たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

賢いやり方『BUTTER』(13)

せっかくのセントラルキッチンをまな板も置けない状態にしている人から「結婚したかったら料理の腕を磨くことだよ」と言われて思わず笑ってしまったことがある。

里佳は冷たすぎるビールに顔をしかめ、ナッツを無理に口に押し込む。

「(中略)彼女の魅力の一つはその手料理だと、熱っぽく語ってくれました。梶井のレパートリーは、シチューやハンバーグ、グラタンなど、ごくごくオーソドックス。これぞという相手には、びっくりさせないお袋の味でアピールするのが賢いやり方ですね。(中略)」

「ねえ、これって......ホワイト......じゃなくてベシャメルソース?」
耳を澄ませば、台所からなにかが煮えている音がする。二人の間には、バターを惜しみなくつかった、なめらかなベシャメルソースの匂いが立ち込めていた。きっとやけどするほど熱くて艶やかで、こくがあって、天鵞絨のように均一な舌触りで胃までするすると伸びていくのだろう。伶子の手料理を食べたい。彼女の味が好きだ。行き届いていて、細やかで、それなのにどこかメリハリというか、激しさがある。
(中略)
「今日は寒いから、あの人にシチューを作ろうと思ってたっぷりのバターで、小麦粉を炒めて、冷たい牛乳を一気に注いでいたところだよ」
伶子がどこも見ていない目でそう言った。
ほのかに甘く、乳の味が濃くする、大ぶりに切った野菜のたっぷり入ったクリームシチュー。梶井の母親が作った固形ルーのものとは比べものにならない、奥行きのある、地味に溢れる味わい。こんな時なのに、お腹の中がぐるぐると回り出したのがわかった。それは自分が生きている、かすかな、でも確実な証だった。伶子が召し上がれ、と言ってくれるのを今、里佳はただ静かに待っている。

お湯を沸かし、お茶を淹れ、魔法瓶に注ぎ、蓋を閉めた。先ほど作って冷ましておいたおむすびのうち3つを銀紙に包む。

「お水は常温にしてあるよ。ヨーグルトは冷蔵庫。あとおむすびとお茶を作っといた。ドッグフード、とりあえず買っといたやつの缶の蓋あけて、床に出しておいたから。(中略)」

ぺちゃぺちゃというメラニーの咀嚼音を背に、皿の上のおむすびを一つ取ると、口にねじこんだ。まだ温かいご飯に寿司海苔がはりついている。海苔が歯の下でぷちりと破れ、かつお風味の梅干しが口の中に広がる。

「えーと、みんな何か食べた? お腹空かない?」
一同は小学生のように、一瞬だけこちらを見た。
「私、作るよ。寒いし、あったかーいポトフにしようかと思うんだけど、どうかな」
じゃがいも、玉ねぎ、人参、牛ロース肉が入ったスーパーの袋を軽く持ち上げる。

あのよく知っている脂と香辛料の匂いが、玄関からここまで続いていた。
「フライドチキン買ってきた。コールスローとビスケットもね」
北村も有羽もすぐさま立ち上がり、テーブルを囲むと、油の滲む箱に手を伸ばした。蓋が開くと、褐色に揚がった肉がぎっしり詰まっている。なんと伶子までが、肉を引き寄せ、白い歯を立てた。肉の匂いに反応したのか、メラニーが激しく吠え、あたりをぐるぐると回り始めた。
里佳はとても揚げ物を食べる気にはならず、先ほどまでの無表情が嘘のように、旺盛な食欲で肉を平らげていく後輩と親友をぼんやり見守った。

「(中略)自分たちが知らない味を作ると不安そうになって押し黙った。あの人たちが知っているもの、予想がつくものだけしか、認めなかった。ブフ・ブルギニョンを作っても、どんな料理だか懸命に説明しても、頑なにビーフシチューとしか認識しないように。(中略)」

戸棚の中で見つけた、緑色のうわすぐりが爽やかな和食器に盛り付けた筑前煮は、ほんのひとくずし減ったきりだ。(中略)
最近は仕事を早く切り上げ、出来るだけ、消化の良いものを用意するよう心がけている。しかし、自分が真剣にレシピ通りに再現した和食より、篠井さんの買ってきたたい焼きやたこ焼き、フライドチキンに次々に手が伸びるのが、里佳には解せない。今日の彼は、取材の合間に駅構内で買ったというカツサンドをお土産にしていた。箱を開けるなりまたたく間に減っていき、それはもう残すところ二切れとなっている。

篠井さんに見守られながら、伶子が一心不乱に丼の麺をすすっている。
「サッポロ一番塩らーめん、バターのせ。俺の一番の得意料理。さっきあんまり食べられなかったみたいだから。珍しく彼女の方からねだられた」
そう言った彼の細長い横顔はどこか得意そうだった。伶子は、添加物や栄養分に敏感なのに。なんだか裏切られた気さえする。
「こういうものの方が美味しく感じる時期があるんだよ。作り手の気持ちを受け取るのって、食べる方にもエネルギーが必要なことだからさ。美味しさにも距離感が必要だよ」
と、篠井さんが言った。おそらくはこの部屋で、彼はひとりきりでラーメンを食べたのだろう。数えきれないほど何度も。
(中略)
しんとした部屋に、伶子が麺をすする音だけが響いている。粉末スープに混ざっているらしい、エスニック風のスパイスの香りがかすかに鼻をかすめた。縮れた麺はくっきりと波打っていて、茹で加減がちょうど良さそうだった。
(中略)
「私にも同じのを作ってもらっても、いいですか。バターはましましで」
彼はにやっと笑って、伶子の空の丼を手にキッチンへと歩いていった。

寒い時期の牛はたっぷりと栄養を溜め込んでいるので、そのお乳は甘く、クリームのようなこくがあります。
乳製品を使った料理が好きで好きで仕方がないのは、この思い出のせいです。

柚木麻子著『BUTTER』より