たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『ピンクのチョコレート』というか焼肉と昼間のビールの醍醐味

私にとっても、これまでに美味しかったビールシーン、ベスト1は昼間、業務時間中だ。
某優勝パレードのアテンドの後、西大阪の蕎麦屋で飲んだ小さな100円ビール。
水を飲んだり、カレーを食べたりしただけでチクられる公務員や公共事業従事者をほんっとうに気の毒だと思う。

6時半に起き、トイレに入って身じたくをする。そして7時過ぎにコーヒーとプレーンヨーグルトの朝食を摂るという手順を崩してしまったら、あとはもう壊れてしまった朝を、なすすべもなく見ているだけだ。

「ねえ、道玄坂にさ『ポテト小僧』っていう店あるの知ってる」
「ああ、ポテトフライとか、ポテトのパンケーキでビール飲ませるとこでしょう。いつ行っても混んでるとこ」
「そお、そお、そお」
男はわざとらしい偶然に、大層興奮して鼻を鳴らす。
「あのさ、あそこオレの友だちがバイトしてたことがあってよく行くんだよ。安くておいしいよね」
「本当、安くておいしいわ」

この頃になると、弁当やつまみを売りに来るワゴンがせわしくなる。男は呼びとめて缶ビールを2本買った。1本をごく自然にユリに渡す。
「サンキュー」
売店で買ったビールは、なんとはなしに飲みそびれて窓のところに置いてある。それなのに新しいビールを買ってくれた男の気づかいが嬉しかった。手渡されたビールはよく冷えていて、喉の奥までいっきに気持ちよくとおった。ユリは男のようにふうっとため息をついた。
「ねえ、昼間のビールっておいしいね」
「最高だよ。だけどさ、もうこんなこと無理だよな。昼頃にビールなんてさ。サラリーマンには無理だよな」

「さあ、どこへ行こうか。オレは大阪だからわりと京都には詳しいんだよ。八条口からタクシーに乗って、円山公園の桜を見て、芋棒なんてどうかな」
「おまかせします」

週末につくってあげる野菜だけの煮物は、私と伸吉の故郷の味だ。

たまに彼は泊まっていくことがあったが、その時はほとんど何も食べない。ミルクをほんのちょっとたらしたコーヒーを1杯飲むだけだ。けれども休日の朝は、ブランチといって、私は彼にいろんなものを食べさせるようにした。卵を落としたスープだとか、アスパラガスのサラダ、そしてこんがりと注意深く焼いたトーストとかだ。
彼のギャラが入ったり、私の給料日後だと、この朝食にワインがつく時もある。ブランチにワインという記事を、どこかの女性雑誌で読んでさっそく真似したのだ。もともと呑んべえの彼に依存があろうはずもなく、1本を2人であけた後は、またベッドに行くこともある。
その朝は、白ワインだった。それほど高くないカリフォルニアワインだったけれど、琥珀色がかった透明のそれに遅い陽ざしがゆったりと映えて、私の部屋の狭いダイニングキッチンも、贅沢な恋人たちの場所に変わった。

「なあ、クルミの入った菓子ってうまいよなあ」
ひとり言のようにつぶやいたことがある。
「オレって甘いものは駄目だと思ってたけど、砂糖を減らして、クルミの味だけで焼いたやつ、あれって結構うまいよなあ」

タンを4切れ網の上に置いた。ここのタンは冷凍などではない。赤紅色にてらてら濡れて、真中に白い筋が走っているいくつもの”アカンベー”が、ガスの火で少しずつ縮まっていく。やがて脂がにじみ出る瞬間、さっと引き上げて舌の上に載せるのが肝心なのだ。
「なあ、内田のことどう思う」
広瀬さんはタンと同時にビールも口の中に入れたので、もごもごとよく聞きとれない。だから私は知らん顔をして、箸でタンをつまむ。いつも焼き過ぎると注意されるけれど、私は広瀬さんよりも2テンポほど長く肉を網の上に載せておくのが好きだ。
(中略)
そして今日は4回目の別れ話の日で、広瀬さんが連れてきてくれたのは鹿浜の焼肉屋だ。
ここはおもて向きは、ごく普通の焼肉屋だけれど、実は東京の美食に飽きた人たちが通う店であった。名前を聞くとびっくりするような有名人たちが調理場横の便所の横で靴を脱ぎ、それを持って奥の板の間に座る。そしてアルマーニやベルサーチのスーツの肘を、脂でべとべとしたデコラのテーブルにのせると、やがて前菜が何皿か運ばれてくる。レバーの刺身、脳味噌、子袋といったもの。すべて生だ。
「こういうものはちょっと......」
と尻込みしている人ほど、こわごわ口に入れたとたん、賞賛のあまり興奮の極みに達してしまう。
「なんだい、このうまさは。この脳味噌ときたら、全くフォアグラじゃないか。この生のホルモンのうまさに比べたら、ロースやカルビなんて子どもの味だね」
しかし次々と運ばれてくる”子どもの味”に、たいていの人は絶句する。脂と赤身が最高にして最適のバランスを保っている、ぶ厚い霜降り肉。火にかけると、脂は溶けて甘いにおいをたて始める。そして歯で噛むと、肉は舌の奥に牛の蜜をそっと送り込んでくれるのだ。肉の蜜。肉汁ではなく蜜。まだ若くしなやかな牛たちの人生を凝縮した蜜。
本当にそうだ。私なんかよりも4歳の雌牛の方が「人生」という言葉がずっと似合う。
そして広瀬さんの大好物のタン塩が、もう一度運ばれた時に彼は言ったのだった。
(中略)
やがてまた新しく肉が運ばれてきた。さっきの肉よりも、行儀がよい赤身のロースだ。薄めの切り身がきちんと並べられている。あまりにも鮮やかな赤なので、いくつもの牛のぱっくり裂けた切り口を見ているみたいだ。

「あら、そう......。お肉にしようか、お魚にしようかって迷ってたのよ」
「考えることないですよ。ここは魚の方がずっとおいしい」
(中略)
直樹はさりげなくメニューを閉じ、ウエイターに「甘鯛のバターソースかけ」と告げた。映里子も同じものを注文する。
「何か飲みますか」
「そうね。ビールぐらい飲んじゃおうかな」
今日はさしせまった用もないので、銀座を少しぶらついて帰るつもりだった。
「ビールはやめて、ワインにしましょうよ。その方がいい」
直樹は珍しく自己主張をする。
「そうね、ワインでもいいわね」
そう言っても昼間から何杯も飲めるわけでもなく、白のハーフボトルを1本注文した。
「じゃ、乾杯」
(中略)
オードブルの小さなテリーヌの後、ウエイターが主菜の皿を運んできた。鯛の切り身が、ピンクのマスクメロンのような皮を見せて横たわっている。
黄色く光るバターソースを映里子はナイフで丁寧にどけた。30近い女として、こういうものはできるだけ避けるようにするのが習慣だ。
口に入れる。舌の上に鯛のかすかな甘味が残っているうちに、傍らのパンをちぎって噛んだ。小ぶりのフランスパンは焼きたてらしく、意外なほどうまかった。
「これ、おいしいわね」
(中略)
魚料理の皿と、サラダボールを下げ、デザートを置く。
アイスクリームに、苺のムースがかかっている。いかにも春らしい色彩だった。

食欲のない夫を気づかい、特製の野菜ジュースやかゆをつくった。

ちょうど昼どきだったので私は鰻の出前をふたつ取り、ユリ子は自分の分を財布から出して払った。作家と編集者といっても私たちはそんな仲なのである。私が食後のコーヒーを淹れ、ユリ子が梨をむいている時だ。

1人何万円という鴨料理を食べさせるという有名なレストランへ行った時は、正確な発音でオーダーし、フランス人のギャルソンを喜ばせたものだ。

私は舌で上唇の先をなめた。さっき夕飯に食べた里芋の煮付けの甘さがまだ残っている。

「いま、ちょっと大切な話をしてるのよ。お魚はテーブルの上、煮物はチンして。美弥、パパにご飯よそってあげて頂戴」
(中略)
奥脇はジャーから飯を盛り、テーブルの上に盛られていた銀ダラの煮つけと漬け物で、茶漬けを食べ始めた。娘はそれをいいことに相変わらずテレビに見入ったままだ。茶漬けの用意をすることなど3分もかからない。

たいして面白いものはなかったが、ビジネス書の文庫を2冊買い、ついでにチーズとピーナッツの袋を買った。正月休みにウィスキーでも飲りながら読むつもりだ。

到来ものの羊羹を切りながら陽子が行った。

林真理子著『ピンクのチョコレート』より