たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ソーダ水『けむたい後輩』(2)

ユーミンはリアルタイムでは『天国のドア』から入って、そこから遡ったクチだが、荒井時代の楽曲には十分ノスタルジーを感じる。オールナイトニッポンも結構しつこく聞いていた。リスナーが流行歌を地元の方言で歌う、という企画があり、工藤静香の『慟哭』を聞いたユーミンは「初めてじっくり聞いたけどいい歌詞だね」と歌唱でないところを褒めていたっけ。そのときユーミンは知らなかったと思われるが、歌詞を手がけたのは中島みゆき。

工藤静香 ベストヒット BHST-137

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「ソーダ水二つ。あと灰皿ください」
炭酸はぴりぴりするから正直あまり好きではないのだが、ここに来たからには頼まねば。先生に教えてもらった通りのことを真実子にしてやりたい。すぐに運ばれてきたソーダ水は、絵の具のような黄緑色だった。キャメルの箱から、煙草を一本抜き取り厳かに口を開く。
「荒井由美の『海を見ていた午後』っていう歌にね、この店が出てくるのよ。山手のドルフィン。ソーダ水の中を貨物線がとおる、ってね」

美里はパンケーキの小山に、乱暴にフォークを突き立てる。ふっくらしたリコッタチーズ入りのパンケーキとバナナを貫通し、のろのろと溶岩のように流れていくバターが、黄金色に輝いた。(中略)赤レンガ倉庫に出来たばかりのパンケーキ専門店。最近、こぞって雑誌やテレビが紹介しているおかげで、店内はカップルや女性グループで賑わっている。

ガラスケースの中のピザトーストや名物の特大ホットケーキのサンプル。中学生の頃、先生が初デートに連れてきてくれた店。当時は知る人ぞ知る名店だったのに。前に並んでいる学生風のカップルがガイドブックを開き、はしゃいだ声をあげているのを忌々しく見つめた。
「なんかあ......、いやだなあ。こんな風にミーハーな客ばっかになって。方向性変わっちゃったんだねえ」
(中略)
ほとんどの客が分厚いホットケーキを頼んでいる。やや薄暗い店は、中庭に面したガラス張りの窓からこぼれる光で柔らかく照らされている。
(中略)
「ホットケーキ一つ、コーヒー二つください。取り皿を二つ。あと灰皿」
(中略)
二人の間を遮るようにキツネ色の分厚いホットケーキとコーヒーが到着した。真実子は目を輝かせシロップをたっぷりとかけ、丁寧に切り分けている。栞子は、すっかり食欲を失っていることに気付く。フォークをしばらくもてあそび、ナフキンの上に置いた。目の前の真実子は、旺盛な食欲でホットケーキを平らげている。
「よければ、私のもあげる」
「え? いいんですか? 悪いなあ」
真実子は嬉し気に栞子の皿を引き寄せるが、すぐに心配そうに声をひそめた。

美里は断りもなく鳩サブレーの包みを破り、ばりばりと食べ始めた。それくらいしてやって当然だと思う。

先生はぼんやりと、きんもくせいの酒を飲んでいた。餡のかかった炒め物が冷たい膜を張っている。
「先生?」
「あ、ん? なんか食べる?」
心ここにあらずといった様子で、蓮見先生はメニューを突き出した。少しも食欲はなかったが、熱心に目で追うふりをする。限定二十食のフカヒレラーメン、ロンジン茶と芝エビの香り炒め......。

「栞子先輩と一緒に墓地の前の洋食屋さんでお昼を済ませてきたよ。先輩は小食だから、私が二人分食べることが多いんだよね。頼んだ時点で満足しちゃうんだって。だから私、まだお腹がいっぱいなの」
「ふーん。なら、最初から注文しなきゃいいじゃん」
美里は眉をひそめる。栞子のエピソードについて回る、この演出めいたうっとうしさ。誰に向けてのアピールなんだ。だいたい、小食の癖にもっさりした体形だった。
「メアリーさんのご飯は、栄養のバランスをちゃんと計算してるんだから、食べなきゃだめよ。お昼たくさん食べて夜抜くのとか、あんまり良くないよ。真実子ちゃん、丈夫じゃないんだし」

メアリーさんの大きな体に隠れるようにして、長いテーブルに焼きたてのパンやサラダを並べて歩く。黒いワンピースにシンプルなエプロンをかけ、清潔感に溢れた佇まいだ。
「オレンジジュースのおかわりはいかがですか?」
真実子のうやうやしい口調に、寮生たちはくすくすと笑いさざめいているが、オムレツを咀嚼する美里だけは、むっつりとした表情だ。
(中略)
「フルーツはいかがでしょうか」
顔を上げると、さくらんぼと苺を山盛りにしたガラスボウルを掲げて、真実子がにこやかに佇んでいた。結構楽しんでいる様子なのが、なんとも癇にさわる。
(中略)
厨房から焼きたてパンの籠を手に現れた真実子は、目をぱちくりさせている。美里はそばに行くと籠からデニッシュを一つ取り、勝ち誇って大きくかじった。

マホガニーで統一された店内には、砂糖とバターの甘い香りが漂っている。
(中略)
数時間前に別れた真実子が、目の前でべそをかきながらカフェラテをすすっている。すみれ色のババロアケーキは、手つかずのままだ。
(中略)
焼きあがったパン・オ・ショコラが、ショーケースの上に並んでいる。光を浴び、艶のある表面が一層輝き始めている。

皿が運ばれてくると、真っ白な湯気が辺りに立ち込め、やがて闇夜に消えていった。ふっくらと美味しそうなシューマイに、女の子たちは歓声をあげる。値段を気にせず好きなだけ点心を楽しめるとあって皆、お腹をすかせてきたのだ。
「いただきます」
さっそく箸を取り上げた美里に、裕美子が鋭い目つきで言い放つ。
「いいけど、本番まであと三週間なんだからね。ダイエットはお忘れなくね」
横浜中華街の真ん中。まばゆいばかりの関帝廟を触れられるほどの近さで眺められる、この点心専門店のテラス席は六月の暖かい夜にもってこいだ。大きな丸テーブルは、十三人の女の子がぐるりと取り囲んでもまだ余裕がある。
(中略)
美里は冷めかけたエビチリの皿を引き寄せ、ぺろっと舌を出してみせる。
(中略)
「まあ、いいじゃん。真実子ちゃんの焼くスコーンやクッキー、もはや楽しみだし」
(中略)
「最近、ますますべったりよね」
ぶっきらぼうに言い、美里は真実子の食べ残しのシューマイに箸を伸ばす。もうダイエットなどどうでもいい。女の子たちもうなずいた。
(中略)
なんだか面白くない気持ちで、美里は杏仁豆腐をちゅるんと飲み込む。相変わらず栞子は気取った態度で真実子を連れまわしている。

面白くなさそうな顔で店員を呼び止め、ライチ紅茶と亀ゼリーのセットを注文するとこちらに向き直った。

「えの木てい」の庭のテーブル席で、チェリーサンドをつまみながら、美里は親友の背中をとんとんと叩く。真実子は、運ばれてきた紅茶に手をつけようともせず、「センター問い合わせ」画面をじっと見つめている。

「朝から何も食べてないじゃん。一口でいいからお腹に入れなよ。ほら、メアリーさんがあなたのために持たせてくれたんだよ」
裕美子さんがバスケットから取り出したスコーンと、魔法瓶の紅茶を一緒に差し出しても、真実子は力なく一瞥するだけだ。

「ううん。美里のお見舞いはいっつもシュークリームだったよ。でも、この方がドラマチックでしょう。(中略)」

「でも、こう暑くちゃ、熱中症になっちゃいますよ。ほら、そこのカフェで涼みましょう。ペリエでも飲みましょうよ」
真実子に促され、なんとなく入ったカフェが、あの「レ・ドゥ・マゴ」だとわかったのは、入り口に飾られた中国人形が目に入ったからだ。十四歳の頃の、先生との逢瀬が唐突に蘇ってきた。
「サルトルとボーヴォワールの通っていたカフェ、レ・ドゥ・マゴで、飛び切りのショコラを飲もう」
(中略)
濃い緑色の庇のオープンカフェ。白髪で獅子鼻のギャルソンに、冷たいショコラだのアイスクリームだのをやけに流暢なフランス語で注文する真実子。
(中略)
「フランスの水って、硬くて嫌い。だいたいお金も取られるし」
そうつぶやくと、真実子は困ったようにメニューを閉じた。
「後でエビアン買いましょうね。ねえねえ、それにしても、今日のオランジュリー美術館、素敵でしたねえ。モネの睡蓮に囲まれたお部屋、私もう、うっとりしちゃって......」
(中略)
真実子は赤い舌でアイスクリームをそろりと舐めている。
「先輩、このアイス美味しいですよ。フランスは乳製品が美味しいですね。一口いかがですか?」

「せっかくこうして会ったんだもの。よければ、うちまで来ていただかない? 夕食のポトフの準備は出来ているし」

パン・オ・ショコラとカップ入りヨーグルトを無造作にトレイに載せ、真実子の姿を探す。カプチーノ通りに面した壁一面のガラス窓を通し、爽やかな朝日がフェリシモ生たちの化粧の施された肌や光る巻き髪を照らし出し、まるで楽園のような光景だ。
(中略)
真実子は大きなテーブルに一人腰かけ、うつむいてキッシュをつついていた。
「よ! 相棒!」
とわざとおどけて片手をあげる。彼女の戸惑ったような視線を感じながら、腰を下ろすなり勢いよくパン・オ・ショコラにかぶりつく。

「私、なんか買ってこようか? カスクルートとかフルーツとか」
栞子は跳ね起きる。好きな男のために食べ物を用意すると思うと、心が弾む。料理をしたことはほとんどないのだけれど、もしここに小さなキッチンでもあれば、スープの一つも作ってみたい、と思う。

二人掛けソファで声を出さないようにして抱き合うこと、同じ漫画を読み感想を言い合うこと、黒木に作ってもらったカップ焼きそばを食べ、手をつないで眠ること。こうしてわざわざ横浜まで訪ねてきてくれることも、本気のしるしのように思われる。

美里は冷蔵庫からグラソーのペットボトルを取り出すと、そのままごくごく飲んだ。

真実子は串揚げを口に押し込み、もごもごと咀嚼した後で、こう言った。
「はい。幼稚園の頃からの友達です。小樽から一緒に出てきて、今は同じ寮の同室です」

時には、黒木のマンションで皆で編集作業をし、眠くなったら雑魚寝をする。腹ペコの彼らのためにカレーや豚汁をたっぷり作る。キャンプみたいな毎日は、どれほど楽しいだろう、と密かに心待ちにしていた。

熱したフライパンにバターを落とすと、たちまち黄金色の液体に変わる。栞子はすばやくサキイカをを投入した。香ばしいにおいが昇りたち、サキイカはチリチリと焼かれていく。
(中略)
栞子は知恵を絞り、コンビニに走ったり冷蔵庫の買い置き食材を利用しながら、次々におつまみをこしらえた。竹輪にプロセスチーズを刺したもの、青ねぎ入りの卵焼き、ザーサイ豆腐。
(中略)
韓国海苔を手で千切り、サキイカのバター炒めに加える。
(中略)
「そう、じゃ、そろそろ切るわ。おつまみ出さないと」
「そうだ! 私、今から何か差し入れ持っていきます。あ、もちろん、渡したらすぐに帰りますねっ」
「ちょっと! いいってば......」
電話は一方的に切れた。栞子は湯気を立てている皿を見下ろす。さっきまでは、いいアイデアに思えたサキイカのバター海苔炒めが、途端に貧乏くさく思えてきた。

三角巾と割烹着を身に着けた真実子がこちらに笑顔を向けた。手を真っ赤にして、ご飯の玉をきゅっきゅっとリズミカルに回転させている。それはたちまち綺麗な三角にまとまり、調理台に頬杖をついている裕美子が感心したようにため息をついた。リリーズハイツのキッチンは広々としていて、ステンレスの台はぴかぴかに磨きぬかれている。並んだ小皿には、ほぐした焼き鮭、叩いた梅干、醤油をまぶしたおかかが取りわけられ、海苔もぱりっとあぶってある。おひつの中のご飯は、ぴかぴかと粒が立っていて輝くばかりだ。
「美味しそう。私にも一つ頂戴。お腹ぺこぺこなのよ」
美里は唾を飲み込み、いそいそとおむすびに手を伸ばす。
(中略)
「何言ってるのよ! 本当におめでたいじゃない。ねえねえ、プチ祝いでシャンパン開けない? この間、四十万さんにプレゼントされたモエシャンを我が家で冷やしてあるの。今とってくるから真実子ちゃん、チーズか何か切ってくれない?」
真実子は気まずそうに二人からそろそろと体を離し、誤魔化すように笑った。
「ごめーん。私、これからちょっと出ないと。夕食までには戻ってくるから、シャンパンは二人でどうぞ」
言いながら、まだ熱々のおむすびを竹の皮でせっせと包んでいく。裕美子が珍しくとがめるような目つきになった。

「真実子ちゃんからの差し入れ、うめーよ。しおも食えば?」
男たちはゾンビが肉をむさぼる勢いでバスケットに手を突っ込み、竹の皮を引きちぎり次々にかぶりついていた。

大広間のソファに腰かけ、温かいココアを飲みながら、美里は微笑みを浮かべている。

口の周りに、栞子がプレゼントしたばかりデメルのザッハトルテの食べかすがついていた。からかい気味に指摘しようと思ったが、やめた。
本当はもっと味わって欲しいのに。プレゼントするなりラッピングを破り取り、発泡酒で流し込むようにして、瞬く間に平らげてしまった。日々料理を作るようになって気付いたことだが、彼には食べ物への感心がほとんどない。酒に合い、脂っぽいものなら、なんでもいいらしい。

「立派なおうちなんで見とれてました。お城みたい。あ、これ、私が作ったんです。ブラウニーです。よかったら召し上がってください」
そう言うと、小さな紙の包みを差し出してくる。仕方なく受け取り、中を覗き込む。ココアとバターの香りがぷんとした。
「バレンタインのプレゼントです。これだけ渡せたら、それでいいんです。忙しいところ、失礼しました。今日は帰ります」

「灰皿ください。あと、このスイカジュースを」
どんな味がするか知りたくて、切ったスイカの刺さった赤いジュースの写真を指し示す。
(中略)
今しがた起きたと言わんばかりの風情は、ラウンジの着飾ったどの客より、このホテルに歓迎されている印象を与えた。
「三年ぶりですよね? 先輩、全然変わってない。懐かしい......」
コーヒーがなみなみと注がれたカップを手に、真実子はうんと目を細めた。急に自分のスイカジュースが、子供っぽく感じられてきた。

柚木麻子著『けむたい後輩』より