いたら、濃いバターの香りがゆっくり顔を覆った。

ある鮮明なイメージがひらめいた。最後の日が訪れるまでに、力いっぱいのごちそうを作って、誰かをもてなしたい。幼いころ絵本で見たような、七面鳥の丸焼きや砂糖衣がとけていくケーキ。考えただけで、胸がときめきで満たされる。自分一人のために作るのにも、もう飽き飽きしていた。

うっすらとミルクティー全体を覆っている褐色の膜は、ティースプーンで隅に寄せると、深い襞を作った。若い女性で賑わう木目を基調としたカフェだった。酒なしでも間が持つようになった今、こうした場で会う方が色々と都合が良いと互いに気付いた。
「田舎醤油と手作り味噌かぁ......、意表をついているなあ」
袋から瓶と箱を取り出すなり、篠井さんは苦笑した。
(中略)
「(中略)まずは、ご飯を炊いて、簡単なおかず一品とお味噌汁から始めません?」
(中略)
篠井さんはまだ十分に熱いミルクティーを一口飲むと、こちらをしげしげと見つめた。
「何かつかんだんだね。前と全然様子が違う」
アップルパイを切り崩すと、フィリングの飴色のりんごが溢れ出してしまった。

今朝出社するなり、すぐにル・レクチェの羊羹2本を、「新潟土産です。みなさんでどうぞ」というメモを添えてワゴンの上に載せておいたのだ。まだ15時を少し過ぎたばかりだ。1本くらいは残っていないか、と期待したが、有羽が最後の薄い一切れを口に運んでいるところだった。
「あちゃー、もうなくなったか」
彼女は悪びれずに羊羹を口に押し込み、まくしたてた。
「そりゃ、なくなりますよ。果物を丸かじりしているみたい。自分でも絶対買う。これ、表参道にある新潟のアンテナショップに売ってるかな」
(中略)
包丁にへばりついた紙のように薄い羊羹の切り屑を指でつまんで剥がし、舌の上にひらりと載せる。

柚木麻子著『BUTTER』より