たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

私の乏しいターキー経験『BUTTER』(16)

在米10年を超えるが、感謝祭はいつもどこかのお宅や教会で七面鳥をよばれている。で、失礼だけど「うまいっ」というのにはまだ巡り合ったことがない。日本のお雑煮と同じように、家庭によって詰め物が違うのは面白いのだけど。一度、1週間塩につけて柔らかくしたあと2日間かけて焼いたと伺って期待が高まったが、まー平凡だった。代わりに付け合わせのクランベリーソースが好きになった。缶から出した円い形のままのジェリー状のやつ。あれさえあれば、どんなに味気ない肉でもまあまあ食べられるので。

マダムがやれやれといった調子で微笑み、沸騰した湯の中に、白いアスパラガスを沈めていく。

「みなさん、三波さんを見習って。すぐに練習すると早く身につくものですよ。アスパラガスは香りが命ですから、茹ですぎないように注意してくださいね」

里佳はそっと、奮闘で朱に色づいている傍の耳にささやく。

「あの、チヅさん、この間の話なんですけど、あの時の......、七面鳥ってどんなレシピで作ろうと思っていたんですか? フレンチの本ではみかけなくて」

 

なにしろ、マダムのノートによれば、約5キロの七面鳥は解凍だけで丸3日もかかるのだ。前日に下ごしらえして、当日は3時間かけて見守りながら焼き上げ、翌日は残った骨を煮出してスープをとり、残りの肉でサンドイッチやグラタンも作らねばならない。5日がかりの大作業は、どう考えても、仕事と両立できそうにない。

七面鳥のすっきりと処理されたお腹の中には、砂肝、心臓、レバー、首部分が入っているらしい。(中略)内蔵、栗、松の実、もち米でつくる詰め物には思わず唾が湧いた。首部分を煮出してつくるグレイビーソースは、翻訳小説でよく目にする名前なだけに、胸がときめく。

 

冷蔵庫から卵、バター、野菜室からホワイトアスパラガスを取り出した。(中略)

バターを小鍋で完全に溶かす。湯煎であたため、ふんわりと攪拌した卵黄やビネガーに、金色に光るバターを細く細く注いでいく。泡立て器で絶えずかき混ぜ、ぐるぐる回転させていく。チヅさんには申し訳ないが彼女の苦労を横で見ていたおかげで、早い段階できめ細やかな卵色の泡を作ることに成功している。(中略)

バレンタインのカトルカール作りで学んでいる。この終わりがないかに思える、回転の先に待っているのは、何も変わらないことでもなく、蒸発でもない。乳化だ。

(中略)

できた、と里佳はつぶやき、泡立て器を持ち上げる。とろとろと流れ落ちていく、温かな明るい黄色のソースはなめらかで、カシミアのようだ。

(中略)

「良かったら、食べてみてください。ホワイトアスパラガスのオランデーズソースです。

我ながら、丁寧に盛り付けた1枚の絵画のような皿を、糖質オフのビールと共に運んだ。テーブルについた篠井さんはいただきます、ありがとうと言い、ビールをごくりと飲むと、冷たい息を吐き、フォークを取り上げ、アスパラガスを優しく刺した。すぐさま口に運び、喉を上下させて大きく咀嚼する。

「うん。とてもいいね。なんていうか、春の味だね」

言った後で照れたのか、篠井さんはこちらと目を合わさずに小さく笑った。

「こんなことを言ったら、失礼かもしれないけど、本当に上達したと思うよ。今まではレシピ通りにできている、という感じだったけど、今日のは、町田さんらしい味がする」

(中略)

「実は、今回だけはもらったレシピに一味プラスしているんです。自然な甘みがほんの少し欲しいと思ってはちみつを」

へえ、はちみつか、と篠井さんは感心したように頷き、もう1本のアスパラガスにフォークをあてた。

「梶井真奈子の影響で、私、こってりとしたクラシカルな料理ばかり食べていたんですけど、最近、自分の好みがわかってきました。王道の味にもう一味、スパイスや酸味や苦味なんかがプラスされている方が私にはいいみたいなんです。あと、材料が少ないシンプルなレシピが好きです」

 

「なんでもないです。お代わりなら、すぐにできますよ」

自分はきっと心ここにあらずというような顔をしているのだろう。篠井さんは無言のまま、じっとこちらを見ている。うっかり茹ですぎた2回目のアスパラガスは、ふわふわと、つかみどころのない春風のような味がした。

 

「二人でなんとか食べ切れるくらいの、小さめのベビーターキーを手に入れられないことはないですが、それだと解凍にかける時間や焼き時間が変わってしまう。違う工程の違う料理になってしまいますよね。教わった通り、マダムの完璧なレシピ通りに作りたい人ですから。あなたくらい食欲旺盛でも十人分となると、さすがに無理だと思います」

 

「料理教室に通ってるの。オランデーズソースを作れるようになった。ふんわりしていて、酸味があって、マヨネーズに少し似てる」

 

あのエシレバターがこんな普通のスーパーに陳列されるようになるなんて。価格を確認すると千円以下だ。それでなくても、様々なブランドのバターが売り場にあふれ自己を主張していた。発酵バター、熟成バター、有塩、無塩......

 

何を買ってきたのだろうと見ていたら、流しで手を洗った誠がレジ袋から、牛乳、卵のパック、ホットケーキミックスを取り出した。水切りカゴに伏せてある小鍋の中に、ホットケーキミックス1袋をすべてあけ、牛乳を注ぎ、卵を割りいれる。

(中略)

菜箸が鍋にかちかちと当たる音がする。粉っぽい甘い香りがここまで漂ってきた。本当は何も食べたくはないし、どうしてホットケーキなのかはわからない。でも、こうして調理してくれるだけでありがたかった。

(中略)

「ああ、良かった。バターはあった」

じゅわわ、とフライパンにバターが溶ける音がする。動物性油脂だからか、命の気配がする。サラダ油やマーガリンには決してない、荒々しくてなまめいた、こくと香りだ。

(中略)

「恋人だったら許せなかったと思うけど、もう違うしさ。あのね、小さい頃、母親の手作りケーキに憧れて、うらやましかったって話、前にしたでしょ。そしたら、俺をかわいそうに思ったらしい姉が、ホットケーキミックスを買ってきて、焼いてくれたの。こつは箱の裏に書いてある通りに作ることだと言ってた。昔、バレンタインにケーキ焼いてくれたじゃん。そのお礼ね」

(中略)

こちらのつぶやきは、換気扇と、バターのふつふつと煮立つ中にじゅっと生地を流し込む音に飲み込まれ、本当に届いていないようだった。ぺたん、と生地がひっくり返って、フライパンにはりつく音がした。やがて、誠が皿を手にこちらにやってきた。見事な円形を描く、きつね色のホットケーキがほかほかと湯気を立て、添付のメイプルシロップで輝き、大きなバターのかたまりをとろけさせていた。大げさだと思いつつ、両手を合わせた。

「いただきます」

フォークでひとかけら、切り崩す。明るい黄色の断面が覗いた。細かい気泡と無数の柱のような生地の立ち上がりが、こんがりと焼けた表面を支えていて、よく攪拌したことがわかった。バターがのろのろと移動していく。口の中にほんの小さな一切れを押し込んだ。咀嚼しろ、と歯に命令し、無理に口を動かす。塩気のあるバターとシロップのしみた柔らかく温かいホットケーキを噛みしめる。(中略)胸がつかえたが、無理にもう一口食べた。喉が熱く、詰まった感じになる。さらに、フォークを動かす。

柚木麻子著『BUTTER』より