たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

手作りお菓子のプレゼント『BUTTER』(7)

手作りお菓子は美味しいものしかいただいたことがない。自信がある人しかやらないからだ。
ところでたまーに「手作りに抵抗がある」という人に実際に会うが、それって口に出して言っても何もいいことないのにね。

「そうね、なら、甘ったるいチョコレートではなく、カトルカールにしなさい。初心者にぴったりのシンプルなレシピよ」
「カトルって確か、ええーと」
「フランス語で4。カトルカールは4分の4。卵、小麦粉、バター、グラニュー糖。すべて同じ分量だけ使うバターたっぷりのパウンド型ケーキ。全部150グラムね。ほら、覚えやすいでしょ。こら、メモらないで、暗記しなさい。あとはレモンを入れるといいわよ。国産の無農薬のものを使いなさい。おろし金で表面の皮だけさっと削るの。あればバニラエッセンスを入れたり、焼き上がりにラム酒をたっぷり塗ってもいいわね」
「ケーキなんて難しそうですね。正直不安です」
手作りのお菓子を口にした経験は人より多いと思う。女子校時代、里佳のファンだという下級生や同級生から、しょっちゅう手作りのパウンドケーキやクッキーをもらっていたからだ。彼女達の甘ったるい体臭や体温が伝わって来るようなそれらは、生焼けだったり、舌にしつこくねばついたり、かちかちに硬かったりした。コンビニ菓子の方がよほど美味しいと思った。だから、大学で伶子と知り合い、彼女の暮らす女子寮で手製のアップルパイを食べた時は、その完成度の高さに感動したものだ。
(中略)
「オーブン料理はあなたみたいな忙しい人こそ、トライしてみるべきよ。時間を上手に使うとはどういうことかわかるようになるわよ。できたら彼には、焼きたてをサーブするといいわ。パウンドケーキは寝かせて翌日以降になった方がしっとりして美味しいというけれど、私は焼きたてあつあつをたっぷり頬張るのが好き。あなたの彼、手作りに抵抗があるみたいだけど、それは焼きたてのケーキを食べたことがないせいだと思う」
(中略)
「とにかく、ね、焼き菓子を一つでいいからマスターしなさい。そうすれば、上手に壁が築けるようになるのよ。あのね、あなたには壁がない。(中略)」
「カトルカールのレシピは私のブログをみるといいわ。コツはバターにたっぷり空気を含ませること。粉を素早く切るように混ぜることよ」
彼女はここにはない何かに満足するようにうなずいた。まるで鍋のシチューを一口味見して、その出来に酔いしれる偉大なるシェフを思わせた。

カトルカールのレシピ、そしてバターたっぷりの「本格的な」焼き菓子への愛、引き出物やコンビニなどの個包装のスライスしたパウンドケーキへの憎悪が細かく綴られている。
(中略)
「念のためにベーキングパウダーを入れてみたらどうかな。あのレシピはかなり本格的だったよ。君、お菓子作り初心者なんだろ」
篠井さんの横顔にまるで似合わないフレーズに、里佳は手を止めた。金網を通り抜け、さらさらと落ちていく小麦粉は指先ほどの白いたつまきを起こしている。残っただまがころころと所在なさげに転がっていく。
「ここ数日、ネットでレシピを見ていると、カトルカールにベーキングパウダーを入れて膨らませるのは普通のことのようですが、私はやっぱり梶井被告のブログ通りに作ってみたいと思います」
(中略)
グラニュー糖を計り、150グラムに相当する卵3つを溶きほぐす。
(中略)
バターを箱から取り出し、銀紙を開いた。しんと冷たい。洗い物を出来るだけ増やしたくないし、まな板は相変わらず見当たらないので、紙の上でナイフで切り分け、ペーパータオルを敷いた秤に載せる。刃についたほんのひとかけを口に運んでみた。塩味のないバターはそのぶん、真冬の緩やかな波のように舌に寄り添い、なめらかさと凝縮された油分を感じさせた。
「150グラムってこうして塊でみると、すごく多いですよね。ほとんど1箱分じゃないですか。バター不足に対応して、ココナツオイルや菜種油で代用したお菓子のレシピが売れているみたいですね」
(中略)
レシピ通り、ひとかけら分のバターをパウンド型に塗りつけ、粉をまぶし、余分をとんとんと落とす。こうすると焼き上がったケーキが綺麗に外れる、とあったのだ。
何糖分かに切り分けたバターをボウルに入れた。泡立て器を握りしめ、四角いバターの真ん中にめり込ませる。硬いバターが砕かれていく。まだ冷たすぎるようで、なかなかほぐれない。とうにか柔らかくなっても、チューリップの形を成す金具部分にまとわりついて、その中心にどんどん入り込んでしまう。ボウル内にほとんどバターがない状態だ。(中略)
「だめだよ、その混ぜ方じゃ。空気を含ませるって書いてあっただろう?」
「それがどういうことかよくわからないんですよ。バターに空気? 篠井さん、お菓子作り詳しいんですか?」
オーブンが温まり始めたらしい。冷え切っていたキッチンが柔らかな空気で満たされる。やはり、カラメルの匂いが漂う。ここで最後に作られたのはプリンだろうか。
「力の必要なポイントだけは俺の担当だったから、いつも」
そう言うと、彼は泡立て器を奪った。
(中略)
こちらの質問には答えず、篠井さんはボウルを大きな手で抱え里佳とはまったく違う角度で泡立て器の柄を握りしめた。チューリップ部分に閉じ込められた山吹色のかけらがどんどん外へと放たれていった。決してボウルに泡立て器をぶつけないやり方で、彼は小さな風を巻き起こしながら素早く撹拌を続けている。
(中略)
「砂糖を3回に分けて加えて」
ペーパータオルを傾け、次第にクリーム状に変化し、黄味を失い白に近づいていくバターにさらさらとひとすじの光を注いでいく。
(中略)
「ほら、ここまでやれば大丈夫だから、ちゃんと自分でもやってごらん」
(中略)あ、と小さく声を漏らす。嘘のように泡立て器が軽くなったのだ。ただ柔らかいのではない。泡立て器からすんなり離れるバターはふんわりと白く、雲のように軽い。今まで見たことのない、新しいバターの表情だった。
(中略)
里佳の混ぜる真っ白なバタークリームに、篠井さんの手で明るい色の卵液が少しずつ、注がれていく。
「分離するから。続けて。止めないで」
それが撹拌を意味するのだとわかるまでに、数秒を要した。
(中略)
篠井さんが細く注ぐ卵液を里佳は懸命にバターに混ぜていく。先ほど彼が含ませてくれた空気をできるだけ潰さないようにして。黄色と白が優しい色合いに変わっていく。
(中略)
卵とバターと砂糖がふんわりと溶け合って、柔らかい小山を成している。すかさず、小麦粉をゴムベラで加えようとする里佳を、篠井さんが止めた。
「ここは難しいから、俺がやるのを一度見せる」
(中略)
篠井さんはゴムベラで切りつけるようにさくさくと生地を混ぜていく。小麦粉と黄色いバタークリームが交互に見え隠れし、ボウルの中は混沌とした様相を見せた。
(中略)
彼がそっけなくこちらに突き出したボウルには艶とてりのある生地がぽってりと盛り上がっていた。おろし器を探す手間を省くために、洗ったレモンの表面をナイフの背を使ってこそぎ、里佳は生地に混ぜ入れた。パウンド型に生地を流す。とんとん、と持ち重りのする型を調理台に落として、空気を抜く。ナイフで生地の表面に切れ目を作り、天板に載せ、予熱が完了したオーブンに入れた。熱風に頬を叩かれ、暗闇の炎に魅入られる。
(中略)
甘い香りがここまで漂ってくる。角がどこにもない、バターと卵が加熱され美味に向かって走っていく未体験の匂いに引きこまれる。
(中略)
じりじりとタイマーが鳴った。(中略)室内は香ばしい菓子の匂いが充満し、先ほどとは景色が変わって見えた。
「ほら、見てごらん」
開いたオーブンを覗き込み、里佳はうわあ、と声を上げた。パウンド型からきつね色の生地がふっくらと盛り上がり、切れ目部分から黄金色の中身がのぞき、山の形を築いている。篠井さんがタオルでくるんだ手で天板を引き出した。甘く熱い熱が前髪を煽った。
「たった4つの食材を混ぜただけで、こんなにちゃんと膨らむものなんですね。篠井さんの泡立てのおかげです」
(中略)
やけどしそうになりながら、出来るだけ素早く型から外す。なめらかな焼き色に満足した。焼きたてのカトルカールをアルミホイルの上に載せ、素早くナイフで十等分にする。目がさめるような切り口の明るい黄色と湯気に両頬がほころんだ。味見をしている時間はなかったので、小さな切れ端を口に放り込む。バターと卵が鼻を抜けて香り、香ばしい焼き目がほろほろと崩れていく。2枚をアルミホイルに包み、篠井さんに差し出す。
「これ、ちょっとですが、よろしければどうぞ。私はこれを熱いうちに、ある相手に届けなきゃいけません。(中略)」
(中略)
アルミホイルで褐色の塊を温かな空気ごと封じ込めるようにしてざっくりと包んだ。やわやわとして、まるで赤ん坊のようだ。まだ熱いままのパウンド型とナイフ、天板を洗い、ペーパーで拭う。
(中略)
たらこパスタの夜が蘇り一瞬ひるんだが、焼きたてを少しでも早く食べてもらわねばならない。もうどう思われてもいい。冷めてしまう前に。市販の菓子が盛り上がっているワゴンの上にスペースを作り、カトルカールを載せ、照れ隠しにまくしたてた。
「ケーキを焼いたの。すぐそこの友達の家で。出来たてを食べさせたくて。バレンタインも近いし」
手を洗い、アルミホイルを開く。甘い湯気が広がる。誠はためらいがちに、そのまま手づかみで一切れ口にした。あったかい、とつぶやくと、困ったように、それでも口をもぐもぐと動かしていた。
(中略)
しばらくして、誠がもう一切れのケーキに手を伸ばした。
「焼きたてのケーキなんて初めて食べた」
誠の吐く息が甘くて熱い。バターの香りがする。
「いや、初めてじゃないか。小学校の頃、友達の家で食べた、そいつのお母さんが焼いてくれたマドレーヌ。食べたことのない味がして、あったかくて、感動した。同じのが食べたいって仕事から帰ってきた母親に話したら、悲しい顔をさせたんだった。二度と手作りなんてねだるまいって思った。同じ匂いがする。この爽やかで、甘酸っぱいような」
「レモンの皮だよ、それ。『お母さんの味』なんかじゃなくて、ただのレモン味。お母様、時間がなかったんだから、仕方ないよ。こういうことは時間がないとできないもの。愛情の問題じゃなくて、時間の問題なんだよ。やってみないとわからないね」
この短い時間でケーキが焼けたのは、単に自分の決断が早く迷いがなかったせいだとわかる。
(中略)
「この間、どうしていなくなったの」
その言葉を理解するまでの間に里佳は、まだ温かいカトルカールを二切れ平らげていた。
(中略)
レモンの皮の苦みとバターの香りがたがいの舌に溶けている。

「父が料理好きな影響で、小学校低学年のころから、妹とよくお菓子作りをしていたの。亡くなってしまった父方の祖母もよく、揚げたてのドーナツや、小豆からおはぎを作ってくれたわ。(中略)」

柚木麻子著『BUTTER』より