たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

元気の出ないレストラン『BUTTER』(6)

「カロリー低い」味気ないレストランといえば、SATCの火を通さない食事のみを出すヒップなプレイスを思い出すな。サマンサとスミスが出会った場所な。

オーガニックの貴腐ワインは水のようにするすると入っていく。

「ほら、ここはカロリー低いから、いくら食べても大丈夫だよ」

誠はおおらかに微笑むが、次々にやってくる料理に箸をつけ、そのぼんやりした風味にすぐに苛立った。豆腐のカプレーゼに根菜のラタトゥユ。和風でも洋風でも、濃厚でも淡白でもない、主張のない味わいに皿全体が退屈している。しじみの玄米パエリアを前にして、あまり食が進まない里佳に、誠は怪訝そうな顔を見せる。

(中略)

伶子の言葉が蘇り、チーズのまがいもののような硬くてしょっぱい豆腐が舌の裏で潰れた。嫌な生臭さが広がった。

デスクで掻き込むコンビニの海藻サラダ。移動中につまむぱさぱさのドライフルーツ。そして、誠に連れて行かれた和風ダイニング。

「この腕も胸もお尻も、すべて私の好きなものがたっぷり詰まっているのよ。ニューヨークグリルのステーキや今半のすきやき、帝国ホテルのガルガンチュワのシャリアピンパイがこの身体を作ったのよ。ここでの決められた食事にうんざりするたびに、美味しいものを思い浮かべて気が狂いそうになるたびに、自分の身体をそっと撫でたり、つまんだりするの。(中略)」

「(中略)熟成させた宮崎牛のサーロインステーキはもちろん素晴らしいんだけど、最後に出てくるガーリックバターライスがたまらないのよ。ぜひ試してみて。(中略)」

5分遅れてで到着すると、客がずらりと並ぶ、鉄板に面したカウンター席の隅で篠井さんはすでにビールを傾けていた。じゅうじゅうと焼ける肉の音と匂いに舌がたちまち濡れていく。まだ胃もたれの記憶が生々しいのに、肉を食べたいと思うなんて、われながら口がいやしくなっている。

(中略)

突き出しが運ばれる。ガラスの器の中のじゅんさいは喉をすべり落ちると、胸の中にこんこんと泉が湧くかのようだ。

(中略)

ぽってりとしたホワイトアスパラガスのクリームソースを食べ終えたタイミングで、焼き野菜が運ばれてくる。焦げ目をつけただけの玉ねぎがこれほど、甘くてこってりとほどけるとは。苦手なはずのししとうも香り高く穏やかな風味がある。気付けば、ここから数十メートルと離れていない場所にある、この間の和食ダイニングより、よほどたくさんの野菜を胃に納めていた。

斜め前で音を立てて焼かれている赤い肉はこちらの席のものらしい。やがて、透明な液体がじんわりと肉肌からにじみ出る。脂のとける匂いまで甘くて、のどかだ。少しも攻撃的な生臭さなど感じられない。赤みが桃色に、白身が透き通った脂へと変化するのをじっくりと見守る。

切り分けられていた肉は熱々かと思えたが、口に含めばちょうど良い温度だった。温かく愛情のある舌が、するっと入ってきたような心地よさ。香ばしい焼き目に歯を立てれば濡れたレア部分が肉汁を滲ませ、頬の裏が大きく震える。目の前に血の色がひとすじ走る気がした。

「ここのガーリックバターライスは天下一品らしいんですよ。肉を焼いた後の肉汁だけではなく、バターもたっぷり入れるんですって」

鉄板の上で炒められているご飯を見つめる。黄色いバターを絡ませて、飯粒が踊っている。醤油を垂らすとじゅっと音がし、短く激しいダンスは終わった。

運ばれてきた茶碗の中で褐色に輝くご飯に里佳はしばらく見とれた。お米の一粒一粒が肉汁とバターにコーティングされ、強く光っている。醤油の香ばしさが食欲をそそる。焦げたにんにくが舌にじんわりと危ないような渋みと苦味を広げた。脂でつるりとした米粒が次々に舌の上を滑って、喉へと届けられる。先ほどの肉も素晴らしい味わいだが、その肉汁を存分に吸い込んだこのご飯はまた格別である。お米を噛みしめるごとに、むくむくと気力が湧いてきた。(中略)ああ、美味しい、と何度もつぶやいていた。ふと横を見ると、篠井さんが箸を止め、じっとこちらを見ている。

「どうしたんですか。お口に合いませんでしたか」

「いや......。そんなことない。なんか幸せそうに食べるなと思って」

(中略)いつも乾燥した印象の彼の肌と唇が脂で潤っているのを見ると、何やら得意な気持ちになる。篠井さんは自分の茶碗を差し出した。

「そんなに美味しいなら、俺の、ちょっとあげるよ」

(中略)

デザートはりんごの甘煮とアイスクリームだった。いつものように、会計は割り勘にする。

「あの、全然どうでもいいんですけど、好きな食べ物ってなんですか」

「カステラかな。最近、セブンイレブンの袋入りのやつが美味しいって気づいたんだ」

朝はあたためた牛乳とバナナ、昼はほか弁屋のセルフサービスの具沢山スープ。夜はできるだけ早めに帰宅し、小分けして冷凍したご飯でおかゆや雑炊をまめに作るようになった。年が明けてからさすがに暴食が過ぎたのだ。

「新宿の靖国通りにTっていうラーメン屋さんがあるんだけど。そこの塩バターラーメンを食べて、どんな味だったか正確に教えてもらえないかしら? いつものように、あなたの言葉で」

「(中略)ニューヨークグリルのステーキがそりゃ、美味しかったわ。あそこから見る夜景が私は大好きなのよ」

(中略)

巨大な肉の塊と、新宿のものとは思えない星屑のような夜景。あの量を収めた後でよくラーメンが食べられたな、と里佳はあきれる。

「券売機で食券を買うと、私はカウンターに腰を下ろしたの。まわりは運転手風だったりホスト風だったりする男性ばかりで、じろじろと見つめられたわ。塩ラーメンにトッピングはバター。麺は一番固め、ハリガネで注文したの」

(中略)

「注文する時、これだけは忘れないで。バターはましましで」

とうとう里佳が頷いてしまったのは、彼女に屈したのではない。セックスの後のバターたっぷりのラーメンとやらを、どうしても食べてみたくなったのだ。

「(中略)会社の友達が遊びに来た時、伶子のシュウマイが美味しくて、レシピを聞いたら、伶子が急に饒舌になったって。ねえ、あのシュウマイの作り方教えて」

(中略)

「ロース肉のかたまり」

ぶっきらぼうに伶子は言った。なんのことかわからず、次の言葉を待つ。

「私のシュウマイはね、叩いたかたまり肉とひき肉を混ぜて使うの。大量の玉ねぎのみじん切りと練り合わせる。それで、皮に包んで一度蒸したら、冷凍するの。そうやって、玉ねぎの細胞をわざと壊すの。凍ったものをもう一度蒸せば、ジューシーでなめらかでほのかに甘い熱々のシュウマイになる」

今度作ってよ、と甘えたら、もう、と仕方なさそうに口元を緩めたので、少しだけほっとする。

母に禁止されている袋入りのインスタント焼きそばを、フライパンでこっそり作ってくれる乳が好きだった。

スープの匂いと十分に暖かい空調で全身が緩む。チケットを差し出しながら叫んだ。

「塩バターラーメン、ひとつください。あ、バターましまし、ハリガネで」

スープの湯気と麺を茹でる鍋から上がる蒸気が、夜風で張り詰めた肌をほどいていく。

しばらくして、湯切りする音が店内によく響いた。湯気が立ち込めているせいで調理場がほとんど見えない。もともとラーメンは好きな方だ。(中略)気をてらわない、あっさりした醤油味が好みだ。カウンターの上に丼が素っ気なく置かれる。ずしりとした重たさと熱で、かじかんだ指先がほぐれていく。割り箸を取り、二つに割った。鶏ガラスープと一緒に木の香が立ち上る。

具材は胡麻と青ネギのみという潔さ。きっちりと四角いバターが二つ、澄んだスープにだらしなく姿を崩し始めていた。その奥には黄身の強いちぎれ麺が沈んでいる。スープに溶けたバターは、黄金色の円をいくつも浮かべていた。円に麺をわざとくぐらせるようにして、口に運んでいく。ややかんすいの味が強いものの、噛みごたえのある茹で加減が悪くない。スープをすする。鶏ベースの淡白な味わいに、遠くでかつおの風味も漂う。熱い汁が、乾きすぎて痛いくらいの喉を潤しながら、落ちていく。安っぽいバターの乳臭さが麺やスープにからむなり、黄金の味わいになって暴力のように縄張りを広げていく。とろみとコクが生まれる。身体の中心にバターのしずくが落ち、弧がじわじわと大きくなっていくのがわかる。

(中略)

セックスの後にふらりと外に出て味わうラーメン。それは想像していたような官能の延長ではない。たった一人でしか得ることが不可能な、自由の味だった。部屋に残してきた誠を思い、彼が自分に残した香りや指の跡を味わいながら、ひたすら麺を口に運んだ。

(中略)

丼を抱えて、バターの溶けたスープを飲み干す。視界がすっぽり覆われる。薄暗がりの中にバターの油分で出来た星空が輝いていた。

里佳は汁をすすっていた温かいわかめ蕎麦の丼をテーブルにごとりと置く。

(中略)

しかし、打ちたてらしい蕎麦は香りが高く、食後に蕎麦湯をたっぷり飲むと、その日の午後は手足がぽかぽかと温かく、体調が良い気がしている。伶子からの誘いがない今、社食にこだわる必要もなくなった。

「(中略)キャラ弁とかは最初っからあきらめさせてる。梅干し、ごはん、卵焼きと残り物、あとなんか青いものをぶちこんだら終わり」

「それだけだってすごいですよ!」

他人丼を注文すると、水島さんはこちらに向き直った。

(中略)

他人丼を煮詰めているらしき甘辛い匂いに背中を押され、里佳は声を少しひそめた。

(中略)

他人丼が運ばれてきて、彼女は勢いよく割り箸を二つにする。すくいあげた一口は、ふっくらした卵が豚肉やなるとを包んでいて、その下のご飯粒は醤油の色に染まっている。しばらく口を動かした後で、水島さんはまじまじとこちらを見つめた。

柚木麻子著『BUTTER』より