たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ディズニーランド的レストラン:ジョエル・ロブション『BUTTER』(5)

恵比寿ガーデンプレイス、911が起こった頃にあのへんに通っていた。形だけの警備が増えて情けなかったのを思い出す。

「だから、本物の男の人が女性本来のグラマラスな美を理解できるように、本物のフランス料理はちゃんとたっぷりバターを使うのよ。甘さ控えめ、カロリー控えめ、薄味、あっさり、なんてものが褒め言葉になる、この日本は本物を知らないの。バターの良さを知った上で、あっさり味を好むならまだわかる。でも、彼らはバターとマーガリンの違いさえよくわからないの。私のような本物志向の女は息苦しくて仕方がないわ。あなたもクラシカルな王道のフレンチを是非、一度食べてみるべきよ。そうね、恵比寿のジョエル・ロブションがいいわ」

「ええと、確か、あなたの手料理のブフ・ブルギニョンをビーフシチューと勘違いした方ですよね。ちょっと調べたんですが、ブフ・ブルギニョンはフランス語でブルゴーニュ風の牛肉......、牛肉の赤ワイン煮のことですよね。(中略)」

「おまけに、あの人、パンではなくご飯で食べたいといったのよ。私のブフ・ブルギニョンをまるでハヤシライスかなにかのように思っていたのよ。(中略)」

今日の昼食はカロリーを気にして、食べたくもないわかめサラダをデスクでかきこんだ。真冬に口にする冷たい海藻は身体を芯まで凍えさせた。

そこまで続く何にも遮られないだだっぴろい空間に、里佳はたちまち気後れし、このまま自宅に引き返して、最近気に入っているバター醤油ご飯に目玉焼きをのせたものでもかきこみたくなる。
(中略)
アミューズに運ばれてきたのは、透明のゼリーである。きっと詳しい人であれば目を見張るのだろうと思われる、ずしりと重たい贅沢な漆器だった。整然と並んだナイフとフォークはよく磨かれ、シャンデリアの光を打ち返している。ひとすくいするとレモンの皮の苦味に強く当たった。つるんと舌を滑ってまっすぐに喉に落ちる。まったく甘くはなかった。しかし、ゼリーのかけらが胃の表面をつるつると行き来するうちに、腹の底から静かに食欲が湧いてくるのが分かる。これは感覚を研ぎ澄ます魔法のくすりだ、と思った。
(中略)
目を上げると、ガラスの蓋つき容器に入っている山吹色のバターの塊が運ばれてきた。
「ここ最近、バターはなかなか手に入らないのに、こんなにたくさん......」
思わずそうつぶやくと、すかさずメートルドテルが微笑んで、ガラス容器の蓋をうやうやしく持ち上げる。
「海外から空輸したものでございます。お好きなだけお取りください」
ワゴンで運ばれてきたパンの種類は豊富すぎて、どれを選んでいいのか見当が付かないので、一番シンプルなバゲットを頼んだ。(中略)バターを思う存分、たっぷりとパンに塗りつける。舌でゆっくり潰れる固さのバターが、ぱりぱりと壊れていく香ばしいバゲットの表面にめりこんでいく。これだけで、里佳にとっては十分に来たかいがあるというものだ。
続いてやってきたのは、アボカドとズワイガニを繊細なケーキのように重ねたものにたっぷりとキャビアが添えられた冷たい一皿だ。ぷちりと弾けるザクロの酸味がアボカドの濃厚さとカニの甘みを引き立てる。その天真爛漫な朱い色がアクセントになって散らばり、皿全体を華やかにしていた。シャンパンに後押しされ、カニとキャビアの風味が光のように広がっていく。
(中略)
アボカドの皿が下げられるのを待ってグラスの赤ワインを注文した。値段を見て適当なものを選んだだけだが、ベーコンのような風味を持つそれは、喉の奥をふっくらと丸く押し広げた。舌の付け根がじんと熱く痺れる。
(中略)
焼き目のついたフォアグラの皿にだいだい色のあんぽ柿のバターソテーが添えられていた。バターは塩が効いているぶん、ねっとりとどこまでも絡みついてくる果肉を存分に引き立てている。執念さえ感じる旨さは、木になる実とは到底思えない。フォアグラの舌で押すだけでぷつりと壊れる柔らかさ、そこから流れ出す血の香りや濃厚なとろみに少しもひけをとらない、甘く崩れる肉のようだ。燻した香りのする赤ワインと偶然にもおく合った。里佳はため息をつく。フォアグラは口に入れるなり緩やかに消えてしまう。食べ終わることが切なかった。
「美味しいだろう、この時期のトリュフは」
と、確かめるように初老の男が言う。女は相変わらず無言でもくもくと食べている。
(中略)
レモンの薫る白いソースがかけられた平目がやって来た。淡白だが爽やかな、初夏を思わせるような味わいに、ようやく高ぶっていた心に風が吹き込んだ。
(中略)
飴でぱりぱりと包まれた豚のローストに、トリュフとなめらかなとうもろこしのマッシュのようなものが添えられた皿が姿を現した。マッシュの中に仕込まれたらしき飴がばちっと舌の上で弾け、里佳は目が覚める思いがした。あっ、と小さく声が漏れてしまい、たちまち頬が熱くなる。アミューズの魔法のゼリーといい、ここで提供されるものは食というより、よく考え抜かれたエンターテインメントではないだろうか。(中略)梶井真奈子は嫌な顔をしたけれど、やっぱりディズニーランドのようだと思う。トリュフの美味しさは里佳にはまだよくわからない。秋の森に落ちている香り高い枯れ葉をはりはりと食んでいるようだ。
いちじくのコンフィとマスカルポーネの印象派の絵画のようなデザートで、もうお腹がはちきれそうだというのに、最後に縁日の屋台を思わせる、小さなお菓子をたくさんのせた賑やかなワゴンがゆっくりと現れ、うめきそうになる。
濃いカフェを飲み終えたら、ここを出ていかねばならない。(中略)これだけ緊張したというのに、アミューズからもう一度繰り返したい気もする。自分はちゃんと味わったといえるのだろうか。

「ただの胃もたれだよ。心配することない、ない。ほら、特製スープつくってきたから。口に合うといいけど」
伶子はトートバッグから魔法瓶を得意そうに取り出し、フタ部分に白濁したスープを注ぐ。しょうがの味がぴりっとして、喉がたちまち熱くなる。ねぎ、大根、クコの実が入っているらしいスープはするすると胃に入っていく。塩気はほとんどない、素材の甘みが溶け込んだだけの淡白な味わいだが、豊かな風味に飽きることがない。
(中略)
今朝、正直にLINEを送ったら、伶子は手製のスープの入ったバスケットを手に会社の受付までやってきたのだ。昼休みの真ん中、まさに今が一番混んでいる社食で、伶子はガラスケースの中のサンプルをじっくり眺めたあげく、一番人気の定食を選んだ。
「すごいね。さすが秀明社の社食だね。この黒酢酢豚、ホテルの中華の味だよ。これで400円なんてうらやましすぎる。(中略)」
プラスチックの皿を前に、黒酢あんに唇を光らせて伶子は無邪気に笑う。

「(中略)ロブションって日本びいきだから、和の食材が得意なのよね。柿とフォアグラなんて、ねっとりこってりしていて超美味しそう!」
「でもさあ、なんかもう食器もインテリアも呆気にとられたっていうか、あまりの贅沢さにびっくりしちゃって、ちゃんと観察できてないし、そもそも味わえてないかもしれない。私も歳かなあ。一番びっくりしたのがね、肉料理の皿にパチパチキャンディみたいなのが仕込んであったこと。小学生の頃に食べた、駄菓子みたいなやつ」
「そうそう、なんでもありなんだよね。ロブションの素材の組み合わせって。パチパチキャンディか。私、そういうの食べたことないの。うちの親、放任のくせに買い食いは許さなくて」
伶子は実に悔しそうだ。舌の経験に対する貪欲さでは、まったく梶井に負けていない。

柚木麻子著『BUTTER』より